第101話 罪作り


 息苦しさを感じる、湿気った雨が降っていた。


 安瀬との慰安旅行。昼と夜が切り替わる時間。部屋から少しだけ離れた、何の変哲もない廊下。


 楽しい旅行のはずだったのに……スマホを持つ手が震えていた。


「お、俺は、一体、桜になんて言えば……」

「…………陽光さん」


 陽光さんの悲痛な声を受けてなお、現実感が欠如している。


 足先の感覚が希薄で、中空を歩いているように不安定。今にも倒れこんでしまいそうで…………何よりも、この先が恐ろしかった。


「……桜さんには、俺から伝えます」

「っ!!」


 それでも俺は、俺が言わなきゃいけない事を言った。


「雨京さんが搬送された病院の住所と名前を教えてください。桜さんの地元なら、病院は広島ですよね?」

「じん、ないくん」

「今ちょうど、2人で兵庫に旅行に来てたんです。高速をぶっ飛ばせば病院には直ぐつきます」


 冷静に、冷静にと、自分に言い聞かせる。


 部外者である俺であるからこそ、ここからは動揺することなく冷静に対応しなければならない。


「た゛、たのむっ!!」


 スマホから聞こえてきた陽光さんの謝罪は、嗚咽と悲痛に満ち溢れていた。


「お、俺は……俺はっ!! 親父のところには行けないっ!! ち、千代美の…………子供の傍にいてあげないと!!」

「はい、分かっています」


 もう分かっている。なぜ、陽光さんが妹ではなく先に俺の方に電話をかけてきたのか。


 早産の奥さんと、重傷の父親。


 人間が天秤に掛けるにはあまりにもグロい二択。だけど、陽光さんはちゃんと奥さんを選んだ。自分は、父親と妹には付き添わないと決断した。


 ……そんな父親になった陽光さんが"俺に望むこと"。


「俺が責任を持って、妹さんを雨京さんの所に送り届けます」


 兄の頼みは当然、妹の事しかない。


 俺は陽光さんに代わって、安瀬を父親の所へ連れて行かなければならない。


「た゛のむ!! ま、まだ、わ、分からないから!! 医者が言うには、どうなるか、どうなるのか、ま、まだ分からないからっ!! た゛、たすかるから!! ぜ、絶対に助かるっ!! だ、だからぁ……!!」

「はい、きっと……きっと大丈夫ですから。全部、大丈夫ですから」

「あ゛、ありが、とう……あり゛がとぅ……すまない……こ、これはこちらの家庭の問題なのに、いつも、君に迷惑をかけてっ」

「やめてくださいよ。こっちこそ、陽光さんにはお世話になってますから」


 陽光さんには大きな借りがあった。いやそれ以前に、こんな役目を、安瀬と同じように母親の死を引きずっている人にやらせてはいけない。


「それじゃあ、こっちは任せてください。陽光さんは……どうか気を強く持って、奥さんと子供の傍に居てあげてください」

「あ、あぁ……」


 俺がそう言うと、陽光さんはほんの少しだけ落ち着きを取り戻したように思えた。


「……じ、陣内くん」

「はい」


 改めて名前を呼ばれ、深く相槌を打つ。


「さ、桜を……妹を頼むっ」

「……はい」


 深い感謝と、短い承諾。それで通話は終わった。


 俺と陽光さんは、特別に親しいわけではない。


 顔を合わせた回数は5回に満たないし、すれ違いも多い。たぶん俺が一方的に深い恩義を感じていて、向こうは俺には分不相応な期待を抱いている。俺と陽光さんは、どこか互いに対する評価がずれていた。


 だが、安瀬という共通点が不思議と互いを近くに感じさせる。


 この通話事態は火急のため短いやり取りだったが、俺は陽光さんからの信頼をひしひしと感じ取っていた。


 ……その信頼に、全力で応えようと思えた。


(…………ちゃんと、俺が、伝えなきゃいけない)


 電話を切ってからようやく、現実感が下りてくる。


 信頼を自覚した後に、これから俺が付きつける現実の重さを、ようやく頭が理解し始めた。


(お、おれが……)


『あんな些細な借りを気にして、我らを危険から遠ざけたつもりか!? ヒーロー気取りで猫屋を救ってやるつもりだったか!?』『その結果がこれか!?』『ボコボコにされて!! ほ、骨を折られて! そ、そんな、そんな酷い……酷い……』


 薄暗い病室で。


『お願いです、から……お願いですから、今は、1人にしてください』『こ、こういう日は、自分を、自分を、制御できないんです……』『そんな事を思ってはいけないのに、他人が羨ましくて、妬ましくって……自分が許せなくて…………死にたくなって』


 人気のない山中で。


(俺が、また、安瀬を傷つける……)


 2度の過ち。許されない俺の罪。思い出したくもない、絶望に染まった安瀬の顔。


 ふと、それらを想起した瞬間。


「────うっ!?」


 吐き気がした。混じりけのない拒絶反応に、臓腑が持ち上がる。表に現れるほどの不快感が俺を侵食していく。


(………………馬鹿か俺は、気色わりぃ)


 だが、不快感はすぐに別の何かで上書きされた。


(違うだろ、そうじゃないだろ。何を被害者ぶってやがる……)


 歪んでいる心の隙間から、冷気が這い出る。


(俺の気持ちなんて、クソ以下だ。どうだっていい)


 冷めた金属の感触が、熱を持つ臓腑を一瞬で冷ました。


 酒なんて一滴も飲んでいないはずなのに、今まで一番強く、冷たさを感じ取る。その冷たさが今は有難かった。


「……安瀬」


 噛みしめるようにして、大好きな彼女の名前を口にする。


 これから、本当に苦しい目にあう大切な人。


 彼女のためだけに、心を捧げられるように。


「…………」


 深く息を吸ってから、廊下を進み、安瀬と一緒に泊まるはずだった部屋の前へと戻る。


 絶対零度の覚悟を携えて、俺はゆっくりと扉を開いた。


「……ん? なんじゃ、陣内。電話はもうよいのか?」


 メンソールのメビウス。安瀬は咥え煙草のまま広縁に座し、落ち着いた様子で外の景色を楽しんでいた。


 ……出会った当初を思えば、彼女の気性はなんて丸みを帯びたのだろう。ふわりふわりとこの場に漂う紫煙のように、安瀬は軽やかでありのままの自然体になった。


「ふぅ……それで、レンタカーの延長は無事にできたのかえ?」


 安瀬は短い煙草を灰皿でもみ消してから、俺の方へと向き直る。


「明日からはあ奴らも合流するのじゃから、気前よく1週間くらい借りておくでありんす。単位は……まっ、いつものように直前に詰め込めば何とかなるであろうよ」

「安瀬」


 俺は問いかけには答えずに、安瀬に近づく。そして、小さな座椅子に腰掛ける彼女の前で跪き、そっと、祈るように彼女の手を両手で包み込んだ。


「ぴゅっ、ひゅぃっ!?」


 突発的な俺の行動に、安瀬は跳ね上がるように驚く。


「じ、じ、陣内!? 急に、な、な、なにを──」

「安瀬、落ち着いて聞いてくれ」


 焦る安瀬の声を、固い声紋で遮った。


「さっきの電話、陽光さんからだったんだ」

「へ? 兄貴から?」

「あぁ……雨京さんが、交通事故にあったらしい」

「……………………?」


 安瀬は表情を変えないまま、少しだけ首を傾げる。


「意識不明の重体で……病院に搬送された」

「じん、ない?」

「広島の病院なら、ここから車で1時間半だ」

「なにを、言っておる?」

「危険な状態らしい。だから、すぐにでも駆け付けなきゃ行けない」

「だから、なにを…………言って……」

「安瀬、大丈夫。きっと、大丈夫だから……落ち着いてくれ」


 性急な事態に、安瀬は困惑していた。


「落ち着いておる。我は、落ち着いておるよ……」

「そうか……」


 握っている手が、どんどん冷たくなって強張っていく。失われていく熱量は、彼女がこの事態を理解し始めていることを裏付けていた。


「それなら、立てるか。立って、車まで歩けるか?」

「え?」

「車だ。車まで、行こう」

「……待て。少し、待て」

「…………」


 待つ、べきではない。


 そんな時間は……ないかもしれないから。


「安瀬、すぐに行かなきゃいけない」

「待って」

「荷物なんて持たなくていいから。部屋から出て、旅館の入り口で待ってるだけで十分だから、行こう」

「待て、待って…………待って」

「あ、安瀬……その」

「待てと言うておろうがッ!!」


 空間を引き裂く絶叫。


 冷たい手が、俺の手を強く握り返す。それと同時に、安瀬の体がガタガタと大きく震えだした。


「はぁ、はぁ、はぁ…………!!」


 悲鳴に似た懇願は雨に吸い込まれるように消え失せ、室内には安瀬の苦しそうな呼吸音だけが嫌に響く。


「な、何の話じゃ? 何の話をしておる? あ、明日からは、4人で旅行を続けるのであろう? そのためにレンタカーを延長するって……なのに、なんで急に、親父の名前が出て……」

「電話をかけてきたのは、陽光さんだったんだ」

「あ、兄貴が?」


 事態を受け入れていない安瀬にもう一度同じ説明を繰り返す。


「あぁ、それで……雨京さんの事を聞いた。事故の詳細は分からないけど、急がないといけない事だけは確かだ」

「…………」


 早産の方の話は、意図的に省いた。安瀬にこれ以上の負担を強いたくはないし、今はその時間すら惜しい。


 最悪の可能性を考慮するのなら、俺たちは1秒でも早く病院に向かわなくてはいけないから。


「…………な、なぁ、陣内、?」

「っ」


 しかし、その最悪の可能性が安瀬の足を竦ませる。


「なぁ、嘘なんじゃろ?」


 聡明な彼女。


 これが嘘であるはずがないと、理解しているはずの彼女。


 嘘を……嫌っていた彼女。


 それは平時の彼女からは、絶対に出ないはずの言葉だった。


「お、怒らないから……。こ、今度は、絶対に、怒鳴ったりなんてしないから…………あ、あれだって、いっぱい、いっぱい後悔してて……あれ? あ、ははは……我は、なにを言って…………」

「安瀬……これは嘘なんかじゃ」

「じんない」


 震える瞳が、甘えるように俺に語り掛けた。名を呼ぶ声音は湿り気を帯びていて、生ぬるく耳を打つ。


「嘘って……嘘って、言って。お願い」

「…………」


 嘘だと言ってあげたかった。


 彼女に一生嫌われてもいいから、嘘だと言ってあげたかった。


 それが何の意味もない行為であろうとも、今この瞬間にも壊れてしまいそうな安瀬に『これは悪質な嘘だよ』と言ってあげたかった。


「安瀬、行こう……。1人きりで戦ってる親父さんのところに」


 だけど俺は、彼女につらい現実を突きつけた。


「────────やだ」


 心臓を握りつぶしてしまうような子供の声がした。


「やだ、やだ、やだ」


 幼子の瞳から、涙が落ちる。


 爛れた傷心を抱えた安瀬の精神が、悲鳴を上げていた。


「安瀬……」

「やだ……やだっ、やだ!!」


 握っていた手が強く振り払われる。


「はぁ……はぁ……はぁ……!! な、なんで……? なんで、我の両親だけ? なんで、こんな、こんなぁ、あぁ、あああぁぁぁ……」


 頭を抱え髪を振り乱し、安瀬が正気を失っていく。ボロボロと泣き崩れ、声帯が壊れてしまったみたいに力をなくす。


「また……また消える。燃えて、灰と骨だけになって、また失うっ……」

「そんなっ、そんな事には……!!」

「し、知らない……知らない」


 がらんどうの瞳から涙を流し、安瀬はうわ言を繰り返す。


「何も……聞いてない。知らない……わ、我は知らない。見たく、ない……」

「……っ」


 安瀬はぎゅっと目をつむり、恐怖から体を縮こめる。


 過去のトラウマが、父親から目を反らさせようとしていた。


「あ、安瀬……」


 部外者の俺は何も苦しくない。覚悟を決め、冷えきった思考は冷静その物のはず。


 なのに、安瀬の姿を見ていると涙が溢れ出そうになる。


「…………苦しいよなぁ、辛いよなぁ」


 その苦しみも、辛さも、安瀬だけの物だ。


 俺は涙を流すわけにはいかない。俺が涙を流すのは間違っている。


「でも、でもなっ!!」

 

 血が通っていない彼女の手を、もう一度、両手で包み込んだ。


「辛くても、行かなきゃいけない……今行かないと、絶対に後悔するから……!!」


 俺がやらなきゃいけない事は泣くことじゃない。彼女の背を押す事だ。ただそれだけに尽力する。


「い、行きたくない……な、なにも、したくない…………!! 見たくない゛!! なにも知りたくないっ!! やだ、やだっ!!」


 安瀬の息は荒く、涙は止まることを知らない。こちらが不安になるほど、彼女の涙は加速していく。


「だ、大丈夫、大丈夫だから……きっと助かるから」


 俺は、なんて無責任な言葉を吐くのだろう。


「安瀬だけに、そんな辛いことばかり起こらないから……」


 俺の言葉は軽い。この慰めには、何の保証もない。 


 こんなもので、安瀬の不安が拭いきれるはずがないんだ。


「……こ、怖い。陣内、怖い……」


 包み込んだ小さな手の上から、涙が俺の手を穿ち、そこから震えが強く伝わってくる。


「昨日まで当たり前だった物が、一瞬でなくなるのが……こわい」

「っ」


 安瀬のトラウマの根源。この日になって、ようやく俺はそれを知る。


 安瀬の幸せな人生を一瞬で奪い去った、死の不幸。


(どうすれば、安瀬の不安を少しでも和らげてあげられる……)


 これまで何不自由なく生きてきた俺には、死の消失という残酷な出来事を、軽々しく慰めてあげられない。苦痛を分かち合えない共感なんて、空空しくすり抜けていくだけだ。


(何か……何か……)


 何かほかに、安瀬の苦しみを緩和できるパーツを自分の中から探さなければいけなかった。


(何かを、何か言わないと……!!)



【辛い時は、誰かが傍にいないといけない】



 俺が最も苦しかった時に、猫屋が掛けてくれた言葉。


 脳裏に温かく根差した、優しい記憶。


「お、俺……安瀬の傍に居るから」


 思い出した時には、口が勝手に開いていた。


「辛い時は、俺、ずっと傍に居るから」


 安瀬を動かすという大義名分のもと、言ってはならない類の空手形を切る。


「俺にできる事だったら何でもするから……安瀬のためだったら、俺はなんだってできるからさ……」


 一度言葉にすれば、自分を売り切りする誓いは止まるところを知らない。


 彼女の涙を止めるためならば、本当になんだって捧げられると思えた。


「行こう、安瀬。行かなくちゃ……」

「……………………」


 だがこんなものは所詮、嘘よりもひどい一時しのぎの慰め。どれほどの価値があるのかも分からない。


 それでも俺の言葉を黙って聞いてくれた安瀬は、ほんの少しだけ顔を上げてくれる。


「……つ、連れて行って、陣内」


 握っている手から意思が伝わり、示し合わせたみたいに結んだ手のつながりが解かれる。


 低い椅子から、俺の胸へ。倒れこんでしまったのかと錯覚するほど自然に、安瀬は移ろった。


「お、お願い、陣内。わ、我を……病院まで………連れて行って」

「……あぁ」


 俺はそれだけ言って、壊れそうな彼女を優しく抱きしめ返した。


***********************************************************


 俺の腕を松葉杖のようにして、安瀬は何とか立ち上がった。震える体と心。それらを叩き起こして車に乗り、雨京さんが運ばれた病院に向かってくれた。


 広島の病院までは1時間半。


 その間、運転中であろうが彼女は俺の左腕を離さなかった。


 俺に寄りかかるように体を預け、人のぬくもりで心を支えるように、縋っていた。


『大丈夫、大丈夫だから』


 震えと涙が止まらない安瀬に対して、俺は何度も、何度も、馬鹿の一つ覚えみたいに『大丈夫』と言い続けた。


 ……なんで俺は昔から、安瀬のために何もしてあげられないのだろう。


***********************************************************


 病院までかかった時間は、1時間と20分。


 高速道路をとにかくぶっ飛ばして、転がり込むように病院に入っていった。


 病院の受付で『安瀬雨京の親族です』と言えば、順番を待つ他の患者さんを抜かして診察室へと案内され、お医者さんの手術説明がすぐに始まった。


 雨が降って視界が悪い状況での運転中、雨京さんは対向車線から突っ込んできた車を躱しきれず、運転席で挟み込まれた。事故の状況はまだ分かっていないらしいが、相手の居眠り運転らしい。


 消防隊による救助活動の後、救急車で初療室ERに運ばれ精密検査を受け…………深刻な2つの鈍的外傷が見つかった。


 骨盤の骨折と、胃の内臓破裂。


 そしてさらに問題なのが、それらからくる大量の出血。


 血が流れすぎていて血圧が安定せず、手術ができる最低ラインを確保したのは、ほんの数分前。


 手術が終わるまで体力が持つかどうか、内臓破裂による炎症や感染症が広がらないか……その2つをクリアできるかは、お医者さんでも判断できない。


「っ……」


 聞いてるこちらが眩暈を起こして倒れてしまいそうな内容だった。そこまで詳しく親族に語らなくても良いのにと思うほどの残酷な現実。


 事実、説明を受けて手術の同意書にサインする安瀬の顔は真っ青だった。


「お、お願いします」


 制御がきかない安瀬の涙腺は、何の前触れなく止まったり、次の瞬間には際限なく溢れ出すといった暴走を繰り返す。彼女の心は、確実に自壊を始めていた。


「父を、どうかよろしくお願いします……」


 それでも安瀬は、床を涙で濡らしながら必死に頭を下げた。


「俺からも……どうかよろしくお願いします」


 こんな事しかできない自分に心底嫌気がさしながらも、お医者さんに深々と頭を下げた。


***********************************************************


 通された待合室で、安瀬と一緒に雨京さんの無事を祈る。


 手術が始まって、もう2時間が経過していた。


 手術時間の予定は4時間だ。長丁場になるが、病院全体に漂う白い雰囲気が人が踏み入ってはいけない聖域を連想させ、未だに体から緊張感が抜けない。


「………………」

「………………」


 待合室の長いソファーで、俺たちは無言のまま身を寄せ合う。

 

 語れる言葉が尽きるほど俺は安瀬を慰めたが、それでも彼女の涙と震えは止まらなかった。


 安瀬はずっと恐怖に縛られたまま、俺の腕に組みついて離れない。自分の心境を全く隠さず、消失の恐怖を少しでも誤魔化すため、俺なんかに必死に縋りついていた。


 会話はなく、泣いて、震えて……吹雪から身を守るように、長い時間を耐えた。


***********************************************************


 ……どれくらい経ったんだろう。


 時間の感覚があいまいだった。


 まだ10分しか経っていないと言われれば信じるし、逆にもう10時間ここに居ると言われても信じてしまうぐらい、ずっとこの待合室にいる気がする。


「………………」

「………………」


 ここは1つの終着点で、俺と安瀬は2人きり。このまま時間は動かず、不幸は彼女に訪れない。歪んだ時間感覚は、そんなあり得ない幻想をどうしても望んでしまう。


 だが幻想は、待合室の扉が開くことによって破れ去った。


「っ」


 部屋に入ってきたのは当然、お医者さん。もう全てが終わったようで、手術着ではない清潔な白衣を身に纏っていた。


「お疲れ様です、手術は無事に成功しました」

「……ぁ」


 開口一番に発せられた言葉は祈るほど願っていた物のはずなのに、感覚が麻痺しているせいで直ぐには理解できない。


「血圧は依然として低いままですが、それ以外のバイタルは安定しているので問題なく回復に向かうと思います」


 お医者さんがあまりにもあっけなく言うので、魂が抜けてしまいそう。


「ぁ、ぇ……え?」


 実際、俺と同じで安瀬はその言葉を上手に掴みきれていなかった。


「そちらはご家族の方でいらっしゃいますか?」

「は、はい……」

「まだ麻酔が効いて眠っていますがお会いになりますか? 外傷がひどいので少しショッキングかもしれませんが……」

「は、はい……はいっ!! 行きます、行きます!! お願いしますっ!! あ、会わせてっ……!!」

「では、こちら──」

「お、お父さんっ……!!」


 絡んでいた腕は簡単に解かれ、お医者さんの返事を待たずに飛び出していく。


「あぁちょっと、待ってください」


 走る安瀬の後を追って、お医者さんも部屋から出て行った。


「………………ぁぁぁ」


 待合室には、役目を終えた俺だけが残された。


 緊張感が失せ、同時に肺の空気が全て抜ける。


「……………………」


 十秒、二十秒ほど、思考を無に飛ばす。


「……………………」


 だらしなくソファーに体を沈め、安瀬がソファーに残した体温に手を伸ばして、安らぎを感じた。


(……もう、いいよな?)


 気持ち悪い感慨を終えて立ち上がり、待合室を出て手術室から遠ざかる。


(……誰も見ていないならもういいんだよな?)


 本当はトイレにでも籠ってしまいたかったけど、そこまでは持ちそうになく、すぐの廊下を曲がって壁に倒れこんだ。


「よ゛、かった……よかったぁ゛」


 抑えていた涙が、限界を迎えて溢れ出す。


 安心感と、ため込んだ悲しみが際限なく発露する。体中からすべての力が抜け落ち、土下座するように地べたで頭を垂れた。


「よか゛った……ほんとうに、よか゛ったぁっ……!! あ゛ぁ゛゛!! よ゛がったっ!!」


 苦して吐きそうな不幸が、ようやく終わった。


 安瀬大切な人を悲しませることなく、無事に終わってくれたっ!!


「あ゛ぁ゛……ぅう゛う、あぁぁぁぁぁ……」


 これまで感じたこともないような途方もない安堵感は凍った胸を打ち砕き、俺はしばらくの間、みっともなくわんわんと泣きわめき続けた。



***********************************************************



(────あれ? 陣内?)


 部屋を飛び出し、面会室の一歩手前で、我はようやく片腕の喪失感に気が付く。


「陣内? 陣内……どこ?」


 一緒に居ると言ってくれた彼が、見当たらない。半日間、夜も遅いというのにずっと支えてくれた存在が急に喪失してしまった。


(じ、陣内も……陣内も一緒にっ!!)


 父との面会は、陣内と一緒じゃないと絶対に嫌であった。


「す、すいません、すぐに戻らせてもらいます!!」


 お医者さんに一言断りを入れて、来た道を引き返す。


 陣内が居ないと……怖かった。


 いつの間にか手放してしまった物は、気が付けば一時すら失えない温もりになっていた。


「陣内? 陣内? どこじゃ?」


 待合室に戻ってみたが陣内はおらず、どこに行ったのかを必死に探す。待合室からの行き先は、手術室か中央棟に向かう道の2つのみ。急いで中央棟へと駆け出す。


「あ、じんな──」

「あ゛りがとう、ご、ございます」


 探していた陣内は、人気のない廊下の床にうずくまっていた。


「あ、ありがとう、ありがとう、か、か、神様。あ、あ、安瀬を、苦しめないでくれて、ほ、ほんとう゛に、ありがとう」

「っ」


 慟哭が入り混じる神恩感謝。それが我に関する事だと分かった時、反射的に身を翻して廊下の曲がり角に体を隠した。 


「良かった……良かった……安瀬が、安瀬が……無事で…………誰もっ、何も失われなくて……!!」

「…………」


 ただの幸運に、彼は必死になって感謝を述べ続ける。


「ぅうっ……くっ、よかった゛。あ、安瀬にこれ以上、辛いことがなく、てぇ!! ひっく゛、ぅ……うぅぅ!!」


 嗚咽を上げ憐れみの欲しいまま、今日1日ずっと傍に居て支えてくれた陣内は地べたに激情を吐き出し続けていた。


「あ、あ゛ぁ……ほ、んとに゛、よ、よか゛った、あせ゛ぇ……」

「……………………」


 こころが狂いそうだった。


 私の事を案じて、

 涙を流す彼が、

 狂おしいほどに、

 好きで、

 好きで、

 愛おしくて、

 可愛くて、

 大好きで、

 抱きしめたくて、

 その涙を止めてあげたくて。


「…………」


 いつもの陣内は、うるさくて、意地が悪くて、アル中で、笑った顔が馬鹿みたいで、どうしようもない阿呆。


 だけど本当は、どこまでも優しくて、我の全てを受け入れてくれて、合わせてくれて…………あと、少しだけ不器用な所が。


 大好き。


(……欲しい)


 もう、無理だと思った。


(欲しい)


 想いに蓋をしていた物がパキンと音を立てて壊れる。


(ずっと、ずっと、傍にいて)


 諦められない。もう、猫屋に譲ってあげられない。


(一生、我の傍にいて……)


 殺して埋めた桜色の恋が、抑えようのない赤色の愛執へと変わっていく。

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