「源氏物語のラスボス」(『編集者・石川知実の静かな生活』)
「知実、これ京都のお土産!」
「サクラコ先生、ありがとうございます。あっ……これって一乗寺の「中谷菓舗」の丁稚羊羹ですね!」
「よく分かったわね!」
「はい、昔……あの辺りにちょっとご縁がありましたので」
あたしが京都に住んでいたのは大学の四年間だ。あたしは京都の西側の北野白梅町に下宿していたのだが、京都大学の学生と付き合っていた時期があったので、彼の下宿があった左京区の一乗寺周辺は、少しばかり馴染みがあったのだ。
その日はいつものように小説家の梅田サクラコ先生に呼び出されて、銀座の資生堂パーラーでパフェのお供をしていたのだった。サクラコ先生は小説の取材のために先日まで京都に行っていたとのことだった。
「サクラコ先生……今度の小説はどんな感じになるのですか?」
「それがね……『源氏物語』を元にしたものなの」
それを聞いて、あたしはNHKの大河ドラマのことを思い起こした。
「まあ、流行りに乗る、っていうわけじゃないんだけど……たまたま『源氏物語』の浮舟にゆかりがある尼寺とご縁があってね、それで浮舟を主人公にした小説を書き始めたのよ」
「浮舟って、「宇治十帖」のヒロインですよね。宇治川に身を投げた……」
「そうそう」
五四帖から成る『源氏物語』のうち、最後の十帖は「宇治十帖」と呼ばれている。『源氏物語』のメインの主人公は光源氏であるが、この「宇治十帖」では光源氏の息子(実は妻・女三の宮と柏木との間の不義の子)である薫の君と、光源氏の孫で皇子でもある匂宮の二人が主人公をつとめる。そして薫の君と匂宮の二人から愛され、その板ばさみになって苦悩するヒロインが浮舟である。
浮舟はとうとう宇治川に身を投げるが、生き残り、ついには出家して愛欲のしがらみを断ち切る。
「出家した後の浮舟がどうなったかは、『源氏物語』本編には描かれていないの。でも北白川のある尼寺の縁起によると、出家した浮舟が庵を結んだのが、その寺のいわれとされているの」
「えっ、でも浮舟って、フィクションの登場人物ですよね?」
「まあ、もちろんそうなので、その縁起もフィクションと言ってしまえばそうなのかもしれないわ。でも、私はそこが面白いと思ったわけ」
「なるほど」
「そこで、「その後の浮舟」を小説として描いてみようと思ったの」
その尼寺の縁起によると、「梅壺の尼君」と呼ばれた浮舟は北白川の地に庵を結び、恵まれない女性を助け、支えるための慈善事業に一生をささげた。浮舟は康和二年(一一〇〇)に、当時としては非常に高齢となる一〇五歳で亡くなったが、尼寺はその後も女性の「駆け込み寺」として存続し、今に至るのだという。
サクラコ先生の小説は、尼となった浮舟が時代の流れを眺めながら、過ぎ去った日々を回想するという物語になるということだった。
「大河ドラマでは、主人公の紫式部と、時の最高権力者だった藤原道長が恋愛関係だったという設定になっていましたが、本当にそんなことあったのでしょうか……?」
「まあ、ドラマだからフィクションの要素があってもいいと思うけど、実際そういう説もあるそうよ……」
そう言うとサクラコ先生はかばんからA5サイズの大学ノートを取り出してページを繰り出した。これはサクラコ先生の制作ノートで、作品のプロットから取材メモまで、とにかく一冊のノートに書き付けるのだそうだ。それで最後のページまで埋め尽くすと、「よし、これで十分だわ!」と言って執筆に取り掛かるのだという。
「……そういう説は江戸時代くらいからあったみたいだけど、学問的に論じたのは歴史学者の角田文衞氏の論文「道長と紫式部」が最初のようね。ただ私は個人的には、それはなかったと思ってるわ」
「どうしてですか?」
「『紫式部日記』を読むと、確かに道長が紫式部にちょっかいを出すエピソードがいくつか書かれているんだけど……」
そう言いながらサクラコ先生はノートのページをめくった。
「道長が「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」という和歌を紫式部に送るんだけど、これは「『源氏物語』の作者は色恋沙汰の好き者と評判だそうだ。そんな女を口説かずに素通りする男はおるまい」という意味なの」
「えーっ! それってセクハラですよね」
「それを受けて紫式部は「人にまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむ」と返すの。これは「私には男性の経験などまだありませんのに、誰が好き者だなどと噂を立てているのでしょう」という意味なのね」
「すごいカマトト!」
「そう、カマトトなのよ。この時の紫式部は、夫に先立たれて娘が一人いるシングルマザーのキャリアウーマンなんだけど、そんなことは当然、道長も知っているわけ。それをあえて言うんだから、紫式部の方が一枚上手なのよね」
「ほほほほほ……という紫式部の声が聞こえてきそうですね」
「この後も道長はちょっかいをかけてきて、夜、紫式部が自分の寝所で寝ていると、外から戸を何度も叩く音がするの」
「夜這いをかけてきたのですね」
「それは明らかに道長の仕業なんだけど、紫式部は「おそろしい」と言って戸を開けずにガン無視するの」
「強いわね」
「他にも、おみなえしを手にした道長が紫式部にちょっかいをかけるエピソードがあるわ。おみなえしって恋の花という意味があるので、つまりは口説いているわけなんだけど、これも紫式部は「私なんてオバサンだから」って謙遜しながらいなすの」
「道長ってめんどくさいオッサンですね」
「紫式部もそう思ってたんじゃないかって、私も思うわ。でも、この『紫式部日記』はプライベートな日記じゃなくて、紫式部が仕えた中宮彰子の第一子出産前後の記録でもあるので、オフィシャルなレポートとして中宮彰子に提出されているから、当然道長も目を通しているはずなの」
「じゃあ道長も、自分のことが書かれているって気付きますよね」
「間違いないわね。それでも削除しなかったっていうことは、道長も自分が茶化されて書かれているのを楽しんでいたのかもね」
「私個人の感想なんだけど、紫式部は今でいうなら百合っぽい要素を持っていたんじゃないかしら」
「えっ、そうなんですか?」
「同僚の女房に少少将の君という女性がいて、最初職場でひとりぼっちだった紫式部に声をかけて最初に仲良くなった友人なのね。彼女とは寝所が隣だったんだけど、そのうち部屋のパーティションを取り払って、布団を二つ並べて寝ていたって書いているのよね」
「萌えるわね」
「紫式部は少少将の君のことを「容姿は可愛く、奥ゆかしく、ちょっと幼い雰囲気もあるけどそこがまた萌える」と評していてベタ褒めなの。でも残念なことに、彼女は若くして世を去ることになるの」
「そうなんですね……」
「まあ、これだけで紫式部が百合、っていうのはうがった見方かもしれないけど、そういう視点で『源氏物語』を見返すと、いろいろ見え方が変わるところもあるんじゃないかと思うの」
「たしかにそうですね。紫式部が作中の女性たちに向けるまなざしには愛がありますよね」
「『源氏物語』は、道長がパトロンとなって書かれた物語だし、光源氏は道長をモデルに描いたといわれるくらいなので、基本的なストーリーは男性の主人公の光源氏の栄光を描いているように見えるわよね。でも、女性側の視点に立つと、光源氏ってけっこうひどい男だし、必ずしも肯定的に描いていないわよね」
「「宇治十帖」の薫の君と匂宮も、自己中なダメンズですよね。浮舟がかわいそう……」
「そういう意味で言うと、『源氏物語』で決定的なゲームチェンジャーとなったのは、女三の宮という女性だと思うわ」
「柏木との間に不義の子、薫の君を産むんですよね」
「そう、光源氏が父の桐壺帝や兄の朱雀帝に対してやった仕打ちを、今度は自分がやられるわけよね。女三の宮の登場で、光源氏の人生の最後にケチが付いて、しかもその不義の子の薫の君が、続く「宇治十帖」の主人公になるわけだから、皮肉よね」
「いわば『源氏物語』のラスボスですね!」
「そう、女三の宮っていうのは、決して『源氏物語』の中で人気のあるキャラではないと思うんだけど、紫式部は彼女に、『源氏物語』の中でひどい目にあわされてきた女性たちの復讐をやらせたんじゃないかと思うわ」
「女三の宮って、つかみどころのない不思議ちゃんですよね。最後は出家しちゃうんだけど、残された薫の君のことは全然気にしていない様子だし」
「『源氏物語』では、最後には出家する女性が少なからずいるんだけど、紫の上だけは出家させてもらえないのよね」
「そうですね。紫の上は自分の死期が近いのを知って、出家させてほしいと光源氏に懇願するんだけど、光源氏はそれを許さないのですよね」
「私、これはひどいと思ったわ。紫の上こそ光源氏のモラハラ、セクハラの最大の被害者よね!」
「紫の上はまだ少女の時から光源氏にグルーミングされて、自分の意思とは関係なく女にされてしまって、それだけでもひどいと思うんですけど、最後まで自分の生き方を自分で決めることが許されなかったのですね」
「そういう意味で、最後は自分の意思で出家を決断した浮舟に、私は救いを感じるわ」
「救い……そうかもしれませんね」
「浮舟は薫の君と匂宮という二人の主人公に求められて、その板ばさみになって苦しむんだけど、二人のどちらもクズだと思うのが、二人とも浮舟をまともに妻として扱う気がないところなのよね。薫の君にとっては都合の良い愛人、匂宮にいたっては飽きたらポイっていうのが見え見えだからね」
「そもそも二人とも最初から浮舟を粗末に扱っていますよね。どちらも浮舟を強引に犯していますし」
「平安時代の当時でも、ちゃんとした男女の出会いは、最初は和歌を交わして、ある程度親しくなったところで、ようやく忍んで会うことが出来るようになる、という手順を踏むべきなのよね」
「薫の君はなかば強引に浮舟を宇治の屋敷に連れ去るし、匂宮にいたっては、最初は無理矢理犯そうとして未遂に終わり、さらには薫の君のふりをして寝所に忍び込んで強引に犯すわけだから、やってることは犯罪ですよね」
「それでも浮舟は、二人の板ばさみになるのを自分の罪だと思って、宇治川に身を投げるんだけど、生き残って、ついには出家するにいたるのよね」
「『源氏物語』の中でいちばん波瀾万丈なヒロインかも」
「浮舟が生きていたことを聞きつけた薫の君は、浮舟の弟の小君を遣わして、浮舟に復縁を求めるんだけど、浮舟はそれを拒絶するの」
「あたしはそこに浮舟の毅然とした意思を感じました」
「これまで身勝手な男たちに振り回されて、自分らしく生きることが出来なかった浮舟が、身投げして生き残ったことをきっかけにして、出家して自分らしく生きるように変わったのだと思うの」
「そうですね」
「『源氏物語』に登場する女性たちの多くは、自分らしく生きることが出来ずに、生きづらさを抱えた人生を送ってきたんだけど、物語の最後にこの浮舟をヒロインに据えたことで、作者の紫式部は女性たちへの希望を示したんだと、私は思うわ」
「『源氏物語』の真のラスボスは、浮舟なのかもしれませんね!」



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