だから明智の天下は11日で終わった…秀吉は「後回し」で成功、光秀は「最優先」したのに大失敗した致命的な行動
■近江はこうして光秀の手に 【6月2日その2】 安土城を目指した光秀は、瀬田(せた)の唐橋(からはし)(滋賀県大津市)で足止めを食う。信長の配下で瀬田城主だった山岡景隆(やまおかかげたか)が、橋を焼き落としていたためだ。 そこで橋の応急的な修復を命じ、光秀本人はいったん居城の坂本城(瀬田の唐橋から北へ約12km)へ戻った(『信長公記』『惟任謀叛記(これとうむほんき)』)。 【6月4日または5日】 4日に橋の修復が完了し進軍を再開。ただし『兼見卿記』には橋の復旧前に兵を進軍させた形跡も記されており、坂本城から船で琵琶湖を渡った可能性も指摘されている。いずれにせよ、同日には安土城に入った(ルイス・フロイス『日本史』、奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)・多聞院(たもんいん)の僧たちが残した記録『多聞院日記』)。 一方、『兼見卿記』は安土入城を5日と記しているため、4日または5日のどちらが正確だったかは、よくわからない。 安土城には、すでに2日に「信長死す」の報がもたらされていたらしく、守備の役に就いていた蒲生賢秀(がもうかたひで)は上臈衆(じょうろうしゅう)(身分の高い子女)を避難させた。上臈衆は城にある金銀・宝物を持ち出し、城を焼くことを主張したが、蒲生は「天下無双の御屋形(おやかた)(安土城)」を焼いて金銀を持ち出すなど「嘲笑」の的となると退けたという(『信長公記』)。 『兼見卿記』も蒲生が抵抗せず城を明け渡したことを匂わせており、無血開城に近かったと思われる。光秀は安土城に入ると財宝を家臣たちに分与し、人心掌握に努めたという(イエズス会報告書『日本耶蘇会年報』)。 明智軍はさらに北上し、光秀に加担した武田元明(たけだもとあき)が丹羽長秀(にわながひで)の佐和山(さわやま)城(滋賀県彦根市)を、京極高次(きょうごくたかつぐ)が秀吉の長浜(ながはま)城(同長浜市)を落とし(『多聞院日記』)、5日にはほぼ近江を制圧した。 ■光秀に着々と迫る足音 【6月7日】 吉田兼見を朝廷の勅使として安土城に迎え、「京に支障がないよう申し付ける」と、都の治安維持を一任される。その際、正親町(おおぎまち)天皇の嫡子・誠仁(さねひと)親王から贈られた緞子(どんす)(高級絹織物)を受け取っている。 このとき吉田は「謀叛の存分」について光秀と雑談したと『兼見卿記』に記しているが、その「存分(思い)」の内容が書かれていない。「存分」が詳しく記されていたら、なぜ信長を襲ったか、胸の内が判明していた可能性はあるだろう。 日にちは前後するが3日には京の賀茂別雷神社から、5日には奈良興福寺から、光秀とその家臣たちに金子(きんす)が贈られたともいう(『蓮成院記録』)。これらを見た限り、朝廷と有力寺社は信長から光秀へと権限が移譲したことを、暫定的に一部認めていたフシがある。 ただし、武家同士の抗争に勝った側への儀礼に過ぎないだろう。光秀を倒す者が現れたら朝廷も寺社も即座に手のひらを返す。そして光秀を倒す者・秀吉は、怒涛のごとく中国地方から引き返す真っ只中にいた。