(歴史のダイヤグラム)須賀敦子が乗った夜行列車 原武史
兵庫県西宮市に実家があった随筆家の須賀敦子が東海道本線の夜行列車に乗るようになったのは、東京の聖心女子学院高等専門学校(後の聖心女子大学)に入学した1945(昭和20)年秋からだった(「となり町の山車のように」)。
だが夜行の普通列車は限られていた。47年か48年に大阪から東京まで行こうとしても、大阪を23時前後に出る8016列車か106列車しかなかった。それ以外は長崎県の南風崎(はえのさき)から来る引き揚げ専用列車だった。
47年か48年の冬、須賀は夜行の普通列車で上京した。8016列車も106列車も大阪始発だったから、客車のボックス席に座れたのだ。
当時は東海道本線の沼津―京都間が非電化で、沼津まで蒸気機関車が牽引(けんいん)した。車内は暖房が利いていなかった。
「堅い座席で寒さに目がさめるたびに、ああ、あと何時間ぐらいすれば東京に着くのだろうと、窓の外を過ぎてゆく電柱を、一本、一本、数えたりした。一千本になったら、東京。他愛(たわい)ない事を自分にいいきかせては、また眠りに落ちる」(同)
いまではほぼ撤去されたが、非電化区間でも通信用の電柱が等間隔に立ち並んでいた。それらを数えたのだろう。
「眠っていて、ふと目がさめると列車はまったく見おぼえのない、山を背にした小さな駅にとまっていた。(中略)/どれぐらい停車していたのだろう。やがて、かん高い汽笛が前方にひびいて、列車ぜんたいにながいしゃっくりに似た軋(きし)みが伝わると、ゆっくり動き出した」(同)
これは一体どこの駅だろうか。「小さな駅」とあるが、普通列車しか停まらない駅ならばすぐに発車したはずだ。しばらく停まっていたということは、たとえ町自体は小さくても重要な駅だったのではないか。
そう考えると、前述の二つの列車で6分ないし10分停車した米原のように見える。駅舎が太尾山(ふとおやま)を背にしていた点も引用文と一致する。冬の米原はしばしば雪に見舞われるが、「雪のなかの小さな駅舎」(同)という記憶とも矛盾しない。
列車が再び動き出したとき、まるで暗い雪片のように、ある考えが空から降ってきたという。
「この列車は、ひとつひとつの駅でひろわれるのを待っている『時間』を、いわば集金人のようにひとつひとつ集めながら走っているのだ。列車が『時間』にしたがって走っているのではなくて」(同)
8016列車も106列車も米原まで各駅に停まり、米原からは飛び飛びに停まった。「列車にひろいそこなわれた『時間』は、あちこちの駅で孤立して朝を迎え、そのまま、摘まれないキノコみたいにくさってしまう」(同)。何と豊かな感性だろうか。(政治学者)
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