「梅と桜」(『編集者・石川知実の静かな生活』)
桜の時期になると、あたしの心はいつもざわつく。
それは春になることのウキウキ感ではない。むしろ不安感に近いものだろう。
世間一般でも、年度が切り替わるこの時期に精神の不調を訴える人が多い。しかしあたしの感じるのはそれとは少し違っているようだ。自慢ではないが、あたしの神経は相当図太いので、メンタルを病むということがないのである。
あたしの不安感は、一斉に咲いて、一斉に散っていく、あの花の異様な生態に由来するのではないかと思っている。そこに自然の営みの神秘さというよりむしろ、人工的な不気味さを感じてしまうのである。
あたしのこの感覚はあながち的外れではなかったようで、この前聞いた話によると、桜の代表的な品種であるソメイヨシノは江戸時代に人工的に作り出されたものであり、しかも日本全国にあるソメイヨシノはすべてひとつの株に由来するクローンなのだという。だから同じ地域のソメイヨシノは同じタイミングで開花するのだそうだ。
最近、枝や幹を伐採されている桜の木をよく目にするようになったが、それもソメイヨシノがクローンであることと関係するらしい。日本各地に植えられているソメイヨシノの多くが戦後間もない時期に植えられたのだが、六〇〜八〇年とされるその寿命がちょうど今、尽きかけているのだという。
そういえば京都に住んでいた時は、春になると様々な種類の桜が咲いて、割と長い間、楽しめたように思う。もちろん京都でもソメイヨシノが多かったのだけれども、御室桜や八重桜といった遅咲きの桜もけっこう見ることが出来たからだと思う。このあたりはさすがに千年の都、京都たる所以か。江戸時代に生まれたソメイヨシノなど新参者、というところだろう。
そういうこともあって、あたしは個人的には梅の方が好みだ。梅は桜に比べると花も小ぶりで、ポツポツと控えめに咲く。そのたたずまいがむしろ日本女性の美徳のようで、いいなあ……と思ったりするのだが、これって封建的な感覚かしら?
比較的長い期間、咲いているというのも良い。早いものは一月くらいから咲き始め、三月くらいまではどこかで咲いている。紅梅、白梅と言うけど、梅には色々な種類があるので、一斉に咲くというのではなく、代わりばんこに咲いていく、ということなのだろう。
こうした花としても十分魅力的な梅であるが、それに加えて実が出来る、というのもポイントだ。
言うまでもなく梅干は梅の実の塩漬けであるし、梅の実をホワイトリカーに漬ければ梅酒になる。石川家では六月になると南高梅をキロ単位で仕入れ、梅干と梅酒を仕込む。
梅干の仕込みはけっこう手間仕事で、梅のヘタのところをきれいに取り除き、水で洗った後、水分をしっかり拭き取る。そしてきちんと消毒した大きめのガラス容器の中に、塩と梅を交互に積み重ねていく。石川家では基本、塩分一八パーセントだ。やはり梅干はこれくらい辛くないと! そして重しをしておくと、梅から梅酢が出てきて数日のうちにひたひたになる。そうして一月ほど漬け込んだ後、梅雨明けの晴れた日を狙って、漬かった梅を引き上げて「土用干し」をする。三日三晩しっかり干したら出来上がりだ。
梅干に比べると梅酒の方が簡単だ。ヘタを取ってきれいに洗った青梅を、氷砂糖と一緒にホワイトリカーに漬け込んで数か月ほどたてば、飲み始めることが出来る。どのくらい熟成させるかは好み次第だが、石川家では三か月ほどたってから飲み始めている。
不思議なのは、青梅のままだと毒があるので食べられないのに、梅干や梅酒にすると食べられるようになるということだ。調べたところによると、生の梅の実には青酸配糖体のアミグダリンが含まれていて、食べるとシアン化水素を発生させるのだという。青酸というと猛毒の青酸カリ(シアン化カリウム)を思い起こさせるが、梅の実のシアン化水素はそこまで強くなく、食べるとお腹をこわす程度だそうだが、それでも人体に毒であることには違いない。
きっと梅干や梅酒が発明される過程で、多くの人たちが試行錯誤をし、お腹をこわしたりこわさなかったりをしてきたのだろう。それはフグを食用にする歴史にも言えることだが、食を追求してきた先人たちには頭が下がる思いである。
最後に梅を使った知実のとっておきのレシピ。これはもともと女優の中谷美紀さんのエッセイで紹介されていたものだが、「玉ねぎの丸ごと煮」である。
鍋に出汁を用意して、皮を剥いた玉ねぎを丸ごと入れてひたひたにする。そこに玉ねぎ一個につき梅干を一、ニ粒入れる。あとは出汁がほとんどなくなるまで煮詰めて、仕上げにゴマ油をかける。
たったこれだけの工程だが、梅干から出る塩分でしっかり味が付くし、仕上げのゴマ油も香ばしくて良い。メインのおかずにはならないけど、あと一品という時にちょうど良いのだ。



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