第4回SI研究会(2022/09/17)
・質的社会調査のジレンマの解決(というよりも、その解決可能性を探ること)
=社会的世界における主観的要素の把握を科学の要件を満たした上で可能にする方法とは如何なるものなのか(そもそもそのような方法は存在するのか)を問うこと
・検討素材=ブルーマーの言説[a]
・分析枠組[b]
a)実在論vs現象主義:実在[c]とは、人間の経験から離れて存在するのか[d]、それとも経験にあらわれる現象的なものとしてのみ存在するのか。
b)認識論vs存在論:〔研究に際して〕どちらを優先するのか。知識の成立要件か、それとも対象の性質か。
c)科学の位置づけ:知識の唯一の源泉か、それとも数ある源泉の一つか。[e]
d)科学の統一性vs多様性:あらゆる科学は、根本において[f]類似しているのか、それとも互いに異なっているのか。
e)抽象的知識の追求vs直接性と全体性における実在描写の試み。[g]
f)諸法則の探究vs限定的なパターンの同定:自然界において作用し、人間の行動をも支配するとされる普遍法則を探究すべきなのか、それとも文化的に特殊で蓋然的な、限定的なパターンを特定すべきなのか。
g)知識の獲得は、仮説演繹法によってなされるべきなのか、それとも帰納的[h]で発見ベースのアプローチによってなされるべきなのか。
[i]シンボリック相互作用論(以下、SI)を研究する者にとって、ブルーマーの論考は避けて通ることの出来ない必読文献である。そして、そのブルーマーの論考を研究する者にとって、マーティン・ハマーズリーのブルーマー論を[j]看過することは出来ない。評者が院生時代に当時の指導教官であった船津衛氏から受けた助言である。ブルーマー自身の論考については既に4点の邦訳[k]があるが、ハマーズリーの著作の邦訳は(訳者解題によれば)本書が初である。
[l][m]本書の目的は、ブルーマーが提起する「質的社会調査のジレンマ」の解決可能性を探ることにある。すなわち、社会的世界における主観的要素の把握を科学の要件を満たした上で可能にする方法とは如何なるものなのか(そもそもそのような方法は存在するのか)を問うことが本書の主題となっている(導入[n])。ブルーマーの思想に対しては、大別して五つの知的系譜が大きな影響を与えている。一九世紀の哲学思想、就中、実証主義[o][p]、歴史主義[q][r][s][t]、新カント主義[u][v][w][x](第一章)。さらに強い影響を及ぼしているのが、「現象主義」と「自然主義」という二つの観点から特徴づけられるプラグマティズム――ここでハマーズリーは、クーリーの影響を特に強調[y][z][aa]する――(第二章[ab][ac][ad][ae][af][ag][ah][ai][aj][ak][al][am])。そして最も強い影響源となっているのが(初期)シカゴ社会学である。本書第三章では、トマスとズナニエッキの『ポーランド農民』が、客観的要素と主観的要素の双方を把握することが社会学の必要条件[an][ao][ap][aq]となること、主観的要素の把握に際しては個人文書の活用が有用であること、この二点を示したこと、そしてこのモノグラフの批評を通じて、本書のターゲットとなる「ジレンマ」をブルーマーがはじめて明確に提示したこと、シカゴ社会学第二世代の重鎮であるパーク[ar][as][at]が一次的観察[au]――「経験を通じて勘を研ぎ澄ま」すこと――を強調し推奨したこと、パークらの理論枠組がシカゴモノグラファーたちにとっての白地図[av]として機能したこと、などがまず論じられている。続いて、シカゴモノグラフの典型例としてゾーボーの『ゴールド・コーストとスラム』が挙げられ、今日のエスノグラフィーの主要素である参与観察が端役にしかなっていないこと(例外的な存在としてクレッシーの『タクシーダンス・ホール』など三点[aw][ax]が挙げられている)、方法論的洞察に関する情報が僅少であること、[ay]この二つの特徴がブルーマーによるこの時期の経験的研究[az][ba][1]にも当てはまることなどが述べられている。一九二七年に文化遅滞仮説で有名なオグバーンがシカゴ大学社会学部に赴任する。これを契機として、シカゴ大学社会学部の内[bb][bc][bd]外において事例研究(≓第三章)と統計的方法の間の方法論的対立が明確化してゆく。第四章では、統計派に立つ社会学的実証主義者であるランドバーグの思想と、事例派に立つマッキーバーとズナニエッキの言説に焦点が当てられている。ランドバーグ[be][bf][bg][bh][bi][bj]が、現象主義の観点から、社会的世界の存在論よりも認識論を優先し、研究者間の間主観的合意を根拠として、統計的方法(量的手法)の相対的メリットを強調したのに対して、特にマッキーバー[bk][bl][bm][bn][bo][bp]は、実在論的観点から、社会的世界における主観的要因の存在を強調し、認識論よりも存在論を優先させ、事例研究を擁護し量的手法の相対的デメリットを強調したことなどが示されている。
第五章では、ブルーマーが量的手法を批判し、限定概念の使用を退け、感受概念の使用を推奨した言説が検討され、その言説が、実在論、SI、批判的常識主義という三つの想定に依拠していることが指摘される。
ブルーマーによるランドバーグ批判 [bq]
1)量的方法=統計的方法、ではない。
3)統計はS-Rモデルと強く結びついている。これでは慣習的な行動しか把握できない。[bt]
4)統計によって把握できるのは相関関係に過ぎない。因果関係ではない。科学は因果関係を把握しなければならない。[bu]
5)変数解析について [bv][bw][bx][by][bz][ca][cb]
ブルーマーによる操作概念法批判 [cc]
概ね、ランドバーグ批判と同じことを言っている(とハマーズリーは捉えているし、桑原もそう思う。[cd])
ブルーマーは特に「態度」概念に対して否定的。何がそこに含まれて何が含まれていないかが全く特定できないので。[ce]
操作概念の代表格とも言える「知能テスト」に対しても否定的。[cf]知能が実際の経験的世界における人々の生活において果たしている役割・態様を捉えるものとなっていない。[cg]
世論調査の内容は、実際の世論の特性を反映したものとなっていない。[ch]
ブルーマーによる感受概念論の推奨(=限定概念批判) [ci]
限定概念の適用不可能性は、社会科学の理論的未成熟にあるのではなく、社会的世界の性質そのものに由来する。
以上のブルーマーによる「○○批判」の根底にあるもの
[cj]4)「1)2)3)」に対するハマーズリーの批判
実在論+批判的常識主義とSIとの間の潜在的対立[cx][cy][cz]
第六章は「ジレンマ」の詳述に充てられている。社会学はその探究において、客観的要素と主観的要素の双方を補足[da]しなければならないが、後者の要素を捉える手段としては個人文書の活用が有用である。しかしこの文書は科学の基準(代表性など四点)をクリアする検証手段たり得ない。これが『ポーランド農民』の批評を通じてブルーマーが提起したジレンマの内実である。
学位論文におけるブルーマーの科学観[db]
科学の機能:経験の〔縮約[dc]〕変換→如何なる例外も許さない因果関係の抽出。因果関係=普遍法則。普遍法則に対する例外の発生が研究の出発点となり、その例外を組み込むような普遍の再構築が責務となる。
科学の論理:観察、帰納、演繹、分類、仮説構成、実験。ブルーマーは特に実験を重要視する。
科学の条件:上記の2つの特徴はあらゆる科学に必要。しかし、用いられる手法は特定の科学に特徴的である。[dd]
社会学(社会心理学)という科学とその課題:自然科学同様に、法則定立的なもの。しかし、社会学は「研究する事象の固有の特徴」(下5)にふさわしい手法[de][df][dg][dh]を開発しなければならない。社会心理学は「科学の論理的特徴」を満たせないかもしれない。しかし、その「究極的機能」=「社会統制[di][dj]」は果たし得るかもしれない(下14)。
ポーランド農民評価[dk]
・データの解釈が適切に検証されていない(Blumer 1969=1991: 157-8)。
・「社会生成の法則」(laws of social becoming)(=社会学的法則)を生み出し得ていない。「否定的事例を求める誠実な調査」(conscientious search for negative instances)が行われていない(Blumer [1939]1979: 18)。
・社会生活の研究は人間の意識経験という主観的要因の理解を要求する。しかし、この要因を特定するにはヒューマン・ドキュメントの活用が不可欠。だが、この種の資料は、科学の基準(代表性など四点[dl][dm])をクリアする検証手段たり得ない(Blumer 1969=1991: 162-3)。
・「検証」の代替基準としての解釈の合理性(reasonableness)(Blumer [1939]1979: 150)。これは、読者自身の経験という背景(background of the reader's own experience[dn])と解釈をした人物の権威[do](authority of the person who makes the interpretation)に基づいて為されうる(Blumer [1939]1979: 147)。
→ハマーズリーの評価:ブルーマーは、一方で仮説演繹法の観点から捉えた科学観にコミットし、他方でSI(という存在論)にコミットした。その結果、後者が要求する主観的要因の把握を可能にするような科学の要件を満たす手段を確保できない、というジレンマに陥った(下20-1)。[dp][dq]
ブルーマーが社会学・社会心理学の手法として推奨する自然主義的調査とは、一九二〇年代~三〇年代のシカゴ社会学のモノグラフをモデルとするものであり、「社会的世界の価値ある理解」を生み出すことをその目的としている。とはいえブルーマーは、この調査方法については極めて概略的な説明しか行っていない。そこでハマーズリーは、ブルーマーの説明を補うべく、分析的帰納法、グラウンデッドセオリー、説明のパターンモデルの三つを俎上に載せる(第七章)。
自然主義的[dr]探究とは:経験的世界の性質を尊重した(https://archive.ph/XhdZE#selection-249.60-249.90)「概念と経験的観察との絶え間ない相互作用」(https://archive.ph/XhdZE#selection-267.53-273.0)を指す。[ds][dt]
ハマーズリーの評価:「従来の社会調査」が因果関係or相関関係を特定しようとするのに対して、自然主義的探究は「その文脈における社会的相互作用プロセスの記述」を目的としている(下41)。しかしその説明は極めて「概略的」(下42)[du][dv][dw]。代替案としての、分析的帰納法[dx][dy][dz][ea]、GTA[eb][ec]、説明のパターンモデ[ed][ee][ef][eg]ル。[eh]
自然主義的調査は「ジレンマ」を解決し得るのか、もし解決し得ないとすればほかにどのような解決手段があり得るのか。この問いに対する回答を第八章は試みている。第八章においてハマーズリーは、前章で検討された三つの手法のいずれもが十分な解決方法たり得ないことを示した上で、「科学の再定義(仮説演繹法の放棄)」と「SIの放棄(修正)」という二つの代案を提示して本書を締めくくる。
自然主義的探究は科学の基準を満たしているのか:Blumerの1928年段階[ei]での科学観を踏まえる限り(下75-6)、「科学的基準」=仮説演繹法、でなければならない(下76)。では、自然主義的探究(とその3つの代替案)はこの意味での科学的基準を満たし得ているのか?[ej]
結論から言えば、「満たしていないということは明かだろう」(下88)。ブルーマーは、自然主義的探究が仮説の検証というプロセスを含んでいるのか否かをめぐって、J. ヒューバーやマックフェイルらと論争を行ってる。この論争において、ヒューバーもマックフェイルらも「否」という認識を示しているが、それに対してブルーマーは「含んでいる」ことを強調している(下83)。しかしハマーズリーの見るところ、そこでいう仮説の検証とは、仮説演繹法のそれではなく、「日常生活で見出されるインフォーマルな仮説検証」を意味している(下84)。ブルーマーは自然主義的探究の実例として『ポーランド農民』を挙げているが(マックフェイルらへの反論)、そもそもこの『ポーランド農民』が科学の基準を満たしていないことは、ブルーマー自身が述べたとおりである(下・第6章)。自然主義的探究=『ポーランド農民』ならば、当然ながら、自然主義的探究が仮説演繹法が示す(=Blumerの1928年段階での)科学の基準を満たしているはずがない。[ek]
自然主義的探究は「主観的要因の把握」に適しているのか:「唯一の疑い」を除いて、自然主義的探究とSIは「両立可能」である(下90)。その「疑い」とは、マックフェイルらが指摘するブルーマーの著作における「存在論的パラドックス」の存在である。一方で自然主義的探究においては、社会的世界はそれ自体の性質を持ち研究者に発見されるのを待っている、という実在論的説明と、他方でSIの文脈で語られる世界の意味は人間による構築物である、という現象主義的説明の矛盾がそれである。←桑原の見解[el][em][en]
ハマーズリーの中間考察:自然主義的探究は主観的要因の把握に適しているが、科学の基準を満たしていない。というよりも、自然主義的探究をどのように実行すれば良いのか、それについてブルーマーはほとんど述べていない(下89-90)。
分析的帰納法に対するハマーズリーの評価[eo]:Original分析的帰納法は科学の要件を満たしていない。しかし、その修正版(下92-3)は、現象間の「必要十分条件を特定するという目標」(下95)を達成しうるという点でその要件に適っている。しかし、分析的帰納法はそもそも現象間の「決定論的」関係を発見しようとしている点で、SIと両立しない。[ep]
GTAに対するハマーズリーの評価[eq]:GTAは3点で仮説演繹法から逸脱している。
1)GTAは調査プロセスよりも発見に焦点を置いた構造を有しており、そのため「他者による綿密な再現[er]」を不可能にしている(下101)。
2)「因果的に同質的なカテゴリーに到達するために事象を再定義するという手続き」が含まれていない(下101[es])。
3)「社会的状況の複雑性をマッピングするという関心」の存在(下101)。仮説演繹法も分析帰納法も、特定の限られた要因間の因果関係の特定を目指している。「重要な因果的要因の全て」(all the major causal factors)の解明を目指しているわけではない(下102=原文202)。
ゆえに、GTAは科学の基準を満たし得ているとは言えない。また、変数間の「強く決定された」(strongly determined)関係性[et]を仮定している点で、SI[eu][ev]とも相容れない(下104)。[ew]
パターンモデルに対するハマーズリーの評価:仮説演繹法が示す科学観とも、SIが示す存在論とも相容れない、とのこと(下105-7)。[ex]
ハマーズリーのジレンマ:仮説演繹法[ey]とSI[ez]を両立させたいけど、それができないことは明らか(下108)。[fa][fb][fc][fd][fe][ff][fg][fh][fi]
[fj]本書においてハマーズリーは、仮説演繹法とSIの存在論の双方を満たす解決方法をまず以て優先的に探求しているが、この方針にそもそもの無理があるのではないか。本書をブルーマー研究の二次文献として捉えるならば、評者はこのように考える。というのも、SIの存在論に適合的な感受概念(法)[fk]とは、実のところ自然主義的調査の別称であり、そのため、限定概念の使用を前提とする仮説演繹法を採用することは、畢竟するにブルーマーの方法論を全否定することを意味するからである。しかし本書を、ブルーマー研究の二次文献としてではなく、ハマーズリーの思想を理解するための一次文献として見るならば、むしろ強調すべきは次のことであろう。すなわち、本書が《社会学と哲学の実りある相互浸透[fl][fm][fn][fo]》を促す可能性を大いに包蔵した文献である、という点である。本書(訳文、訳注、訳者解題[fp][fq][fr][fs][ft][fu])の読了は、少なくともこの点を読者に強く印象づけるはずである。
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内田(2003)の見解
ハマーズリーの問題=Blumerのジレンマ=
「(自然)科学の理念に忠実でありながら社会現象に固有の特性への適合性も担保する方途の摸索という、『ディレンマ』〔=ハマーズリー〕ないし『緊張』〔=K. Baugh Jr〕をはらんだ『綱渡り』〔=プランマー[fv]〕」(56)。
ハマーズリーの難点:「感受的概念」とは調査方法を指すものであって、概念の種類を指すものではない。「確定的概念」もまた然り。両者の違いは「指示の明確化が調査実践に先立っておこなわれるか、探究の途上における試行錯誤の積み重ねを通しておこなわれるか
」という点にある(61)。概念の違いではなく、調査方法=概念の使い方の違いを指す用語である、ということをハマーズリーは見落としている。「ブルーマーは決して曖昧な概念を推奨し、明確な概念の構成を断念するように説いたのではない。・・・・概念の鋳直しを辛抱強く重ねて行く作業を厭うべきではないと説いているのである」(62)。
Sensitizingとは、「どのように概念を使うべきか」を指示する「副詞」[fw][fx]として「感受的に」と訳すべき言葉である(66)。
自然主義的探究の代替案:その眼目としての「新規な概念の開発ではなく、既存の概念の改良・改善」は「概念の『多次元化』dimentionalizing」(ストラウス)によって図られうる(68)。
「固有性distinctivenessと類普遍性の両立--ブルーマー概念論のアポリア」(10)
「概念の多元化[fy]」は「ブルーマーが敷設した方法論的基盤のうえに築かれた成果の1つに数えられる」ものと捉えられる(11-12)→「ストラウスの仕事は、ブルーマーが提示した方法論上のアイデアを質的な調査研究で実行可能な手法methodへと変換する方途を探った試行錯誤の軌跡としても読まれるべきだろう」(12)。
本論の主題は、ブルーマーのルートイメージに対する主観主義・ミクロ主義批判に対する反論。
Social interactionとJoint actionの別を明示する文献としても示唆的。この論文で内田は、ブルーマーの「枠組としての構造」論を発展させたものとしてG&S(1964)における「構造的条件」論を位置づける。
伊藤勇の研究[ga]へ
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[a]そもそもハマーズリーは、ブルーマーの言説によって、ブルーマーの提示するジレンマを解決しようとは考えていない(上巻・6頁)。ブルーマーの使い道は、ジレンマ(問い)を提示するためにあり、その解決は、ブルーマーの方法以外のアプローチによって試みられている(下巻・第7章、第8章)。
[b](序章)=上巻・8頁
[c]reality
[d]かつ、その性質をありのままに捉えることが出来る、とする立場(上巻・15頁)
[e]しかも相対的に劣位にあるもの(Even an inferior one)。
[f]方法論的に=前提と技法の双方において
[g]往々にして「b)」に対応する。
[h]翻訳では「機能主義的」になっている。
[i]書評原稿・第一段落より抜粋。
[j]加えて、当時、船津衛先生が提示したのが、K. Baugh Jr.のブルーマー論(https://www.amazon.co.jp/Methodology-American-Sociological-Association-Monographs/dp/0521030358)
[k]1)『生活史の社会学――ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(御茶の水書房, 1983年)。169頁以下に、Blumer(1939)の抄訳が掲載されている。
2)『シンボリック相互作用論――パースペクティヴと方法』(勁草書房, 1991年)。
3)『産業化論再考――シンボリック相互作用論の視点から』(勁草書房, 1995年)。
4)「集合行動としての社会問題」『経済学論集』第66号(鹿児島大学経済学会, 2006年)。
[l]書評原稿・第二段落より抜粋。
[m]以下、紫色のテキストは全て同上。
[n]上記。
[o]以下の三つの観念の組み合わせを指す。
1)科学的法則の探究。社会科学の中心目的は普遍法則の特定。ここで普遍法則とは、人間行動の規則性を指す。
2)要素的感覚。現象主義の一形態。法則とは「現象において経験される規則的な発生パターンの要約」であって、因果関係そのものではない。
3)科学=人間の知識の最も妥当な形態。あらゆる科学は物理科学に還元可能。 (上巻・23頁)
[p]【ブルーマーとの接点】
「2)」については、ブルーマーの存在論に関する4つのテーゼの第2テーゼを参照。人間に外在する世界の存在は否定しないが、それを人間は「知覚する」という形態においてのみ捉えること出来る、としている(https://archive.ph/o88Lh#selection-685.407-685.434)。
「3)」については、「人間の知識の最も妥当な形態」はブルーマーにおいても堅持されているが(https://archive.ph/8X2Mu#selection-227.24-227.301)、「還元可能」という立場には立っていない。
「1)」については判断が難しい。
[q]「単一の人間本性があり、それを人々や社会は共有していることが一番重要だ」[=自然法理論、啓蒙主義](上巻・30-31頁)という発想への異議、が特徴的。
[r]三つの特徴
・人間社会における文化的多様性の発見に専心する。
・信念や実践の自然的多様性を強調するのみならず、それらがそれ自身の観点で解釈・評価されなければならないと主張する。
・人間的事象は独特であり、様々な抽象的カテゴリーにきっちり収まるものではない。(上巻・31頁)
[t]【ブルーマーとの接点】
(三つの特徴)→独自なものを独自な文脈において概念に押し込めることなく→感受概念論の枢要点
①→ありのままの経験的世界の把握、という考え方(=自然主義的探究論のスタンス)
②→研究者によって解釈が異なりうること→トマスとズナニエッキの検討によって提示された「ジレンマ」の構成要素(の1つ)
[u]19世紀半ば以降に誕生した「緩く構造化された」「多様な運動」(上巻・39ー40頁)。本書では、ヴィンデルバントとリッカートに焦点が絞られる。
[v]主立った主張+【ブルーマーとの接点】
(1)経験の世界は連続的かつ異質[グラデーション?]で、形式がない、少なくとも多様な記述に開かれている。「唯一の実在を正当な仕方で捉えると主張することができるような実在把握の様態は存在しない」(上巻・40-41頁)→Blumerの存在論・認識論との近似性(https://archive.ph/o88Lh#selection-707.2-707.169/https://archive.ph/o88Lh#selection-689.2-689.514)
(2)自然科学の方法においてのみ実在が究明されうる、という考え方を退ける。vs実証主義・唯物論→この点については、ブルーマーの立場は曖昧。
(3)社会生活は物理的世界と異なった性質を持つ、という主張に基づく議論を展開する「わけではない」。vs歴史主義→ブルーマーは展開「する」。
(4)あらゆる科学や知識は、同じ実在を指示。実在が異なるがゆえに学問分野が分かれるわけではない。→私見では、社会科学は自然科学とは「異なる」実在を指示している、とブルーマーは考えている。
[x]リッカート
・その主著『自然科学的概念構成の限界』は、ブルーマーの学位論文に引用があり、本書がブルーマーの科学観を作ったことは明かである(だそうだ)。(上巻・42頁)。
・現象は無際限。現象は如何なる解釈も解釈者に強いることがない。現象に対するアプローチは人間の価値に左右される。→上記の「(1)」
・そうした現象のどの箇所を選び出すかについて、選択の基準が設定されなければならない。
・そのための2つの方法
a)一般化的方法≓法則定立的
b)個別化的方法≓個性記述的
[y]周知のようにクーリーは、社会学の方法論として「共感的内観」(sympathetic introspection)を重視する。この概念は「歴史主義に見られるVerstehenという概念に似ている」(上巻・97頁)。→「主観的要素」の捕捉の重視(=まさにブルーマーの立場)
[z]「観察されている社会過程に慣れ親しむこと」の重要性の強調=ブルーマーの自然主義的方法の中心的主題(上巻・97頁)。
[aa]一方で、ミードのブルーマーに対する影響は、あまり強く見積もっていない。
「ブルーマーはミード主義者ではなかった」(上巻・100頁)。
[ab]シカゴ社会学(およびブルーマー)に最も影響を与えた哲学 (上巻・68頁)
[ac]ブルーマー自身も、後半生において自らをプラグマティストと捉えていた。https://archive.ph/S843U#selection-677.2-677.87
[ad]修士課程(ミズーリ大学)
デューイ→エルウッド→ブルーマー (上巻・68頁)
[ae]博士課程(シカゴ大学)
デューイ+ミード→E・フェアリス→ブルーマー (上巻・69頁)
[af]フェアリスは、デューイとミードほかの指導の下、シカゴ大学で博士号を得ている(https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC1920%E3%83%BC1932-%E3%83%AD%E3%83%90-%E3%83%88%E3%83%BB-L-%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9/dp/4938551136 214頁)。
[ah]①経験こそ、あらゆる知識の出発点であり終着点。人間は自分の経験を超えたものを知ることができない。経験は、内的・主観的なものではなく、「共有された世界」(=相互主観的世界?)である。
[ai]②自然的世界(natural world)の一部として人類を捉えなければならない、という発想。人間の合理的思考もまた自然的世界の一部。人類が環境に適応する際に思考が果たす機能を検討することで、しばしば哲学的問題が解消されるとした。(上巻・71頁)
Cf.https://archive.ph/DzbHX#selection-551.2-551.153
[aj]②←ちなみにこの観点は、Blumer 1931=1969 ch. 9=1991:第9章(後藤将之訳『シンボリック相互作用論――パースペクティヴと方法』勁草書房)にも色濃く表れている。https://archive.ph/UbqsU#selection-281.1-281.938
[ak]パースの立場
1)批判的常識主義・・・あらゆる疑念を区切り抜けた絶対的に真なる「固定的な基礎(solid foundation)」なるものは存在しない(vsデカルト)。「さらなる気づき」(until further notice)があるまで、知識の大半を真なるものとして扱わざるを得ず、またそうして然るべきなのだーー常識は恣意的なものではなく(むしろ)進化の産物(→基本的に信頼できる)ーー。行為において機能する知識は保持され、そうでないものは破棄される(上巻・73ー74頁)。
「多くの常識的知識の妥当性」を受入れ、「それが疑わしくなったとき、進んで検証する態度」(上巻・74頁)を示す。
[an]人間の行動は、「価値」と「態度」を含む。すなわち、主観的要因と客観的要因の双方を含む。社会学者は、研究主体の立場に身を置いて、彼らの経験する世界を把握しなければならない。この点でトーマスは、方法論上の認識論においては「陰伏的な--そして非唯物論的なーー実在論」(implicit--and non-materialistic--realism)に立っている。
[ao]問題は、主観的要因をどのように「科学的な説明の内側」に位置づけるか、ということ(上巻・111頁)。
[ap]主観的要因(と客観的要因)の補足には個人文書、とりわけ「生活史資料」の活用が有用である(上巻・113頁)。
[aq]トーマスは、「知的エリートによる熟慮ある社会統制の必要性」(上巻・109頁)を強調する。「科学的知識の妥当性の究極のテスト基準は、それを社会統制のために使うことができるかどうか」(Blumer 1969=1991: 153)にある、と考えていた=ブルーマーの立場(http://id.nii.ac.jp/1066/00000168/)。
[ar]「トマスと同様に、人間行動に影響を及ぼす主観的要因と客観的要因の両方を研究することの重要性を強調していた」(上巻・119頁)。
[as]客観的かつ主観的な社会的世界は、調査者に外在し、調査者から独立して存在する。それは探究されるべく「待っている」。個人文書はそれにアクセスする有用な手段。
[at]=「無批判的な実在論」(naive realism)は、シカゴ学派の方法論的姿勢に「重大な帰結をもたらした」(上巻・120頁)。
[au]今日で言うところの「参与観察」に直接結びつくわけではない(上巻・123頁)ことが強調されている。
[av]桑原の造語。「経験的調査によって書き入れられるべきディテールを持つ、一種の地図」(上巻・127頁)。
[aw]『ホーボー』、『ジャックローラー』。
[ax]「実在論的」で「自然主義的な記述」で、「説明を構築しているプロセスの大半は隠されたまま」(上巻・136頁)。
[ay]たしかにゾーボーは思いっきりそうだった。
[az]若者に対する映画の影響に関する研究(オーディエンス研究)。
『映画・非行・犯罪』(Blumer and Hauser 1933)
『映画と行為』(Blumer 1933)
=https://archive.ph/nuZfa#selection-719.0-731.64
[ba]=「映画の場合における客観的要因の影響を媒介した態度や視点を捉える必要性」に研究の力点が置かれる(上巻・142頁)。
[bb]サミュエル・ストゥーファー、ハウザーがオグバーンから強い影響を受ける。
[bc]vsパーク派(事例派)という構図。
[bd]中間的(補完的)なバージェスの位置づけ(https://researchmap.jp/read0183560/misc/22451563)。
[be]プラグマティズムに依拠(上巻・160頁)。
[bf]人間を環境に対する適応の形を取って進化するものと捉え、その最高形態に科学を据える(上巻・161頁)。
[bg]科学の適用範囲に限界はないと考え、そうした限界を主張する根拠(社会的世界の複雑性、主観的要因の重要性)を退ける。
[bh]→「現象主義」の立場に立つ(→認識論を重視する)。上巻162-163頁
[bi]1)明らかにすべきは、世界(研究対象)に内在するとされる因果関係(それ自体)ではなく、社会的事象の法則性(上165)
2)法則性=事象の規則性に関する研究者の「経験の要約」(上165)
3)=蓋然性(probability)
4)だから、「多数の事例からデータを収集し、統計的解析にかけることが必要となる」(上166)。
5)事実に対して観察者が合意できる方法が必要(⇒操作主義。誰がやっても同じ結果が出る=追試可能性)
6)定量化は、事象間の差異についての合意を精密に達成しうる。
7)定量化が達成されて初めて、社会学は精密科学になり得る。(上166-7)
[bj]社会(科学)の方法が自然科学のそれと単に同一であるべき、と主張したわけではない。間主観的合意をもたらし、多数の事例についての情報を提示しうる限り、どんな方法でも良い、と考えた。しかしこの観点からする限り、事例や生活史は「疑似科学的である」と(上167)。
[bk]訳書では「マッカイヴァー」となっている。
[bl]1930年代~40年代にかけて、シカゴ社会学の影響力が低下する。コロンビア・ハーバードが追い上げを見せる。その結果、1950年代までには量的方法が「アメリカ社会学のスタンダード」になった(上170)。
[bm]上記の流れに最もラディカルに対抗したのが、
マッキーバー(とズナニエッキ)。
[bn]マッキーバー:社会学的説明には主観的要因と客観的要因の双方が欠かせない、として社会学の自然科学化を退ける。彼の立場は「実在論」--社会的世界の性質を根拠として、認識論的理由からではなく存在論的理由に基づいて量的方法の使用を批判する--(上171-4)。
[bo]ズナニエッキ:量的アプローチの論理を「枚挙的帰納」として批判する。すなわちそれは、集合に属する多数事例を研究し、そこに共通するものーー事象の表面的な特徴(蓋然性)ーーを記述することを目的としているが、そもそもこれは「自然科学的方法」の姿ではない。そもそも自然科学とは、単一ないしは少数事例を「深く」(in depth)研究し、各々の事例の本質的な特徴を、集合の一事例として特定identifyするような、そういう理論を樹立するもの。
自然科学の目的は、普遍法則=因果関係=機能的従属関係functional dependenceを探すことであって、統計的一般化を探ることではない。(上175-7)
⇒「量的カテゴリが理論的意味を持つのは・・・・要素の客観的特徴に関係するときのみである」(上177)。
[bp]※マッキーバーが、存在論のレベルでランドバーグらと対立したのに対して、ズナニエッキは、存在論と自然科学観の2つのレベルで対立している。
[bq]上186-192。ブルーマーのD論[https://archive.ph/nuZfa#selection-233.0-237.1]とランドバーグへの書評[https://archive.ph/nuZfa#selection-411.0-419.0]に基づくハマーズリーの理解。桑原は現物は読んでいない。
[br]科学とは、蓋然性ではなく普遍的法則を明らかにしようとするものである。しかし統計的方法はこれを行うことができない。≓ズナニエッキの科学観
[bs]そもそも「統計的」Statistical「法則」lawsなるものは成り立ち得ない。法則とは、常に普遍に対する例外を切欠として既存の理論が作りかえられるところに成り立つものであって(https://archive.ph/YJS18#selection-1175.2-1175.543)、例外をはじめから許容している統計的知見は、如何なる意味でも法則たり得ない。
[bt]C. H. Cooleyの統計批判(上153-4)と同じ立場に立っている。
[bu]ズナニエッキの科学観と同じ立場。
[bv]①変数が理論的に恣意的な理由で選択されている。「容易に測定することができる」など。
[bw]②変数が「包括的」(generic)ではない。「局所的」である。Cf. 1960年代の、日本における、というふうに時空間に限定されていることが多い。→http://hdl.handle.net/10191/6052(内田第2)
[bx]③人々の解釈プロセス(自己相互作用)を捉えることが出来ない。というよりも、それを無視している。
→SIの3つの前提
[by]→慣習的な解釈に基づく行動パターンの要約ならば統計的方法でも対処できる。
[bz]しかし、状況の再解釈がますます一般的となっている近代社会における人間行動(Cf. Blumer 1969 ch. 3)の捕捉には不向きである。
[ca]1)~4)については、とりあえず「鵜呑みにする」。
[cb]Blumer 1969, ch. 7[https://archive.ph/nuZfa#selection-1849.0-1849.43]も参照のこと。
[cc]上197-199
[cd]Blumer 1969 ch. 1, 4, 8, 9, 10.
[ce]Blumer 1969 ch. 4.
[cf]Blumer 1969=1991: 40-41, 189-190.
[cg]ブルーマーが知能を捉えるときには、多分に機能主義心理学の色合いが濃い。https://archive.ph/i3p0W#selection-833.0-835.54を参照。
[ch]Blumer 1969 ch. 12
[ci]上201-4/Blumer 1969 ch. 8
[cj]上205-220
[ck]研究者間の間主観的合意を尊重する実証主義的現象主義に対して、ブルーマーは「広義の自明性に基づく実在論」を採る。
[cl]すなわち、研究対象に対する常識的な見解に多分に基づいた経験的世界観を土台にして、概念論や研究方法論を展開している、ということ。
[cm]↑
桑原も同意。
[cn]「経験的世界観」の内実。
→世界は、人々の解釈的営みに媒介されたものであり、それは多様性と可変性に満ちている。
[co]↑
これについても桑原は同意。
[cp]探究の出発点には人々の常識が据えられなければならない。しかしその常識は、必要とあらば(疑わしいときには)、批判的な分析・検討に付されなければならない。この点でブルーマーは、パースと同じ立場に立っている。
[cq]↑
桑原も同意。但し、パース理解はハマーズリーのそれをそのまま踏襲。
[cr]研究者は人々の対象を、その人々が見るようなやり方で見なくてはならない(Blumer 1969=1991: 64)。
研究者は、人間が一般的にそうであるのと同様に、人々も自分と同じように対象を見ていると仮定してしまう傾向がある。研究者はこの傾向を防がなくてはならない。自分の持つイメージを自覚的に検証することを優先的に行わなくてはならない(Blumer 1969=1991: 66)。
自己相互作用論の経験的妥当性は、研究者が「自分自身の社会的行為を観察」すれば明白である(Blumer 1969=1991: 70)。
+https://archive.ph/DzbHX#selection-559.24-559.301
[cs]vs批判的常識主義。批判と言うよりも「疑問」という形を取っている。
[ct]1)常識的探究に対する科学的探究はいつ必要とされるのか。
↑
Blumer 1969 ch.1を見る限り、自然主義的探究における「探査」から「精査」への移行期がそれにあたる。Blumer 1969=1991: 54以下。
[cu]2)常識と科学の違い。それは厳密さの度合いの問題なのか。
↑
Blumer 1931=1969 ch.9を見る限り、「度合い」の問題(https://archive.ph/UbqsU#selection-281.719-281.862)。
Blumer 1969 ch. 1を見る限り、前者(常識・探査)は経験的世界に関する「包括的で正確な像を十分に描き出す」(1991:53)ことを指し、後者(科学・精査)は「明確で弁別的な分析上の要素とそうした要素間の関係」(1991:55)を取り出すことを指している--カテゴリー分けとカテゴリー間の関係の特定と検討--。ただし、その手順に関する説明を読む限りは、やはり「度合い」の問題と判断される(https://archive.ph/DzbHX#selection-559.204-559.300)。
[cv]3)仮説の妥当性は如何に判断されるのか。科学は実践的な問題解決から自律的な存在であるーー「制度化された探究」ーー。ならば、科学における実践的成功は真理の基準たり得ない。
↑
これがよくわからない。Blumer 1931では明らかに「現実の理解と統制」という実践的な成功が判断基準になっている。しかしBlumer 1969 ch. 1では全く以て不明。私もこの問題をブルーマーで解決する道は放棄した(https://archive.ph/DzbHX#selection-1011.4-1017.147)。
[cw]・・・・彼の方法論は仮説の検証は経験的世界との一致ということが重視されるだけで,素朴なリアリズムの「真理対応説」にとどまっており,新たな仮説が問題解決に役立つかどうかで,その有用性で仮説を判断するミードなどのプラグマティズムの立場とは異なる(宝月誠「事例研究からの仮説構成の可能性」https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2010/46-3_02-03.pdf)。
[cx]マックフェイルとレックスロートによって提起された問題(https://archive.ph/YJS18#selection-945.122-945.128)。一方でSIでは、人間にとって対象の意味は生来的なものではなく、人間によって付与されるものと捉えられている。そして批判的常識主義はこの考え方を基本的に踏襲することを求めている。しかし他方で、実在論は対象(=経験的世界)それ自体の性質を「掘り起こす」(uearthing)ことを求めている。ならば「社会科学者は、社会的世界に関する自分の常識的理解を、社会的世界の性質を反映するものではなく、汚名とみなさなければならないのか」(上219)。
[cy]ブルーマーは、マックフェイルらのこの批判に対する反論において上記の「存在論的パラドックス」に応えていない。
→ハマーズリーの解決策=上219-220
↑
そもそも、ブルーマーの存在論に関する4つのテーゼがこれに応えている。「掘り起こす」というのはあくまで“比喩だ”。
[cz]→実はハマーズリーの解決策は、ブルーマーのルイスに対するコメントにおいて既に提示されていた(https://archive.ph/YJS18#selection-1039.2-1039.514)。
↑
ハマーズリーは、特定の事象に対する多元的な記述を矛盾なく遂行しうる、ということが認められるならば、上記の「存在論的パラドックス」は解決される、と述べている。しかし私見では、これは実在論・批判的常識主義とSIとの対立ではなく、“異なる科学の間の”対立(上41-2の新カント主義における2つの科学観に関する説明へーー法則定立vs個性記述ーー)、にかかわる問題と捉えるべき問題である、と桑原は考える。
[da]捕捉、の間違い。
[db]下2-15
[dc]=単純化(下3)
[dd]ブルーマーは、科学の機能的側面を理由に統計的手法を否定する。
[de]その手法として共感的内観=Verstehenを挙げる[事例研究や生活史の活用を含む]。この方法の検討に際して、クーリーの諸説をとりわけ重視するーー他方でミードの学説に対しては「曖昧である」として否定的--(下6)。
[df]しかし共感的内観は同じ行為に対する競合する解釈を生み出す。ゆえに科学の要件を満たし得ない。
[dg]科学の論理ーー科学的一般化の妥当性は、それを定式化する研究者の権威ではなく、データによって保証されなければならないーー(下8)に抵触する。
[dh]しかし、研究対象に関する存在論を踏まえる限り、共感的内観は利用可能な唯一の方法である(下13)。
[di]この考え方は、ポーランド農民評価においても堅持される。
[dj]「科学的知識の妥当性の究極のテスト基準」としての「社会統制」(Blumer 1969=1991: 153)
[dk]下15-25
[dl]データの代表性representativeness、
適合性[妥当性・適切性]adequacy 、
信頼性reliability、
データ解釈の妥当性validity of the interpretation of data
[dm]Blumer [1939]1979: 36=訳183
[dn]=批判的常識主義に基づいている(私見)。
[do]=「説明をした人の経験の適切度合い」(下26)
[dp]内田(2003[https://researchmap.jp/read0054497/published_papers/23820762?lang=ja ]:56)へ。Baughも踏まえた芸術的とも言える表現がある。
[dq]↖
残念ながらリポジトリ化されていない。
[dr]船津衛先生は「自然的」という訳語を推奨。
[ds]=「探査と精査を通じた感受概念の発展」(a)と「それらの理論的命題への統合」(b)[下40]。
[dt]↑
(a)には同意。しかし、果たして(1969年時点での)ブルーマーが、(b)を目論んでいたかどうかは不明(桑原私見)。
[du]ブルーマーはマックフェイルらへの反論において、自然主義的探究の実例として、『ポーランド農民』と『ギャング』を挙げている。
[dv]→『ギャング』については『シカゴ社会学の研究』(宝月誠・中野正大、恒星社厚生閣)の佐藤哲彦論文を参照のこと--特に方法論の部分--。
[dw]↖
当初の予定では、上記の『ギャング』が「シカゴ都市社会学古典シリーズ」の最終巻になるはずだった。非常に残念である。
[dx]ズナニエッキにより作られ、ブルーマーに大きな影響を与え、ブルーマーの教え子であるリンドスミス、リンドスミスの教え子であるドナルド・クレッシーが発展的に継承した(下42-3)
[dy]普遍法則の追求を目的とする。
[dz]クレッシー版のプロセス(下52へ)。
[eb]・『質的研究用語事典(https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%AA%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%94%A8%E8%AA%9E%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%88/dp/4762826871)』51頁。
・山口健一の研究(Strauss & Corbin版)。
・伊藤慎吾の研究(M-GTA)[http://hdl.handle.net/10232/00031974]。
[ec]ハマーズリーの評価(To Glaser and Strauss版):
・分析的帰納法とは対照的に、理論の検証よりも生成と発展に力点がある。
・普遍法則の提示を狙っているわけではない。但し、一般化への志向は確かに存在する。
・分析的帰納法よりも自然主義的探究に近い。(下62)
[ed]これがよくわからない。実例としてベッカーらが行った医学生の研究(「クロック」)が挙げられている。
[ee]ところが、都合の悪いことに、ハマーズリーの評価では、この研究スタイルが、3つの代替案のなかでは、最も自然主義的探究に近い、と(下66-7)。
[ef]①複雑性からの抽象化ではなく、行為パターンの細部における説明を追求している。
②知見が(分析的帰納法やGTAよりも)より参加者の常識的解釈に近い。
↖以上の2点は、自然主義的探究の要件でもあったはず、とのこと(下67)
[eg]↑
桑原の見解:②はわかる。そうだと思う。しかしブルーマーが自然主義的探究において①を求めていたかどうかについては、これは判断がつかない。ただ、内田健によるブルーマーの方法論(概念論)に関する2つの論文(2003年、2008年[http://hdl.handle.net/10191/6052 ])を読む限りでは、「抽象化」と「細部における説明」の2つを同時に満たす方途を探っていたようだ。
⇒Cf. ストラウスにおける「概念の多次元化」
[eh]この3つの内容については、全て次の論文で説明されてはいる。http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2010/46-3_02-03.pdf
[ei]博士論文
[ej]ブルーマー自身は「満たしている」、と考えているような書きぶりをしている箇所もある(下74-5/Blumer 1969=1991: 61)。
[ek]桑原も同意。当然そうなるだろう。
[el]ハマーズリーは「この矛盾は、シンボリック相互作用論にわずかな修正を加えるだけで解決する」(下90)と述べているが、上巻第5章で見たように、そもそも修正の必要がないーーマックフェイルらとの論争に先立つ、J. D. Lewsとの論争で、既にブルーマー自身が解決しているーー。
[em]というよりも、そもそも自然主義的探究はハマーズリーの言う「実在論」を想定していない。ブルーマーがマックフェイルらへの反論のなかで提示した“4テーゼ”を見る限り、「実在論」と「現象主義」の狭間に位置している(https://archive.ph/YJS18#selection-967.1-985.54)。
[en]↑
実はこの立場、1969年の段階でも明示されているものである(Blumer 1969=1991: 31-2)
[eo]下91-5
[ep]桑原も同意。
[eq]下96-104
[er]第3者による仮説検証過程の追試のこと。
[es]下93における、第6ステップ、第8ステップのこと。
[et]認識文脈のタイプとそこで起きうる相互作用の態様との関係を指している(Glaser and Strauss 1965=1988: 277)。
[eu]内田(1996)「ミクローマクロ問題」(http://hdl.handle.net/2065/3918)は、むしろ、ブルーマーのルートイメージの延長線上に(その発展的形態として)G&Sの相互作用把握を位置づけている。桑原のSI(ブルーマー理解)も基本的に内田と同じ。ハマーズリーは、他の論者と同様に、「枠組としての構造」(Blumer 1969=1991: 113-4)というブルーマーの着想を捉えられていない。ここで述べられていることは、G&S(1964)が認識文脈と相互行為の有り様との関係について述べていることとかなり似通っている、という印象を私は持っている。
[ev]いやどうかな。G&Sの方がちょっと決定論的かな?
[ew]どうなんだろう。桑原はGTAを使ったことがあるわけではない。←山口、伊藤(+日髙)
[ex]そもそもこのスタイルのことを全く知らないので、桑原は判断のしようがない。
[ey]必要十分条件の観点から規定された因果関係の特定を目指して限定概念を用いることが前提。
[ez]感受概念とだけ両立可能な社会的事象における不確定性と流動性を前提とする。
[fa]まぁ無理だろうな、と思う。「本書においてハマーズリーは、仮説演繹法とSIの存在論の双方を満たす解決方法をまず以て優先的に探求しているが、この方針にそもそもの無理があるのではないか」、と以下にも書いた。
[fb]その後も(下110-118)、ハマーズリーは「パターンモデルの展開」と題して、何とかこのモデルを代替案に据えようと藻掻くが、最終的にはやはり諦める(下118)。さらにエスノメソドロジーや「ガダマーの仕事」も検討するが(下119-122)、「科学の再定義(仮説演繹法の放棄)」を試みようとしてはいるのだが、やはり仮説演繹法に拘っており、当然ながらハマーズリーは満足できていない。
[fc]で、SIの再定義の方を試みる(下122以下)。
まず「認識論的前提」よりも「存在論的前提」をブルーマーが優先させていることを「彼の方法論の最大の欠陥」だと批判している(下124)。←ハマーズリーは基本的に現象主義(実証主義)の立場に立っている?
[fd]で、「シンボリック相互作用論の様々な仮定を疑いえないものと捉えるべきではない」としている(下128-9)。しかしそもそもブルーマーは、(表向きは)それとは真逆のことを言っている(Blumer 1969=1991: 62)が、やはり本音としては疑い得ないものと考えているのも明らか(Blumer 1969=1991: 63)。
[fe]SIの難点(4点)
[ff]1)慣習化・制度化されている行為よりも、意識的・熟慮的行為を研究対象として強調しすぎている。後者を人間の行為の「範例」(paradigm case)と捉えているきらいがある。←桑原も強く同意。
[fg]2)人間の行為における動機の軽視。
マクロな要因の影響の軽視。
↑
やはり桑原も同意せざるを得ない。しかし後者については、これ[https://www.amazon.com/Selected-Works-Herbert-Blumer-PHILOSOPHY/dp/025206884X]を基にしたブルーマー研究が近々国内で公刊される予定!
[fh]3)「新しい解釈や戦略が既存の解釈枠組や行為の慣習からどのように生まれるのかということの理解を発展」させなければならない。ブルーマーは、あたかも「無から」そうしたものが生み出されると語る傾向がある。
↑
これは間違い(https://archive.ph/fYV7p#selection-1141.1-1141.141)。但し、訳注18の訳者の指摘は確かに正しい。
[fi]4)「枠組としての構造」という着想を、人間の行動に作用する心理的社会的要因の関係を「曖昧なまま」にするものとして論難。「変数解析を退けた」ことを批判しているのか?
↑
たしかにその通りではあるのだが、果たしてこれは批判たり得るだろうか? むしろ、因果関係(インプットーアウトプット)という発想自体が古いのではないか?
↓
社会的ステム理論(ルーマン)の「構造的カップリング」?
[fj]書評原稿・第三段落より抜粋。
[fk]すなわち、感受概念とは、概念の内包を徐々に詰め、その外延を徐々に絞り込む、という概念の使用方法のことである(、と桑原は思っていたが、内田健によるとそうではないようだ)。
[fl]ブルーマーを科学哲学として読む
[fm]この読み方がブルーマーのSIや自然主義的探究を読解する最も意味のあるやり方。というのも、ブルーマーは、ルートイメージについては素描的にしか描写していないし(感受概念、だからしょうがないが)、自然主義的探究については、そもそも具体的な手順といえるものを提示していない、から。
[fn]これまで、ブルーマーのSI(や自然主義的探究)について「主役級で」取り扱った書籍というものが、恐らくは我が国には存在しないーー集合行動論は別。しかし、集合行動論も、恐らくはこれ[https://www.amazon.co.jp/H%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%9B%86%E5%90%88%E8%A1%8C%E5%8B%95%E8%AB%96-%E6%B5%81%E8%A1%8C%E7%90%86%E8%AB%96%E3%82%92%E8%BB%B8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6-%E4%BB%B2%E5%B7%9D-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/476202533X]一冊しかないーー。
[fo]今回、ハマーズリーの手になる本書の邦訳が公刊されたことは、ブルーマーのSIを主役級に据えた“国内文献”が誕生したことと同義である、と桑原は歓喜している。
[fp]訳者によれば、国内でハマーズリーが言及される頻度は非常に低い(下141)。
[fq]「〔イギリスの社会学者によって書かれた本書は〕直接の関係性や利害関心のない人物の手による研究」であり、貴重な存在(下145)。
↑
ブルーマーの著作に関して、その人格的な評価等から、過度に批判的に書いたり、逆に過度に好意的に賛辞を述べたりする必要性がなかった。ブルーマーに対して相対的に中立的な評価ができている。
↖この点は桑原も同感。
[fr]吉原直樹の書評(https://dokushojin.stores.jp/items/62aade8ed085ee5477271ff2)
[fs]↖によれば、ハマーズリーは、国内における「シンボリック相互作用論のエピゴーネンたち」による「量的調査に対しておこなっている通俗的な批判、典型的には現状維持的な立場に立っているといったような批判には明らかに距離を置いている」。
[ft]↑
恐らくは船津衛に対する批判。
[fu]↓
しかし本書で検討された「ジレンマ」は、SIが真摯に向き合うべき根本問題であり、それが日本語で国内に紹介された意義は大きいと桑原は考える。
[fv]https://www.jstor.org/stable/10.1525/si.1990.13.2.125
[fw]形容詞として、ではなく
[fx]デンジンは「Sensitizing-a-concept」という表現を用いている(https://archive.ph/8X2Mu#selection-635.52-635.73)。
[fy]「部分的な継承:ブルーマーとストラウス」(https://scholar.google.com/scholar?q=related:PR81rDKQMdkJ:scholar.google.com/&scioq=&hl=ja&as_sdt=0,5)
[fz]https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202469244160
[ga]恐らくは、ハマーズリーの本書における議論の続編として、伊藤勇の議論を挙げることが出来る。「如何に」捉えるのかに関する議論(ハマーズリー)から、そもそも「何を」捉えているのか、に関する議論を踏まえた「如何に」捉えるのかに関する議論(https://researchmap.jp/read0010091/published_papers/5038403)へ。