インタビュー

史上まれにみる国会軽視 高市内閣が打つ「戦争できる国」への布石

構成 編集委員・高橋純子

杉田敦氏×加藤陽子氏×長谷部恭男氏

 異例ずくめの国会が最終盤を迎えている。この間はっきりしたのは、高市早苗内閣が史上まれに見る国会軽視内閣であるということ。そして、多くの批判を無視して「数の力」で押し通した、皇室典範改正と国旗損壊罪の創設という二つの「象徴」をめぐる動きから、高市首相とそれを支える人たちの別なる思惑も透けて見える。憲法、政治、歴史の専門家が語り合った。

典型的なポピュリスト指導者

 杉田敦・法政大教授 今国会では十分な議論がないまま、「国論を二分」する数々の法律が成立しました。国会への出席時間が歴代首相と比べて極端に短いことに象徴されるように、憲政史上まれにみる国会軽視内閣です。ただ、高市早苗首相が、自分を支持するか否かが争点だとして解散・総選挙を行い、圧勝した時から、こうなることは目に見えていたとも言える。歴史的に見て、人気投票によってつくられた権力は独裁的になり、議会を必ず邪険にします。高市さんは、ナポレオンなど典型的なポピュリスト指導者の轍(てつ)を踏んでいます。

 長谷部恭男・早稲田大教授 そもそも首相が国会に出て、自分と意見を異にする他者とまともにコミュニケーションをとろうとしていない。人柄の問題なのか、人と誠実に言葉のやりとりをする意思と能力をそもそも欠いているからなのか、いずれにしても「身内」で決めればそれでよいと考えている節がある。しかし、圧倒的多数を持ってるから、自分の好きなようにやれる、やればいいというのは大いなる勘違いで、異なる立場の人と公の場で議論することによって初めて気がつくことがある。国の針路を誤らずに済むから、中長期的に見れば、権力者自身のためになるのであって、公の議論を忌避する高市首相は、首相としての「寿命」を自ら縮めているとも言えます。

 加藤陽子・東京大名誉教授 高市内閣は審議すべき法案について、国会側との事前協議を軽視しました。国民が望む政策がいっこうに実現されず、国民の暮らしからは遠い施策が強行された要因はここでしょう。最たる例である「国旗損壊罪」をめぐる自民党内の議論では、法律により守られる利益や価値について、①国の威信、国民の統合作用②自国国旗を大切に思う一般的な国民の感情③社会秩序の維持――の3点が検討されたと朝日新聞が報じていました。結局、②を採用したわけですが、国民の統合作用や社会秩序の維持も企図されていたことには注意が必要です。1925年に公布された悪名高き治安維持法の制定過程をみると、内閣法制局の草案では、憲法上の統治組織の変革、納税・兵役義務の変革など、何が罪になるのかを列挙していた。ところが、三政党による連立だった加藤高明内閣は「国体の変革」といったあいまいな概念で妥協し、結果、それが拡大運用され思想弾圧を招いた。損壊罪の「国民の感情」も極めてあいまいで、議員立法で内閣法制局の厳密な審査を経ていない点などを含め、治安維持法を想起させます。

 長谷部 国旗は国の象徴だから損壊してはだめだというわけですが、特定の政治的メッセージに罰を与えるような了見の狭い抑圧的な国家の象徴なのであれば、損壊されても仕方がない。他方、不快な表現でも尊重するという懐の深い国の象徴であるのなら、損壊しても許される。つまり、国旗損壊はどんな国においてもなんら問題ではないのです。

 加藤 「違憲立法」との批判が強いですが、裁判になったら、日本の裁判所は違憲判決を出せますか?

 長谷部 出すと思います。ただそれ以前に、損壊して逮捕される人が現れるのかどうか。89年にアメリカの連邦最高裁が、国旗を損壊する表現を禁止・処罰するテキサス州法は違憲だとの判断を示したことは有名ですが、もうひとつ、ヨーロッパ人権裁判所が2018年に出した決定があります。スペインのある地方を国王夫妻が訪問した際、スペインからの独立を求める人たちが夫妻の等身大の写真を逆さにして火をつけ、いわば「不敬罪」で逮捕・起訴されて有罪判決が確定し、憲法裁判所もこれを支持した。これを不服としてヨーロッパ人権裁判所に持ち込んだところ、この種の「象徴的言論」の処罰は表現の自由を保障する欧州人権条約違反との決定が全員一致で下された。この法理に照らせば、国旗損壊罪も当然、違反です。

 杉田 表現の自由について考え抜いた「自由論」のジョン・スチュアート・ミルは、人びとが嫌悪の情を持つからといって表現を禁止するのは間違いだと言っています。そんなことをしたら、表現の自由はすぐ失われる。むしろ、人びとに嫌がられるような表現が重要な指摘である場合が多い、とすら言います。

 日本社会では「人に迷惑をかけるな」が内面化されていて、他人に嫌悪の情を催させたり、迷惑をかけたりしない範囲でしか権利の主張や行使をしない。欧米では当たり前に行われるデモやストライキが、日本では敵視される。そのような社会に国旗損壊罪がもたらす萎縮効果は大きい。「迷惑をかけるな」の傾向がますます強まるでしょう。

平和を祈る天皇と「相いれない」勢力

 加藤 国旗損壊罪の創設と皇室典範改正、国の象徴をめぐる二つの動きは響き合いながら、最終的に憲法改正に通じていると思います。いまの上皇は、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」て「国民統合の象徴」としてあるという、ひとつの天皇像を上皇后とともにつくりあげたわけです。現天皇もそれを継承し、多くの国民はいまの天皇のあり方でよいと思っている。ところが、高市さんと彼女を支える人たちは、それを快く思っていないのではないか。即位にあたって「国民の幸せと世界の平和を常に祈り」「憲法にのっとり象徴としてのつとめを果たす」と宣するような天皇とは相いれない、と。そう考えれば、今年4月、政府主催の「昭和100年記念式典」において天皇の「おことば」がないなど、ぞんざいな扱いだったことにも合点がいきます。

 長谷部 戦前の日本は天皇を頂点とするピラミッド型の「企業体国家」でした。国家が定めた国民共通の目的があり、目的達成のために一億火の玉となって突き進む。しかし敗戦後は、最低限の社会生活のルールだけがあって、何を目的として生きるのかは個々人が自分で決める「広場としての国家」に変わった。戦後の天皇は、そのような「広場としての国家」の象徴であるはずです。

 とはいえ、憲法にそう書いてあるだけでは、主権者国民に象徴だと思ってもらえない。ゆえに平成の天皇は国事行為だけでなく公的行為にいそしみました。被災地を訪問し、第2次大戦の激戦地にも赴き、戦死者を慰霊し、平和を祈る。ただ、加藤さんの言う通り、企業体国家への回帰を願う人たちは、そうした象徴天皇のあり様が気に食わない。高市さんもたぶんそうだと思います。

 杉田 私も、国旗損壊罪と皇室典範改正が一緒に出てきたことはおそらく偶然ではないと思います。トランプ米政権は、国際法違反の疑いのある戦争を開始したり、戦争犯罪を裁く国際刑事裁判所を機能停止に追い込む方針を示したりするなど、これまでの戦争違法化体制を壊そうとしています。そういう流れに乗った方が日本にとっても得だと考える政治家や官僚が、実は私たちが思っている以上にいるのではないか。

 日本はいつまで敗戦国としてやっていかなきゃならないのか、どこかで一発逆転、戦勝国に連なりたいという願望を持つ人たちが、平和主義の現憲法体制を大事にし、国民的人気を得た上皇夫妻と天皇一家の姿勢を「目ざわり」だと感じても不思議ではない。世論も、高市さんの中国に対する強硬姿勢を好感しており、法律でナショナリズム批判を封じ、「戦争できる国」への既成事実化が進めば、戦争を一つの政策オプションのように扱う社会が到来しないとも限らない。今国会で、その布石がいくつか打たれてしまったのではないか? 杞憂(きゆう)ならいいのですが。

 加藤 おそらく政権や官僚の中にも、「広場としての国家」を象徴する天皇のあり方を快くは思わない勢力はいるでしょう。国会の「全体会議」がまとめた「立法府の総意」にはない「養子の男性子孫は皇位継承権を持つ」や、結婚した女性皇族に住民基本台帳を適用するといった項目が、政府案には突然登場しました。意図するところは、女系・女性天皇の排除です。これについて、菅義偉内閣時代の有識者会議で、歴史学者の本郷恵子さんが興味深い史実を指摘してます。前近代で少数ながら天皇位に就いた女性がいた事実は、他の大臣・大納言のような役職には決して見られないことだと。つまり、天皇は公的な存在であるとともに、ある血統を備えた身体そのものでもある。女子を排除する存在ではないし、中世には内親王が確固たる役割を担った事例がみられる、よって内親王・女王への皇位継承の拡大は有意義であるとの見方です。

 一方、「なぜ女性天皇ではだめなのか」と国会で質問された木原稔官房長官は答弁に窮しました。合理的理由がないからです。現行の皇室典範は敗戦後の1946年7月から起草準備が始まりましたが、重要なことは、この段階で旧11宮家の「臣籍降下」(皇籍離脱)は既定の前提として議論されていたことです。今回、推進派は旧宮家の正統性について、「現行憲法、皇室典範において皇位継承資格を有していた」方々だとしていますが、これはおかしい。皇籍離脱手続きの完了が、皇室典範施行の47年5月3日より遅れ、同年10月となっただけです。

 杉田 男系男子でなければならないというのは、ある種の信仰でしょう。もちろん信仰の自由はありますが、「男系男子は神武天皇以来、2600年以上続く伝統」などと、歴史学的には全く通用しない「神話」を国会の場に持ち出し、それを国民全体に押し付けようとしているのは大問題です。

 長谷部 旧皇室典範の最初の原案は、1886年に宮内省が起案した「皇室制規」で、女系の継承を認めていました。ところが法制官僚の井上毅が、西洋における王位は私的財産なので女系でも相続できるが、日本の天皇は君徳をもって国を治めているのだから男系でなければダメだと主張した。まったく理屈になっていませんが、この穴のある主張が通って、旧皇室典範は男系男子となり、それが戦後も引き継がれたに過ぎません。

 加藤 ただ、長谷部さんはかねて、天皇制は人権の「飛び地」、つまり「例外」であるから、憲法が保障する男女平等は天皇にはあてはまらないと主張されていますね。

 長谷部 その通りです。とはいえ天皇は「国民統合の象徴」ですから、日本社会の価値観とあまりにかけ離れてしまうのはよくない。そんな天皇制ならなくてもよいと、世論に見限られる可能性もあります。

さざれ石は巌にならず

 杉田 いずれにしても、今国会の議論は総じて稚拙かつ性急に過ぎました。ドイツの憲法学者・政治学者カール・シュミットは、ワイマール期に、議会では何も決められない、デモクラシーとは本来、議会とは関係なく、指導者に対する「喝采」であると言い放った。経済学者のシュンペーターも、有権者の役割は選挙で誰に任せるかを決めることだけで、選挙が終わったら次の選挙まで沈黙せよと。1990年代の政治改革以降、このような政治観を政治学者らが広め、社会に浸透させてきた。そこに、コスパ・タイパといった加速主義的な時代精神がうまく接合してしまって、議会における討論や質問に人びとはあまり積極的意味を見いださないどころか、遅延行為であるとすら見ている。野党が自分たちの存在意義を示すためにやっているだけだと。このままでは、ますます政治が独裁的になっていくでしょう。

 加藤 現行憲法ができた時は中選挙区制でした。3分の2という議席をひとつの政党が獲得することは想定されていなかった。憲法改正の発議は各議院において総議員の3分の2以上の賛成、法案の再可決も衆院の出席議員の3分の2以上の賛成が必要とされているのは、端的に言えば、政党間でしっかり話し合いをしなさいという、憲法の要請だと私は考えます。ところがいま、安全保障や経済財政について国会外に有識者会議など「迂回路(うかいろ)」がつくられ、国会での議論が軽視されている。安保3文書の改定がその典型です。また、総額約3・1兆円にのぼる今年度補正予算の大半は「中東情勢等対応予備費」として計上され、両院を各1日で通過しました。予備費とは、巨額の財布を政府に渡すことと同義で、予算案審議を通じて国費を監督する国会の任務放棄に等しいわけです。これが異常であることを国民も理解する必要があります。

 さらに、首相の公設第1秘書が関わっていたという疑惑が報じられた中傷動画問題をめぐって、高市さんは「陳述書を出す」と。それ自体が甚だしい国会軽視であり、野党の批判は当然です。高市内閣の支持率はここにきて下落しましたが、この間、「民主主義と憲法を守れ」と、国会周辺や各地域で、広範な市民による粘り強いデモが行われてきた点にも注目したいです。

 長谷部 今国会では見送りとなりましたが、衆議院の議員定数を比例区のみ45削減する、維新肝いりの法案も非常に問題が大きい。そもそもなぜ国会議員をそんなに減らさなければならないのか? 経費削減が目的なら議員歳費を減らせばいい。民主主義において、多様な民意、さまざまな地域の要望や意見を持ち寄り、最後は全国民の代表として結論を出すことが期待されている国会議員を簡単に減らしてはいけません。しかも、現在の日本の国会議員の数は、他の先進国に比べても決して多くはないのですから。

 杉田 90年代の政治改革では小選挙区制にするだけで二大政党制になると喧伝(けんでん)されましたが、それは間違いで、かつての欧州のように有権者が階級意識で二分されているなど、選挙制度以外の諸条件が必要です。日本は多党的な傾向が強く、巌(いわお)がさざれ石になることはあっても、さざれ石が巌になることは難しい。小選挙区制の一番の問題は死票が大変多いことです。得票率と議席数の乖離(かいり)が大きく、選挙が民意を反映しない。選挙制度を変えるのなら比例中心にするか、中選挙区制に戻すべきです。政権交代は、多党間の連立の組み替えによって十分に可能です。

 政治改革に積極的な政治学者たちは「業績投票」の必要性を言い立てました。政権与党が変なことをやったら次の選挙で落とせばいい、野党も有権者もいちいち批判せずに、与党の好きにやらせるべきだという考え方が広められ、これもそれなりに浸透しています。しかし、仕事や生活に忙しい有権者たちは、政治への不満や怒りを数年後の選挙まで覚えていられない。それにつけこむ政治家が、恣意(しい)的に解散時期を選んで、「映える」トピックで人びとを動員する選挙になりがちです。

 長谷部 民主政治を、政治指導者への「喝采」を国民に求めるだけの危険なものとしないためには、国会での討論の充実が何よりも必要です。「広場としての国家」を守るためには、まずは広場の「縮図」たる国会の軽視を改めてもらわなければなりません。

長谷部恭男さん

 はせべ・やすお 早稲田大教授(憲法) 1956年生まれ。著書に「法とは何か」、共著に「検証 安保法制10年目の真相」、杉田、加藤両氏との鼎談(ていだん)をまとめた「歴史の逆流」など。

杉田敦さん

 すぎた・あつし 法政大教授(政治理論) 1959年生まれ。著書に「自由とセキュリティ」「政治的思考」「境界線の政治学」、訳書に「政治の擁護」など。

加藤陽子さん

 かとう・ようこ 東京大名誉教授(歴史) 1960年生まれ。専門は日本近現代史。今年3月に東京大を定年退職。前歴史学研究会委員長。著書に「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」「となりの史学」など。

「デジタル版を試してみたい!」というお客様にまずは1カ月間無料体験


関連トピック・ジャンル