2013/04/05
江頭豊の責任
江頭豊の責任:
1.水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し続けた。
水俣病の原因がアセトアルデヒドの製造工程から出る有機水銀である事は、チッソ社内では周知の事実であったし、熊本大学により、それが証明されても、設備を稼働し続けた。水俣病だけだと良く解らないが、新潟水俣病の年表を加えてみると、非常に良く理解できるのだが、江頭豊が社長に就任した翌月、1965・01・10、新潟水俣病の発生企業、昭和電工がアセトアルデヒドの生産を停止、製造工程図は消却、プラントは撤去してしまった。これは昭和電工が「水俣病の発生原因はアセトアルデヒドのプラントから出る有機水銀である」と認識していた事を示している。しかし、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止したのは1968・05・18であり、新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴し、「公害対策基本法」が成立した翌年であり、昭和電工がプラントを撤去、製造工程図を消却してから3年半後だった。
2.患者や家族に謝罪したが補償に応じようとはしなかった。
水俣病が公害病の認定を受け、江頭社長は1968・09・27から患者家族に詫びて回るが、具体的な補償案を出さないため、厚生省が調停にのりだした(1969・02)のである。しかし、厚生省は患者側に「この補償処理委員会の結論には一切異議なく従う」との確約書提出を求め、患者側は一任派と自主交渉派に分裂した。困窮のどん底に置かれている患者と家族には、卑劣極まりない態度と言われてもやむを得ないだろう。
石牟礼道子『苦界浄土』あとがき:チッソ側はゼロ回答をもってこれにうそぶいている。第三者機関あっせんに、再び互助会が依頼した寺本熊本県知事に、江頭社長は「チッソとしては34年暮れの見舞金契約は有効、補償交渉はチッソの好意で行われており・・・「公正な審判に服する」というならとにかく、恐るべき厚顔無恥、わたくしたちにこの上まだ《ことば》がありうるであろうか、とわたくしは思い沈む。 http://www.google.co.jp/ (キャッシュ) 投稿-32
3.謝罪した後も悪質なデマを流し患者や家族を冒涜した。
チッソ水俣支社・東平総務部長がスウェーデンのジャーナリストに答えている「端的にいうなら彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。しかし、そんなことを裁判にもちだすのは難しいです。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためか解らんのですよ。58年以後に発病した人に限って言えば、それで補償金を貰えるなんて、有り難く思って貰いたいものです」(原田正純 『水俣病』p218、1971・07の話、詳しくは水俣病事件)、自らの責任をごまかし、患者や家族に対するこの侮辱、何たる傲慢であろうか。
4.患者や報道カメラマンを暴力集団に襲撃させた。 (会長時代)
千葉県の五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の水俣病の被害者やユージン・スミスら取材陣をチッソは暴力集団に襲わせた(1972・01・07)、ユージン・スミスは片目を失明するほどの重傷を負わされたのに告訴せず、時間とエネルギーを写真に向け、6年後に負傷からの後遺症が元になり、死亡した・・・スミスの志とそれを暴力で封じようとした人達の心根、対照的である。
江頭豊と小和田家:
水俣病は行政(通産省)の関与も強く、厚生省より通産省の方に力があったため、厚生省の意向もなかなか通じなかった。(*1958・06 国会で厚生省環境衛生部長が水俣病はチッソの排水が原因と答弁、通産省にチッソに対する指導を要請するが、拒否されてしまった)
江頭豊が社長に就任した1964年当時の日本興業銀行と言えば「飛ぶ取り落とす」勢いだったと思われる。それが大問題を抱えた企業の社長になると言うのは通常なら考えられず、余程の理由があったに違いないと思われる。
1.江頭豊はエリート軍人(江頭安太郎・海軍中将)の息子、妻・寿々子もエリート軍人(山屋
他人・海軍大将&連合艦隊司令長官)の末娘だ。患者や家族との交渉には精神力が要
求されるし、家に訪問されるかも判らないから、これ以上の適任はない。
2.娘婿は外務省のエリートだ、官僚との折衝もやりやすいだろう。
小和田恒は後に外務次官になるが、入省後7~8年すれば出世するのは大体判る。
日本興業銀行としては、これ以上の適任はなく、通産省も(国家レベルか?)バックアップしただろう事は想像できる、これをうかがわせるのは江頭豊の社長就任、退任にあわせた小和田恒の動きであり、この↓ようになる。
1963・12・09 小和田恒夫妻に長女生まれる。母・優美子25、父・恒31
1964・12 江頭豊、新日本窒素社長に就任する。
1965 夏 小和田恒、モスクワに赴任する。
1968 夏 小和田恒、ワシントンに赴任する。
1970・11・28 株主総会に患者が乗り込む。
1971・02 小和田恒、海外勤務から帰国する。
1971・07 江頭豊、会長に退任する。(小和田恒の家族と同居する?)
1976 この頃、小和田恒は福田赳夫内閣総理大臣の秘書官だった。
何と言う「偶然の一致?」だろうか、江頭豊の社長就任のほぼ半年後、小和田恒はモスクワに赴任し、その後ワシントンに赴任、71年2月に帰国するや、5ヶ月後の7月(*この間に新築したのだろうか?)には、江頭豊は会長に退任、その後、娘の家族と同居し始めるのである。
2004・08になり「SilkRoad/4444」でgoogleをかけて見ると、「あるスレッド」のログに「ちなみに雅子妃のお輿入れをしたのはセンコー運輸(昔の日窒の運送部)」と言う投稿(No-295)があった。
センコー(株)の「沿革」には、1946(S21)年7月設立とされているが、設立の経緯は記載されていない、宮崎県を基盤にして生まれ発展したと書いてある。四季報を見るとセンコー(株)<9069>の大株主は、旭化成(9・5%)、積水化学(6・0)、積水ハウスであり、旭化成も積水化学も日本窒素肥料から生まれた企業(*積水化学<4204>の大株主に旭化成(5・7%)が入っているので旭化成が兄貴分になる?)である。四季報の株主構成から見れば、センコー(株)の発祥は「日本窒素肥料」関連の運輸を担当していた部門が独立した可能性が高いと考えられた。
センコー(株)の旧社名は「扇興運輸」だと「沿革」にあるため、googleで「扇興運輸*水俣」を検索すると、2個hitした。1個は「水俣病患者とともに-日吉フミ子の闘いの記録」(a)だ、もうひとつは国会の議事録「参議院-会議録-第041回」(b)である。
a)から解ったのは、1)上村智子の父親・上村好夫は智子が生まれた(1956(S31)年←智子の水俣病患者認定はS38年)の翌年(S32)に「扇興運輸」に就職し、1994(H06)年(60歳=定年?)まで勤務していた、と言うことである。
b)からは、1962(S37)の参議院「社会労働委員会」において「新日本窒素株式会社における労働争議に関する件」が、議論されているが、ここで解ることは、2)警察庁警備局長・三輪良雄が、扇興運輸を「新日本窒素=現・チッソ」の「下請け業者」であるとしている。また、3)最大時には熊本県警の警察官(1800名)の約2/3(1180名)が動員され、鹿児島県と宮崎県にも応援(200名)を依頼するような新日本窒素(株)の大規模な労働争議があったが、港湾労働者が会社側に立ち、ピケラインを突破した、4)扇興運輸の食堂と事務所は100名の警察官が宿泊できるほど広かった、ことなどが理解できる。
警察庁警備局長・三輪良雄の答弁で興味があるのは、鹿児島県と、宮崎県に応援を依頼していることである。単に熊本県の警察官の人員不足を補うためのものか、会社側が子会社・扇興運輸の社員をストライキ対策に使っていることを受けたものなのか、考えさせられる。
患者達やユージン・スミスに暴力をふるった者達の正体は?
自主交渉派の患者達やユージン・スミスを襲撃した集団については、社員、暴力団、右翼などの説があるが、チッソ経営陣の意を汲んでいるのは明かである。しかし、立場が異なるとは言え、同じ水俣に住む(悲惨な)患者達に暴力を振るう社員や暴力集団がそんなに多数いるだろうか?と言う疑問を持つ。また、その「暴力集団」は千葉県の五井工場にも現れ、ユージン・スミスと患者が襲われている。少し考えると、1)暴力を振るったのが社員なら顔を知られているし、表面化すれば大問題になる、2)社外の右翼や暴力集団なら多年に渡り多人数を確保しておく費用が膨大になる、3)そのような社外の暴力集団を千葉県まで行かせるとなると費用などが大変だ・・・これらの問題をどのように解決したのかが私の疑問だった。しかし、チッソの工場の間を海上や陸路を使い自由に行き交い、水俣市に住む患者達に顔を知られていない、かつ、会社側が意のままに動かせる集団がいたことを知り、疑問が解けた(特に海上を行き来する集団は陸にあがる時間が少ないため、例え事件を起こしても警察の捜査も及びにくいと思う)ように感じたのだが、検証したわけではないため何とも言えないのは言うまでもない。
コメント
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転載させてください。
2013/04/06 08:11 by SUE URL 編集
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カメラマンが襲われるなんて変だなぁと思っていた程度でした。
若い頃は水俣病の写真を見る事が出来ませんでした、怖くてたまらず、、、
しかし、歳の功(?)ですか? 何とか、直視できるようになりました。
そうしたら、皇太子の結婚と繋がっていて吃驚しました。
転載、どうぞ。有難うございます。
2013/04/06 15:03 by トンビ母 URL 編集
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その当時、日本で公害問題が大きく報じられ、熊本の「水俣病」、富山の「イタイイタイ病」、静岡県「田子の浦のヘドロ」、三重県の「四日市ぜんそく」と、「4大公害」という事で授業で教えられた記憶があります。こうしたことがありながら、現在もまったく変わってないのが公害問題。
転載させていただきます。
2013/04/06 17:26 by SUM URL 編集
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一番身近だったのは四日市喘息でした。
名古屋に近い四日市、でしたから。
イタイイタイ病と水俣病も覚えがあります。
田子の裏の事は知りませんでした。
福島に対しても同じように、被曝被害など無い ーーーで言いぬけようとしているような気がします。他の公害病で、被害実態が明らかにされるのに何十年もかかっています。広島・長崎でも そうでした。ですから、福島も、と思います。長く厳しい戦いが待っていると思います。
2013/04/06 18:38 by トンビ母 URL 編集
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2013/04/07 15:13 by SUM URL 編集
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こうして賠償指定工場の多くは撤去を免れ復旧と生産拡大に専心することができるようになったのです。
工業化には資金とエネルギーが必要です。第一次吉田茂内閣は、傾斜生産、つまり主要産業(この場合1946年には食糧・石炭産業、翌年にはそれに加えて鉄鋼・肥料産業)と特定企業に超重点的に、エネルギー源である石炭を配分、資金は復興金融公庫から融資しました。
その過程で昭和電工疑獄事件が起こりました。チッソと昭和電工はともに戦前には化学肥料や爆薬を生産し、戦後はアセトアルデヒド工場廃水から水俣病、新潟水俣病を発生させるというよく似た生い立ちをたどった会社です。
昭和電工は巨額の復興資金を引き出すために政府高官、GHQ高官に莫大なワイロを贈り、昭和電工1社で復興資金の半分にあたる30億円を獲得してしまったのです。
2014/12/27 21:01 by カネカ油症の責任H30年12.01高砂 URL 編集
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2015/01/18 21:40 by トンビ母 URL 編集