第123話 魔眼覚醒


「あと数センチ傷が深ければ、死んでいたかもしれなかったらしいです」


 茶店のテーブル越しに憂鬱気な表情を見せながら、首輪のように大仰しいチョーカーを着けた女は長い昔話をそう締めくくった。


「へぇ、そう」


 どこか他人事のように語った彼女に、俺も他人事のようにして返す。


 まぁこいつ本人は気を失って病院のベッドででも聞いた話だろうし、そりゃあ他人事のようにはなるか。


「信じられませんか? これを見ても」


 俺の気のない返事を信じていないと受け取ったのか、彼女は分厚い革製のチョーカーをグイッと首元からずらす。


 その白い首には、横一文字の大きい手術痕がはっきりと見て取れた。


「それはまた随分とバッサリといかれたな」

「酷い傷跡でしょう? これで信じてもらえましたか」

「あぁ」


 西代が目の前の女性の首を掻き切ったのは信じた。


 だが、途中で語られた『冗談半分のつもりだった』『そこまで酷い事はしていなかった』『なのに彼女はキレて過剰ともいえる暴力を振るった』『もとよりこの騒動の発端は彼女であり、根本的に彼女の性格に問題があったのだ』とかいうクソみたいな戯言は信じていない。


「それで? あんたは俺にそんな話をして何が言いたいわけ?」

「西代桃が、そんな奴だったとは知らなかったでしょう?」


 知ってる。


 西代ならやる。俺が知っている彼女なら血だまりの中で微笑み『あぁ、すっきりした。半端に僕に絡んでくるからこうなるんだよ?』くらいは言ってのけ、ついでに血を流しながら倒れているお前の後頭部に唾を吐きかける。


 だが俺は目の前のチョーカー女にそう反論しなかった。彼女の話の続きが気になったからだ。


「考えた方がいいですよ。今後の付き合い方」


 予想通りの言葉を彼女は俺に告げる。


「なるほどな? 優しくも俺にご忠告してくれたって事か」

「えぇ。私のような被害者はこれ以上増えて欲しくないですしね。まぁこんな所であいつが男を連れて笑いながら買い物していたのが個人的に気に入らなかったっていう理由もありますが」

「ほぉん」


 きっと後半の話が本音だろうな。


 あぁそれにしても運が悪い。いくら日本で一番小さい都道府県って言っても、こんな所で西代と因縁がある人間と鉢合わせるとかどんな確率だよ、クソが。


「はぁ…………なんで……こう……あいつらばっかりが…………」


 ため息とともに天を仰ぎ、這い寄ってくる不運を呪った。


 嫌気に苛まれつつも、俺は自分がしなければならない事を完遂するため眼前の女に視線を戻した。


「とりあえずご忠告どうも。でもそんな終わった話マジでどうでもいいわ」

「え?」

「あいつは暴力の代償をちゃんと払ったし、あんたも当然の報いを受けた。喧嘩両成敗だ。この話はそれで終わりだろ」

「……は? そ、そんな理屈は──」

「あぁ、ちょい待ち。ケーキと紅茶が来た」


 文句を付けようとしたチョーカー女を手で制す。入店時に頼んでいたケーキセットが店員によって運ばれてきた。


「…………」


 不満げな顔をしながらも彼女はティーポット類を受け取り、俺へとカップを配る。


 俺の方は彼女のカップに熱い紅茶を注いでやった。


「……どうも」

「いや礼なんていいよ。俺のためだし」

「……?」


 俺はカップではなくティーポットを手元に引き寄せ、昨夜ウイスキーボトルに詰めておいた酒を投入した。1杯分注いでやったおかげで水嵩みずかさが丁度良くなり、度数的にも温度的にも飲みやすい物となる。ついでにケーキの方にも何滴かウイスキーを垂らす。


「え? は?」


 呆気に取られている女を無視して、俺はポットの壺蓋の所に直接口を付けた。


「んっ、んっ、んっ……」


 本格的なダージリンティーらしいが正直に言って味はよく分からない。勿体ない気もするが、今は何も考えずにただ全てを流し込む。


 紅茶を飲み終えた後は苺のケーキだ。こちらの方は良く味が分かる。超絶に甘い。おまけにウイスキーが掛かっているおかげで味に深みが生まれている。やっぱりアイスもケーキもこの食べ方が一番美味いな、うん。


「ふぅ食った食った。どうもご馳走様。あ、支払いの方はよろしく」


 俺はそう言って席を立った。


************************************************************


 目の前の男は、ケーキを美味しそうに頬張りすぐに退店しようと席を立った。


 まだ、私の話は途中だと言うのに。


「ちょ、ちょっと!!」


 話を切るタイミングがおかしすぎて反応が遅れてしまった。私の横を通り過ぎようとする彼を止めるため、声と共に立ち上がろうとする。


「私の話はまだ──」

「立つな」

「っ」


 立とうとする所で男に肩を掴まれ、再び椅子に座らされる。それと同時に男は、私の肩を抱くようにして背後から首に手を回した。


「声を上げるなよ」

「ひっ……!?」


 彼の手を見て思わず小さな悲鳴を上げる。首元のチョーカーにはいつのまにか小さなナイフが食い込んでいた。


「……なんで、こう…………理由があるなら誰か教えろよ…………」

「ぇ?」


 苛立ちを含んだ小さなぼやきが耳元から聞こえてくる。


「ははっ、酒が入ってるのにらしくないな……いつも通り楽しくいこうや……」


 次の瞬間、私の皮膚を伝って分厚い革製のチョーカーが切られる音が体に伝わってきた。


「なっ、何をして──」

「黙れ。首を動かさずにこっちを見ろ」


 彼は私の肩から手を放し、空いた手でトントンと自身の額を小突く。先ほどまでは髪で隠れていて見えなかったが、そこには蛇が這ったような手術痕があった。


「なぁ、こういった傷って同じ箇所をもう一度切られると2度と縫合できないって聞くけど、あれって本当だと思うか?」


 目の前の男は、どこか楽しそうに笑いながらそう言った。


「マジでそうならよぉ、こんな小さいナイフでも大惨事になると思わないか?」


 目を見てぞっとした。


 あの目と似ている。


 あの日、鋏を手に取ったあの化け物と同じ目。


「っ!!」


 私は咄嗟に、その目から逃げるようにして周囲に視線を向ける。当然、誰かに助けを求めるためだった。


 しかし、すぐに絶望する。


 隣のテーブルに座っているお客さんからは店内の支柱が邪魔でこちらが見えず、店員さんが居る受付の方からは彼の背がブラインドになって私が見えない。


 この蛮行は、誰の視覚にも入っていない。偶然にしてはあまりにも私に不都合な状況。


『ここの席にしよう』


 そう言いだしたのが目の前の男であった事を思い出し、戦慄した。


「ぁ……ぅ…………」


 こ、殺される? 想起された忌々しい惨劇が直感的にそう訴えかけた。


「そ、そんな事をして後がどうなるとか考えないんですか? 貴方たちは」


 咄嗟に命乞いを口にするつもりだった。でも脳みそは全く別の選択をしてしまう。


 いいや、これは実際に命乞いなのかもしれない。


 この後の暗い未来を示し、彼に一旦冷静になってもらうために口に出した言葉だった。


「あ゛? …………あぁいや、それは、まぁ、あれだな」


 一瞬ナイフを持つその手に力が籠ったけれど、彼は私の問いに思う所があったのか私の首から数センチだけ刃を浮かせた。


「……まぁ普通に考えるぜ? 俺は西代ほどうまく後処理なんてできないだろうし、たぶん捕まって20年くらいは刑務所かもな」


 そうだ。普通は躊躇する。普通の人間ならその後の破滅を恐怖する。


「それは流石に嫌かも……」


 そう言いながらも彼はナイフを手放さなかった。むしろより強く、ナイフを握り直す。


「だから、頼むって」


 再びナイフが首を圧迫した。彼は切れ味の悪い包丁で野菜を切るみたいにナイフを前後させ始める。


 革の繊維が切れ、プチプチと音を鳴らす。


「これ以上あいつに関わらないでくれよ。そうすりゃ今回ばかりは見逃すから。な?」


 頼みこむような口調が逆に私を落ち着かせ、今の異常への理解を強制させた。歯がカチカチと震えだし、恐怖のあまり涙が溢れ出す。


 目の前の男はあの化け物とは違う。あれとはまた違った怪物。


 本物の愚か者だ。


 きっと本当は後の事などなにも考えてない。


 衝動に任せて全てを捨てられる人間。私がここで意地を張れば、否定すれば、彼は躊躇わずに私の首を落とす。


「ぅ、ぁ、ぁ」


 これ以上は無理だ。逃げ出したい。ここまでやれば、もう十分なはず。役割は果たせた。


「……は、い。もう二度と彼女と、は関わりません」


 圧力に屈して、私は二度と彼女に関わらない事を承諾した。


「…………そっかそっか!! いやぁ良かった!!」


 私が顔を青くした事に気を良くしたのか、彼は大きな声を上げながらナイフを首から遠ざける。


「俺も実は嫌だったんだよなぁ!! なんか終わってる話を蒸し返してるみたいで!! せっかく西代が綺麗に終わらせてるっているのにさぁ!!」


 ばんばんっ!! と男に背を叩かれた。まるで10年来の友人にでもするような気さくさで。先ほどまでの凶行など何でもないとでも言いたげに。


「……でも次見かけたら殺してやる」


 彼は陽気な笑顔のまま、私の耳元でそう囁いた。 


「俺は別にいいんだよ。西代が人様の首を掻っ切っていようが、誰か殺してようが。俺はあいつのそういう所に救われたんだから」


 嫌に生暖かい声音。あまりの気色悪さに寒気がした。

 

 恐らくこの男が私との会話で唯一見せた本音。おぞましくって、とても共感などできそうにない。


 私を脅して満足したのか、男は背を向け退店しようとする。


「あ、貴方は……」


 死の恐怖と、生き残れたことへの安堵。そして理不尽な目に遭わされた怒り。


 その3つが心の中で綺麗に混ざり合わなかったせいか、気づけば私は去っていく彼の背に向かって口を開いていた。


「あ、あの血が散乱した教室を見てないからそんな事が言えるんですよ」

「?」


 振り返った彼の怪訝な顔を見て、軽挙な失言をしてしまったことに遅れて気が付く。


「…………まぁ見てないしな」


 暫く考えた後に、彼は踵を返し店内から去っていく。


「じゃあな、可哀そうな被害者さん。二度とその汚い面見せるなよ」


 私も、できるなら彼とは2度と会いたくないと思った。


************************************************************


(ナイフって超便利だな……)


 俺は店を出た後、ポケット内のナイフにしみじみと感謝していた。


 今回の旅行にこれを持って来ていて本当によかった。こいつはイカサマ1回に脅し2回の大金星を挙げている。


 凶器ってなんて頼りになる存在なんだろう。そりゃ法律で持ち歩きが制限されるわ。


(でもこれに頼りすぎたら豚箱一直線だよなぁ、絶対)


 ナイフを持ち歩くのはこれっきりにしよう。今度は脅しじゃ済まなくなるかもしれない。自重しなければ。


(それにしても胸糞悪い話だった。あぁ気分わりぃ……)


 どれくらいの時間、あのクズと話をしていたのだろうか。結構な長話をしてしまったような気がする。


 長時間あんな話をされては気分が悪くなるのも当然だ。一旦頭をリフレッシュするため酒に追加で煙草がやりたい。


 喫煙所は1つ下のフロア。エレベーターを使うほどではないし階段を使おう。


 俺は足早に階段へと向かいながらポケットの煙草を早くも取り出した。


(そういや煙草の残りが少なくなってたな。後で買い足さないと)

「……陣内君」


 煙草の残りを確認しながら階段を下りていたその時、声が掛けられる。


 階下を降りる途中の踊り場に西代が居た。


「あ、西代」


 俺はすぐに頭のスイッチを切り替える。酒が入っているのでこのあたりの感情制御は早い。


「長い間僕を放っておいて、1人でどこに行くつもりだったの?」


 あ、ヤバい。行動順序をミスった。


 いくら荒事の後で気分が落ち着かなかったとはいえ、煙草を優先して西代を放置するとか俺は阿呆か。先ほどの女の知り合いが近くにいる可能性もあるというのに、本物の馬鹿だな。


「悪い悪い、昼にうどん食べすぎたせいか腹下しちまって。トイレに引き籠ってたんだ。それでスッキリしたら煙草が吸いたくなっ───」

「嘘、つかないでよ」


 一瞬、それが誰から漏れ出た声なのか分からなかった。


「嘘はやめて……今は、やめてよ……」


 不安と恐怖に絡めとられた、か弱い声音。普段の西代なら絶対に発さない歪んだ調律。


 それらを感じ取った瞬間、自分の致命的な失敗を悟った。


「あいつと…………何話してたの?」


 西代はこちらと目を合わせようとすらせず、そう俺に問いかけてくる。


(ぁ)


 今度こそ、完全に脳のスイッチが切り替わる。


 アルコールに任せた曖昧な物ではなく、大切な彼女を悲しませない事に全心血を注ぎこめるよう、自分を作り替えた。


「……見てたのか?」

「うん。あいつと、茶店に入っていく所を……」

「そうか……まぁ、なんて言うか、下らない昔話を少し聞かされただけだ」


 俺は出来る限りぼかして答えた。


 自発的に俺が聞いた話の詳細を語るのはダメだ。彼女が過去を知られた事を覚悟し詳細を問いかけてくるまでは曖昧に答える。


 西代に与えてしまう苦痛は可能な限り少なくしなくてはならない。


「それは……どこまで?」

「お前が高校の時、さっきの女に、その……危害を加えたってのは聞かされた」


 出来るだけ優しい声音を意識する。お前が不安がるような事なんて、この世にはもう何もないんだと伝えたかった。


「…………?」


 ここでようやく、彼女と目が合った。


 俺の思惑が伝わったのではない。彼女はいつもよりも暗い瞳の内に、不安とは別の感情を有していた。


「何を……言ってるの?」


 彼女の目に浮かんでいた物、それは、疑問だった。


「僕が刺したのは

「──────は?」


 心臓が跳ねた。


 その反動で、胸の錠前がギャリギャリと不快な金属音を鳴らしている。


「確かにあいつは僕の元クラスメイトだけど、僕が刺したのはあいつじゃない……」


 西代の自供によって、俺が見聞きした物は完全に否定される。


 その矛盾の意味が分からずに頭が混乱した。


(なら、 さっきまでの話は? あの首の傷は? あの女は…………一体誰だ?)


 大小はあれ、俺は人の悪意を知っているつもりだ。


 俺の元カノ、猫屋の腕をへし折った黒羽、西代を侮辱した東城リク、そしてそいつらに報復した俺や彼女たち。悪逆無道は自他共に経験しつくしている。


『まだ何かある』


 経験値から導き出されたのはそんなゾッとする答えだった。


「じゃ、じゃあ……さっきの奴は──」

「ねぇそんな事よりもさっ!!」


 言い知れぬ悪寒に急かされ疑問を解消しようとする俺を、西代が大きな声で強く遮った。


 俺は驚き、少しばかり硬直してしまう。


 俺が固まっている間に、彼女はふらふらと体を揺らしながらこちらに近づいてくる。頭を前傾させているせいで、前髪から下の表情は分からない。見えたのは彼女の細い首筋に浮かぶ冷や汗と手の震えだ。


 尋常ではないその様子を見て、またも体が固まってしまう。


 彼女の足はパーソナルエリアを超えても止まらない。その足が止まったのは互いの呼吸音が聞き取れそうなほど密着してからだった。


 柔らかい胸を捧げるように体を投げ出し、手は甘え縋るように俺の胸元に添えられる。


「お、おい、西代?」

「…………」


 眼下の彼女は呼びかけても顔を下げたまま俺の顔を見ようとはしなかった。


 だが次の瞬間、西代は爪を立てるように俺の胸元を強くつかみ、その顔を上げた。


「と、当然の報いだと思わないかい?」


 西代の瞳を直視し、先ほどまでの悪寒はすぐさま別物へと変わった。


「僕は、何も、悪くなかった」


 彼女の瞳に映っていたのは闇だ。


「僕は、何も、間違っていなかった」


 汚泥を積み、血肉を腐らせ、怨嗟と絶叫を狭い穴に無理やりねじ込んだ魔窟まくつ。光を飲み込んで逃がさない引力ではなく、闇を自ら振りまいてこちらに迫るような破滅的な深淵。


「ねぇ……君もそう思うだろう?」


 そんな闇を纏った双眸をこちらに向け、彼女は恐ろしいほど綺麗に笑った。


「……………」


 小さな彼女を上からのぞき込む。


 すると、底が見えない崖際に立っている事を自分に錯覚させた。きっと、下にあるのは滑落して亡くなった死体が1つだけだろう。


(……俺は) 


 震えを隠しきれていない彼女を見て、自分に問う。


(こんな酷い物を見逃して、俺は西代と過ごしてたのか)


 今、何を優先するべきかは決まった。


 身を投げろ。そのままくたばってしまえ。


************************************************************


(大丈夫……きっと、大丈夫さ)


 いくら拭っても不安が消えない。


(何も、心配するような事はない)


 陣内くんには効かないと分かっていても、浅ましく胸を押し付け、出来る限り綺麗な笑顔を作る。


「さ、先に仕掛けてきたのはあいつらの方なんだ。僕はただ降りかかった火の粉を払っただけだよ」


 彼に嫌われるのが怖くって口が勝手に言い訳を吐き出した。


「本質的に、僕は被害者なんだ。なんだかんだ聡い君なら理解できるだろう?」


 普段から彼を馬鹿だと貶していた癖に、急に彼を持ち上げ始めた。


(大丈夫。陣内君なら……陣内君なら、だいじょうぶ)


 あぁそうだ!! 彼は僕に多くの恩があるじゃないか!!


 昔の恋人に恥をかかせてやったし、去年の正月には友人とのすれ違いを解消してやった!! 猫屋の腕の時は、安瀬を泣かせて死にそうな顔をしてる時に慰めてやった事もあった!!


(ほら、僕だけの貸しがこんなにいっぱいあるじゃないか!!)


 人でなし。


(そ、それに陣内君は信じられないくらい義理堅くって扱いやすい、から、僕を傷つけるようなことは…………)


 ここに向かう車の中で、彼の長所を扱いやすいと言った。


 本当はもっといっぱいあったのに。


 蜂蜜のように甘い彼はいつも僕を気にかけてくれる。日差しが強い日には僕に帽子を被せてくれるし、恋人を作らないなんて不条理な誓約を素直に受け入れてくれて、僕を貶したリクに仕返しするため祖父の手前で暴れられるほど勇気がある。


 こんなに素敵な所がいっぱいあったはずなのに。僕は恥ずかしくって下らない事しか言えなかった。


(だいじょうぶ、へいき、怖がられない、嫌われない、きらわれない。う、受け入れてくれる……こんな僕でも。き、君はお爺様とも仲良くできた……だ、だから…………)


 念仏のように受け入れてもらえる根拠を唱えるたび、足元が覚束なくなる。落下していく感覚がどんどん増していく。


(だい……じょ…………)


 こんな人間を、誰が受け入れると言うのだろう?


 真の破滅。


 金持ち一家の無意味な散財、バレる可能性が低い軽犯罪が与える恐れなどとは比較にならない絶望。


 一度得た光を失い、もう2度とその温もりを享受できない事への恐怖。


(ぁぁ、………いやぁだぁぁ……………)


 目を逸らしていた自身の醜さを知って、僕の世界は再び闇に覆われる。完全に陽が沈めば、もうきっと2度と光は射さない。


「大丈夫だよ、西代」

「────ぁ」


 瞬間、世界は光に包まれた。


************************************************************


 ぎゅっと、陣内君の大きな体に抱きしめられる。


「お前は凄いよ、西代」


 耳元には彼の口。頬と頬とが触れ合っていて、柔らかくって、温かい。


「俺には出来なかったんだ」


 僕の頬と彼の頬との間をとても綺麗な水滴が流れ落ちる。


 僕のような人でなしの物じゃない。


 彼の……意外と泣き虫な陣内君の涙だ。


「俺は1人じゃ何もできなかった。ただ自分の殻に引き籠って無関係な周囲に敵意を向けてるだけだった。でも西代は違ったんだな」


 頬を伝う温かい液体は、数は少ないけれど確かに僕たちの頬を濡らす。


「自分1人で全部背負い込んで、1人で全部解決して、その報いまでも逃げずにちゃんと受けた。凄いなぁ、西代は」


 彼の涙から、溶け繋げるような温かさが流れ込んでくる。密着している胸からは優しさが伝わり、自然と涙が溢れそうになった。


 僕にとって都合の良い言葉が溢れすぎていて、捻くれた心がつい目の前の現実を疑いたくなる。


「ぼ、僕はそんな立派な奴じゃあ」

「それとありがとう。大学で、俺と一番最初に友達になってくれて」

「っ!!」


 彼は有無を言わせなかった。


 無防備な僕の心を、男らしいごつごつした手を入れかき乱そうとする。


 いいや、違う。陣内君はそんな事しない。彼は、僕の心に付いた汚泥を手が汚れる事も気にせずにこそぎ取ろうとしているだけだ。


「あんなことがあったのに外に出て、ちゃんと自立しようと大学に入ったんだろ? あんなことがあったのに人の輪にちゃんと加わろうとしたんだろ?」


 そうじゃないよ。


「俺ってあの頃は腐ってたからさ。お前と違って昔の事でくよくよと悩んでたし。きっと西代と出会わなかったら、未だに友達なんかできてなかった」


 そうじゃないんだよ陣内君。


「だからありがとう西代」

「──っ!!」


 僕なんだ。それを言わなきゃいけないのは僕なんだ。


「俺を見つけてくれてありがとう」


 彼は僕が言うべき言葉を横取りして、力強く僕の小さな体を包み直す。


 甘い抱擁は僕の涙腺を容易に崩壊させた。


「─────ぁ、ぁぁ」


 くらくらする。


 今まで僕がギャンブルで得た愉悦なんて今この瞬間に比べればお遊戯みたいな物だった。どんなに度数が高いお酒も、どんなにタールが重い煙草も、ここまで僕をぐちゃぐちゃにしてくれない。


「く──ぅ─────ぁ────────ぁぁ──────」


 気を失う瞬間が永遠に引き延ばされていると錯覚してしまうほどの陶酔。脳がぷちぷちと可愛い音を立てながら焼かれている。強く抱きしめられているせいかお腹の奥が痛くなり腰が砕けそうになる。


 包み込むような正しい幸せ。


 破滅なんて物とは比較にならない多幸感が彼によって与えられる。

 

「君は」


 朦朧とする中、普通に声が出た事は奇跡だった。


「君は僕と同じところまで落ちてくれるの?」


 だけど、内容までは上手く繕えない。


 ポエムじみた意味の分からない問いかけ。こんなのは自分にしか適切に解釈できない類の物。


「………………」


 予想通り、彼は少しばかり考えこんでしまった。


 慎重に内容を吟味して、何を言えば僕の不安を拭えるかを必死に模索してくれている。


 その真剣な表情から目が離せない。僕だけを想ってくれている瞬間が、堪らなく心地いい。胸がはち切れそうなほどドキドキする。


 僕の目は完全に陣内君に奪われていた。


(ずっと……永遠に見ていられそう……)


 だけど至福の時間は終わりを迎える。


 答えがでたのか、彼は涙を携えながら意地悪気な笑みを浮かべた。


「え、やだよ。俺、お前と違って超まともだし。お前がヤバい事やろうとしたらブレーキを掛けるのが俺の役目なんだよ、バーカ」


 答えは、僕の想定を超えた物だった。


 泣く子供をあやすようニヒルに笑って精一杯おどけて見せる陣内君に安堵感を覚える。僕の過去を知っても変わらない彼がとにかく嬉しかった。


「ふふっ、そっか……」


 嘘つき。


 僕がどんな非道を働こうとも、一緒に奈落まで落ちてくれるのに。僕がどんな化け物でも、ぎゅっと抱きしめて傍で泣いてくれるくせに。


(そんな……優しい嘘しかつかない君が好き)


 僕は溢れる涙を止めようとはせず、ただ彼を抱きしめ返した。

 

************************************************************


 少し風に当たらないか?


 そう言いだしたのは陣内君の方からだった。


 抱擁している状態を気恥ずかしく思っちゃったのだろう。彼は顔を少し赤くしながら僕の手を握り、体に力が入らない僕を外まで優しく先導してくれた。


 夢見心地の中たどり着いたのは、駅ビルの2階から町の方へと伸びた小さな歩道橋。夕焼け空を一望できる落ち着いた場所。


 気持ちを静めるのには絶好なポイントだとは思うのだけれど、本音を言うのなら…………本当はもう少しだけ、彼の温かさに埋もれていたかった。


「なぁ、俺の目赤くなってないか?」


 彼の顔をずっと見ていた僕に、陣内君は下らない質問を飛ばしてくる。


 こっちは、それどころではないんだけど……。


「……結構充血してるよ。僕の方は?」

「ちょっとだけ赤い」

「そう」


 お互いに臆面もなく泣いてしまった。


 彼の方が目が赤いのは流した涙の量の違いだろうか。僕とは違って、彼は人の傷心に強く寄り添える人間。


 彼の素敵な所を、また1つ再確認できた気分だった。


「暫くはここで時間潰すか。あの2人に見られたらなんて言われるか想像が付かないし」

「言えてるね……」


 赤い目にどこかよそよそしい雰囲気。僕たちの状態は、何かあったと勘繰られるには十分すぎる。


(……安瀬と猫屋も、こうやって落とされちゃったのかなぁ)


 2人の事を考えると、少しだけもやもやした。きっと不可思議な動悸がずっと止まらないせい。


 彼を見ると胸が締め付けられるし、先ほどの抱擁を思い出すと頬が緩む。もう一度、僕を大切にして欲しいと切望して思わず口にしそうになる。


 切なさに矜持が負けてしまう前に、僕は急いでセッターを取り出して火を付けた。


「あ、おい。ここ多分禁煙だぞ」

「じゃあバレないように壁になって。ついでに携帯灰皿もよろしくね」

「……はぁ。後で俺にも一口くれよ?」


 人の目から僕を隠すように、彼は僕の真正面に立つ。僕の稚拙な我儘を受け入れてくれてる状況が何故かいつも以上に嬉しい。


 煙草を吸うふりをしながら、ちらりと陣内君の顔を窺う。


「………………」


 彼は無言で遠くの街並みを見つめていた。


 色々と面倒を煩わせてしまったせいか、彼は何かを深く考えているようであり難しい顔をしている。


 どこか真剣みを帯びたそれは男性らしくって……凄く恰好が付いていた。


(どうしよう……これ。絶対におかしいよ、これ……)


 元より、彼に惹かれている自覚は多少はあった。


 だけど猫屋の恋に気が付いた時にはそれは吹き飛び、僕は友情を優先したはず。


(でも今は…………本当にどうしよう……)


 下から見上げているだけで体温が上がり、幸福感で満ち満ちていく。


「…………ふぅ」


 熱い溜息を煙と共に吐き出す。そうするとニコチンは僕の頭を程よく冷静にさせてくれた。


(はぁ……馬鹿馬鹿しい。少しは落ち着き給えよ、僕。よく考えるんだ)


 僕の恋慕は、今の状況と何も不利益を生じ得ないはずだ。


 まず、僕の結論に変わりはない。4人で、可能な限りこの楽しい時間を長く過ごす。こ、この気持ちは…………一先ずは置いて置けるはずだ。大学を卒業するくらいまでは。


 そして安瀬と猫屋は自分から陣内君に告白などしない。


 あの2人からならきっと、優しい陣内君は自分がどう思っていようが告白された時点で受け入れるだろう。だから告白した時点で恋は実る。


 でもそれは邪恋なんだ。抜け駆けした方が勝者となる、そんな決着のつけ方をあの2人は絶対に望まない。


 あのまむし探しの夜に、僕はそう考えた。


『卒業するまで、恋人なんか作らない』


 だからあんな呪いをかけたんだ。


(……僕たちは何も変わらない。変わらないんだ)


 砂漠に埋もれてしまう運命にある一時のオアシスであっても、僕はこの時間を守り続けたい。


 1人になるのはもう嫌だ。可能な限り、時間を先延ばしにしたい。


(4人で居られるのなら…………もう一度1人になるくらいなら、こんなに切ない気持ちだって抑えきって…………みせ………………る?)


 唐突に、頭の片隅で何かが引っかかった。


「?」


 この世の当たり前の事を忘れているような欠落。


 皆が知っている事を僕だけが知らないような白痴はくち


 わざと目を逸らしていなければあり得ないだろう自己欺瞞。


「…………………………あ」


 それに気が付いた時、世界の崩壊を思わせる衝撃が僕を貫いた。


(────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────あった)


 あった。


(あった…………あったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったあったっ!!)


 大学を卒業して僕が地元に帰っても傍に居てもらえる方法!!


 唯一の理解者であるお爺様がいなくなっても1人きりにならない方法!!


 僕が女で、彼が男だから取れる方法!!


(陣内君を、完全に、僕だけの物にしてしまえばいいんだぁ……!!)


 濁っていた水晶体が本来の役目を取り戻していく。世界がぱっと広がった気がした。


(4人は無理。それは元から分かっていた。大学を卒業すれば、今までのようにいつも一緒に居られるはずはない)


 でも、2人なら。


 2人だけなら、永遠だ。


 永遠に、永久に、一緒、だ。


(最大の難関であるお爺様はもう陥落してる……他の親戚にも両親にも文句は言わせない…………それに僕は彼のご両親に挨拶した事すらある!!)


 考えれば考えるほど、自分に都合が良い要素が雪崩のように転がってくる。僕と彼はそうなる運命だったと信じてしまえるほどに。


 ただ一つ、問題があるとすればそれは……。


 2人の親友恋敵


「…………いらないや」


 もういいや。


 2人は友達だけど、障害になるようなら。


 もういらない。


 邪魔だ。


************************************************************


 西代桃の瞳に巣食っていた暗雲の如き闇が徐々に晴れていく。


 黒々とした塗装の下から出てきたのは、底なしの深海を思わせるもう一つの闇。


 涙で少しだけ赤みがかった結膜に相反するように、その虹彩は薄汚れた蒼色を宿していた。彼女の瞳は、見るも憚られる凄惨な闇から、触れるも恐ろしい冒涜的な深海へと変貌していく。


 彼女の祖父、東城垣蔵が期待した魔の性と決断力が、陣内梅治のせいで完全に覚醒する。


 その資質は西代桃を最低最悪の選択へと誘おうとしていた。


「……ねぇ陣内君」


 目に映る者の足を攫い、溺死するまで沈め続ける暗い眼。


 それを彼女は最愛の人へと向ける。


「ん、なんだ?」

「突然だけど、あの約束はなかった事にしようよ」

「……えっと、何の話?」

「卒業するまで恋人なんて作らないっていうあれだよ」


 もはや不要な約束は邪魔になる前に取っ払ってしまおう。約束なんて無くても彼は僕を裏切らない。いいや、裏切れない。


 彼女はそんな黒い思惑を腹に抱え、一方的に押し付けた誓約を強引に破棄しようと動く。


「はい? 何でまた急に?」

「今回迷惑をかけちゃったお詫びさ。思えば、人の自由意思を縛るなんて何様のつもりだと思ってね」

「いや……俺は別にあんなの──」

「いいからいいから。何も気にしてなかったんだろうけど、まぁ、受け取ってくれよ」


 押し売りに近い提案に、陣内梅治は少しばかり閉口する。


「…………」


 彼はすぐに返事を返さなかった。


「あー……」


 曖昧な声を上げながら天を仰ぎ、複雑な表情を作る。


「…………まぁ、了解」


 何か思う所があったのか数秒ほど悩んだが、陣内梅治はその契約破棄に応じた。


「あのさ……難しい顔をしてるけどどうかしたのかい?」


 特に不利益が無いはずの提案を悩まれてしまった事に当然、西代桃は疑問を抱いた。


「え!?」


 不審な態度を指摘された陣内は何故か強く動揺する。


「あぁ、えっと、それはあれだ…………そう月!! 夕月を見てたんだよ!!」

「夕月?」

「ほら、あれだよ」


 挙動不審な陣内が指差したのは、夕焼け空に浮かぶ夏特有の赤い月だった。


「綺麗だろ?」

「っ」

「あれ見てたって事にして、この目の充血を誤魔化せないかなぁって」

「…………あ、あぁなるほどね」


 たった今考えついたであろう適当な言い訳、という風だったにも関わらず西代はそのことについて言及しない。


 恋煩いにかかっている彼女にはとあるフレーズが強烈に耳に焼き付いていた。


 月が綺麗ですね。


 夏目漱石がI love youをそのように日本語に訳した事から、それは告白の代名詞として使われるようになった。


 現代でも有名な、恋慕を伝えるための言葉である。


(…………まぁ陣内君が知ってるわけないか。元より、夕月じゃあ雰囲気に欠けるしね)


 文学少女は一瞬感じた胸の高鳴りを、寂しさを覚えながら何とか抑え込む。


(それに今の僕に適しているのはきっとそっちじゃない)


 作家によって作られた日本人らしい奥ゆかしい思いの伝え方。それにはもう1つ別の物が存在する。

 

「陣内君……」

「ん?」


 同じ文豪である二葉亭四迷ふたばていしめいはI love youを漱石とは全く別物へと翻訳し、後世に残している。


 それは、友を裏切る境地にこそふさわしい言葉。


「僕、もう死んだっていいや」


 朱い夕月の元、インディゴの魔眼は光を反射せずに漆黒に沈んでいった。


************************************************************




 蒼い月が、俺を見降ろしている。




(綺麗だな、お月様…………こういう日には月見酒がやりてぇな)


 一昨日に見た夕月とは真逆の色をした目に優しい月。月光浴で自律神経のような物が整っていく気がする。


 今の日時は四国旅行から帰ってきた日の、さらに翌日の深夜。


 俺は人気のないベンチで煙草を吸っていた。


 真後ろには大きな公園があり、今座っているのは公園で遊ぶ子供を見守る親御さんのため小道に設置された物だ。


 深夜に家を抜け出してきたがそれを見咎める者は誰もいない。西代とは香川の飛行場で別れたし、安瀬もそのまま飛行機で広島へと帰宅、猫屋は昨日のうちに車で群馬に送り届けた。


 各々はお盆休みを実家で過ごすために帰省したのだ。俺も何事もなければ明日にでも実家に帰るつもりだ。


 ただ帰省する前に果たさなければいけない約束が、俺にはあった。


「ふぅ…………バイク、深夜だし大丈夫だよな……」


 煙を吐きながらバイクに一抹の不安を覚える。


 ここまでの交通手段は単車だ。少し離れた所に路駐してある。すぐに逃げられるようにキーは差しっぱなし。


 待ち人が中々現れないので駐禁を切られたり盗まれやしないか心配になってくる。人目に付きにくい場所を選んだせいでアクセスが悪くなってしまったか。


「すぅ……ふぅー」


 ここに座ってから4本目の煙草が力尽きた。もう一本吸う間に彼女が来なかったらバイクをもう少しましな場所に移動させよう。


「パ、パイセン、ちぃーっす!!」


 俺の不安はどうやら杞憂だったようだ。


 遅れている事を焦っているのか、大場光は大声で挨拶しながらこちらに駆け寄ってくる。


「おう、遅かったな」


 彼女が身を包んでいるのはガーリーでゴシックな可愛らしい洋装。2人で遊んだ時よりもその服装は気合が入っているように思えた。


「ぜぇ……はぁ……!! ふ、不肖、大場光!! ただいま着任しましたっす!! 遅れちゃってさーせん!!」

「いや、こんな場所に呼び出した俺が悪いしいいよ。というかこんな深夜に来てくれてありがとな」


 大場の雑な謝り方に苦笑しながらわざわざ走ってくれた彼女を労う。


「いえいえいえ!! 私はパイセンの忠実な後輩なんで!! どこへの呼び出しにだって駆けつける所存っすよ!!」

「ははっ、今日はやけに下手に出てくれるのな」

「いやぁ、まぁ、それはそのぉ……えへへ」


 大場は曖昧に言葉を濁しながら照れくさそうに笑う。


 普段は軽口ばかりを叩く彼女だが、流石に今日は少しでも印象を良くしようと努めてくれているようだ。


 そういう殊勝な態度を取られるとこちらとしてはどうにも反応に困る。


「あぁ、その、あれだ…………悪いな、返事は旅行から帰ってきた日だったのに1日伸ばしてもらって」


 妙な緊張感からか、俺もいつもよりよそよそしい態度を取ってしまった。


「い、いえいえいえいえ!! 私も昨日はちょっと用事が出来たんで丁度良かった所なんっすよ!!」

「そう、か」

「そうなん……っすよ」

「………………」

「………………」


 得も知れぬ気まずさがお互いに流れる。両者ともに緊張しているせいだ。


 まぁでも、仕方ないだろ? 俺だってこんな事は経験がない。


「そ、そういえばお土産って買ってきてくれました?」


 気まずい雰囲気を払拭するために口を開いてくれたのは大場の方からだった。


「どうやら手ぶらのように見えるんっすけど……」

「あ」


 いかん、すっかり忘れてた。


「わ、悪い。ちょっと色々とごたごたしてて……」

「……まぁ正直言ってそんな気はしてたっす。どうせパイセンの事だから、お酒選びに熱中しちゃって頭から抜けてたんっすよね?」

「そんな感じだ……いやほんとに面目ない」

「あははっ、まぁいいっすよ別に。先輩らしいんで」


 仕方ないなぁと、大場は優しい笑顔を作って笑ってくれる。


 それに釣られて俺もつい微笑を浮かべてしまった。


「ふぅ……では、あの……ちょっとは場も温まったと思うんで…………い、いきなりですが、どうぞっす」

「……っ」


 唐突に大場の雰囲気が変わる。恥ずかしそうに頬に朱を灯し手を忙しなく体の前で弄る。


 告白の返事を待っているのだ。


(……この旅行中、本当に色々と考えたな)


 三日間の旅行で、大場を想わなかった日はない。


 どうにもその好意の出所が分からず混乱し、彼女との思い出を掘り返し続けた。悩みすぎて迷走し、西代に助言を求めた事もあった。告白された経験がない俺にとってはこの難問は難しすぎた様に思える。


 だが先日、俺はようやく1つの結論を導き出した。


 何の魅力も無い俺に恋心を抱く人間はいない。


「その前にちょっといいか?」


 その卑屈が疑惑の発端。



「お前、なんでいつも眼帯なんてつけてんだ?」



 俺は深い闇へと一歩踏み出した。


「……へ? いやそれはいつも言ってるじゃないっすか。これは私のアイデンティティで───」

「お前、バイトの履歴書に書く誕生日、なんで間違えた?」


 誤記されたのは2月29日。4年に一度しか出現しないうるう日。俺と同い年ならあり得る誕生日だ。彼女がもし履歴を詐称していて、本当は俺と同じ年齢だったとすれば?


「お前、確か地元にメイクの専門学校に行った友達がいるとか言ってたよな」


 西代の過去を語ったチョーカー女の首の傷。本来なら存在しない手術痕。その矛盾を解決するのは特殊メイクくらいしか思いつかなかった。


「なんで……お前そんな特徴的な恰好してんのに大学で全然噂になってないんだよ」


 本当に彼女は俺と同じ大学に通っているのか。俺は彼女を誰でも入れる学食でしか見た事がない。それも、ただの一度だけだ。


「それにモノクルと望遠鏡。なんで、なんでお前はいつもそんな物持ち歩いてんだ……」


 誰かを常に監視するためだったとしたら。恨みある人物を監視するためだったとしたら。


「なんで……お前から連絡があった瞬間、西代の元クラスメートに偶然会うなんて事になるんだよ……」


 あの土産の催促は俺1人を誘い出すための罠だったとすれば。


「あとな、西代は掻っ切ったとも裂いたとも言わずに…………刺したって言ったんだ」


 後処理まで考えていた西代に殺意はなかった。なら、鋏で刺すのは首ではなく別の部位。


「なぁ……その眼帯の下、見せてくれよ」

「……………………」


 外れていてくれ。


 こんな恐ろしい妄想は外れていてくれ。


 俺が大馬鹿で、まるで見当違いの方向に思考を飛躍させただけであって、こんな物は間違いだと言ってくれ。


 眼帯の下にあるのは綺麗で澄んだ瞳で、と証明してくれ。


(だって、そうじゃないと、こいつは…………)


 1年以上を掛けて復讐の機会を伺っていた正真正銘の■■。


「え、えぇっと? な、何言ってるんっすか先輩?」


 強い疑惑の視線を受け、大場はウルフカットの髪を揺らしながらぽかんと首を傾げた。


「もしかして酔ってるんっすか? いやいや告白の返事の前に深酒とか普通にショックなんっすけど……」


 いつもと同じ様子で彼女は俺の酒癖の悪さに難癖をつけてくる。


「それに申し訳ないんっすけど言っている事の意味が本当に理解でき──────ふ゛っ」


 突如、静寂の夜に噴飯ものの嘲笑が響いた。


「あ……いや、これは違くって……ちょっと気管に唾がつまっ…………ふふ……ひひっ」


 堪えきれないという様子で大場は腹を抱える。


「くひ、ひひひっ……ぁ、これもうムリ…………あは、あはは…………あ゛あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」


 終わった。


 目の前でイカれた哄笑こうしょうを上げる大場を見て震えあがる。俺はそれを見て、終わったのだと、不明瞭にもほどがある感情を抱くしかなかった。


「今ぁ!? このタイミングで!? 気づいちゃいましたぁ!? マジっすかパイセン!? 凄いっすね!! 正直ちょっと舐めてましたよ!!」


 裂けてしまうのではないかと思うほど口角を歪に持ち上げ、大場は心底楽しそうに笑った。


「お、大場……」


 狂気的な笑みに蹴落とされ、俺は震える声で彼女の名を呼びながら後ずさる。大場の豹変を受け止めきれない自分がいた。


「いやぁ、まだバレやしないって高を括ってたんっすけどねぇ!! だって先輩、マジで馬鹿で、相談に乗ってやったらアイツの事ベラベラと…………ぷっ、アハハハハハハハハハハハ!!」


 もう引き返せない。


 俺はパンドラの箱を開いてしまった。


 ここから先。もうここには惨劇しか残されない。


「はぁ……はぁ……あぁ笑った笑った……それじゃあ正体がバレちゃった事ですし改めて自己紹介させて貰うっすねパイセン!!」


 そう言って、彼女は勢いよく海賊のような眼帯を外し、放り捨てる。


 布地の下から現れたのは冗談みたいな色で着色された作り物の瞳。


「どーもどーもっす!! あのクソ女のせいで色々とぶっ壊れちゃった悲劇のヒロイン!! 暗黒堕天使ヒカリちゃん、ただいま参上!! イッェーイ!!」


 蒼い月光に晒され、レッドアイの魔眼は血のように光り輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こましゃくれり!! 屁負比丘尼 @tkg4416

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ