移動の自由。職業選択の自由。言論の自由。思想の自由。国民健康保険。自由恋愛。
私たちが当たり前のように持つこういった基本的な権利を、差別され認められない人間がこの国にいる。
日本国憲法は天皇を「日本国の象徴」と定める。皇室典範や皇室経済法、宮内庁の慣習によって、皇族は居住地も自由に選べず、就きたい職業も選べず、政治的発言はおろか、個人的な思想の表明すら封じられる。結婚相手にも国家や国民の承認を必要とする。国民皆保険の枠組みにすら組み込まれていない。
これらの人権侵害を行っているのは他でもない「日本国民」である。皇族は国民を投票で選べない。私たちはある一人の人間に、生まれた瞬間から一生分の自由を差し出させ、その代わりに「敬愛」や「伝統」という合理を与えている。これは美談ではなく、構造的には人権侵害で間違いない。
もしも私が天皇だったら
もし私が天皇になる宿命の家に生まれ落ちていたら、こんな思いやりのない国民の苦楽などには、正直関心を持たないと思う。自分の人生の選択肢をことごとく奪った国民たちの幸福など願えるはずがない。
もしも私が天皇陛下の長女だったら
「女性差別はよくないから、あなたを天皇にすべきだ」と国民から言われたら、心の底からやめてほしいと思うだろう。それは私のための主張ではなく、誰かが自分の正義感を満たすためだけの主張だからだ。
私が長女であったとして本当に望む事は、絶対に天皇になることではない。
それは、好きな人と結婚し、市民としてやりたい仕事をしたり、誰にも詮索されない一人の時間を持ち、自由に旅行したり、自分の意見を表明することだ。
女性天皇・女系天皇をめぐる議論は、しばしば「男女平等」という言葉で語られる。そこには重大な欺瞞がある。議論の主語が常に「制度」や「国民の総意」であって、「対象者自身が何を望むか」ではないという点だ。誰かを皇位につけるかどうかを、当人の意思とは無関係な国民や国会が決めている。なぜ彼らの人生なのに彼らが意見を表明できない?
議論すべきは「どの性の誰を天皇にするか」ではなく、「そもそも一人の人間に、血統だけを理由に国家を背負わせてよいのか」という一点のはずだ。
おわりに
皇室典範の改正論議は毎回、制度の存続を前提に進む。だが、私たちが享受する基本的人権を、特定の生まれの人間だけは生涯にわたって剥奪されるこの構造——本当に『象徴』に相応しい形なのか?
私達はもう彼らの為に命を捧げない。
彼を神だと思わなくなった。
ならば、当然私達には彼らの生を奪う権利はない。
私たちはすぐに人を記号に変える。目の前にいない人間には酷いことを平気で行う性質がある。
でもみんな生きていて、それぞれに感情があるんだ。
私達の日常に潜むエゴと皇室の人々の犠牲をもっと考えるべきだろう。