求められる、偶然と善意に頼らない仕組み

 ここで、冒頭のマタイ効果の話に戻りたい。筆者が学力調査のデータを分析していて、長らく謎に思っていたことがある。

「わからない」が「やりたくない」を生む悪循環の仕組みを考えれば、家庭環境による学力格差は、学年が上がるにつれて雪だるま式に開いていってもおかしくない。ところが実際の数値を見ると——格差はたしかに存在し、それが維持・拡大する傾向もあるものの——マタイ効果のメカニズムから予想されるほど極端には広がっていないのである。それはなぜなのだろうか。

 むくげ市で目にした光景は、この謎に対するひとつの答えだと思う。悪循環は、放っておかれていないのだ。

 つまずきを記録し、気になる子に声をかけ、ときには放課後に勉強を教える。そしてそのような取り組みはおそらく、筆者が今回目にしたむくげ市の学校のみならず、異なるかたちの実践ではあれ、全国の教室で日々行われているものである。

「格差があるにしろ、この程度の格差で収まっている」という状態は、何もしなくても保たれる自然な姿ではない。教師たちの見えない努力の賜物である。

 ここには、三つの要素が絡んでいる。①子どもへの手厚い支援、②教員のゆとりある働き方、そして、③それを支える公的な予算の拡充である。

 ①と②は、両者を支えるための公的予算が十分であれば、本来両立できないものではない。ところがいまの日本は、財政難を理由に③を絞ったまま、①と②の両立を学校現場に求めている。

 その難しい両立をむくげ市の学校は引き受け、一定の成果を収めてきた。しかし、学校現場の頑張りにのみ期待するのはもう限界である。

 まんりょう小学校の校長は、インタビューの最後に次のように語ってくれた。

「(加配教員の配置や少人数授業に向けた取り組みを)ぜひやっていただきたい。この学校の校長になってつくづく思いました。(この学校がやってきたように)ここまで本気でやっていたら、必ず子どもたちにプラスアルファになりますよ。いまは自信を持って言えます」

 リソースさえあれば、学校はもっとやれる——。

 校長の言葉には、実感に裏打ちされた確信が表れていた。学力格差は「教育」の問題であると同時に、子どもの貧困や所得格差に結びつく「社会」の問題である。

 この校長の確信に、偶然と善意ではなく、社会の仕組みで応えること。教員のやりがいを搾取しないこと。子どもたちを支えるという使命を、学校現場のみに押し付けないこと。それが、いま私たちに求められていることである。