固倫和敬公主 | ruriのブログ

ruriのブログ

ブログの説明を入力します。

テーマ:

清朝6代皇帝乾隆帝と富察皇后(孝賢純皇后)の間に生まれた皇女(第三公主)です。

正妻の娘とあってか、なかなかプライド高い皇女だったようですね。

某ドラマでは璟瑟とか呼ばれてたのです。オリジナルの名前ですけどね。

でも史実では固倫和敬公主と呼ばれてます。固倫とは正室の生んだ皇女につけられる称号。

ちなみに側室の生んだ皇女は和碩(例えば乾隆帝と純妃の娘和碩和嘉公主

第四公主。とか、ちなみにこの娘の旦那は和敬公主の母富察皇后弟傅恒の息子福長安。)と呼ばれます。

 

いかにも皇帝と皇后の唯一の皇女として生まれた彼女にふさわしい称号といったらそうかもしれませんね。

やがて成長してモンゴルのホルチン部の王子(セプテン・バルジュル、色布騰巴爾珠爾、ボルジギト氏)と結婚します。

やがて息子慶祐(ドラマでのオリジナル名)を出産します。史実は彼以外にも子供は4人いたらしいけど。

でも実際にモンゴルに嫁いだわけではなく、北京に公主府といって彼女専用の屋敷を与えられそこで贅沢三昧に暮らしてたらしいです。乾隆帝は先祖代々の慣習?に従って皇女をモンゴルに嫁に出しましたが、でも本当は嫌でした。自分の大事な娘だったからwそれは富察皇后も全く同じでした。そして同じく娘を嫁にやりたくない皇太后(孝聖憲皇后)とあわや嫁姑のバトルになりかけたのは某ドラマでも描かれてましたが。

それだけ乾隆帝に溺愛された娘だったのです。

某ドラマでは我儘で自己中なプライド高い公主として描かれてます。母富察皇后はこの時病気がちで7皇子出産してその子が天然痘で亡くなったらショックですっかり起き上がれなくなりました。それからしばらくして崩御します。

乾隆帝に直々に頼まれた嫻妃や純妃の説得でしぶしぶモンゴルに嫁ぎ息子一人を儲けます。そして夫と不仲になって仕方なく紫禁城に帰ってくる。同じころ母の後を継いだ皇后嫻妃の息子を呪殺した疑いで令妃親子が断罪されたときでした。

令妃が何とか新しい強力な味方が欲しい時に和敬公主の息子が池に落ちて溺れかけた(令妃たちがそう仕向けた)時に令妃が助けたので、息子の恩人だからと何かと彼女の味方になる。乾隆帝にもたびたび進言して令妃をかばう。嫻妃のせいで自分は遠方に嫁いで子供も産んだ。その間に母親は死んだと勝手に逆恨みしてたのです。でも令妃は乾隆帝の間に次々子供を儲け、貴妃にまで出世する。それをいいことに調子に乗ってどんどんやりたい放題(一言でいうなら、自分に邪魔になるものは徹底的に排除した。そこには皇帝の娘息子も含まれる。彼女の野望の犠牲者は10数人に上る)になるから、結局最後は和敬公主さえも庇いきれなくなった?公主自ら距離をとった?やがて嫻妃が苦言を呈する意味で禁忌の髪を切り皇帝の怒りを買い、謹慎処分受けたあたりから、和敬公主の嫻妃を見る目が変わってきた。

令妃の本性はただ嫻妃にとって代わり立后したいだけという野心を周りの者(特にモンゴル出身の側室頴妃)から聞かされ部下に調べさせたらそれが真実だとわかったので、その野心を幼い自分の息子にも植え付けようとしてた悪女だと乾隆帝に報告した。結局母の敵だと思いこんだ嫻妃は本当は国思い、家族思いの妃嬪だとわかったからだろう。

彼女の登場はそこまでです。

 

 

 

 

 

AD
同じテーマ 「ブログ」 の記事