2026年7月、不動産大手のヒューリックが、鉄緑会を運営する株式会社東京教育研の全株式を、ベネッセホールディングスから取得するという報道がありました。買収額は非公表ながら、報道ベースでは数百億円規模と伝えられています。首都圏では代々木のたった1拠点、関西圏でも3校しか展開していない、生徒数も決して多くはない一介の学習塾に、です。
「そもそも鉄緑会って何?」
「なぜ不動産会社がそんな大金を払ってまで欲しがるの?」
本稿ではそんな疑問に対して、教育業界を長年見てきた筆者の視点から、鉄緑会という「不思議な塾」の正体と、その背景にある教育業界の大きな地殻変動について、できるだけかみ砕いてお伝えしたいと思います。
鉄緑会とは何か
まず、鉄緑会(てつりょくかい)という名前を初めて聞く方のために、基本情報から整理しましょう。
鉄緑会は1983年に設立された、中高一貫校生を対象とした東京大学受験指導の専門塾です。校舎は東京・代々木エリアと、大阪・京都・西宮北口に数校を構えるのみ。にもかかわらず、2025年度の東京大学入試における鉄緑会生の合格者数は、なんと540人。2026年度に至っては584人にのぼります。
東大の合格者総数が毎年およそ3000人であることを踏まえると、東大生の5人に1人前後が鉄緑会出身という計算になります。とりわけ最難関の理科三類(東大医学部進学コース)については、合格者の約6割が鉄緑会出身という年もありました。
都内出身の東大生でこの塾の存在を知らないという人はほぼいないと言っていいと僕は思っています。
名前の由来もユニークです。「鉄」は東京大学医学部の同窓会組織である鉄門倶楽部、「緑」は東京大学法学部の自治会である緑会を意味します。つまり、東大医学部と法学部のOB・現役生が中心となって立ち上げた、東大受験特化型の塾なのです。名前からしてすでに、他の予備校とは異質な空気を漂わせています。
「誰でも入れる塾」ではない
鉄緑会を語るうえで欠かせないのが、指定校制度という独自の仕組みです。
一般的な塾や予備校は「来る者拒まず」ですが、鉄緑会は違います。中学入学時点で無試験入会が認められるのは、以下のような「指定校」に通う生徒に限られます。
- 桜蔭(921人)
- 筑波大学附属駒場(581人)
- 麻布(605人)
- 海城(559人)
- 筑波大学附属(466人)
- 豊島岡女子学園(466人)
- 渋谷教育学園幕張/渋谷(355人)
- 駒場東邦(313人)
- 女子学院(304人)……など
(数値は2026年5月時点の在籍者数)
要するに、東大合格者を多数輩出する超難関中高一貫校の生徒だけが、フリーパスで入会できる仕組みです。それ以外の生徒は入会試験を突破する必要があり、そのハードルは決して低くありません。これが、「日本で最も入るのが難しい塾のひとつ」と言われる所以です。
鉄緑会の指導内容もまた、独特です。
教材は東大入試の過去30年以上のデータを独自分析して作られたオリジナル教材。中1から高3までの6年間を貫く体系的なカリキュラムで、公式の証明や理論の背景まで踏み込む「本質重視」の指導が特徴とされています。
講師陣は東大の学生・院生・卒業生が中心……というか、もうほぼほぼ鉄緑会の卒業生で構成されていると言われています。単に学歴が高いだけでなく、毎週のミーティングや内部研修を通じて指導技術を鍛え上げる仕組みが整っています。生徒側にとっては「自分たちの少し先を歩く先輩」から教わるスタイルであり、進路のロールモデルとしても機能しています。
卒業生には、女優の菊川怜さん、元「東大王」の水上颯さんや鈴木光さんなどがいます。
ここからが本題です。なぜ、不動産会社が数百億円を投じて学習塾を買うのでしょうか。
キーワードは、ヒューリックが中長期経営計画(2026〜2036年)で掲げる「不動産の商社化」という戦略です。単にビルを持って賃料を得るだけでなく、そのビルに入るテナント事業そのものを自ら手がけることで、収益の幅を広げようという発想です。
そこで狙われたのが、教育事業でした。ヒューリックはすでに2024年、個別指導塾大手のリソー教育(現リソー教育グループ)をTOB(株式公開買い付け)で子会社化しています。ここに鉄緑会を加えることで、幼児から大学受験生までをカバーする「こども教育経済圏」が完成する構図です。
さらに重要なのが、不動産開発力とのシナジーです。鉄緑会は現在、代々木エリアと関西圏の数校に拠点が限られています。ヒューリックが持つ都心の優良立地や資金調達力を掛け合わせれば、拠点を全国展開することが可能になります。自社ビルに鉄緑会を誘致すれば、賃貸収益も上がります。
「鉄緑会」というブランドが入ったビルは、周辺の教育関連需要を引き寄せる磁力を持ちます。
ざわつく教育業界のM&Aマップ
視野を広げると、鉄緑会買収は「単発の派手なニュース」ではなく、教育業界全体で起きている地殻変動の一部であることが見えてきます。ここ2年ほどの主なM&A・資本提携を振り返ってみましょう。
並べてみると、いくつかの潮流が読み取れます。
※外部配信先では画像が正常に見られない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でご覧ください。
第1に、上場塾の非公開化ラッシュです。ベネッセHD、TAC、ウィザス、東京個別指導学院と、公開市場から降りて中長期の構造改革に踏み切る事例が相次いでいます。少子化で「短期の売上成長」を投資家に見せづらくなった業界の現実がにじみます。
第2に、AI教材への大手の資本流入です。公文がatama plusを、河合塾がzero to oneを傘下に収めたのは象徴的でしょう。従来型の「講師×紙教材」だけでは戦えないという危機感が、老舗の巨人たちを動かしています。
第3に、そして最も本稿に関わるのが、異業種からの参入です。ヒューリックは不動産会社です。教育業界のプレーヤーではない企業が、教育というアセットに巨額を投じる。この構図は、ベネッセ自体がすでに投資ファンドEQTの傘下で非公開化されていることとも重なります。
教育は「金融商品」になった
鉄緑会という一つの塾の売買を、単なる教育ニュースとして消費するのはもったいないことです。そこで起きているのは、「教育ブランド」というアセットの再定義です。少子化にもかかわらず、教育費は高付加価値層に集中し、そのブランド力は不動産の価値と結び付き、さらに投資ファンドの運用対象になっています。
鉄緑会はヒューリックのもとでどう変わっていくのでしょうか。全国展開に踏み切るのか、それとも「代々木の秘密結社」的な希少性を守り続けるのか。背後には、日本の教育産業そのものが金融化していく大きな時代の流れがあります。その入り口として、鉄緑会という「不思議な塾」の名前を覚えておいて損はないはずです。