認知科学者からの問題提起:二重過程理論で政治を語ることはどう間違っているのか?
先日、Yahoo!ニュースに転載されていた『Forbes JAPAN』の長いインタビューを読みました。登場するのは、オランダの政治戦略家バス・アーリングスです。
彼は、研究室からポピュリズムを眺めてきた人ではない。自由民主国民党(VVD)の選挙戦略家として、ヘルト・ウィルダース率いる自由党(PVV)と実際に戦ってきた人です。緻密な政策反論を出しても、討論で内容的に勝っても、支持率が動かない。そこで彼は、ダニエル・カーネマンの二重過程理論、ジョナサン・ハイトの道徳心理学、ジョージ・レイコフのフレーミング理論などを選挙戦へ取り入れていったという。[注1]
見立てはわかりやすい。ポピュリストは、複雑な政策論よりも、感情、物語、敵と味方の区別に訴える。それらは、速く、自動的に働く「システム1」に届きやすい。これに対してリベラル側は、正確なデータやファクトチェック、長い政策説明、つまり「システム2」的な手段で応戦しがちである。そもそも戦っている場所が違う。だから勝てないのだ、と。
これは、現場を知る人の観察としてかなり面白いと思います。アーリングスは、ポピュリストを支持する人々を「考えない愚かな大衆」として切り捨ててもいない。住宅、賃金、帰属、安全への不安を認めたうえで、なぜポピュリストの物語がそれをうまく回収するのかを考えている。SNSだけを諸悪の根源にせず、経済や生活の問題と、それを増幅するメディア環境を分けているところも、落ち着いています。ここは、きちんと受け止めた方がいい。[注2]
こうした説明は彼だけのものではありません。いま、ポピュリズムを二重過程理論で読むことが、一般向けの政治論で流行っている。少なくとも、以前より目につくようになりました。
たとえば、カナダの哲学者ジョセフ・ヒースも、ポピュリズムを、ある認知スタイルを特権化する政治戦略として捉えています。「人民の常識」と「専門家の小難しい理屈」の対立を、ファストな認知とスローな認知の対立として読むわけです。ここでは詳しく紹介しませんが、ヒースほどのビッグネームも同じ傾きの議論をしている、とだけ確認しておきましょう。[注3]
さて、ここからが本題です。
この記事のタイトルを見て、「認知科学者が、二重過程理論を社会へ単純に適用するのは間違いです、と専門家らしく訂正する記事なのだろう」と予想した方もいるかもしれません。
たしかに、その種の文章は多い。一般向けの説明を見つけて、「実際はもっと複雑です」「文脈依存です」「再現性には議論があります」と赤ペンを入れていく。これは研究者にとって、わりと簡単な仕事です。たいていのことは、実際にはもっと複雑だからである。
もちろん、正確さは大事です。しかし、間違いを指摘したところで仕事を終え、読者が持っていた地図を破って白紙を渡すなら、それはしばしば、否定によるマウントになってしまう。
「あなたの理解は雑でした。以上」。
それでは、読者は次に何を考えればいいのでしょうか。
私は、その立場ではありません。
結論を先に言えば、ポピュリズムをそのまま「システム1」と呼ぶのは、かなり間違っていると思う。けれど、その説明を捨てろと言いたいのではない。どこまで説明でき、どこから先が説明できないのかを見ると、ポピュリズムについて、もっと豊かな議論ができるのではないか。理論を取り上げるのではなく、そこへ別の道具を足してみたいのです。
一般向けの地図を破るなら、別の縮尺の地図を渡さなければならない。研究者が社会に対してするべき仕事は、たぶん、そちらだと思っています。
ポピュリズム=システム1か?
二重過程理論については、ご存じの方も多いでしょう。大づかみに言えば、システム1は速く、自動的で、あまり努力を必要としない。システム2は遅く、注意や作業記憶を使い、いくつかの可能性を比べたり、直感的な答えを抑えたりする。カーネマンの『ファスト&スロー』で広く知られるようになった整理です。[注4]
厳密には、二重過程理論は一枚岩ではありません。「速い」「無意識」「自動的」「感情的」「間違いやすい」といった特徴が、いつもきれいに一つの束になるわけでもない。このあたりは注に回します。いま考えたいのは、もっと素朴なことです。
反リベラルな政治活動をしている人々は、本当にシステム1だけで動いているでしょうか。
SNSを少し眺めれば、そうではないとわかります。彼らは相手の過去の発言を検索する。統計を探す。政府資料や論文を読む。長い動画を見て、要点を切り出す。法律用語を覚え、複数の事件を比較し、主張の矛盾を探す。仲間と資料を共有し、「この場合はこう返す」という議論の型を学ぶ。
もちろん、そこで使われるデータが正確とは限りません。資料の選び方が偏っていることもある。引用が文脈から切り離されていることもあるでしょう。しかし、偏っていることと、考えていないことは同じではない。むしろ、かなり考えている、つまりシステム2を使っているとも捉えられないでしょうか?
思うに、私たちは、システム2を少し美化しすぎているのかもしれません。考えれば、思い込みから自由になる。考えれば、寛容になる。考えれば、正しい答えへ近づく。もちろん、そういう場合もある。ただ、人は結論を変えるためだけに考えるのではありません。すでに持っている結論を守るためにも考える。
自分に不利な証拠には厳しい反論をつくり、自分に有利な証拠には寛大になる。反対派の失敗は構造的な欠陥として扱い、自陣営の失敗は例外や不運として処理する。政治心理学でいう「動機づけられた推論」です。熟慮は、偏見を壊すためにも使えるが、偏見をきれいに補強するためにも使える。[注5]
だから、システム1を使うとポピュリズムに陥る、システム2を使えば人は寛容になる、というわけではなさそうである。人は偏見を守るためにも、長く、精巧に考えることができるのです。
どこでアーリングスの議論はずれたのでしょうか?彼が見ているのは、あるメッセージが有権者へ届く瞬間です。なぜ短いスローガンが、長い政策説明より強いのか。なぜファクトチェックが、物語全体を崩せないのか。この問いに対して、二重過程理論はかなり役に立つ。
しかし、現在の政治は、一度メッセージを受け取って投票して終わりではありません。毎日のように文化戦争へ参加する人がいる。同じ相手を批判し、資料を集め、投稿し、仲間の反応を見る。その活動を何カ月も、何年も続ける。
なぜ、毎晩またそこへ戻ってくるのでしょうか。ポピュリズムの「粘り強さ」を相手取る時、この点の考察をする必要があるのではないでしょうか。
これは、メッセージが一度届くこととは、別の問題です。そして二重過程理論は、この「続けたくなる」という時間を、あまりうまく説明しない。間違っているというよりも、うまく説明できないのです。
さて、「ポピュリズムはシステム1、私たちはシステム2」という流布されている物語は、リベラルや専門家にとって、かなり気持ちのよい物語でもあるのは分かるでしょう。相手は感情、こちらは理性。相手は反射、こちらは熟慮。これほど速く理解でき、自分の優位を保証してくれる説明も珍しい——つまりその物語自体がシステム1的ではないか、という嫌味を言うこともできます。
リベラルは、程よく倒せる強敵である
ここからが本題です、別の理論を持ち込んでみましょう。
それは「フロー」です。
ご存じの方も多いかと思います。少しいかがわしい響きもありますが、ちゃんとした認知科学的な知見です。
心理学者ミハイ・チクセントミハイが研究した概念で、活動へ深く没入し、時間を忘れ、自分がやっていることと意識が滑らかにつながるような経験を指します。「ゾーンに入る」と言い換えられることもある。フローが起きやすいのは、目標がわかりやすく、結果がすぐ返ってきて、課題が簡単すぎず難しすぎず、活動のなかで上達を感じられるときです。[注6]
たとえばゲームは、フローを生みやすい。何をすればよいかが明確で、成功と失敗がすぐわかり、少しずつ難しくなり、自分も少しずつ上手くなるからです。難しすぎれば投げ出してしまう。簡単すぎれば飽きる。現在の技能より、ほんの少しだけ難しい課題が、没入をつくる。
この観点から、SNS上の反リベラル活動を見てみましょう。
反リベラルな物語のなかで、リベラルは巨大な権力として現れます。大学、マスメディア、大企業、などなど。とても大きな敵で、簡単には倒すことは難しい。
他方、SNSの炎上の「現場」ではどうでしょうか。一人の大学教員の失言、一人の活動家の矛盾、リベラル側の一つの不用意な発言。これは「突くこと」ができます。ポストを引用し、批判を集め、謝罪や削除を引き出すことができる。相手が黙る。投稿を消す——大勝利、というわけです。
つまり、「リベラル」は、多くの場合程よく倒せる敵なのです。
そして、一つの論争が終わっても、次の失言、次の選挙、次の炎上が来る。巨大な敵は倒れないままなので、ゲームは終わりません。ラスボスは残っているが、小さな勝利と経験値は毎日もらえる……よくできた構造です。
ここで言いたいのは、反リベラルな人々が政治的信念を持っておらず、ただゲームを楽しんでいる、ということではありません。住宅や雇用への不安、文化的な疎外感、道徳的な怒りもあるでしょう。フローで説明したいのは、その思想が生まれた原因ではなく、活動の持続、反復、没入、上達感——もっと言えば、「お金をもらってるわけでもないのに、なぜそんなに熱心になれるのか?」です。
まとめると、二重過程理論は、なぜそのメッセージが一度届くのかを説明する。他方、フロー理論は、なぜその活動に繰り返し参加したくなるかを説明する。こう分けると、見通しがよくなります。
ただし、「アンチ・リベラルはフローしている」と断定するのは早い。私は当事者の主観状態を測っていません。そこで起きているのがフローなのか、仲間からの承認による強化なのか、習慣なのか、不安からの確認行動なのかも区別が必要です。
ここで出しているのは、SNS上の反リベラル実践には、明確な目標、即時フィードバック、技能の上達、程よい難易度、終わりなく供給される課題という、フローを誘発しやすい活動構造があるのではないか、という仮説です。
これは「科学」として調べることができます。活動中の経験を測り、投稿履歴から技能の学習を追い、どんな反応が「勝利」として感じられているのかを見ることができる。また、反リベラルだけでなく、進歩派による糾弾や、ファンダム同士の論争、投資コミュニティなどと比較してもいいでしょう。
陰謀論とポピュリズムは「同じ」か?
ここから、もう少し仮説的な話をします。
陰謀論とポピュリズムは、よく一緒に語られます。実際、「腐敗したエリートが裏で結託し、普通の人々を騙している」という話は、人民対エリートというポピュリズムの物語へ、そのまま接続しやすい。ヒースも、直感的な「常識」を特権化し、分析的な検証を敵視することが、陰謀論との親和性を生むと論じています。[注7]
ただ、両者は同じものなのでしょうか。
陰謀論は、まず出来事の説明です。表面に見えていることの背後で、強い主体が秘密裏に協力し、結果を意図的につくっている、と考える。
「何かがおかしい」
「これは偶然ではない」
「得をした人間がいる。ならば、そいつが仕組んだのではないか」
そんな直感が先に立つ。
こうした意味では、陰謀論は概ね、システム1の暴走として理解しやすいのでしょうか。偶然の並びに意味のあるパターンを見つけ、複雑な因果を一人の意図へまとめ、曖昧な情報を脅威の証拠として読む。すると世界が、急にわかりやすくなる。
急いで補足しましょう。陰謀論と一口に言っても、さまざまなパターンが考えられます。「全ては〇〇の陰謀!」といったいわゆる陰謀論から、「私たちはただ"真実"を知りたいのです」という、いわば懐疑主義的な陰謀論もあります。
さらに、当たり前のことですが、陰謀論を信じる人も考えます。大量の資料を集め、数字を比較し、映像を一コマずつ見て、複雑な説明をつくる。だから、陰謀論もシステム1だけではない。直感的な疑念に火がつき、その後でシステム2が、都合のよい証拠を選び、信念を守るために働くことがある。最初に結論があり、調査がその結論の周囲へ壁を築いていく。
それでも、ポピュリズムとは認知活動の組織され方が違うのではないか。
ポピュリズムは単なる信念ではありません。支持者を集め、敵をつくり、「人民」を代表する政治家を立て、選挙を戦い、メディアを運用する運動です。そこには、直感的な反応を引き出すメッセージだけでなく、そのメッセージを慎重に設計する戦略家、データを見るスタッフ、演説を直す政治家、反応を分析する広報担当、拡散を考える活動家がいる。
アーリングス自身が、まさにその例です。彼はシステム1へ届くメッセージを、システム2を使って設計している。直感に任せて選挙戦をしているのではない。何が人々の感情へ届くかを、かなり意識的に考え、試し、修正している。
つまりポピュリズムでは、システム1とシステム2が、一人の頭の中だけで相互作用するのではない。運動のなかで分業されている可能性があります。
ある人が熟慮的に設計し、別の人の直感へ届ける。受け手は反応し、共有し、ときに長い説明をつける。その反応が数字として返り、戦略家がまたメッセージを調整する。システム1と2が、集団とプラットフォームをまたいで循環している。
この見方に立てば、概ねシステム1的な疑念から始まりやすい陰謀論と、システム1・2の相互作用を政治的に組織するポピュリズムを、別の枠で考えられるかもしれません。
もちろん、この区別にはエビデンスが必要な、開かれた課題です。
ただ、私がこの記事で強調したいのは、「システム1」というレッテルを安易に貼って終わらない方が豊かな議論ができる、ということです。そのレッテルで何が見えなくなるのかを疑う。すると説明すべきことが増える。つまり社会を、前より豊かに語れるようになるのです。
「二重過程理論語り」が隠蔽するもの
ここからはさらなる応用です。そもそも二重過程理論とは、どのようなものでしょうか。再考してみましょう。
名前からして、すべての認知活動は、このシステム1・2という分類に回収されてしまうようにも見えます。しかし、本当にそうなのか。注意して欲しいのは、これは細かい例外を探したいわけではないことです。たとえば「この課題は1.5です」みたいな話をしたいのでもない。もっと大きな人の認知的側面が、この分類では隠蔽されてしまうのではないか、という話です。
そこで考えたいのが、視点の切り替え(視点取得、英語ではperspective-takingと呼ばれる)です。
視点取得については、認知心理学、社会心理学、発達研究、臨床分野まで、大量の文献があります。相手から何が見えているかを推測する。相手が何を知り、何を知らないかを考える。自分とは違う立場から、同じ出来事を見直す。これは、人に備わっているかなり基本的な社会的認知です。[注9]
これは、システム1でも2でもない「第三のシステム」だ、と言いたいわけではありません。正確に言うと、システム1・2という分類が取りこぼしている認知の一側面を表しているのではないか、ということです。
視点取得は、速く起こることもあります。実験では、他者に何が見えているかを、本人が意図しなくても素早く計算してしまう可能性が示されてきました。あるいは日常でも、小説や映画の一場面によって、「この人にはこう見えていたのか」と急に見方が変わる経験は誰しもしたことがあるでしょう。
一方で、かなり意識的な作業が必要な時もあります。自分が知っていることを脇へ置く。相手が持っている情報だけを頭に残す。自分の利益や常識をいったん抑え、「この条件に置かれた人には何が見えるか」を時間をかけて考える[注9]。つまり、視点取得は速い場合も遅い場合もある。
二重過程理論は、思考がどれほど速く、どれほど統制されているかを見るものでした。それに対して、視点取得は、その思考がどの位置に立っているかを見る。問いの種類が少し違うのです。
乱暴ですが、表にするとこうなります。
これは、既存研究で確立した四分類ではなく、今回の議論のための作業仮説です。ただ、この図を置くと、システム1は悪く、システム2は善い、という話ではないことが見えやすくなる。
ゆっくり考えていても、視点が固定されていれば、自分の陣営の正しさを精密に説明するだけかもしれない。反対に、速い反応でも、相手の苦痛や恐怖が急に見えることで、視点が動く場合がある。
思考を遅くするだけでは、思考している場所までは変わらないのです。
社会心理学では、他者の視点を取るよう促すことで、ステレオタイプなどが弱まるという古典的な研究があります。ただし、視点取得は魔法ではない。相手についての情報が少なければ、手元にあるステレオタイプを使って「きっとこう感じている」と想像することなどもある。[注10]
つまり、視点取得は「優しい気持ちになりましょう」という話ではありません。自分と他者の境界を、認知的にどう組み替えるかという技術なのです。
そしてローティ・ロールズへ
ここまでの知見を踏まえ、さらにトリッキーな議論に移りましょう。
視点取得を軸にすると、実はかなり別の棚に置かれている二人の思想家を、一緒に読めるのではないか、と私は考えています。リチャード・ローティとジョン・ロールズです。
ご存知の方も多いでしょう。ローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』などで、連帯を、すべての人間に共通する本質の発見からではなく、他者がどのように苦しんでいるかを具体的に知ることから考えました。小説、ルポルタージュ、民族誌、証言。抽象的な「人間」ではなく、ある人の生活の細部へ近づいていく。[注11]
そこで起きるのは、他者を厚くすることです。
属性名だけで平らに見えていた人に、声、家族、仕事、恐怖、冗談、欲望が戻ってくる。「移民」「トランスジェンダー」「生活保護受給者」といったカテゴリーだった存在が、具体的な一人になる。その人が何を恐れ、どんな朝を迎え、どんなことで笑うのかが見える。ローティの言う感傷教育は、物語や具体的な苦痛を通じた視点移動として読み直せる。
一方、ロールズの提案する有名な思考実験・無知のヴェールは、逆の方向から働きます。社会の基本的なルールを選ぶとき、自分が多数派か少数派か、富裕層か貧困層か、健康か病気か、どんな才能や家族を持つかを知らない、と仮定する。現実の自分に偶然与えられた属性を一度使えなくし、どの立場に生まれても受け入れられる制度を考える。[注12]
こちらで起きるのは、自己を薄くすることです。
ローティは、他者の具体性を増やすことで、自分の位置をずらす。ロールズは、自分についての情報を減らすことで、自分の位置をずらす。一方は具体へ降り、もう一方は抽象へ上がる。方向は反対ですが、どちらも、いま自分が立っている場所を世界の中心にしないための技法——つまり、視点の切り替えを促す別々の方法だと捉えることができます。
どうでしょうか。
ローティとロールズは、ふつう、感情と理性、文学と哲学、連帯と制度といった対比で並べられます。しかし、視点取得という観点から腑分けすると、二人は別の方法で同じ仕事をしているように見えてくる。
ローティは他者を厚くし、ロールズは自己を薄くする。
どちらも、現在の自分の視点をずらしている。
ここで注意したいのは、「ローティは感情だからシステム1、ロールズは理性だからシステム2」と分類する話ではない、ということです。小説を読むには時間がかかるし、解釈も必要です。無知のヴェールによる判断にも、直感や感情は入る。両者はシステム1・2のどちらかを代表するのではなく、その軸と直交する、視点をどう動かすかについて異なる方法を提案している。
とはいえ、介入の入り口としては違いがある。ローティ的な物語は、具体的な一人へ急に接近させ、速い情動的な視点移動を起こすことがある。ロールズ的な思考実験は、自分の属性を意識的に外し、時間をかけて制度を考えさせる。
片方は、目の前の他者を見えるようにする。もう片方は、その相手を好きになれなくても権利が守られる仕組みを考える。
ここから、たとえばマイノリティをめぐるバックラッシュ勢の拡大に対しては、以下のような処方箋を与えることができます。もちろん、一般的に言われているように、ファクトを提示することは必要です。しかし、相手が同じ位置に立ったままなら、増えた情報は、その位置を守るために使われるかもしれない。だから、具体的な他者の生活へ近づくローティ的な移動と、自分がどの位置に生まれるかわからないところから制度を考えるロールズ的な移動が必要になる。
物語だけでは、そのとき共感できた相手しか守れないかもしれない。「この人は感じがいいから助けたい」という話にとどまる危険がある。制度論だけでは、誰の苦痛がそもそも見えていないのかに気づけないかもしれない。抽象的に平等を語りながら、現実の細部を見失うことがある。
だから両方いるのです。他者を厚くし、自己を薄くする。その往復によって、視点移動は一時的な感情から制度へ、制度からまた具体的な生活へ戻っていける。
それでも、認知科学で社会を語っていいのか
この記事では、ポピュリズムを説明する認知科学の知見として、二重過程理論に加え、フローと視点取得について説明してきました。改めてみてみると、最初の記事での「ポピュリズム=システム1」よりも、ずいぶん豊かな議論ができることがわかるのではないでしょうか。
メッセージが届く瞬間と、活動が続く時間を分けられる。陰謀論とポピュリズムを分けられるかもしれない。思考の速さと、視点の位置も分けられる。そしてローティとロールズを、二種類の視点移動として読み直せる。
認知科学は社会や政治を語る時になかなか使えそうだ。
しかし、ここには根本的な問題があります。これです。
認知科学で社会や政治について語ってよいのでしょうか。
認知科学の実験は、多くの場合、個人を対象にしています。画面に刺激を出し、反応時間を測る。課題を解いてもらい、質問紙に答えてもらう。そこで得られた概念を、そのまま「日本社会はシステム1で動いている」「保守派はバイアスに支配されている」「ポピュリストはフローしている」と、社会全体へ拡大するのはかなり危ない。
昔、精神分析の言葉で国家や民族を一人の患者のように診断する議論がありました。国家が父を失った、社会が去勢された、敗戦のトラウマを反復している……比喩として面白いものはある。私としては、精神分析が語るのが得意な事象と語るのが苦手な事象とがあり、戦争や国策は語りやすい事象である、というやや肯定的な立場をとっています。しかし、やはり、「科学的」かと言われると疑念の余地がある。
さて、認知科学は、こうした精神分析を通じた政治・社会語りのアップデートバージョンとして暗に欲望されているように感じます。そして、「無意識」や「去勢」を「システム1」「バイアス」に置き換えただけで、同じことをする危険を孕んでいる。より科学的に見えるぶん、かえって注意が必要です。
だからといって、「認知科学で社会は語れません」と撤退する必要もないと思います。鍵になるのは、個人と社会の間を見ることです。
個人の注意、直感、熟慮、フロー、視点取得がある。これはミクロな水準です。一方で、政党、法制度、経済、歴史、メディア産業がある。これはマクロな水準で、認知科学だけでは説明できない。
その間に、メゾの水準があります。
SNS、ニュース、政治団体、コミュニティなどなど。個人が投稿し、仲間が反応し、それを見た人が行動を学び、組織がメッセージを修正する、など。つまり、個人の認知を、持続する社会的活動へ変える環境、これがメゾの水準です。
そして、認知科学が社会を語る正当性は、このメゾの水準であればかなり認められるのではないか、と私は考えています。[注13]
「アンチ・リベラルはフローしている」と一括診断するのではなく、「この活動環境には、フローを誘発しやすい条件がある」と言う。「ポピュリズムはシステム1である」と言うのではなく、「このプラットフォームでは、短く、反復的で、敵味方をすぐ識別できるメッセージが選ばれやすい」と言う。
人の頭へラベルを貼るのでなく、どんな環境が、どの認知を繰り返し使わせるのかを見るわけです。すると、理論を検証する方法も見えてくる。プラットフォームを比較できる。フィードバックの表示を変えられる。どの介入が視点移動を起こし、どれが逆に固定を強めるのかを測れる。
ポピュリズムも、一つの巨大な「心」ではありません。政治家、支持者、投稿、スローガン、アルゴリズムが結びついてできる集合体です。そのなかで、ある認知の仕方が増幅され、ある活動が楽しくなり、ある視点が固定される。
このように考えれば、認知科学は社会のすべてを説明しなくてよい。なぜ、ある言葉が届きやすいのか。なぜ、ある活動が繰り返されるのか。なぜ、ある環境では別の視点へ移りにくいのか。大きすぎず、小さすぎない仕組みを、測定できる形で提案すればよいのです。
認知科学は、社会の真相を一語で暴く万能診断ではない。個人と環境の間に、検証できる中くらいの仕組みを出していく。そういう仕事なら、十分にできる——これが、本記事の大きなレベルでの結論になります。[注14]
認知科学を捨てるな!もっと認知科学を!
最初に紹介したアーリングスの観察は、やはり鋭いと思います。ただ、それを「ポピュリズム=システム1」の一行へ縮めると、考えながら活動する人々、活動が続く快楽、戦略家と支持者の分業、陰謀論との違い、視点の固定と移動が見えにくくなる。
だから、理論を捨てるのではなく、適切な理論をもっと増やせばいい。
二重過程理論は、そのうち一つの問いに答える。フロー理論は別の問いに答える。視点取得研究は、さらに別の問いを立てる。ローティとロールズをそこへ持ってくると、認知科学と政治哲学の間に、思いがけない通路ができる。
こういうことが、私は面白いのです。
認知科学を振り回して、人々へ「システム1」「バイアス」「フロー」というラベルを貼るのでもない。反対に、「社会は複雑だから認知科学には何も言えません」とシニカルな態度に陥るのでもない。
そうすると、社会について、今までより少し豊かで、かなり面白い議論ができるのです。
理論をただ知り、当てはめるのではなく、理論を組み替え、新たな解決法や問題を見つける人。そんな存在になりたくないですか?
最後に、少しだけ宣伝をお許しください(笑)。
実は私はいま、認知科学、集合知、人文思想を横断しながら、研究や企画、組織の問いを一緒に整理するコンサルティングを準備しています。まだ詳しいプランは準備中ですが、気になる方はnoteかTwitter(X)のDMでご連絡ください。
理論の正しい使い方だけでなく、理論の組み合わせ方や、そもそも理論を正しく使うとはどういうことなのか、などなどを一緒に考える。そんな仕事をしたいと思っています。
注
注1 参照したのは、二〇二六年六月二十九日付の『Forbes JAPAN』掲載記事「オランダの選挙歴戦を制した政治戦略家が語る『ポピュリズムの物語に対抗する究極の処方箋とは何か?』」である。記事中でアーリングスは、VVDの選挙戦略家としてPVVのヘルト・ウィルダースと戦い、従来の政策反論が効かなかった経験から、カーネマン、ハイト、レイコフへ向かったと説明している。なお、記事に出てくる選挙成果の因果的評価は、独立した検証結果というより、まず本人による実務経験の語りとして受け取るのがよいだろう。(Forbes JAPAN)
注2 同インタビューでは、ポピュリズムの背景にある住宅、賃金、経済的不安などの構造的問題と、SNSによる増幅が区別されている。また、支持者を愚かだと見なすのではなく、安全や帰属を求める人として理解すべきだという趣旨も語られている。本文では、アーリングスの説明を批判対象として単純化しないため、この点を重視した。(Forbes JAPAN)
注3 ジョセフ・ヒース「ポピュリズムを分析する:ファスト&スローの観点から」(二〇二五年十月二十日)。ヒースは冒頭で、ポピュリズムを「特定の認知スタイルを特権化する政治戦略」として見ることを提案し、「常識」と抽象的・分析的思考の対立を二重過程論へ接続している。本文では議論の細部へ立ち入らず、こうした説明が一人の選挙実務家だけのものではないことを示す例として挙げた。(経済学101)
注4 二重過程理論は単一の理論ではなく、推論、意思決定、社会的認知などに関する複数のモデルの総称に近い。Evans and Stanovich(2013)は、タイプ1処理を作業記憶への依存が小さい自律的処理、タイプ2処理を作業記憶に依存し、仮説的可能性を扱える処理として整理している。一方、Melnikoff and Bargh(2018)は、速い/遅い、無意識/意識的、自動的/統制的、非合理/合理的といった性質が、いつも二群へ整然と分かれるという考えを批判する。日本語の一般向け導入としては、カーネマン『ファスト&スロー』がもっとも読みやすい。(PubMed)
注5 政治的信念を評価するとき、人が態度に一致する議論を受け入れやすく、反対する議論にはより多くの反論を生成することについては、Taber and Lodge(2006)が代表的である。熟慮能力が高いほど常に偏りが減るわけではなく、能力が自陣営の立場を防衛する方向へ使われる可能性も、政治心理学では論じられてきた。ここから、すべての熟慮が偏見を強めるとは言えない。本文で必要なのは、熟慮と中立性を同一視できないという点である。(Wiley Online Library)
注6 フローについては、M・チクセントミハイ『フロー体験――喜びの現象学』今村浩明訳、世界思想社、一九九六年を参照。明確な目標、迅速で曖昧さの少ないフィードバック、挑戦と技能の釣り合いは、フローが生じやすい代表的な条件として整理される。ただし、それらが揃えば必ずフローになるという必要十分条件ではない。(世界思想社)
注7 ヒースは、ポピュリストが陰謀論へ引き寄せられる理由を、直感的思考の特権化と、直感を抑制する分析的手続きへの敵意から説明している。本稿はこの説明をそのまま否定するのではなく、陰謀論とポピュリズムでは、システム1・2が組織される水準や時間系列が異なるのではないか、と問い直している。(経済学101)
注8 ポピュリスト的態度と陰謀論的信念には関連があるが、両者は同義ではない。Castanho Silva, Vegetti, and Littvay(2017)は、とくに貪欲で腐敗したエリートを想定する陰謀論とポピュリスト的態度の結びつきを報告する一方、どのような陰謀論も一様にポピュリズムと結びつくわけではないことを示している。本文の「陰謀論は概ねシステム1的な疑念から始まりやすく、ポピュリズムはシステム1・2の相互作用を集団的に組織する」という区別は、確立した学説の紹介ではなく、今後検証すべき仮説である。(CEU Research Pure Portal)
注9 視覚的な視点取得について、Samson et al.(2010)は、他者が見ているものを無視しにくいという「速く非自発的な計算」の可能性を示した。一方、自己の視点を抑え、他者の視点を選択する過程には実行機能が関与することが、Qureshi et al.(2010)などで論じられている。ただし、こうした現象を本当に自動的な心的状態帰属と呼べるのかについては批判と再検討が続いている。そのため本文では、速い/遅い視点取得を厳密な二分類ではなく、政治的介入を考えるための便宜的な見取り図として用いた。(PubMed)
注10 Galinsky and Moskowitz(2000)は、他者の視点を取るよう促すことで、ステレオタイプ表出、ステレオタイプへのアクセス可能性、内集団びいきが弱まる可能性を示した。しかし、視点取得がつねに望ましい効果を持つわけではない。Galinsky, Wang, and Ku(2008)は、視点取得者が対象集団のステレオタイプを自己へ取り込み、よりステレオタイプ的に振る舞う場合を報告している。なお、他者の心を正確に知るには、頭の中で想像するだけでなく、本人から情報を得るperspective-gettingが重要だとする研究もある。本稿では論線を増やしすぎないため本文から外したが、Eyal, Steffel, and Epley(2018)、Kalla and Broockman(2023)を参照されたい。(PubMed)
注11 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、二〇〇〇年。本文の「他者を厚くする」はローティ自身の用語ではなく、残酷さや屈辱の具体的記述によって「われわれ」の範囲を広げるという議論を、本稿の視点移動モデルへ引きつけて言い換えたものである。(国立国会図書館サーチ(NDLサーチ))
注12 ジョン・ロールズ『正義論 改訂版』川本隆史・福間聡・神島裕子訳、紀伊國屋書店、二〇一〇年。無知のヴェールは、当事者が自分の社会的位置、自然的才能、人生計画などを知らない条件のもとで、正義の原理を選ぶ思考装置である。本文の「自己を薄くする」も本稿独自の言い換えであり、ローティの「他者を厚くする」と対になる認知的操作として提示した。
注13 この考え方は、マヌエル・デランダの政治哲学、特に『社会の新たな哲学』に啓発されたものです。デランダは、社会を一枚岩の巨大な全体として扱うことにも、すべてを個人の選択へ還元することにも反対し、人、会話、ネットワーク、組織、都市、国家といった複数のスケールの集合体を分析しようとします。小さな共同体から企業、都市、国家、社会運動までを、互いに組み合わさりながら創発するものとして見る。もちろん、私がここで出しているミクロ・メゾ・マクロの整理と、デランダの集合体論がそのまま同じだという話ではありません。ただ、社会を一人の巨大な主体にせず、かといって孤立した個人の足し算にもせず、複数のスケールの接続として見る態度は近い。マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学――集合体、潜在性、創発』篠原雅武訳、人文書院、二〇一五年。(紀伊國屋書店)
注14 「中くらいの仕組み」という表現から、社会学者ロバート・K・マートンの「中範囲の理論」を連想した向きもいるでしょう。ここでは、社会全体を一語で説明する大理論と、個々の事例の記述との間に、比較・測定・反証が可能な局所的メカニズムを置く、という広い意味で用いている。認知科学が社会について貢献しやすいのは、まさにこの水準だというのが本稿の方法論的な提案である。
参考文献
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ロールズ,ジョン(二〇一〇)『正義論 改訂版』川本隆史・福間聡・神島裕子訳、紀伊國屋書店。
欧文文献
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