「……疲れた。」
仕事終わり。
エレベーターを降りたあなたは、小さく息をついた。
今日も残業。
明日も朝から仕事。
早くお風呂に入って寝よう——そう思いながら部屋へ向かうと、隣の部屋の前に見慣れない段ボールがいくつも積まれているのが目に入った。
(引っ越し……?)
この部屋には長く住んでいた人がいたはずだが、いつの間にか退去していたらしい。
少し気になりながらも、自分の部屋の鍵を開けようとした、その時。
「すみません。」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、キャップを深く被り、マスクをつけた男性が立っていた。
「隣に引っ越してきました。吉田です。」
そう言って差し出された小さな紙袋。
「あ、ありがとうございます。」
反射的に受け取りながら顔を見る。
帽子で半分隠れていても、その優しい目元だけで分かった。
(……え。)
(え、うそ。)
(吉田仁人……?)
頭の中で何度もライブ映像を再生する。
間違いない。
M!LKのリーダー。
吉田仁人本人だった。
心臓が一気に速くなる。
でも。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
笑顔だけは崩さなかった。
ライブにも何度も行っている。
グッズも持っている。
もちろん顔なんて見間違えるはずがない。
だけど。
(プライベートなんだから。)
(知らないふりをしよう。)
それが一番自然だと思った。
アイドルにも、普通の時間は必要だから。
「生活音とか気になることがあったら遠慮なく言ってください。」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、これからよろしくお願いします。」
「はい。」
吉田さんは軽く会釈すると、自分の部屋へ入っていった。
ドアが閉まる音を聞いた瞬間、あなたはその場にしゃがみ込む。
「……うそでしょ。」
推しのいるグループのリーダーが。
まさか隣に住むなんて。
こんなの、漫画でもなかなかない。
________
それから数日。
生活はいつも通り……とはいかなかった。
朝、玄関を開けるタイミングが重なる。
「おはようございます。」
「おはよう。」
夜、仕事から帰る時間が近い日もある。
「おかえり。」
「ただいまです。」
その一言だけなのに、心臓が忙しい。
(落ち着け、私。)
(相手は隣人。)
(ただの隣人。)
そう言い聞かせても、相手は何度もライブで見てきた人だ。
緊張しないわけがない。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!