背番号「6」問題、念願のミスター胴上げ 「パパの番号だ」に元木が怒ってたっけ(笑)

話の肖像画 元プロ野球巨人軍選手・篠塚和典<24>

リーグ優勝を決め、ベンチを飛び出す長嶋茂雄監督(中央)と選手たち=平成6年10月8日、ナゴヤ球場

《ミスターに直訴?!》

平成5年、秋季キャンプ直前です。あらかじめ連絡して、1人で長嶋茂雄監督の自宅を訪ねました。監督は「何だ?」っていつもの調子でしたが、〝直訴〟ですから、こっちは意を決して話しました。

「ミスターが監督に就任したとき、若い選手たちに『監督は手取り足取り、熱血指導してきたんだぞ。守備でもバッティングでも付きっきりでやる。熱い監督なんだ』と説明しました。でも今年は以前のような環境が全くなかった。できれば来年からは、われわれの若い時代と同じような環境でやってくれるのが一番選手が喜ぶと思うので」って。中畑清さんや堀内恒夫さんはコーチの立場なので言いづらいでしょ。すると「いつでもできるよ。溝があったか? 俺らしくなかったな」って。

2年目はガラッと変わりました。1年目は松井秀喜を育てなきゃという強い思いがあった。そこにFAで中日から落合さん(博満、3度の三冠王)がきて、松井のいい刺激になって打線も充実してきた。ミスターも他の選手に声をかけ、近づいて指導する。熱気があった。一気にチームも活気づきましたよ。

《背番号6のゆくえ…》

落合さんは(中日時代の)「6番は本人の希望」という話が新聞に載っていた。ある日、「落合に3番をあげてもいい」というミスターの記事を見たんです。すぐに電話しましたよ。「監督、3番はダメです。僕、6番をあげてもいいです」と。(昭和56年に)〝原辰徳二塁コンバート〟で僕がベンチを温めているときとか、何かある度に電話をかけてきて気遣ってくれた。少しでも恩返ししなきゃって。背番号の件でごちゃごちゃしたくないし(笑)。

背番号6はV9戦士で輝かしい成績を残した土井正三さんから受け継いだ。5年連続3割を打ち、2度(昭和59、62年)の首位打者を獲(と)ったプライドもある。あのとき、他の監督だったら絶対に譲れません。もしミスターから「どう?」と言われたら素直に譲ったと思います。でもミスターには落合さんに「1年は我慢しろ」という考えがあったと思う。僕は1年後、現役を引退することになるんですが、辞めさせられたようなもんですから(※次回詳細)。で、落合さんは1年間は60番、2年目から6番で落ち着いた。

その年、球場に福嗣君(落合選手の息子、現在声優)が来たことがありました。僕のユニホームを見て「これ、パパの番号だ」って。すぐ側(そば)にいた元木(大介内野手)が「何言ってんだ」って怒ってたっけ(笑)。

《リーグ優勝をかけた中日との〝10・8決戦〟。目に焼きつけたミスターの胴上げ》

あのころ、ずっと腰の治療をしていて1軍には入っていなかったけど、ミスターから「名古屋に来い」と連絡がきた。うれしかったですよ。ベンチには入れなかったが、ユニホームを着てベンチ横のトレーナー室で見ていました。その試合でけがをした(※三回の守備で左内転筋断裂)落合さんと一緒にね。

試合前、ミーティングで監督は「今日は絶対負けない。とにかく勝つ、勝つ、勝つ」と。シンプルでしたが、ミスターの言葉には不思議な魔力がある。結構緊張してた選手もミスターのこの一言でワイワイというか、緊張感がほぐれた感じでしたね。

最後のシーンは目に焼きついてます。九回2アウトになったとき、監督の側まで行った。桑田真澄投手が抑えて6―3で勝利が決まった。その瞬間です。ベンチからみんなグラウンドに飛び出しました。僕は落合さんとゆっくりと歩いてベンチを出た。ちょうど胴上げが始まった。三塁ベンチ前で見ました。監督の笑顔がありました。これを見たかったんだよね。17年前(昭和52年)は(試合がなく2位チームが負けたため)無人の後楽園球場での胴上げでした。そのときはミスターを真下で支えていたので笑顔は見てなかったんです。(聞き手 清水満)

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