《昭和56年、打率で「圧倒的な数字を残す」という決意が、阪神・藤田平選手との首位打者争いに…》
規定打席に達したのは7月18日のヤクルト戦(後楽園)、3割3分で打撃30傑の8位になった。翌日のスポーツ紙を全紙買って確認しました、初めてですから(笑)。あの時代は3割打者が多かったですね。でも首位打者争いをしている意識はなかった。9月以降からですね、打率を意識し始めたのは。でも首位打者を獲(と)ろうなんて全くなかった。この1年はとにかくガムシャラにやる。それだけでした。
周囲は騒がしかったです。でも藤田さんは僕より10歳上(当時33歳)のベテランです。高校時代にはバッティングスタイルから〝藤田2世〟と呼ばれて、憧れてもいた。だから首位打者のタイトルは、すでに獲っていると思った。聞いたら獲ってないという。ちょっと偉そうかもしれないけど、逆に「獲ってほしい」と思った。
この経験を生かし、まだ若かった(当時24歳)からあと2、3度は首位打者を獲れるだろうと思っていた。あのとき、逆に獲れてしまったら天狗(てんぐ)になっていた可能性もあっただろうし、藤田さんが獲ってくれたことでその後、僕が頑張れたというのもある。若くして獲っちゃうと安心感というか、それを持つとダメじゃないですか。今の若い選手がそうよ。ちょっといいなと思うと次の年ダメになるのが多いでしょ。ゲームでもそう。今日打ったから、安心しちゃって次の試合で打てないとか。
《ラスト10試合は42打数20安打、4割7分6厘の集中力…》
もう無心ですよ。「来た球を打つ」という思いだけでやっていた。それで最終戦(10月11日中日戦で3打数2安打)で2位の3割5分7厘で終えた。上に藤田さんがいたというだけです。逆に藤田さんだからこそ残せた数字です。藤田さんは終盤、目を悪くされて(右目結膜炎)欠場していた。最終戦は大洋とのダブルヘッダー(10月12日)でした。規定打席に5打席不足してましたが、2試合で5打席4打数1安打1四球で3割5分8厘で首位打者になった。さすがですよ。
たった0・001差。でも3割5分7厘はシーズン打率で巨人歴代6位です。19年間の現役生活で最高打率でした。僭越(せんえつ)ながら王さん、長嶋さんよりちょっとだけいい成績を残せた。ONに直接指導を受けたおかげと感謝してます(※巨人歴代シーズン最高打率は①クロマティ・378②川上哲治・377③クロマティ・363④中島治康・3612⑤与那嶺要・3605⑦王貞治・3551⑧張本勲・3547⑨長嶋茂雄・353)。
このときに首位打者を獲れなかったことが、その後の5年連続3割、そして2度の首位打者につながったと思います。当時は3年連続3割を打って初めて野手として認められる時代だった。達成できたら首位打者を狙おうって。だから達成した後の59年は最初から狙ってシーズンに入った。
長女が生まれた年でもあって、何か記念を残したかった。3割3分以上を目標に掲げて臨みました。最終的にヤクルトの若松勉さん(当時37歳、47、52年2度首位打者)らとの争いを3割3分4厘で制することができたんです(※2度目は62年で3割3分3厘)。当時27歳だった。バッティングも一番自信を持って臨めていたときでした。154安打は僕にとって最多安打になりました。56年が起点なんです。
《56年はチームも8年ぶりの日本一、伊東キャンプ組の活躍もあった…》
僕らがグラウンドで結果を出すことが、ミスターへの恩返しになる。伊東キャンプをやったという成果を僕だけではなく、メンバー個人個人、みんな持っていたと思います。「ミスターに恥をかかせてはいけない」ってね。いろんな意味で最高のシーズンでした。(聞き手 清水満)