『くるみ割り人形』と「中華少女」のゆくえ ──オリエンタリズムと創作表現について
昨年の暮れ、ガチのバレエオタクの娘と新国立劇場に『くるみ割り人形』を観に行った。昨年も同じ演目を観ている。付き添いの私としては、幕間においしくて良心的な価格のデザートを食べることがメインの目的である。
娘からは新作と聞かされてはいたが、どうせマイナーチェンジだろうと高をくくっていた。ところが、見終えて私は、ついにその日が来たのだと知った。
衣装や舞台装飾が一昨年のクラシカルな王道路線から、どことなくポップでモダンになっている。まあ、好みではないが新鮮味は必要だろう。
「ネズミの王様」が「女王様」になっていた。まあ、悪役とてジェンダー平等の時代である。どっちでもいいけど。
そして、「アラビアの踊り」「中国の踊り」からは、民族性がすっかり取り払われていた。
ああ、来たか――。時代の趨勢とはいえ、やはり一抹の寂しさを覚えた。
「アラビアの踊り」「中国の踊り」に見られる民族性は、どれほど美しく幻想的であろうとも、また珍妙でおかしみがあろうとも、批評的な言葉で言えば、「オリエンタリズム(反東洋思想)」であり、あくまでヨーロッパから眺めた空想上のアジアなのだ。
こうしたオリエンタリズムとどう向き合うか。
はたして、それは芸術表現なのか。
そこに、対象へのリスペクトがあるのか。
表現者にとっても観客にとっても、避けては通れない、無垢な子供たちの夢の世界に刺さったトゲのようなものだ。
クリスマスの幻想譚において、脈絡なく各国の踊りを組み込むよりも、「お菓子の国」というファンタジックな世界観に統一しようとする芸術的判断も「あり」だろう。
一方で、アジアの側から、こういったオリエンタリズムを乗り越えようとする動きもある。
イスラムの王子と中国の謎解き姫の物語を描いたオペラ『トゥーランドット』は長らく中国ではオリエンタリズムの象徴と捉えられタブー視されてきたが、1990年代、インド出身のズービン・メータと映画監督チャン・イーモウの手により、物語の舞台である紫禁城での上演が実現した。これは、オリエンタリズムをアジアが包摂するひとつの画期となったと言えるだろう。
話は変わるが、日本のサブカル文化に「中華少女」いうテンプレがある。『らんま1/2』のシャンプーや『銀魂』の神楽、『SAKAMOTO DAYS』の陸少糖などだ。彼女たちは、どこかトンチキな「アルヨ言葉」を話すのがお約束である。
その時なんでもなかった表現が時代を経てNGになることはままある。10年後、「中華少女」のテンプレ自体がアウトになる可能性もあるだろう。
今回、思いつきで、下準備もなくヴィクトリア朝風異世界を舞台とするライトノベルを書いてみた。ミステリー仕立てで、あるキャラクターは「中華少女」のテンプレとして登場し、これが謎解きの核となるのだが、書きながら、自分自身、はたして時代にアップデートできているのだろうかと自問自答した。
テンプレといえば、拙稿ではアイルランド系のキャラクターに東北弁を話させている。これは、例えば、イングランド北部のヨークシャー弁を東北弁に置き換えた『秘密の花園』など、昭和の児童書に見られた翻訳文化の影響だ。コックニーも先達に倣って下町言葉に置き換えた。
こうした古い作法を無自覚に使い続けてよいものかと悩みもしたが、やはり口調で描き分ける手法は「キャラ立ち」がよく、抗いがたい便利さがある。
ちなみに、一昨年、『ビリー・エリオット』を観たが、この炭鉱町ダラムを舞台としたミュージカルのセリフは九州弁ベースだったので、一概に使い古された手法とは言えないかもしれない。
時代と創作物の意識のズレについてひとつの答えだと思ったのが、『はいからさんが通る』再版のあとがきである。
わが家の書棚は亜空間に通じており、一度放り込むとなかなか見つけ出せないので曖昧な記憶になるが、蘭丸というキャラクターのジェンダー表現について、舞台となった大正期、そして連載当時の昭和50年代の空気感をきちんと伝えていた。
なお、補足すると、蘭丸はヒロイン紅緒に恋している女形役者で、いわゆる「男の娘」ではない。
時代の先を読むことは難しい。
せめて、取り残されないようにしようとは思いながら、このライトノベルの執筆も佳境に入った。キャラクターたちが勝手に動いてくれて、小気味良かった。大学は英文科だったので、ある程度知識のストックがあり、古代史と違って膨大な資料をイチから読まなくてもよい時代だ。
中途半端な知識が邪魔をして、何故か勢いで宗教や民族、階層といった重たいテーマに片足を突っ込んでしまったが、爽快感と疾走感のあるラストにしたいと思っている。
ヴィクトリア朝風の異世界を舞台に、様々な属性のキャラクターたちが登場する。各人の見せ場をなるべく作るように構成した。終盤は『名探偵コナン』ばりの珍奇な発明品を連発する予定だ。
その表現は時代に合致しているのか。
21世紀の物語として成立しうるのか。
そんなことに逡巡を巡らせながらの創作過程だった。残り数話なので、ラストまで駆け抜けようと思う。
以上、興味があればぜひ読んでみてほしいという気持ちを込めて、この雑文を書いてみた。



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