透明な言葉(『編集者・石川知実の静かな生活』)
このたび取材することになった篠原栞さんは、以前、別のニュースで話題の渦中となった人だった。
彼女はもともとタレントだった。あたしは知らなかったが、主役ではないもののいくつかのドラマに出たり、バラエティ番組に出たりしたこともあったらしい。雑誌のグラビアを飾ったことも何度もあり、写真集も二冊、出しているとのことだ。
そんな彼女がある時、自分が性被害に遭ったことを告白し、ある有名タレントと番組プロデューサーを告発したのだった。
いわゆる「#MeToo」運動は、二〇一七年にハリウッドの映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏が長年にわたってセクシャルハラスメントを行ってきたことが暴露されたことをきっかけに盛り上がり、世界中に広がっていった。
日本でも、故ジャニー喜多川氏がジャニーズ事務所の所属タレントに性加害をしてきたことが明るみになり、二〇二三年にはついに事務所が解散するに至ったことは記憶に新しい。
彼女が性被害に遭ったのは、彼女が出演していたあるドラマに関連したパーティーであった。
そのドラマのクランクアップ後のパーティーは一度すでに都内で開催されていたのだが、その一月後に、ドラマで主演を演じた男性俳優Aの伊豆の別荘でバーベキューを行うということとなった。
そのパーティーの呼びかけ人はプロデューサーのBで、栞さんのところには所属事務所を通じて参加の打診があった。
芸能界の中でも、Aは人気のある俳優であり、またBはいくつものヒット作を出してきた敏腕プロデューサーであったので、次の仕事に繋がればと、栞さんも快諾した。所属事務所を通じての打診だったので、仕事の一環との意識もあった。
彼女は伊豆にあるAの別荘に着いたが、そこにはAとBだけがおり、他のドラマの出演者やスタッフの姿はなかった。そこで彼女は、AとBによって代わるがわるレイプされた。その凶行は夕方に始まり、明け方にまで及んだ。彼女がようやく解放された時、彼女の下半身は血まみれだった。
それから一週間、彼女は自宅から一歩も外に出ることが出来なかった。ようやく勇気を振り絞って、所属事務所に性被害にあったことを告白したが、事務所の社長はそれをもみ消そうとした。事務所にも見放された彼女は、一回目の自殺未遂を起こした。
辛くも一命を取り留めたが、そこから彼女は半年間の長期入院を余儀なくされた。下された診断はPTSD(心的外傷後ストレス症)であった。入院中、所属事務所は一方的に彼女との契約を破棄した。入院中に二回目の自殺未遂を起こしたが、病院内だったので発見が早く、大事には至らなかった。
退院して、彼女は実家のある金沢に戻った。そこで心身の療養につとめていたのだが、ある時、週刊誌のライターが彼女を訪ねてきた。そして彼女が遭った性被害を記事にしたいと告げた。
彼女は悩んだ。自分をレイプしたAとBのことは許せない。しかしどちらも芸能界で影響力のある大物であり、かたや自分は弱小タレント、しかも今や事務所からも解雇された身である。告発しても、とても勝ち目はないと思った。また、性被害を思い出すことによるフラッシュバックも苦痛であった。それで彼女は一度は断った。
しかしそのライターは根気よく何度も彼女の元に通って説得を続けたので、彼女もようやく取材を受けることに同意した。
はたして、週刊誌に掲載されたその告白記事は、世間で大きく取り上げられることとなった。おりしもジャニーズ事務所の問題があったばかりだったので、芸能界における性被害に対する世間の関心が高まっていた、ということも背景にあったのかもしれない。世間からのバッシングを受けて、Aは活動休止、Bは退職に追い込まれた。
しかしバッシングの矛先は性加害者に対してだけでなく、性被害者の栞さんにも向けられた。中でも多かったのは、この告発が売名行為ではないか、というものであった。また、Aの別荘にのこのこ出かけて行ったのは彼女の落ち度ではないか、というものもあった。
あたしが栞さんのことを知ったのは、ちょうどこの頃だったと思う。栞さんへのバッシングはSNSを通じて拡散していったようで、それを目にしたあたしは怒り心頭に達した。
「いったい誰が好き好んで、レイプされたことを吹聴すると思ってるの! ほんと、そんなこと言う人たち、許せない!」
あたしは職場でも家庭でも怒りをぶちまけた。『アートライフ』の編集部のみんなは、あたしの怒りをもっともだと思って一緒に怒ってくれたし、もちろん健太はあたしの怒りをしっかり聞いて受け止めつつ、穏やかになだめようとしてくれた。
あたしが怒ったのは、自分も同じような性被害に遭ったことがあるからだ。数年前、ある批評家の先生に連載記事を書いてもらうように駆けずり回り、ようやく話がまとまって、その先生に赤坂の料亭に招かれたのだが、他ならぬその先生に襲われたのだった。幸い未遂で終わったが、相手は高名な先生だったので、一時は泣き寝入りするしかないとあきらめた。しかし小早川編集長が動いてくれ、会社として対応してくれたので、先方から謝罪の言葉を引き出すことが出来た。
あたしの場合は会社が味方についてくれたが、栞さんの場合は事務所からも見放されたので、その絶望感たるや、いかばかりかと、胸が苦しくなる思いだ。
バッシングの矛先が自分に向けられても、栞さんは一切、取材には応じず、自分の思いを語ることはなかった。ただ、最初に取材を受けたライターにだけは、その思いを少しずつ語っていたようだった。ライターはそんな彼女の言葉を書き留めていった。そして最初に記事が出てから半年後、彼女は一冊のフォトエッセイを出版した。エッセイを書き起こす時には、そのライターも協力したようである。そこには、彼女のPTSDの闘病の様子、そして新しい人生を歩んで行く希望が語られていた。そしてエッセイには彼女の近況の写真が十数ページにわたって添えられていた。
そのフォトエッセイはベストセラーになったが、一方で予想通りというか、バッシングの対象にもなった。結局、本を売って儲けるのが目的だったのでは、という批判が多かった。また、彼女を写した写真の中に、下着姿のものが何枚かあったことも、ことさらに取り上げられた。彼女を批判する人たちは、性被害にあった女性が自分から性的な姿を世の中にさらすのは、行動が矛盾しているのではないかと主張した。また、結局彼女も自分のセクシーな姿を見せて本を売ることで、女性の性の商品化に加担しているのではないか、と批判する人たちもいた。そういう主張をする人の中にはいわゆるフェミニストたちも多く含まれていた。
一方それに反論する意見として、性被害にあった人が性に対して奔放になるケースがあることを指摘する人たちもいた。これについては、性に奔放な人物に成り切ることで、性被害に遭った体験を中和しようとする防衛機制だと説明する人もいれば、性に奔放になることは一種の自傷行為だと説明する人もいた。
あたしは精神科医でも臨床心理士でもないので、専門的なことは分からないが、栞さんのやっていることは一貫していて矛盾はないと思った。それは、彼女は性の自己決定権を行使しているだけだと、理解したのである。
レイプされたことは、彼女にとっては性の自己決定権を侵害された事件である。だから彼女は告発した。一方で自身の下着姿を見せるということは、自分の性的な姿を表現したいという権利を行使したに過ぎない。その二つの行動の中に、矛盾など一切ないと、あたしは思っている。
フォトエッセイを出してからの栞さんはしばらく動きを見せず、世間からの注目も少し和らいだ頃に、彼女が近々、金沢市内のギャラリーで個展を開くというニュースが『アートライフ』の編集部に流れてきた。友禅の展示だという。
その時初めて、栞さんの叔母が友禅作家の篠原蘭堂先生であり、彼女は叔母の元で友禅を学んでいたことを知ったのだった。
篠原蘭堂先生は、二十代の頃に鮮烈なデビューを飾り、その独特の作風から「友禅の魔女」と呼ばれた人物だった。それから三十年以上たち、その作風は円熟を重ね、加賀友禅の代表的な作家として押しも押されもせぬ孤高の地位を保っている。
プレスリリースでの栞さんのプロフィールを見ると、彼女は金沢の実家に帰ってすぐに、蘭堂先生の元で友禅の修行を始めたのだという。最初はリハビリの一環で始めたとのことだが、一年半ほど経って、いよいよ作品を出したいということになり、今回の個展が企画されたのだという。
あたしは栞さんに取材を申し込んだ。ただ、一連の騒動であまり取材は受けてくれない人、という印象があったので、ダメ元であった。ところが数日後、本人から丁寧な自筆の手紙で快諾の返信が送られてきた。そして一週間後には、彼女が制作を行なっているアトリエで取材させてもらうこととなったのである。
北陸新幹線で金沢駅に到着した。東口側から出ると、駅のシンボルである鼓門がそびえている。そこから近江町市場方面に向けて真っ直ぐな道路が伸びていたが、横道を一歩、奥に入ると、昔ながらの町家が立ち並んでいた。
そのうちの一軒が、栞さんのアトリエであった。というよりむしろ、ここが「友禅の魔女」こと、篠原蘭堂先生の工房なのである。
「ごめんください」
あたしが声をかけると、引き戸が開いた。そこにいたのは他ならぬ、蘭堂先生その人であった。
「知実さん、おひさしぶりね」
「蘭堂先生!」
「今日は私じゃなく、不詳の弟子がお相手なので、なにとぞよろしくお願いいたします」
そう言って先生は丁寧にお辞儀をしたので、あたしは恐縮してしまった。すると奥から栞さん本人が現れた。
「はじめまして、篠原栞と申します。今日はよろしくお願いいたします」
「はじめまして。『アートライフ』の石川知実と申します。このたびは取材をお受け頂き、ありがとうございます」
実際にお会いした栞さんは、長身で、ショートカットのボーイッシュな雰囲気の女性であった。同じく金沢在住の羽根葵さんにも雰囲気が少し似ていた。
「ではさっそく、こちらへ……」
「ありがとうございます」
「ではごゆっくりね、知実さん」
栞さんに連れられて、まず最初に通されたのは和室だった。そこには栞さんの個展で展示される予定の作品が並べられていた。
普通、友禅の作品といえば着物に仕立てられた形となっている。しかしそこに並べられていたのは、マットを付けて額装されたものだった。額縁のサイズは一〇号ほどのものが主体であった。合わせて二〇点ほどだ。
「拝見させて頂きます」
「どうぞ、ご覧ください」
描かれた絵柄のモチーフは、植物などを描いた写実的なものが半分ほどであった。残りの半分は、ディフォルメされた人間や風景が描かれた、マンガのような絵柄であった。
「こちらは伝統的な加賀友禅の図案です。修行のために描いたものなので、本来なら表に出すのははばかられるのですが、蘭堂先生が「最初は下手くそだったあなたが、ここまで描けるようになったことを示すために、むしろ出しなさい」とおっしゃられたので、出すことにしました」
加賀友禅の絵柄の特徴は、写実的なディテールである。例えば植物の葉には虫食いの跡まで表現されることもある。蘭堂先生の若い頃の作品は、このディテールが細密かつ執拗で、グロテスクとすら評されるほどであった。
栞さんの作品からは、先生の作品ほどの執拗さは感じられなかったが、精密で丁寧な仕事が伝わってきた。彼女のフォトエッセイには、彼女が以前からペン画をたしなんでいたことが記されていたが、そうした経験が活かされているのかもしれない。
「そしてこちらの作品たちは、私のオリジナルの図案です」
「なんだかコミカルな雰囲気ですね。これは何を描いているのですか?」
「加賀や能登の民話をモチーフにしているんです。そうですね、絵本のようなイメージです」
「なるほど」
「例えばこれは「お夏のがんど」という民話から取ったものです」
その作品には、サザエを手にした少女が描かれていた。
栞さんによると、これは石川県加賀市に伝わる民話だという。病気の母親を養うために、孝行娘のお夏は海で毎日一〇〇個のサザエを採り、それを売って生計を支えてきた。ある日、九九個のサザエを採ったが、あと一個がどうしても見つからない。お夏は、誰も入ってはいけないと言われている、がん洞と呼ばれる海底の洞窟に潜って行ったが、彼女は二度と戻ってくることはなかったという。
「……悲しい話ですね」
「はい。民話には、こうしたちょっと怖い話も多いのですが、だからこそ世代を超えて人々の心に残るのではないかと思います」
続いて栞さんから、作品制作の様子を見せてもらえることとなった。栞さんはこの取材のために、作品のサンプルを用意していてくれた。
「石川さんは、友禅の工程については既によくご存知かと思いますので、釈迦に説法かもしれませんが……」
「いえいえ、作家さん自らレクチャーして頂けるなんて、恐縮です!」
栞さんは微笑むと、アトリエのトレース台に紙のデザイン画を載せた。そこにはシンプルなデザインの梅の花が描かれていた。
続いてその上に、絹の生地を載せた。その大きさは一辺が反物の幅(三五センチメートル程度)くらいの正方形であった。
「最初に、青花で生地に下絵を描きます」
栞さんは、一辺一センチメートルほどに切り出した青花紙をビニール袋から取り出し、絵の具皿に乗せた。そこにスポイトで水を垂らすと、鮮やかな青色の染料が溶け出てきた。それを栞さんは筆で溶いて、筆に染料を含ませると、トレース台の上の生地に線を描き始めた。またたく間に、梅の花の輪郭線を描いた下絵が完成した。
「栞さんは、青花紙を使っていらっしゃるのですね」
青花紙は、以前に木版摺更紗の作家の先生が、割り付け線を描くのに使っていたことを思い出した。
「はい。合成青花もあるのですが、やはり青花紙の方が繊細な線が描けるような気がしますので、私はこちらの方が好きです」
「青花紙の生産は少なくなってきていると伺いましたが……?」
「はい。金沢の染料店ではまだ取り扱って頂いているので、何とか大丈夫なのですが、この先、入手困難になると、私を含めて困る作家さんは多いと思います」
続いて栞さんは糊置きの工程に移った。栞さんは生地を木の枠にピンと張った。
糊置きとは、さきほど描いた青花による線をなぞって糊を置いていく工程である。その部分は染料によって染まらないので、最終的に白く染め抜かれることとなる。つまり白い輪郭線となるのだ。これが友禅の技法の最大の特徴である。
糊置きに用いるのは、柿渋紙を漏斗状の筒にして、先端に口金という金属の細い筒を付けたものである。そして柿渋紙の筒の中に糊を入れ、それを手で絞ると口金の先から糊が糸のように細くなって出てくるので、これを糸目糊という。ケーキを作る時の、ホイップクリームを絞る時の要領に似ている。
「糊は、今ではゴム糊を使うことも多いのですが、私は真糊という昔ながらのものを使っています。原材料はもち米の粉と糠、消石灰、塩で、それらを混ぜ合わせて作ります」
「ゴム糊と真糊とでは、どう違うのですか?」
「細くて均一な糸目糊を引くにはゴム糊の方が良いのですけど、線の太い細いのニュアンスを表現するには真糊の方が向いているのです」
「栞さんは、青花紙にしても真糊にしても、伝統的なものを意識して使おうと思っていらっしゃるのですか?」
「はい、それもあります。ただ、それは私がまだアマチュアで個人作家だから、というのもあると思います。もしプロの作家になって商業的に作品を制作していくことになったら、手間がかからず安定した品質の材料を使うことになるかもしれません」
糸目糊を置き終わると、栞さんは霧吹きで生地の表と裏に水を吹き付けた。裏面を見ると、下絵の青花の染料が水で溶け出し始めていた。
「これを青花散らしと言います。青花の染料は水溶性なので、ここで洗い落としてしまいます。同時に、水で糸目糊を生地に定着させる効果も持っています」
栞さんは裏面を別の布でポンポンと軽く叩くと、溶け出た青花が別の布の方へ吸い取られていった。
しばらく生地をそのままにし、乾いたところで糸目糊に囲われた部分に、豆汁と布海苔を混ぜた液を筆で塗り、それが乾いたところで、いよいよ彩色の工程となった。
糸目糊の輪郭線で囲まれた内側の、絵柄の花弁の部分に、栞さんは筆で手早く色を入れていく。糸目糊の部分が防波堤となり、そこから先には色が染まっていかない。これによって輪郭がくっきりと出るのだ。
「彩色が終わった時点で、本当は一回蒸して、色を定着させるんですけど、今日は省略しますね」
そう言って栞さんは、次の中埋めの工程に移った。
これはさきほどの彩色の工程で色を入れた部分を、柔らかい糊で埋める工程である。いわばマスキングで、次の地染の工程で模様部分に色が付かないようにするためのものである。
それが終わると、栞さんは今度は模様に対して地の部分に、大小の刷毛で豆汁と布海苔を混ぜた液を塗った。これはさきほどの彩色の前にやったことと同じで、染料の定着を良くするためのものだという。
生地と地埋めした糊がしっかり乾いたところで、いよいよ地染の工程だ。
「正直言うと、私、地染はまだ習熟出来ていないんです」
栞さんは染料を含ませた大きめの刷毛を手にして、一気に生地の表面に引いた。それを何度か繰り返し、むらにならないように均一な背景色を塗った。
「このくらいのサイズだとなんとか、私でも出来るようになったのですが、それでもまだこんなふうにフラットにするのがやっとで、グラデーションを付けるのはまだまだです」
栞さんの話によると、地染には微妙な力加減、さらにはその日の温度や湿度に合わせた調整が必要で、習熟するには長い年月がかかるのだという。
「これが乾いたら、蒸しの工程、さらに友禅流しを経て、最終仕上げをして完成となります。ただ、今日は時間がないのでここまでにしておきますね」
蒸しは、文字通り蒸気で蒸して、染料を生地に定着させる工程である。蒸し上がった後は、生地に付着した糊を水で洗い流す友禅流しを行う。友禅流しは、かつては自然の川で行われ、金沢だと浅野川で行われていたのだが、現在は屋内のプールで行われるのが一般的だ。
「蒸しは、このアトリエで行うのですか?」
「実は、蘭堂先生の作品は蒸し屋さんにお願いしているので、この工房には蒸しの設備がないのですが、私はステンレス製の小型の蒸し器を使っています」
「ほとんどの工程を、栞さんご自身で手がけられているのですね」
「はい、まだまだ私も修行中なので、道具や材料の特性を知るためにも、出来るだけ自分の手で触ってみようと思っているのです」
栞さんは、控えめながらも静かに微笑んだ。
その後は、作品やアトリエの様子をいくつか写真に撮らせてもらった。
「知実さん、良かったら私の写真も撮って頂けませんか?」
と栞さんが言ったので、アトリエに立つ彼女の姿をスナップ的に撮影した。
「見せて頂いてもいいですか?」
と言われたので、デジカメのプレビューを彼女に見せた。
「これ、すごくいいですね! 良かったら、これ、作家紹介の写真に使って頂けないでしょうか?」
そう言われたので、あたしはあわてて答えた。
「えっ、でもあたし、写真はプロじゃないし……いいんですか?」
最初、作家紹介の写真は、栞さんの方で用意したオフィシャル写真の提供を受けることとなっていた。それに比べると、あたしの写真ではさすがに見劣りするのでは……と気が引けた。
「はい。とても良い写真だと思います、自然体で……どうですか?」
「……気恥ずかしいですけど、承知しました!」
「良かった!」
意外な成り行きに、あたしも恐縮しきりであった。
「栞さん、今日は長時間にわたり、取材を受けて頂きありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
取材を申し込んだのはこちらなのに、栞さんの方から逆に感謝の言葉をかけてもらった。
「石川さんが……初めてでした」
「えっ……?」
「事件のこと、一言も聞かなかったの」
「……はい」
「私、これまでも石川さんの記事、拝見してきました」
「そうでしたか! ありがとうございます」
「石川さんの文章……言葉が透明な感じがします」
「えっ、そうですか?」
「はい。作家さんのメッセージ性を過度に強調することなく、でも書き手の意見も強く押し出さない……水のように中和された文章でありつつも、読む人にはすんなり受け入れられるような……」
「えっ……本当ですか?」
「正直、これまで私を取材してきた人たちの多くは、最初から「結論ありき」で、私がどれだけ丁寧に言葉を紡いでも、すべてその「結論ありき」に回収されて、時には意図しない形で語られることが多かったのです。でも石川さんの取材は、記事の文章と同じように、透明で水のようなものでした。だからこそ私は、今の私のあるがままを見せることが出来たのだと思います」
「栞さん……」
「石川さん、私はあなたの取材を信用しています。あなたの思うままに書いて頂ければと思います。私も記事を楽しみにしています!」
そういうわけで、栞さんの記事の表紙を飾ったのはあたしが撮った彼女の写真となった。アトリエでリラックスした様子でたたずむ彼女の表情は、透明な水のように澄んでいた。



コメント