国旗損壊罪が日本社会にもたらすツケ
はじめに
自民党、日本維新の会、国民民主党、参政党の4党が共同提出した「国旗の損壊等の処罰に関する法律案」(以下、国旗損壊罪)が成立した(7月17日、公布から20日で施行)。本罪は、日本国旗を公然と損壊、除去、または汚損する行為に対し、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を科す。推進派は「国旗を大切に思う国民感情」を保護するという名目を掲げるが、この法律がはらむ不条理は、近代刑法における罪刑法定主義を歪め、憲法が保障する表現の自由や内心の自由を根底から掘り崩す。
本罪の成立により今後日本社会が辿る道は、国民が国家の視線を常に意識せざるを得ない相互監視社会であり、自由な言論や精神的活動が活気を失った、冷たい社会に他ならない。
表現の自由や内心の自由への深刻な萎縮効果
本罪の成立がもたらす最大の混乱は、表現の自由や内心の自由に対する広範かつ深刻な萎縮効果である。
これまでは国民が気にかける必要のなかった国旗の扱いや文化活動、芸術表現などに至るまで、「国家」の視線を意識せざるを得なくなるだろう。
具体的にどのような「形状」なら国旗と認定されるのか、あるいはどこからが「損壊・汚損」に当たるのかという、アートや風刺における表現の境界線が極めて曖昧なのである。アニメや漫画による創作物は処罰の対象外とし、実写映画などの芸術表現も「社会通念上相当なものは対象外」と整理されているが、単に「表現の自由を不当に侵害しないよう留意する」という注意規定が置かれているにすぎない。
それゆえ、逮捕やSNS上での激しい炎上・バッシングを恐れた芸術家や美術館、さらには教育現場などが、トラブルを避けるために事前に自己検閲を強行して表現を断念する「忖度(そんたく)の連鎖」が横行することは間違いない。市民は日常の些細な表現活動にすら不安を抱くようになる。また、誤った汚損や廃棄を恐れるあまり、国民が国旗そのものを日常から敬遠し遠ざけるという、本末転倒な回避行動が蔓延することになることも予想される。
捜査機関による内心への土足介入と恣意的な運用
法案の推進派は、個人の内心に立ち入ることは想定せず、外形的な客観的状況のみで処罰を総合的に判断すると強調する。しかし、例えば自分の日章旗に「頑張れ日本!」とオリンピック会場で書いて応援する場合と、同じく日章旗にデモ隊が「増税反対!」と書いてその旗を掲げてデモする場合と同じなのか異なるのか。もし異なるなら、文章の意味内容にまで踏み込むことにならないのか。
刑事実務においても大きな混乱が生じるだろう。実際に事件化すれば、本罪は故意犯だから、捜査機関は犯罪に至った動機や経緯を解明しなければならない。そのため、容疑者に対して「あなたはなぜそのような行為に及んだのか」と問わざるを得ず、結果的に国民の「内心の自由」の領域に国家権力が直接介入することになるからである。
拡大解釈の危険
さらに、処罰の要件である「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」は、受け手の思想信条、歴史認識、政治的立場によって大きく変わるきわめて主観的で相対的な感情にすぎない。客観的な判断基準が存在しないため、警察や検察といった捜査当局の恣意的な判断を許すことになる。政府への抗議として日の丸にバツ印を付けて掲げる政治的言論や、体制への批評を込めた抗議活動が、時の政権にとって「不快」という理由で取り締まられ、政府批判を禁圧するための統制手段として本罪が恣意的に悪用される危険性が極めて高いのである。
「著しく不快または嫌悪」かどうかは社会一般の「通常人」の判断によるとされているが、現行犯逮捕も可能なことから、その場合は、その行為を現に見た人がそれをどう感じたのかが基準になるのである。
また、刑法第261条の器物損壊罪における「損壊」が、物の物理的破壊のみならず、効用を害する場合(料理屋の食器に放尿した事件が有名)も含まれるとするのが判例であることを考えると、国旗損壊罪における「損壊」「汚損」という概念も、拡大解釈のリスクは否定できない。国会では、新しい靴で日の丸を踏みつけた場合は本罪に該当しないが、少しでも汚れた靴であれば「汚損」になるとの議論があった。しかし、靴で日の丸を踏みつける行為は、たとえ新しい靴であっても著しく不快な行為であることは間違いないだろう。「汚損」には精神的な場合も含まれると拡大解釈されることは火を見るより明らかである。
「国旗警察」の台頭と同調圧力による相互監視社会の到来
日本国民は「同調圧力に弱く同調意識が強い」といわれるが、このような国民性に鑑みれば、法施行後の社会的な空気は劇的に変化するであろう。国旗の扱いをめぐって市民同士がお互いの「不快感」や「愛国心」の度合いを計り、監視し、通報し合うギスギスした相互監視社会が到来するかもしれない。
そもそも、1999年の国旗国歌法成立の際、当時の小渕恵三首相や野中広務官房長官は「国民に尊重義務を課すものではない」「将来においても違反を罰する法制化は考えていない」と国会答弁で幾度となく国民に約束していた。国旗損壊罪はこの政府の約束に真っ向から反するものであり、この点については何の説明もなされなかった。敬意の対象であった国旗を「尊重しなければ処罰されるという、国家権力の恐怖の象徴」へと変容させてしまった。真の敬愛ではなくただの「服従と沈黙(面従腹背)」を社会に生み出すにすぎないのである。
結びに代えて
国旗損壊罪は、「将来何か起きるかもしれない」という漠然とした抽象的な予測(不安)だけで国家が市民の基本的人権を制限する「予防的立法」の最悪の前例となった。重大な犯罪に対する予防的立法はむかしから存在し、その正当性は否定されないが、安易に刑事罰が持ち出されたことで、今後あらゆる治安立法や表現規制の仕組みが「予防」の名の下に次々と新設される危険が現実化した。
表現の自由を重視して無罪判決を下した裁判官がSNS等でバッシングを受ける「司法の萎縮」も生じるだろう。国家情報会議法やスパイ防止法と連動した国民生活の監視・統制も強化されるだろう。
これらは全て、表現の自由の歴史的価値をおとしめ、民主主義の基礎を解体していく流れである。国民は今後、安易な感情論によって成立してしまったこの悪法のツケに苦しみ続けなければならない。(了)