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この作品「叶うなら、もう一度」は「名探偵プリキュア!」「森亜るるか」等のタグがつけられた作品です。
叶うなら、もう一度/そらの小説

叶うなら、もう一度

10,347文字20分

ヒート中、記憶がないとわかっていても、本能はくれあを求めてしまう。そんなるるかのお話です。

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※くれあ=エクレールという前提です。苦手な方はご注意ください。
※るるか視点です。

※本作はオメガバース設定です。
本作では、αがΩの首元を噛むことで正式な番となり、番になったΩはヒートの際にそのαを本能的に強く求める、という設定を使用しています。
オメガバースを知らない方は、この点だけ把握していただければ読める内容だと思います。

※R15を想定していますが、プリキュア作品なので、少し抑えめです。

※未成年同士が番になる描写があります。ご注意ください。

※まだ、キャラが掴めてないので、少し口調がおかしかったり、解釈不一致があるかもしれませんが、温かい目で見てくれるとありがたいです…!

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最初に身体の異変を感じたのは、ファントムの集まりがまだ終わる前だった。

いつもと変わらない報告が、広い空間へ淡々と響いていた。
私は決められた場所に座り、正面へ視線を向けたまま、誰にも気づかれないように小さく息を吐く。

身体の奥に、薄い熱が籠もっているような気がした。

でも、呼吸が乱れるほどでもなければ、座っているのがつらいわけでもないから、多分昨夜、ほとんど眠れなかったせいだろう。

そう結論づけて、私は正面へ向き直った。

けれど、会議が進んでも熱は引かなくて、むしろ時間が経つにつれて、身体の奥へ少しずつ広がっていった。
椅子へ触れている背中が妙に重く、息を吸うたび、胸の内側へ鈍い熱が溜まっていくような感覚があった。

ようやく、報告というながったらしい集まりが終わり、周囲の者たちがそれぞれ持ち場へ戻っていく。私も何事もなかったように立ち上がったところで、少し離れた場所にいたマシュタンがこちらを見上げた。

「るるか、大丈夫?」
「え?」

問い返すと、マシュタンは私の顔を確かめるように、しばらく黙って見つめた。

「なんだか、いつもと違う気がするわ」
「…多分、寝不足なだけだから少し休めば治ると思う」

そう答えると、マシュタンはまだ何か言いたそうにしていたけれど、それ以上は追及しなかった。
 
「るるか、私は占いの道具を整理してくるわね」
「うん、先に部屋に行ってるね」
「ええ」
 
マシュタンと別れて、自室へ戻り、扉を閉める。

一人になった途端、ずっと張っていた力が抜けた。

首元を覆う黒いチョーカーが、いつもより窮屈に感じて、指を金具へかけ、そのまま外すと、露わになった肌へ冷たい空気が触れた。

チョーカーをベッド脇へ置き、腰を下ろす。そのまま横になり、冷えた枕へ頬を預けた。

少し休めば治る。

そう思って目を閉じたけれど、身体の重さは少しも抜けなかった。

頭の奥がぼんやりと霞み、手足には力が入らない。風邪の引き始めにも似た鈍い怠さが全身へ広がり、熱だけが少しずつ強くなっていく。
この感覚には、もう覚えがあった。

……あぁ、また。

気づいた途端、それまで曖昧だった熱が急に形を持った。お腹の奥が鈍く疼き、身体の内側からじわじわと押し広げられていくような感覚に、私はシーツを強く掴む。

次の周期までは、まだ先のはずなのに。
机に薬があったはず…。
 
私はベッドへ手をつき、無理に身体を起こし、床へ足を下ろした瞬間、腹の奥へ強い波が走る。

「……っ」

膝から力が抜け、咄嗟にベッドの縁を掴んだ。
浅く息を繰り返しているうちに、さっきまで身体の奥へ燻っていた熱が、私の諦めを待っていたみたいに一気に広がっていく。
 
……やっぱり。
ヒートだ。

驚きはしなかった。
ただ、またこの時間を一人で越えなければならないのだと思うと、身体より先に胸の奥が重く沈んだ。

一人でヒートをやり過ごす方法なら知っている。
抑制剤を飲み、水分を取って、部屋へ閉じこもり、熱が引くまでひたすら待つだけ。
前は、それで耐えられた。
苦しいことに変わりはなかったけれど、終わりが来ると分かっていたし、自分の身体なのだから、自分でどうにかするものだと思っていた。

けれど、彼女と番になってから、身体はそれまで知らなかったものを覚えてしまった。
熱に浮かされたとき、優しく抱きしめてくれる腕があることを知った。
名前を呼べば、すぐに返事があることを知った。
苦しくてうまく話せなくても、息の変化や匂いだけで、何もかも気づいてくれる人がいることを、身体が覚えてしまった。

薬…飲まなきゃ。

もう一度そう言い聞かせ、震える脚へ力を込める。机までは数歩しか離れていないのに、床へ足をつくたびに身体の奥で熱が揺れ、ひどく遠く感じられた。

どうにか机まで辿り着き、片手をついたまま引き出しを開ける。

抑制剤を取り出す。

包装を破ろうとする指はすでに震え始めていた。焦れば焦るほど端を掴めなくなり、ようやく取り出した錠剤を口へ含んでも、乾いた喉へ引っかかってなかなか落ちていかない。

机の上の水を含み、どうにか一錠を飲み込む。
そのまま、手のひらに残ったもう一錠を見つめた。

決められた量を超えても、すぐに効き目が強くなるわけではない。むしろ身体への負担が増えるだけなのはわかっていたけれど、薬を口へ運んでいた。
少しでも楽になるなら、それでよかった。
 
薬を飲んだのだから、あとは待てばいい。
あと少しの辛抱。

そう自分へ言い聞かせ、机から離れようとしたけれど、膝にうまく力が入らなかった。机の縁へ手を滑らせながら身体を支え、どうにかベッドまで戻る。

全身から力が抜けて、ベットに身を投げ出すように、そのまま横へ倒れ込む。冷たいシーツへ頬を押しつけても、身体の奥で膨らみ続ける熱は少しも鎮まらなかった。

胸の奥が、何かを探すように何度も強く脈打つ。

足りない。
何が足りないのか、考えるまでもなかった。
あの子が足りない。
 
誰なのかなんて、身体は最初から知っていて。

くれあ。
 
名前が頭へ浮かんだだけで、それまでどうにか押し留めていた熱が、待ちかねていたように身体の隅々へ広がっていった。

それを落ち着かせようと、ゆっくり息を吸う。

けれど、閉め切った部屋に満ちているのは、自分の熱が籠もった重い空気だけだった。どれだけ吸い込んでも、身体が求めている匂いはどこにもなく、乾いた喉を空気が虚しく通り過ぎていく。

分かっている。

くれあは、ここにはいない。
名前を呼んでも来てはくれない。今のあの子は、私がどこにいるのかも、どうしてこんなにも苦しんでいるのかも知らない。

それくらいのことは、まだ辛うじて理解できているはずなのに、熱に霞んだ頭は、その事実を受け入れることを拒むように何度も彼女を探した。

「っはぁ、ぅっ……」

掠れた声が喉から零れる。

私が欲しいのは、こんな空気ではない。

抱きしめられたときに頬へ触れるくれあの髪の匂い。耳元へ落ちる吐息の温度。熱に強張った身体をゆっくりとほどいてくれる、くれあ私のαの匂いだった。

「くれあ……どこにいるの……」

震える手をシーツの上へ伸ばす。

けれど、指先に触れたのは冷たい布だけだった。いつも私を抱き寄せてくれた腕も、熱を確かめるように触れてくれた手も、どこにもない。

それでも諦めることができず、何もない場所へ腕を伸ばしたまま、そこにあるはずの温もりを求めるようにシーツを強く掴む。

どうして、いないの。
私はこんなに苦しいのに。
私の身体は、今もくれあを自分のαだと覚えているのに。

そのとき、首元が微かに疼いた。

無意識に伸びた指が、今も皮膚へ残っている噛み跡に触れる。
そこへ指先を重ねた瞬間、身体の奥を巡っていた熱が大きく揺れ、薄れていた記憶の底から、あの夜の温度が鮮明に蘇った。
 

それは、大きな戦いを翌日に控えた夜だった。

それまでにも何度も危険な戦いを越えてきたけれど、これまでとは何かが違うことだけは感じていて、明日になればどんなことが起きるのか分からないという不安が、言葉にならないまま胸の奥へ沈んでいた。
だからなのか、あの夜のくれあはいつもより少しだけ距離が近かった。

抱きしめる腕もなかなか緩めようとせず、向かいあわせで、私の肩へ頬を寄せたまま、確かめるように何度も名前を呼んでいた。

「ねぇ、るるか」
「なに?」
「ううん、呼びたかっただけ」

そう言って笑う顔が少しだけ寂しそうに見えて、私はからかうつもりで、今日は随分と甘えん坊だね、と言った。
くれあは否定せず、ただ困ったように笑って、もう一度私を抱き寄せると、首元へ顔を埋めた。

温かい息が皮膚へ触れる。
しばらくそうしているとくれあが、何かを覚悟したように小さく息を吐いたあと、ゆっくりと顔を上げた。

「……ねぇ、るるか」
「今度はなに?」
「…ここ、噛んでもいい?」

あまりにも真剣な顔で言うから、すぐには意味を理解できなかった。

視線が私の首元へ落ちる。
それでようやく、くれあが何を求めているのか分かった。
私を番にしたいのだと。
 
Ωの首元へαが噛み跡を残すことが、どれほど大きな意味を持つのかくらい、私だって知っていた。

一度残れば、簡単には消えない。
見るたび、触れるたび、その人を思い出すものになる。

それは私がずっとくれあのものである証でもあって。

「……いいよ」

答えると、くれあは一度だけ目を見開いた。

「本当に?るるかのこれからを縛ることになるかもしれないのに?」
「くれあだって同じでしょう?」
「だからこそ、聞いているの。私たちはプリキュアだから、これから先何があるか分からない。それでも本当に私でいいの?」
「うん、くれあがいい」

そう言って少しくれあの方に寄りかかると、くれあはしばらく私を見つめたあと、嬉しそうなのか泣きそうなのか分からない顔で笑った。

「…あとで後悔しても、怒らないで?」
「そのときは責任を取ってもらうから」

くれあは少し微笑んだあと、私の頬へそっと触れ、確かめるように指先を滑らせてから、まっすぐ目を見て言った。

「ええ、ちゃんと責任を取るわ。必ず」

その声に迷いはなく、まっすぐな、嘘なんてない瞳で私を見ていた。それはまるである種の覚悟のように。

「るるかは、私の大切な人…大切なΩだから」

彼女の言葉に胸の奥が熱くなり、何か返そうとしたけれど、言葉を探しているうちに、くれあはもう一度私を抱き寄せていた。

首元へ唇が触れる。
少し緊張しているのが、触れた身体から伝わってきた。
それから、僅かな痛みとともに歯が皮膚へ沈み、私は反射的にくれあの服を掴んだ。

痛みは一瞬だったけれど、歯が首元へ深く沈んだ途端、身体の奥で何かが確かに結ばれたのがわかった。熱とも痛みとも違う感覚が全身へ広がり、目の前にいるくれあを、自分のαだと身体が覚えていく。

「痛かった?」

心配そうに覗き込まれ、私は首を横に振った。

「ん、平気、むしろ全然痛くない」
「よかった」

安心したように笑ったくれあは、残した跡を大切なものへ触れるように指でなぞり、それからもう一度、私の名前を呼んだ。

「愛しているわ、るるか…私のるるか」

その翌日。
くれあは、自分ごとすべてを消し去るように特攻していった。
番としての時間も、チョーカーを選ぶ時間もないまま。

そして帰ってきたあの子は、私を自分の記憶から消し去っていた。
この跡を残したことも、責任を取ると言ったことも、私を大切にすると言ったことも、何一つ覚えていなかった。

それなのに。
首元へ触れれば、身体だけは今もあの夜を覚えている。

私たちは、確かに番だったと。
あの夜、互いに選び、これから先も一緒にいるのだと信じて結ばれたんだと。

「っ、はぁ、くれあっ……」

記憶の中の言葉へ縋るように名前を呼ぶけれど、静かな部屋からは何も返ってこない。

それなのに、首元の跡が熱を持つたび、身体はそんなはずはないと訴えるように彼女を探した。
くれあは私のαなのだから、私が苦しんでいれば気づいてくれるはずで、名前を呼べば来てくれるはずで。
いつものように腕の中へ抱き込んで、もう大丈夫だと言ってくれるはずなんだと、理性では否定している願いを、本能だけが疑いもせず信じ続ける。

「は、ぁっ、くれあ……おねが、いっ……」

また私を呼んで。
あの夜みたいに。
もう一度、あなたの大切なΩだと言って。
髪を撫でて、頬へ触れて、その腕で抱きしめて、あなたの匂いで温もりで、何もかもで私を包んで。

そうしてもらわなければ、もうこの熱を一人で抱えていることに耐えられそうにない。
 
身体が熱くて、息をしても少しも足りなくて、どれだけ自分を抱きしめても安心できない。

だって欲しいのは私の腕ではないから。
欲しいのはくれあの腕で、くれあの手で、くれあの声で、私を自分のΩだと知っている、あの子のすべてで。

「どこに、いるのっ……」

返事をして。
私はここにいるよ。
あなたのΩは、ずっとここにいるのに。

どうして見つけてくれないの。
どうして来てくれないの。
もう私なんていらないの。

一生大切にするって言ったのに。
責任を取るって言ったのに。

どうして私だけが覚えているの。

問いかけても返事はなく、静寂だけが何度でも現実を教えてくる。そのたびに胸の奥が引き裂かれるように痛むのに、ヒートに支配された身体は、その痛みさえくれあを求める渇きへ変えてしまう。

いないから欲しい。

触れられないから、もっと触れてほしい。
匂いがないから、肺の奥まで満たされるほど欲しくなる。
名前を呼んでも返ってこないから、次こそは届くかもしれないと、何度でも呼んでしまう。

「くれあっ、ぅっ……」

一度では足りなくて。

「くれあっ、くれあっ」

呼ぶほど欲しくなる。
欲しがるほど、ここにいないことが苦しくなる。

私のα。
お願い。
私を見つけて。
もう一度抱きしめて。
何も考えられなくなるくらい、あなたの匂いで満たして。
この苦しさも、寂しさも、身体の奥で暴れている熱も、全部あなたの中へ溶かして、もう一人ではないのだと思わせて。

「くれあ……苦しいよ……」

身体を丸め、自分の腕で自分を抱きとめる。
固く目を閉じれば、くれあがいない部屋を見なくて済んだ。どれだけ手を伸ばしても何も掴めないことも、冷えたシーツの上に私一人しかいないことも、少しだけ分からなくなれる気がして。

その暗闇の中で、不意に聞きたくて仕方がなかった声がした。

『るるか』

あまりにも自然に名前を呼ばれて、息が止まった。
本当に聞こえたのか、熱に浮かされた頭が作り出したのか、もう判断できなかった。ただその声を聞いた瞬間、ずっと探していた私を、ようやくくれあが見つけてくれたのだと思った。

「くれ、あ…?」
『うん』

返事がある。
それだけで、胸の奥に張りつめていたものが僅かに緩んだ。

あぁ、いた。
来てくれた。
ちゃんとここにいた。
私を置いていったわけじゃなかった。

何もない場所へ腕を伸ばし、そこにくれあの身体があると疑いもせず、縋りつくように身を寄せる。

「苦しいの……ねぇ、くれあ……」
『大丈夫よ』
「ぜんぜん、大丈夫じゃないっ、もっと、そばに来て……」

髪へ触れる指先が感じられた。
熱を確かめるように頬を包む手のひらも、背中へ回る腕の温度も、身体に残っていた記憶が次々と現実へ重なっていく。

もっと。
まだ足りない。
声だけでは足りない。
もっと名前を呼んで。
もっと触れて。
あなたの温もりも、匂いも、鼓動も、何もかもで私を隙間なく包んで、私は今もあなたのΩなのだと、何度でもこの身体へ教えて。

「いか、ないで……もう、私をおいていかないでっ……」
『行かないわ、るるかを置いていくわけないでしょう?』
「っ、本当に……?」
『ええ、ずっと…ずーっと貴方のそばにいるから』

それが自分の欲しかった答えから生まれた声だということにも、もう気づけなかった。

くれあが答えてくれた。
くれあが戻ってきてくれた。
それだけを信じ、消えてしまわないように何もない空間へ身体を押しつけながら、私は何度も何度も名前を呼んだ。

「くれあ……私のくれあ」
『ええ、貴方のαよ、るるか』
「私のこと……まだ大切……?」
『もちろん』

記憶の中のくれあは、迷わず答える。

『るるかは、私の大切な、大切な人』

あの夜と同じ言葉が返ってきた瞬間、張りつめていたものが壊れるように涙が零れた。

「よかっ、た」

忘れられていなかった。
いらないものにされていなかった。

私はまだくれあのΩで、くれあは今も私のαだった。

熱に濁った意識の中では、それだけが真実だった。
だから私は、声が掠れても、意識が途切れ始めても、もう二度と離されないように幻の温もりへ縋りながら、最後までただ一つの名前だけを求め続けた。
 
​─────

目を開けたとき、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
どれくらい眠っていたのかは分からない。身体は鉛を詰められたように重く、少し指を動かすだけでも力を使う。喉は乾ききっていて、息を吸うたびにひりつくような痛みが走った。

それでも、身体の奥を焼いていた熱は、さっきまでとは明らかに違っていた。

完全に消えたわけではない。腹の奥にはまだ鈍い熱が燻り、胸もひどく苦しいままだったけれど、何も考えられなくなるほど強かった波は過ぎている。
 
遅れて効き始めた抑制剤が、どうにかヒートを押さえ込んだのだろう。

しばらく天井を見つめたまま動けずにいると、途切れていた記憶が少しずつ戻ってくる。

何度も、何度も虚空に向かってくれあの名前を呼んだこと。
なのに、苦しいと訴えれば返事があって、髪を撫でられ、抱きしめられたような気がしたこと。

それから。

『るるかは、一生私の大切な、大切なΩだからね』

あの夜と同じ言葉を、確かに聞いたこと。

胸の奥が小さく跳ね、私は隣へ顔を向けた。

もしかしたら​────

ほんの一瞬だけ、そんな考えが浮かんだ。
けれど、そこにあったのは、汗のせいか少し湿って、深く皺の寄った冷たいシーツだけだった。

誰かがいた形跡など、どこにもなくて。

「……あるわけないのに」

掠れた声が、暗い部屋の中へ落ちる。
ここはファントムの本部なのだから、来るわけが無い。
 
あれは全部、私が作ったものだったんだ。
聞きたかった声を思い出して、触れてほしかった手を身体の中から探し出して、自分が欲しい言葉だけをくれあに言わせていた。

ずっとここにいる。
一生大切にする。
私は今も、くれあのΩだと。
そんなことを、今のくれあは一言も言っていないのに。

私は身体を起こそうとしたけれど、腕にうまく力が入らず、もう一度シーツへ沈み込んだ。
その拍子に、首元へ何かが触れる。

無意識に手を伸ばすと、指先が噛み跡をなぞった。
少し盛り上がった皮膚の感触は、あの夜から何も変わっていない。

この跡を残したくれあは、あまりにも真剣な顔で責任を取ると言った。

私を大切にすると、迷いなく口にした。
あの言葉は嘘ではなかった。

きっと、翌日の戦いから帰ってきたあとも、ずっと私のそばにいるつもりだったのだろう。跡が薄くなればもう一度つけようと笑って、私が文句を言えば、だってるるかは私のだから、と少し得意そうに言うつもりだったのかもしれない。

そんな未来を、くれあ自身も疑っていなかったはずだ。
だからこそ、誰も責められない。
くれあは約束を破ったわけでも、私を捨てたわけでもないから。

ただ、忘れてしまった。
たったそれだけのことなのに、残された私の身体にとっては、死んでしまったことと何も変わらなかった。

むしろ、生きているからこそ苦しいのかもしれない。
くれあは今もどこかで笑っている。
同じ声で誰かの名前を呼び、同じ手で誰かへ触れている。

それなのに、その中に私だけがいなくて。
私を大切なΩだと言ったあの夜だけが切り離され、私の中にしか残っていない。

「……責任、取るって言ったくせにっ」

責めるような声にはならなかった。
ただ、酷く弱い音が零れただけだった。

こんなこと本人へ言えるはずもない。
今のくれあにとっては、身に覚えのない約束だ。そんなものを突きつけたところで困らせるだけだし、私を知らないあの子に責任を求めるなんて、それこそ勝手なことだと分かっている。

それでも、言わずにはいられなかった。

「一生、大切にするって……言ったのに」

声にした瞬間、視界が滲んだ。

泣きたくなんてないのに。
ヒートが終わった直後で身体が弱っているだけだと、そう思えば済むはずだった。少し休めば落ち着くし、明日になればいつものように振る舞える。
そうやって、これまでも何度もやり過ごしてきた。

けれど、今夜は、今夜だけは駄目だった。
熱の中で、あまりにも幸せな夢を見てしまったから。

「くれあ……」

また名前を呼んでしまう。
今度は幻さえ返事をしてくれなかった。
理性が戻ってしまったから、もう都合よくあの声を聞くこともできない。

「くれあ」

分かっているのに、もう一度呼ぶ。

「くれあ……っ」

何度呼んでも、残酷な程に部屋は静かなままで。

私は両手で顔を覆った。
指の隙間から涙が零れ、頬を伝ってシーツへ落ちていく。声を抑えようとしても喉の奥から嗚咽が漏れ、自分でも聞いたことがないほど情けない音が、誰もいない部屋へ何度も響いた。

こんなにも苦しいのに。
身体は今もくれあを求めているのに。
この跡だけは、何も失われていないような顔をして残っている。

噛み跡へ触れていた指へ、無意識に力が入った。

消えてしまえばいい、こんなもの。
これがあるから、身体はくれあを自分のαだと信じ続けるんだ。
ヒートが来るたび、どこにもいない匂いを探し、返ってこない声を待ち、もう存在しない腕へ縋ろうとしてしまうんだ。

「……こんなのっ、いらないっ」

爪を立てる。
皮膚に鋭い痛みが走り、赤くなった場所へさらに力を込める。

けれど、跡は消えない。
何度擦っても、皮膚が傷つくだけで、あの夜に刻まれた形だけはそこに残り続ける。

「なんで……っ」

この印を残した本人は、もう何も覚えていないのに。
私へ許しを求めたことも、嬉しそうに笑ったことも、残した跡を大切そうに撫でたことも。

全部忘れたのに。
どうして、私だけが覚えていなければならないの。
どうして、この身体だけが、あの夜から少しも進めずにいるの。
どうして、どうしてあの子は​───

もう一度爪を立てようとして、指が止まった。

でも、もし…もしこれがなくなったら。

あの夜、くれあが私を選んでくれたこと。
私が首を傾け、噛んでもいいと許したこと。
責任を取ると言われ、胸の奥がどうしようもなく嬉しくなったこと。
少しだけ痛かったのに、それ以上に幸せで、触れるたびにくれあのものになれたような気がしていたこと。

この想いを私まで忘れてしまったら。
あの夜のくれあは、今度こそ本当にどこにもいなくなる。

「…それは…嫌」

爪を立てていた指から力を抜き、今度は傷つけないようにそっと跡を覆った。

痛い。
触れているだけで苦しい。

それでも、手を離すことはできなかった。

どうしようもなく、消えてほしいのに。
消えてしまったらどうしようもないほどに耐えられない。

忘れたいのに。
忘れてしまうことの方が、ずっと怖い。

探偵も笑ってしまうようなわけのなからない矛盾した願いを抱えたまま、私はただ泣き続けた。


​──────


少し落ち着いた頃、扉の向こうから微かな音がした。

一度だけ、何かが触れたような、ごく小さな音で。

私は息を止め、顔を上げた。
こちらへ入ってくる気配もなく、ただ扉一枚隔てた向こうで、誰かが静かに座っているような、そんな気配だけがあった。

マシュタンだと、なぜかすぐに分かった。

私の様子を気にしていた。
彼女なら、私が大丈夫だと言っても本当に平気なのか確かめに来るかもしれない。

名前を呼ぼうとして、やめた。
今、声を出せば泣いていたことが分かってしまう。喉が掠れていることも、ヒートが来ていたことも、全部知られてしまう。
それに、扉を開けてもらったところで、マシュタンに何ができるわけでもない。

欲しいのは、マシュタンではない。

「…っ」
 
一瞬でもそんなことを思ってしまった自分が嫌になり、私は唇を強く噛んだ。

心配してくれているのに。
こんな私のそばにいてくれているのに。

それでも身体の奥に残っているのは、くれあでなければ意味がないという身勝手な渇きだけだけでいっぱいで。

私は涙を拭い、乱れた呼吸を整える。
きっと、マシュタンが心配してるだろうから。早く彼女のところに行かないと。

そう思って、少しずつ身体を起こし、ベッド脇へ手を伸ばす。
そこには、外したままになっていた黒いチョーカーが置かれていた。

それを手に取り、鏡の前へ立つ。

泣き腫らした目。
涙の跡が残った頬。
爪を立てたせいで赤くなった首元と、その下に変わらず残る噛み跡。

あの夜のくれあが、私へ残したもの。
今のくれあが、存在さえ知らないもの。

私はしばらくそれを見つめたあと、ゆっくりとチョーカーを首へ回した。

金具を留める。
カチリ、と小さな音がした。

黒い革が噛み跡を隠す。
くれあが私を選んだ証も、私がまだあの子を自分のαだと信じていることも、鏡の中から見えなくなった。
けれど、見えなくなったところで、なくなるわけではない。

この身体も、この心も、きっとこれからもくれあを求め続ける。
 
だから、もしも。
もしも叶うなら、もう一度だけ​────

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コメント

  • すだち

    とても面白かったです。ぜひぜひ続きをお願いします!

    15時間前
  • Hellafxxk

    湿度が強く、二人の間のつながりは堅固でありながらも脆い。「どうしてこんなことになるんだろう…?」と感慨深く感じながらも、とても美味しく思え、書いたことに感謝します

    7月18日
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