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真正面からいちゃつくのが下手なチアイロがハグする話/キャきキャきのしゃベツの小説

真正面からいちゃつくのが下手なチアイロがハグする話

8,082文字16分
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「イ〜ロハちゃんっ!迎えに来たよ!」

 チャイムの音で深くなっていた眠気が引いていく途中のイロハに声を掛けたのは彼女の机の上に尻を乗せたチアキだ。授業が終わると飛び出すようにイロハのいる教室まで走ってきたので明るく笑いながら肩で息をしている、それを知らないイロハは眠たげに横に伸ばした目を擦っている。ただ、彼女がそれを知っていたとしても労いの言葉を掛けたりは決してないだろう。
 さっきの授業は、かなり退屈だった。モヤのかかった頭でその言葉を繰り返していたイロハは自分に声を掛けた同僚の姿をようやく認識すると「チアキ」その三文字の名前を忘れていないか確認するようにぼんやりとした声色でつぶやいた。

「どうしたの?」

「別に何も……今眠いので静かにしてもらえませんか」

「眠いんだったらここじゃないところで寝ようよ〜、ここうるさいよ?」

 覗き込む視線を切りたかったイロハはそまま机に突っ伏した。机に広がったチアキの髪の毛の先を触りながら気怠く息を吐く。チアキはイロハの髪に手を入れてわしゃわしゃと撫でている、彼女が反応を全く示さないことをいいことに自身が満足するまで撫で続ける気である。
 2人のいる席は教室の中心から少し右にずれた位置のある、出入り口は右側で人通りが多い、通り過ぎる生徒の一部がチアキの姿を見て声を掛けて軽い挨拶をした、臙脂の髪を撫でながらチアキも返事をする。イロハに挨拶をする生徒はいなかったが誰も、本人でさえも気に留めていない。
 教室からの出入りも落ち着き、幾つかのグループがまばらに座って雑談をしている。各々の会話の声がよく聞こえるのでチアキはその会話に耳を傾けていた。「そろそろ行きましょうか」まだチアキの毛先を弄っていたイロハの平坦な声色が尖った耳に届いた。

 歩幅を合わせることなくせかせかとした足取りでイロハが廊下を進んでいると、突然チアキが後ろから抱きついてきた。それまでなら、何回、何十回と繰り返してきた行動だったが、今日は少し違っていた。普段、チアキが後ろからイロハに抱きつく時は体格差もあって上から被さるように抱きつく、しかし今日はイロハの腰の抱きついた。
 背の高いチアキが屈んで自分の腰に抱きついている状況は廊下を歩く人間の目にはよく目立って映るだろう。人に注目されることが好きではないイロハは目立ちたくなくて、すぐにチアキを引き剥がそうとした。

「ちょっとチアキ」

「んー?どうしたのー?」

 白々しい反応をするチアキの頭を下に押して引き剥がそうとする。チアキはイロハの腰に回した腕をしっかり絡ませて離れようとせず、顔や角をイロハに擦り付けている。
 どれだけ早く歩こうとも、重心をこちらに預けながら器用に歩くのでチアキが離れることはないだろう。歩く廊下の人通りは少ないが、すれ違う生徒たちがちらりと振り向いたり、向こうからくる生徒が視線をこちらに向けたりするのがわかる。「いい加減離れてください、勘違いされますから」視線を気にしながらイロハは声を一層強めて静かに言った。

「何が勘違いされちゃうのかな〜?」

 顔をニマニマとさせたチアキが見上げた。イロハは楽しそうに歪むその赤い目を見つめて、相手にするのは意味がないな、とそう確信した。ため息を吐くと頭をスリスリと擦り付けられた。チアキが「無視しないで構ってよ〜」とでも言いたげに主張しているようである。そんな甘えたがりの同僚を引き剥がそうとするのも諦めて、げんなり歩く姿も何人かのクラスメートと何人かの知らない生徒に見られた。
 イロハは呆れて歩みを止め、窓の外に目を向ける。風が強く吹いているのか横に倒れて靡く木々が見えた、日差しを受けて鮮やかな緑を光らせている。窓が震えて立てる音とチアキが急かすように名前を呼ぶ声が重なって、遠くで聴こえた。


「えへへ〜、イロハちゃ〜ん!」
 
 背中に乗りかかる重さにイロハはああ、またかと思った。重心を後ろに移動させてバランスを取り、ゲームを再開する。光が窓から入り込んで部屋を照らし、その光の中で二つの影が重なっている、日差しも風も強烈な日である。日差しで湧いた汗が首筋を流れてシャツの中に入り込む、窓は音を立てて叩かれるように震えている。
 顎を頭のてっぺんのぐりぐりと押し付けてチアキは楽しそうに笑っている。ゲーム画面を覗いて小さく細やかに反応を示していた、へぇとかほぉとかおぉとか何パターンかの反応だけだったが自分のプレイが見られているからかイロハの手元はいつもより杜撰であった。それと息づかいや反応を示す毎に漏れる温い空気や布越しの体温と鼓動なんかの影響で、結局あまり集中できず、普段ならしないミスをしてゲームオーバーになったところでゲーム機の電源を落として、ため息を漏らした。

「あれ、やめちゃうの?」

 残念がった声を出してチアキは体重を掛けた。あなたのせいで集中できないんですよ、イロハは喉まで出かかった声を呑み込んでため息で誤魔化す。日差しがより強くなってきて、チアキが引っ付いてるせいもあって暑苦しかったから日陰の方に移動したい。廊下からこのサボり場となっている部屋まで未だ引っ付いているチアキごと引きずっていこうと、膝を畳にこすって強引に壁際まで進んだ。
 さっと日差しが遮られて冷たい空気が身体を包むけど、背中に引っ付くチアキは離れようとする素振りを一切見せない。右肩の方に寄りかかり耳元で快活な声を楽しそうに弾ませた。

「ねえねえ!イロハちゃん次何するの〜?私はね一緒にお出かけでもどうかなって思ってるんだけどさ!」

「こんな風の強い日に外なんか出たくありませんよ、今日はこのまま仕事の時間までサボり部屋にいます」

「いいね〜!気ままにゴロゴロ!私もイロハちゃんぎゅ〜!ってしながらゴロゴロしちゃおっかなっ」

「嫌ですよ暑苦しい」

「そんなこと言わずにさ〜」

 抱きしめる力を強めてチアキは前後に揺れる、イロハはそれを受け入れて、というよりは抵抗を捨てて揺らされる。視界が動き続ける中で、面倒臭い、はやく飽きてくれと願う。授業終わりの眠気がいつのまにかなくなっていることにイロハはなぜか、たった今気づいた。
 そうだ私は授業が終わったら、すぐにここに来て惰眠を貪りたかったのだ。それなのにチアキが絡んでくるからすっかり目が覚めてしまったのだ。

「ねえイロハちゃ〜ん!ねえねえ〜」

 頭の内など興味がないと言わんばかりにチアキが引っ付いてくる。しきりなしに震える窓の音とチアキの余裕そうな態度にイロハはだんだんと苛立ちを感じ始めていた。どうにかしてこのやかましい同僚に面食らわせたい、強くそう思った。そして一つ、案を浮かばせた。
 後ろから抱きしめるチアキの腕を振りほどくと、イロハは差し込む光の中に背中から倒れて腕を広げた。伸ばした手は開いてチアキの方を向いていて、足は膝を立てて股は閉じている。
 要するにイロハはチアキの目の前で寝転び、そして無防備にハグを求めた格好だ。
 普段あしらう態度ばかり取っている私がいきなり甘え出したらきっと驚いて不気味がるだろう、イロハはそう考えた。普段の彼女なら絶対にしない思考、そしてできない行動であったが、日差しの暑さと苛立ち、なによりいつもより積極的に構ってくるチアキに感覚が麻痺して冷静さを失っていた。
 視界が光で白く染まってチアキの表情はよく見えない、ただ彼女がこちらを向いているのが、黒い制服に包まれた身体から予測できた。しかしこちらを向いたまま固まって一向に動く気配はない。しばらくじっとしてようやく「えっと……何してるの?」イロハの行動を理解していない調子でそう訊いた。

(にぶい……)

 イロハはそんな不満を抱くと同時に、自身がチアキに抱擁を求める行動をとったが伝わらなかったことで、はたして自分の姿が様になっているかを心配していた。チアキの言葉で少し冷静になったイロハだったが、もう少し冷静になっていれば自分の取った行動が恥ずかしくなってすぐにやめていただろう。風で揺れる窓を一瞬だけ見ると、体を起こした。

「ん」

「……?」

 体を起こしたイロハはチアキの真正面に座って腕を広げた、それをチアキは見ている。静寂に包まれて、時計が秒数を刻む音と窓にぶつかる風の音だけがよく響く。
 普段、チアキからかまってきてそれを受け流すことが当たり前だったイロハは、彼女に甘えるやり方を理解していなかった。そしてチアキも、イロハも方から甘えてくるなんて微塵も考えていなかった。だからこそ何も言わずただ目の前で腕を広げられても、チアキは全くその意味を理解できず、じっとこちらを見つめるイロハの青い目を不思議そうに見つめ返している。そのことを知らないイロハは、なぜいつものように抱きついてこないのか不満げに考えて、腕を下ろした。
 しかしイロハはまだ諦めず、今度は膝をついたまま困惑しているチアキの横まで行くと体を傾けて、体重を彼女の肩に預けてもたれかかった。

「わっ!?…………イロハ……ちゃん?」

 慎重に、ゆっくりとチアキは名前を呟いた。肩に寄りかかる重みを感じ、視界の端にとらえる臙脂色の髪の束は揺れている。名前を呼ばれたイロハは返事をせず、肩に体重を乗せたままで動こうとしない。イロハの頭の中では、寄りかかった後どう甘えるべきなのかを思案している。
 静かに呼吸をする音が聴こえるし、動作も肩を介して伝わってくる。強い安心をチアキは感じていた。
 チアキはいつも後ろからイロハに抱きついているが、それとは全く違うイロハを感じていた。自分から彼女を感じに行くのではなく、イロハが自身の意思で身体を預けてくれるという、信頼の表現がチアキにとって喜びや驚きや恥じらいになり身体をこわばらせ、鼓動のリズムを急かすように速めた。

(え……っとこれ、私どうすればいいの……?)

 もたれるイロハに意識を引っ張られながらもチアキは自身の持つ知識の中で、こういった状況に適した行動を取れるものを持っているか思い出そうと頭を回転させる。その中で思い浮かんだのは、いつかイロハに勧められて読んだ恋愛小説の一場面であった。
 想い人である男の肩に勇気を出して寄りかかる小柄な少女、寄りかかられた男は何も言わず、静かに少女の肩を抱き寄せて顔を近づけてキスをして少女の想いに応える。そんな場面だ。
 まさか、そんなわけない。どうしてそんなこと今思い出したんだろう、きっとイロハちゃんは忘れているのに。文章や浮かんだ情景までも思い出しながらチアキは言い訳をするように、考えを否定してもっと違う考えを浮かばせようとした。
 しかしそれは叶わなかった、狙い澄ましたのかなんなのか、チアキが思考に耽ようとした瞬間にイロハが下から上に頭を動かして肩に擦り付けた。柔らかいが、緊張でピンと張っていたチアキの肩が大きく揺れる。彼女は素っ頓狂な悲鳴をあげて跳ねた、そして仕切り直そうとした思考が今のイロハの行動で、瞬く間に恋愛小説のあの場面だけが繰り返し流れ出した。
 
 イロハはいまだ黙ったまま肩に寄りかかっている。顔も見えず、考えも読めない。チアキの手はいつの間にかイロハの肩と同じ高さにあった、もう少し横にずらせばイロハの肩に触れられるほど近くにあった。
 手のひらには汗が光り、不自然な形で開かれたまま固まっている。チアキの緊張やためらいが一目で感じ取れる。イロハはなるべく頭を動かさず視線だけを横に向けて見えた彼女の手からそんなことを読み取った、実際にチアキは激しく動揺している。当初望んだ通りチアキが驚いて慌てふためいているのだから、イロハからすればもはや満足してチアキにもたれかかる理由もない。しかしイロハは何も言わずに変わらずチアキの肩に身を預けている。それはこわばった彼女の手が自分の肩を抱きしめてくれるのではないのか、それを本人も気づかぬ所でひそかに期待しているからに他ならない。
 自分が勧めて、本まで貸して読ませた小説のことをイロハも忘れていなかった。忘れていなかった、というよりは記憶の蓋がされたところに埋まっていたものが、寄りかかった瞬間に掘り出されたと言った方が正しいだろう。
 ゆっくりと、臆病に、されど確実に近づいてくるチアキの手に、イロハはなんでもないようなふりをしながら視線を釘付けにされていた。チアキはグイっとイロハを抱き寄せた。自分と相手の制服にしわが寄る。食い込むようにイロハの肩があたる部分がへこみ、布越しに確かな熱が強く伝わってくる。
 風は音を立て、日差しは強い。目の前には切り取られた光の当たるところがあり、今はそこから離れた壁際に寄りかかっている。本棚なんかの位置関係で今2人のいる場所は窓からは死角になっており、覗き込んでも見えない。
 チアキもイロハもその事を知っていたし、今いる位置がちょうどその死角だということにも気がついていた。この位置にいるのは偶然なのだろうかその疑問を抱えながら、2人とも口を塞いだまま何も喋らない。
 すっかり沈黙が長く続いて、2人とも何を喋ればいいのかまったくわからなくなってしまっていた。

「イ……イロハちゃん!」

「……なんですか」

「えっ、やっ、な……なんもないけど」

「そうですか」

 会話はそこで途切れ、2人はまた黙り込んでしまった。内心では互いにしまった、やってしまったと焦っているが口を開くことはない。普段チアキから構いにいって、それをイロハはあしらう。そうして積み上げてきた関係から少し外れると、お互いが関わり方を見失った。こうして体温を感じる距離に留まることの恥ずかしさ、安堵感、そのどれも知らないことだったからだ。
 イロハはようやくこの沈黙の中冷静さを取り戻して、自分がしたことの意味を理解した。チアキの横顔を盗み見て、顔の熱さが変わらぬ事を意味もなく願う。普段冷たい態度を取る自分から甘えた時の騒めきも、静かに抱き寄せてくれた時に感じた嬉しさも知られたくなかった、そしてなによりその先を想像してしまい期待する自分が恥ずかしくて顔をチアキから逸らす。

(なんて馬鹿馬鹿しいことをしたんでしょうか、これじゃまるで私がチアキの事……)

 次の言葉が浮かぶ前に感じたことは、風が叩きつけて揺れる窓の音が耳に殆ど届いてない事だった。
 イロハちゃん。
 次に感じたのは、静かな空気の流れる部屋でよく響く芯の通った声が、自分の名前を呼んだ事だった。いつもの気安さや明るい調子ではなく、ひどく平坦で落ち着いたトーンである。ハッとしてチアキの方を見た。顔は赤面して、今にも倒れてしまいそうなほど緊張しているのが一目で分かる。ただ、それを見たイロハも釣られて顔を赤らめてしまうほど真剣な眼差しが、怪しげな紅い瞳から注がれている。

「ごめんね、今はまだ、これしかできないや」

 強く肩を抱き寄せられて、イロハの額にチアキの額が当たった。熱い、互いがほぼ同時にそんな言葉を浮かべる。重なって混じり合う赤の髪と青の髪越しに、2人の熱は通じ合っている。
 イロハは額を押し当てながらも、わなわなと震えてギュッと目を瞑るチアキをとても愛おしく感じた。
 チアキは暗い視界の中で流れてくるイロハの温度と鼓動に強い安心感を覚えた。数秒か数十秒が経った、激しく騒ぎ立てる風の音はもう耳に届くことはない。

「もういい……かな?」

「ええ、まあ」 

「じゃあさ、その、ハグとか、しない?」

「は?」

「いや!さっきのイロハちゃんのやつ、もしかしたらハグして欲しいのかなあって!」

「耳の近くで大声出さないでくださいよ、やかましい」

「ご、ごめん。それで……実際どうなの?」

「……まあ、確かにハグしてくれるつもりでやりましたけど」

「じゃあ、決まりだね」

 若干の名残惜しさを感じさせながら一度離れる、状況は肩を寄せる前に戻った。チアキの緊張は一層酷くなっていた。対してイロハはしんと落ち着き払って腕を広げた。
 チアキの眼は不安を澱ませて、それを切実に訴えかけて揺れている。無表情で彼女を見やったイロハはため息を吐いて、膝を微かに進めて近づいた。チアキはそれに怯えてみせた、小さく悲鳴のような声を出したが、腕を細かに震わせてぎこちなくイロハの肩まで上げて、こちらもまた膝を微かに進めた。
 両者の距離はささやかながらも、確かに近づいたはずだ。実際いつも通りなら、イロハが全くチアキに興味を持たずに背中を向けていたなら簡単に飛び込んでいたはずの距離なのだ。しかし、その距離は確かに数センチのはずだが地平線の彼方まで続いている、スローモーションで近づくチアキに対しての焦ったさに乱されたイロハはそう錯覚した。
 見合った2人のその間には両者にしか見えない深い谷が割って入っているのだろう、それほどまで臆病なほど慎重になってチアキは距離を詰めた。躙り寄るその詰め方がより一層にイロハの心を揺さぶる。
 今までチアキからグイグイ来て構って欲しそうにしてるからめんどいくさいけど対応している。そう信じていたというのに、チアキが牛歩の進みで動くたびに彼女を急かす言葉が矢継ぎ早に喉から吐き出されそうになる。言ってしまえば、それは自身の気持ちを直に伝えるのと変わらない。
 急かす言葉を必死に噛み殺しながら、いつのまにかチアキに構って欲しいのだと望んでしまっている自分を否応なしに感じさせられる事が、イロハの心を強く締め付けた。
 喉が渇いた。言葉を飲み込み続けてすっかり喉が渇いてしまった。布の擦れる音がする、部屋の隅まで届かないほど小さな音が聴こえた。シワが寄って盛り上がった部分同士の頂点が一瞬触れ合っただけで、布擦れとすら呼べないかもしれないが、確かな音がした。それだけでイロハはもう堪らなくなる、横一文字に固く結ばれた口が容易に解かれた。

「はやく……抱きしめてください……チアキ……」

 今まで飲み込んでいた急かす言葉がついに溢れ出してしまった。イロハの顔は一瞬で紅潮して、熱は身体全体に広がって、あちらこちらが汗ばんでいく。まともにチアキの顔も見れなくなって、俯いて畳を見下ろした。限界だった、もはや外聞もなく大変な勢いでそこらを転がって叫び出したかった。
 チアキは返事の声を出さなかった、というよりは出せなかった、呆然として中途半端に浮かべた手が震えている。一瞬前まで手を肩に置くべきなのか背中に回すべきなのか臆病に思案していたのを後悔した。
 一回瞬きをするうちに倒れ込むようにしてイロハを抱きしめた、手は背中に回って震えながら力を込めている。恐ろしいほど熱っぽい体温を分かち合って、激しく動悸する鼓動が伝わる。チアキは暴力的なイロハの温かみを抱きしめる。
 イロハの思考は白く弾けている。心臓を速めているチアキの心音が直接耳に届いている。大きな、とても大きなチアキに包まれている安心感に押されて、固くなった指先がぎこちなく、しかし離れたくない意志を確かに感じさせる強い力で服の襟を小さく掴んだ。頭を胸元に落とすと、服や肌や髪の匂いがした、肺や頭の中に入り込んでクルクルと回って、言葉にしていない感情をどうかにしてしまいそうなほど激しく心を揺さぶる。
 部屋はすっかり静まり返ったが、まるでウブな生娘である両者の内心は騒がしいほど暴れている。だのに高鳴る想いを甘い言葉のをして吐いたり、それ以上の進展を望むべくもない。チアキは襟の端を居所なさげに掴むイロハの姿を見て背中に回した手に小さく力を込めた。
 熱い呼吸のリズムが次第に重なっていく。
 暑苦しい。そう思った。
 心地よい。そう思った。

コメント

  • スズキゾク
    6月20日
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