失われたクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)を求めて
はじめに
有村 崚(ありむら りょう)という人がいる。in the blue shirtという名義のソロプロジェクトで音楽や映像を楽しく作っている人らしい(公式ホームページにそう書いてあった)ちなみに公式ホームページはこちら。
縁あって彼のtwitter(じゃなくてXか)をフォローしているのだがそこで面白い話題で書かれている文章に出会った。The Blue Envelopeと銘打たれた一連の文章群である。内容はどんなものか読んでほしいのでリンクを貼っておくが(これ)、ざっと概要を説明すると創作論である。それ以外にも雑多な文章が書いてあるけどつまりは創作についての話だ。有村さんはメインは作曲家なので音楽を話題の中心にしているけれども、どんな創作にも通じる話として書かれているので今回その文章についてつらつらとC4P(クリエイト・フォー・パーソナリティ)的態度で書いてみることにした。さっきからC4Pって言葉を使ってるけどなんだよって思われる読者も大半だと思う、ちゃんと説明するのでお待ちください。
なんでこんな文章を書こうと思ったのか、それは有村さんがXでこんなポストをしてたからだ。
おれのC4P作文は、課題意識は明確だが解決策がわからない、という状態で書いているので、まじで批評してほしくてたまらない。読んで、みそくそに批評してください。11月末に入稿するからリアルタイムでボコってください。エゴサして引っかかるようにお願いします
このポストがされるまでは一読者として普通に有村さんの文章を楽しみにしていたのだけれど、こう書かれるとリアクションしたいな、という気持ちが湧く。そこで筆をとってみたみたわけだけれど残念ながらみそくそに批評する、といった態度にはなれなかった。なぜかというと有村さんは非常に自己対話が上手な人なので、批評するにしたってとっかかりがないのだ。抜けてるところを突っ込むというのが批評のとっかかりになりやすいと自分は考えているのだけれども、この有村さんの文章では大体の想定される返しや疑問はすでに相当丁寧に考え練られ返答されているといっていい。だからこの文章では基本的に有村さんの文章を読んだ感想を書くという形にしたいと思ってます。
C4QとC4P
じゃあまずC4Pって何ですかって話である。その話をするべきなのにC4Qなんて別の単語まで出てくる。さらになんなんですかって話である。それはもう有村さんの文章を読んでみるしかないだろう。ここに引用する。まずはC4Qから。
クオリティを目的とした創作を 「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)」 と呼ぶ。
ここでいう“クオリティ”は、客観的に認識できる結果と置き換えることができる。
(中略)
要するに、C4Q的態度下では、何らかの指標を持ってして、ある程度は客観的に比較ができるということである。記録を競う競技であれば言わずもがな、そうでなくても、「再生数1億超え!」とか「来場者数1000万人!」といったようなKPIによるベンチマークが比較的容易であるわけであるし、君は英語が得意だから上級クラスに入れてあげましょう、といった使い方ができるわけである
つぎにC4P。
個人性を取り出すための創作を 「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」 と呼ぶことにする。
創作物を“内的なパーソナリティが外部に取り出されたアウトプット”と捉え、自己理解や他者との違いを知る道具として活用する。C4P では、C4Q における「結果」に相当する外部評価をそもそも設定しない。評価軸は、自分自身によるパーソナリティ理解の精度のみである。
(中略)
どこからが創作行為なのかというハードルも極限まで下げる。適当に着たTシャツ、話半分に送った友達へのライン、腹を満たすために適当に作られた飯、適当にザッピングし、さしてみたいわけでもないのに選ばれた、流れているだけのテレビ番組。行動を選び取った時点でアウトプットであり、自己の発現である。らしさの現れを自認できれば手段は問わない。いかに意識的に、それをできるかだけが大切である。
ようするにまあ書いてある通りなのですが、C4Qは他者評価軸とした創作の事であり、C4Pは自己理解を軸とした創作とでもいえばいいのでしょうか、本当にそうでしょうか。この要約より引用をよく読んだほうがいい気もするけど要は自身の創作物の成果報酬を他者に委ねるか自分に委ねるかの違い(とはもちろん言い切れないけれども)ものだと一読して自分はそう解釈しました。
創作をそもそも二項対立の形で解釈しようとするのが間違いで、すべての創作はC4Q的態度とC4P的態度のグラデーションの中に在ってどちらかに振り切る事なんて原理的にあり得ないといってしまえばそうなのかもしれないけれど、議論を起こすには前提がいるし、なんかごにょごにょしてアウフヘーベン!なんてことになるには対立した二項がないとどうにもならないしでとてもいい問題提起の仕方だなぁと思って読んだわけです。
それで有村さんはどうしたいかというとこうである。
「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」 の比重を今よりもう少しだけ増やすことで、人生をより豊かにできると考え、その実践に注力している。
ようはクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)の比重を増すほうがいいっていう話をしたいのである。じゃあ実際にこのクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)の比重を増すことが個々人の創作、人生を豊かにすることにおいてほんとによいことなのか考えていきたいと思う。
クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)の呪縛
僕の話をしよう。僕自身何とはなしに創作してきた身であるし、その過程で他者評価を気にして物を作ってきた。特に中学から高校生にかけて僕は俳句にのめりこみ俳句甲子園という大会に出たりすることや様々な賞をとることを目標に俳句を創作してきた。俳句というのはその創作物の発表において少し特殊なフォーマットで(特殊じゃない創作のフォーマットってあるんだろうか)、基本的に作品を発表するときは3つのやり方がある。一つは句会、一つは結社誌、そして最後は賞への応募である。
句会というのは兼題といって毎回何かの言葉や季語を指定したものを入れて作れというお題をもとに参加者各々が俳句を出すというものだ。そしてそのつくられた俳句たちは作者が分からないようにして場のみんなに配られそこで各々が点数をつける。ようは採点するのだ。何十句か出されている中で好きな俳句を1、2句選んでいく。つまり人気投票をする。そしてその点数が高い順にみんなで俳句を読み合って理解を深め作者が最後に種明かしのように明かされるという仕組みだ。
もちろん点数が低い、そもそも1点も取られていない句は読まれることすらないこともある。故に作品を出して読まれるためにはクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)の研鑽が求められるわけだ。出来損ない(そんな俳句はないのだけれど!)になってしまうと誰の目にもとまらず、なんなら批判の対象になってしまう環境で僕は句会を行なってきたしそのコミュニティーの流儀にすっかりと浸かっていた。
結社誌、同人誌はどうだろうか、読者兼作者は結社や同人に毎月決められた数の俳句を投句する。同人誌は横並びに作品を並べて優劣をつけないようにするところもあると聞くがそれは一部で、多くは選者によって出した俳句のうち何句かが選ばれて掲載される。僕の所属していた俳句雑誌では出した俳句は天地人にランク付けされて毎号審査されるので当然天を狙うようになる。天になれば名誉も得られるし何よりきちんと自分の俳句を読んでもらえるからだ。ここにも色濃くクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)の要求がある。
賞レースについてはいわずもがな、当然作品のクオリティを競う場所であるわけだ。
こうなると苦しい。毎回自分の出すものはある程度のクオリティを担保できているのか、選者の口に合うものなのかを考えなければ読んでもらうという土俵に立つのもままならない(ような気が当時の僕はしていた)noteのような雑然とオールジャンルの文学文章を書ける場所もまだなく、インターネットに俳句の居場所はないわけだから色濃く人間関係の中での勝負となる。
俳句をやっていると本を出すというのは一つのゴールに思える。しかしそれもどうすればいいやら見当がつかない。文フリも当時はそこまで盛り上がっていなかったと思うしやはり大きな賞で認めてもらうしかないようなところはあったと思う。狭い世界の狭い話なのでこれが何かしらの収入に結びつくことはまずないと言ってもいい。なのでもっとラフにやってもいいのだと思うのだがラフに読まれる場所がない、という問題を俳句は抱えている。そんな環境で俳句を作っているうちに私は息苦しくなってきた。目標であった俳句甲子園に出ることができ、そこで自分の俳句を選んでもらえた。俳句の賞を受賞した。しかし何も起きない、その次はどうしたらいい?というところで足が止まってしまったのだ。その呪縛を解くのには多くの時間がかかった。
何が言いたいのか、つまり僕は足元からつま先までクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)に染まっていたということだ。しかし同時に僕はその当時よくこう思っていたし周りにも話していたのが、創作は恋文で、瓶詰めしたそれを海に流して誰かに拾ってもらえれば成功なのだ、だからまず海に作品を流してみよう…という話だった。これはクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)の話に少しちかしいものがあるかもしれない。そこまで厳密に考えていたわけではなかったのだけれども。
次に僕がこの呪縛から抜け出せた過程を書きたい。
クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)からの逃走
季節はもう覚えていないけれど、僕は大学生になっても一人で俳句を作っていた。そこで僕はとある俳句賞に出すために俳句の連作、つまり30句ほどの塊としての作品を出すことにした。音楽で言えばアルバムみたいなものだ、少し乱暴な比喩だけど。それはこれなのだけれど良ければ読んでみてください。まあいろいろ解説すれば色々話せることもあるのだけれどこの文章の趣旨からずれるので今回は話さない。ともかくこの作品は自分の中ではクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)的な態度の極致で作ったものだと思う。
この作品を出した後に自分はほとんど俳句を作らなくなってしまった。理由はいくつかあると思う。精神状況の悪化だったり、就職したからだったり。でも一番の理由は何のために作っているのかよくわからなくなったからじゃないかと思う。暖簾に腕押しをするような状況での創作活動とは、いつまでも無限のクオリティアップを求められているような環境での創作活動は苦しい。そしてその苦しさが創作の楽しみを上回った時にそれがお金を稼ぐ手段でもないときは自然と作る動機を失ってしまう。そうして僕は俳句から離れることになった。
そんな僕は最近また俳句を作り始めている。理由は創作に特段のクオリティを求めなくなったからだと思う。加えて自分自身の書きたいことがあるときにそれが俳句の形で表現できそうならしてしまえばいいというある種お気楽な態度になったからだ。作品は精査せずにできたものをできた順に出しXで画像で投げる。フォロワーが読んでくれるかもしれないし、今の僕が俳句を公の形で投げる手段としてそれが一番気楽だからだ。誰かに読んでもらえると嬉しいけれど、それ以上に自分のその時の気分の備忘録的な感覚で自分は書いて投げている。
そんな時に有村さんのクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)論を読んだものだからこれは自分にとってはドンピシャだった。自分がうまく言語化しておらず感覚的にやっていたことがここには精密に書かれてるじゃないか、ってことである。
つまるところ有村さんの話に共感しきりだったのだ。
失われたクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)を求めて
やっと本題である。助走が長かった。じゃあこのクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)的な態度で作品を作って発表するとしてそのゴールはどうするんだい?という問題はうっすらと感じる人もいる気がしている。内的なパーソナリティが外部に取り出すための営為なんだからそれは作品をラフな態度で作って出してしまえばそれがゴールだっていうことになりそうだがそれはそうとしてもう少し何かありそうな気もしている。
僕が思うのは先ほど話をしたラブレターの話である。創作は恋文で、瓶詰めしたそれを海に流して誰かに拾ってもらえれば成功なのだ、だからまず海に作品を流してみよう…という話だった。
僕はここが大切だと思っていて要は創作というのはある種のコミニケーションツールとして機能しているのではないかということだ。僕のパーソナリティを作品にして、それを誰かが何かの形で拾い上げる。それは言葉のやり取りに似ていると思うし実はそこが大切なんじゃないかなと思う。作品が誰かに届くってのは結構大切でどんな態度で作品を作ったとしてもそれがないと結構悲しいものだ。クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)は自分のパーソナリティを軸としたいわば自己対話的な創作行為である。つまり生の自分が強くたちあらわれてくる。それが誰かに届くとき、それはクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)の態度で作った作品よりも時に多くの物を創作者は受け手に届けられることもあるのではないか。僕はそれは素敵なことだと思う。問題はそうした生の自分を誰かにお届けしたい人ばかりでもないんじゃないかというところだけれども、そこがこの創作態度の問題点かもしれない。
僕は有村さんのこの創作論に賛成なのだけれども(解釈はゆがんだものになっているかもしれないけれど)もしその創作態度にゴールを見つけるならこうだ。クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)の態度で作品を作ってそれで緩やかなコミュニティが、コミュニティでなくとも言い。口下手な僕らの会話が作品を通して行わればいい。そんなところじゃないだろうか。
最後に
つらつらと書いてあるこの文章を最後まで読んでくれたのならありがとう。なんとなく書いたのでなんとなく文章としてぼんやりとしてしまった気がするがいいんじゃないかな。クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)の態度での創作が流行るとしたら、僕らがこのやりかたで小規模だけどいい感じのコミュニティが築けるってことに気付けるようになった時じゃないかなという気がしている。有村さんはそういうことを目的にして書いているのかはわからないけれども。
この文を読んでもやもやした人がもしいるなら有村さんのブログを読んで是非批評文を書いてほしいと思う。そしてそれを僕にも読ませてほしい。では!(2025/07/18)


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