浅井長政をはじめ幾度も
主君を変えた
主従関係の規律に厳しい儒教的思想が重んじられていた江戸時代。次々と主君を変えた藤堂高虎は不義理者という辛辣な評価を受けました。藤堂高虎ほどの聡明な人物なら、主君を変えることでどういった評価が下されるかは分かっていたことでしょう。それでも、7度も主君を変えざるを得なかった経緯について、説明していきます。
藤堂高虎が最初に仕えたのは、浅井長政です。しかし、初陣の姉川の戦いで戦功を上げるものの、不意のいさかいから同僚を殺害して逃走。主君を変えざるを得なくなりました。このように逃走して行方をくらましてしまうことを「出奔」(しゅっぽん)と言います。
2番目の主君は浅井家の重臣だった「阿閉貞征」(あつじさだゆき)。阿閉貞征は浅井家を裏切って織田信長と手を組むなど、非情な人物でした。それを知った藤堂高虎は、阿閉貞征にわずか1ヵ月ほどで見切りを付けます。
3番目の主君、「磯野員昌」(いそのかずまさ)は、姉川の戦いで本拠地の「佐和山城」(さわやまじょう)にて織田信長軍により降伏に追い込まれ織田信長軍の配下になるも、のちに出奔。藤堂高虎も磯野家を離れざるを得なくなります。
しかし、藤堂高虎は磯野員昌の息子である「磯野行信」(いそのゆきのぶ)を自分の配下に入れ面倒を見るなど、磯野家を離れてからも、仕えた主君の家を存続させ、子孫と良好な関係を築いていました。
4番目の主君は、織田信長の家臣である「津田信澄」(つだのぶすみ)。藤堂高虎は戦功を上げたのに禄(ろく:給与のこと)が加増されなかったことに不満を抱いて、出奔したのです
5番目の主君は豊臣秀吉の弟、羽柴秀長。藤堂高虎は羽柴秀長のことを大変慕っており、羽柴秀長の下で数々の功績を残しています。羽柴秀長の臣下であった時代は、朝廷からも従五位下佐渡守という官職を賜り、厚遇を受けました。
1591年(天正19年)に羽柴秀長が亡くなってからは、その跡継ぎである「豊臣秀保」(とよとみひでやす)を盛り立てるため奮闘するも、豊臣秀保が17歳で早逝して主家が断絶。主君2人を弔うため、藤堂高虎は武士の道を捨てて、出家して高野山に隠棲するほど、忠義を尽くしたのです。
その姿を知った豊臣秀吉が、藤堂高虎の功績を惜しんで還俗(げんぞく:出家した者が元の世俗の人に戻ること)させ、伊予宇和島(現在の愛媛県宇和島市)7万石を与えたことから、豊臣秀吉が藤堂高虎の6番目の主君となりました。豊臣秀吉の臣下として仕えた頃、再度の朝鮮出陣により(羽柴秀長の臣下の時代も出陣のため)、恩賞として1万石が与えられ、藤堂高虎の石高は8万石にまで増えます。
そして豊臣秀吉亡きあと、藤堂高虎が7番目の主君として選んだのは豊臣氏の敵方となった徳川家康。彼はこの最後の主君のために、粉骨砕身して尽くします。
例えば、徳川家康襲撃の企みがあるとの噂を聞きつけたときは、藤堂高虎が自ら徹夜で徳川家康の警護にあたりました。さらに、天下分け目の戦となった関ヶ原の戦いでは、徳川家康のために自分の弟を人質に差し出したり、西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)らの東軍への寝返りを画策したりするなど、多くのエピソードが残されています。
当然、そんな藤堂高虎を快く思わない者も多く、「豊臣恩顧の大名でありながら、豊臣秀吉殿が亡くなるやいなや、徳川家康に尻尾を振るとは何事か」と、とがめられました。それに対して藤堂高虎は「己の立場を明確にできない者ほど、いざというときに頼りにならない」と答えたそうです。
戦国の乱世において、仕えるべき主君を見誤れば家族や家臣もろとも命を奪われてしまいます。そのことを誰よりも分かっていたからこそ、藤堂高虎は人の上に立つのにふさわしい力量と器を持つ主君を探しつづけたのでしょう。
そして、このような経緯を辿っていくと、藤堂高虎は決して「裏切りで主君を変えるようなことはなかった」ことが分かります。
主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、天下人である豊臣秀吉や徳川家康にも信頼され、遂に貧しい家の生まれから伊勢、津32万石の大名にまで出世したのです。