2011.5.19のブログ 「推奴~チャンヒビン~同伊~イサンまで・・・」
とても皆様、アクセスいただいているブログ、
申し訳ありませんが訂正箇所が・・・・・・
最後の部分 「19代粛宗 ~ 20代景宗 ~ 21代英祖」 の部分。
色々読んで調べているうちに、違う部分が見つかりました。ごめんなさい
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19代粛宗が崩御してから。。。。。改めて書いてみます。
「粛宗崩御」の後、 チャン・ヒビンの息子「景宗」が即位しますが、延礽君(後の英祖)
に王位を継承させようとする老論派と、景宗と少論派が対抗し殺戮が起こります。
結局、老論の後押しで延礽君は「世弟」と。
延礽君(後の英祖)の実際の意思はどうであったか分かりませんが、
(延礽君・老論 対 景宗・少論) のように・・・です。
その後まもなく・・・体調をくずしわずか五日後に景宗が亡くなると、
東宮側(延礽君=後の英祖)が仕組んだのではと言う毒殺説も流れました。
老論派の後ろ盾で即位した「21代英祖」でしたが、即位するや「蕩平(タンピョン)」を
宣言します。蕩平とは、『書経』にある 「無偏無党、王道蕩蕩、無党無偏、王道平平」
に由来する言葉で、党争をなくしてこそ王道の実践が可能であると言う意味です。
しかし実際には英祖の即位後も党派の争いは絶えることはありませんでした。
英祖4年(1728年)に「戊申乱」が起こります。
これは、老論主導の政権に反旗を翻し、昭顕世子(16代仁祖の長子)・・・清に
「人質」として送られ、帰国後まもなく亡くなった(毒殺説濃厚)。
の曾孫にあたる「蜜豊君(ミルプングン)」を王位に就かせようとしますが、鎮圧
されます。
(ここに間違いがありました。 昭顕世子の曾孫を王に・・・と言う「乱」は、
英祖が即位した後に起こりました。即位前も色々紆余曲折有ったようですが。)
主導者は南人派の李麟左(イインジャ)で、その中には南人・少論が多数含まれて
いました。李麟左たちが湖西・忠清道の清州を占領、嶺南・慶尚道では鄭希亮が
これに英祖は「党派偏ることなく 老・少・南・北」を混用を実行していきます。
この英祖が宣言した「蕩平策」は、世孫であるイサン(22代正祖)にも受け継がれ
ます。
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52年に及ぶ統治の末、1776年に英祖が亡くなると 「22代正祖」が即位します。
父荘献世子(英祖の子)は英祖の後継者となるべき人物でしたが、党争に巻き
込まれ、謀反の疑いありと。臣下の讒言を信じた英祖は、世子を「庶民」の位
に落としついに「米びつ」に閉じ込めて、餓死させてしまうことに。
世子の死後、英祖は深く悔やみ・・・「思悼(サド)世子」と言う名をつけます。
わずか10歳の時、父思悼世子の死に直面した正祖は、政治改革に強い
思いを抱いていました。「蕩平策」をさらに推し進めると共に、即位翌年には
「庶類疏通節目」を制定。それまで科挙の試験を制限されていた両班庶子にも
科挙受験資格を与えました。
同じく即位直後、1776年4月には首都漢城(ソウル)に文芸、学問の振興の
ための奎章閣を設置しました。国王直属の機関とし、検書官として庶子出身者を
抜擢。 奎章閣は、世宗が作った「集賢殿」の再現とも言われますが、正祖は
このように少壮気鋭の者にチャンスを与えると共に、世孫時代よりずっと
「命の危険」を感じていたため、武力強化・護衛の強化も図ったそうです。
権臣の集中するソウルからの「水原遷都」を計画。これに活躍したのが
丁若鏞(チョン・ヤギョン) です。
茶山・丁若鏞 と呼ばれ、政治家、実学者、設計者として活躍した人物です。
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やっと、繋がりました
次回は ドラマ「イサン」の中で もう一人の気になる人物
丁若鏞(チョン・ヤギョン) と
イサンと 続けて見ることを おススメしたいもう一つのドラマ
「トキメキ
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