百合の香りで目を覚ます、と言うより、香りが薄まった違和感で目を覚ましたと言う方が正しいか。
目を開けると、窓が開け放たれ、しつこいくらいに鼻をくすぐる香気を外に流していた。
「…おはよう」
部屋の空気も、開けた窓も、身動きのとれないのも…私にしがみつく「相棒」が犯人だった。
名探偵でなくても分かる…私がここに戻ってから、毎日こうだからだ。
「おはよう、るるか」
髪を撫でてやっても、笑うでもなく顔をますます埋めるだけ。懐けども媚びず、猫のような…とても愛らしい姿。
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「わー…今日もやってますね…」
後輩たちが苦笑いして見ている。きっと彼女らは、るるかが元々こんなだと思っているだろう。昔はもっと…普通の可愛げがある女の子だったはずだが、怪盗時代に培ったクールさと私が戻った安心感が混ざり、おかしなキャラクターになってしまっている。
「中学生には刺激が強過ぎると言うのに!いい加減に離れさせなさい」
「嫌よ…昨日の夜から8時間も離れていたんだから…」
そう、これでも寝ている間は離れるようになったので進歩しているのだ。気持ちが落ち着いたと言うよりは、私のプライバシーへの配慮だろう。とても賢いのに、この子は言い出したら聞かないところもある。自分で離れる気にならない限りはこのままだろう。
「はぁ〜!アンタたちるるかのことなぁんにも分かってないワネ!だいたい…」
マシュタンのフォローが始まる。最早日常となった微笑ましい光景だ。その間も、るるかは私の胴に手を回したままだ。
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麺棒を振るい、アーモンドを砕いていく。期間限定の新作の為の仕込み。業務用に予め砕かれたものも売っているが、煎りたての香りと鮮度はどうしても落ちてしまう。
パティシエの仕事は殆どが肉体労働だ。イメージと違うのは、探偵も似ているかも知れない。
「お仕事…?」
夏休みを利用して依頼を消化していると思ったら、るるかだけ帰ってきたようだ。マシュタンも連れていない。
「ええ。貴方も出かけたんじゃ?」
「簡単な依頼だったから、あんなとみくるに任せてきた…マシュタンも付いてるから安心」
「そうなのね…じゃあ、お手空きかしら?」
麺棒を差し出すと、黙って受け取った。そして、私にぴったりと寄り添って、厚手のビニールパックを叩き始めた。
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叩く音だけが室内に響く。私はずっとるるかに言えていない事があった。
『どうして怪盗団に入るなんて危ない事を』
ダブルスタンダードもいいところだ。方法が他に無かったとは言え、我が身を危険に晒した結果記憶を失った者にそんな事を言われても…失笑されるのがオチだ。
「…」
一袋を砕き終えると、るるかが手を止めて抱きついてきた。
「ちょっと…」
「休憩…」
「あのね、るるか」
「…」
「行かないわよ」
マシュタンという理解者はいた。でもそれだけでは到底足りない…彼女の孤独を埋めるには。何より、この事を考えるたび私の胸を穿つのは…誰よりそばに居て欲しかった人に、忘れられていたこと…。
いらっしゃいませ、と営業スマイルを向けたこと。
よく来てくれるからと、アイスをサービスしたこと。
何より…そんな虚な心を、分かってやれなかったこと…。
何がお客さんの心を見透かす名探偵パティシエか。これじゃ霊感商法のインチキ占い師だ。
「もう、どこにも…」
きっとこの白くて細い両手は、拘束のロープであり、手錠、手綱であり首輪だ。
2度と破るつもりはない…けれど、拘束具として生きるような不安や恐怖から…この手を解放してやりたい。
「違う…」
「え?」
「どこに行っても、思い出せるよう…今度こそ記憶の奥深くまで…」
記憶。そういうことか…私の記憶を呼び起こした百合の香りのように、彼女自身の香りを…。
「もう忘れ、ない…」
「今は執行猶予期間だから…」
名探偵は廃業しなければならないかも知れない。なんという思い違いをしたものだろう。
この子は、私を縛りたいのではない…どこに行っても、どんな無茶をしても、私を受け入れてくれるつもりなのだ…。
そしてその度に、自分がそれ以上の無茶で…私を取り戻すと、そう言っているのだ。
「るるか…」
「ん…」
返事の代わりに、唇で愛を伝えた。帰ってからしていなかったこと、できなかったこと…その想いを、ほんの数秒のうちに込めた。手に涙が落ちた。私はるるかの目をそっと拭った。
「くれあ…」
「さて、私の計算が正しければ、もう離れないとね…」
「ただいまー!」
「くれあさん聞いてー!今日マシュタンがね…」
やはりあんなとみくるは事務所ではなくパティスリーにやって来た。今は厨房にいるので、見られてはいない。
「流石ね…」
「もう間違わないから、私…」
さあ、猛暑の中一仕事終えてきた中学生たちにおやつを出してあげねば。やっぱりアイスがいいだろうか。
END