キャンセル・カルチャーは問題の本質を解決しない
「性加害が報じられたら、引退しなければならないのか」という疑問が、性加害報道があるたびSNSなどで頻繁に散見されます。たとえ才能や魅力があっても、性加害者を応援できないと思う人はいるでしょうし、企業のイメージを最優先するスポンサーにとっては加害者を支持できないのは自然な流れで、その結果、番組が打ち切りになるということもあるものでしょうし、その後公の目に触れる活動の幅が狭まってしまうこともあるでしょう。
加害者が自分の加害の影響を理解し、被害者への本質的なサポート、そして加害に向き合った上での社会貢献を見せることができない限り、これは起こりうること思います。
しかし、私はSNSを中心とした「キャンセル・カルチャー」そのものは好ましいものだとは思いません。ネットにおける意見は、とにかく誰かを叩くことに莫大なエネルギーが費やされます。「この人は今叩いていい人だ」とネットで判断された途端に、意見の表明という枠を超えて、時にはその場で言及されていることと関係ないことにまで批判は及び、もう二度と立ち上がれないように叩き散らす波ができあがります。ときには真実性もわからない、あるいは抜粋された一言だけが独り歩きすることもあるなかで、途端に個人が標的にされるカルチャーに私は賛成しません。
ここでしっかりお伝えしたいのは、私は性加害事件や性加害者を容認する気持ちはないということ。だからこそ、性加害問題への反応として、個人を叩くこと「だけ」にエネルギーが注がれ、その結果「問題の本質」が置いてきぼりにされてしまうことは避けてほしいと願うのです。
たとえそうやって加害者が一人キャンセルされたとしても、問題は解決しません。加害者が一人いなくなっても、性加害を斡旋した企業、今まで被害の声を消してきた業界、さらにこうしたことを許容してきた社会がそのままであっては、問題解決にはならないからです。
ジャニー喜多川氏の問題に対しても、「そういう噂は聞いた」「あるのだろうと思った」という声がありながらも常態化することを許す構造がありました。他にも、バラエティ番組で女性たちに際どいことを言わせたり、露出度が高い服を着させたり、容姿を揶揄して笑うということも社会構造の中で当たり前に存在していたのです。
こういったことが奨励さえされる日本メディアの文化の中で思春期時代から育てられてきた芸能人が性加害をした際に、その性加害が生まれた背景を置いてきぼりにし、業界や社会の問題のすべてをその芸能人一人の肩に背負わせ、個人の制裁により終わりにしてしまう雰囲気を私は快くみることができません。
性加害は、加害者と被害者の当人だけの問題ではありません。もちろん加害者の責任は何よりも一番大きいですが、メディアやSNSに流出し続ける性的な表現やそういったものを使った笑い、女性が上納される文化、子どもの性加害を放置する文化などに関して、寛容になりすぎている社会構造があることに目を向け、その部分を改善していかなければ、これからも性加害が減ることはないでしょう。
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