〔ルポ〕731部隊の村 千葉県山武郡芝山町加茂
カバー写真: 加茂部落(2024年10月)
2016年にNHKのディレクターと話をした際に出身地を聞かれ、千葉県の成田だと答えると、「ああ成田の石井といえば石井四郎だね。」と言われた。当時は石井四郎関連の報道が盛り上がっていた時期だった。
石井四郎は元陸軍中将で、太平洋戦争中に中国東北部に細菌施設をつくり、捕獲した捕虜に対して人体実験を繰り返したことで知られる。名前は聞いたことがあったけれど、そこまで関心を持ったことはなかった。しかし、ちょっと調べてみると私の出身地の千葉県香取郡多古町の西隣の山武(さんぶ)郡芝山町出身であることが分かった。また、石井の部隊は芝山町加茂出身者が多かったため、「加茂部隊」という別称があったが、ジャーナリストの青木冨貴子の『731-石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』を読むと、多古町出身者も少なからず参加していたことが分かる。
実は私の親族は石井四郎の生家跡がある加茂部落の北隣の集落出身であったので、この地域には土地勘がある。
2024年10月に加茂部落を回ってみると、石井四郎生家跡はすぐに見つかった。国道296号線沿いを多古方面から成田・芝山方面に向かうと幹線道路沿いであるにも関わらず、不自然に開けた土地の一角が存在する。(言われてみれば集落の正面にも関わらず不自然に空き地が広がっていて、村落風景としても違和感があった。)そこが京都大学出身の気鋭の陸軍中将として絶大な権力を握った石井四郎の生家跡であった。
当時はこの場所に御殿のような邸宅が立っていたとのことだが、既に解体・撤去されている。写真を見るだけでもかなり広大な敷地だったことが分かる。
若い頃洋行した石井はフランスのパストゥール研究所のような生物学・医学研究をすることを夢見ていたようだが、当時の日本は対外拡張の時代であった。石井は「石井式濾水機(ろすいき)」という軍用濾過装置を開発し、1939年のノモンハン事件(日本と、ソビエト連邦とモンゴルとの戦争)で功績を上げた。石井の部隊は豊富な予算を与えられ、現在の中国・黒竜江省ハルビン郊外の広大な施設で、「関東軍防疫給水部(かんとうぐんぼうえききゅうすいぶ)」として活動した。表向きは正式名称の通り防疫と給水業務に従事する一方で、生物化学兵器の開発・実験を秘密裏に進めたのであった。関東軍防疫給水部の活動については捕虜を捕獲して拉致監禁し、生物化学兵器の実験を行った、もしくは人体を切開・損傷した上で標本にしたとされている。
1945年8月9日にソビエト連邦が対日参戦すると731部隊はすべての人体標本や証拠、施設を爆破し、民間人を差し置いて日本本土に退却した。その後の民間人や残留した軍人の悲劇は周知の通りである。
石井部隊員には箝口令が敷かれた上で民間に復帰していった。医師を中心とする元隊員は米軍に対して中国・黒竜江省での人体実験記録を提供する見返りに、裁判や処罰を免除され民間の病院などに復員していったのであった。医師というよりも大半は用務員に過ぎなかったはずだが、この村出身の元隊員たちも敗戦後には多く帰郷したことが予想される。石井四郎本人も一時期はこの村にいたようで、石井四郎や部隊関係者の尋問・取調べのために、この加茂部落にも米軍のMP(Military Police/憲兵)のジープが頻繁に出没していたと考えられる。
石井の生家前、加茂集落の真ん中を流れる高瀬川では戦前には石井式濾水機のお披露目会が開催され、芝山や多古からも多くの聴衆が集まっていたとされる。
私は同じ高瀬川のもう少し上流を自転車で渡って高校に通っていたので、身近な川でノモンハン事件に使われた軍用品である石井式濾水機が開発されたというのは衝撃であった。
多古南部は昔かなり貧しく、戦前に市販されていたヒロポンと呼ばれるメタンフェタミン系の覚醒剤(現在アメリカで問題になっているアンフェタミン)の中毒者が多かったと幼い頃に聞いたことがある。そういった貧困の背景があるからか、日本政府や日本軍の後光が光る関東軍防疫給水部の仕事は人気で、任務を終えて帰ってくれば大きな屋敷を立てることができたというのが当時の人間たちの偽らざる感想であったようだ。
元部隊員には厳格な箝口令が敷かれたとのことで、私も町で部隊に関する言説、論評は一度も聞いたことがない。当時から、「余計なことは言うな、米軍にしょっぴかれるぞ。」というのがこの土地における標準的な理解、処世訓だったのだと推察される。
青木冨貴子の『731-石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』には東隣の八日市場(ようかいちば・現匝瑳市(そうさ))在住の元隊員・篠塚良雄(しのざき・よしお)さんの話が出てくる。
八日市場の妙福寺という寺には中帰連(中国帰還者連絡会)が建てた中帰連碑(謝罪碑)があり、当時の中華人民共和国の周恩来首相による寛大な恩赦処置への感謝について述べられており、1972年の日中国交正常化当時の雰囲気もよく伝わってくる。
(お断り)
「部落」という言葉を使っていますが、これはこの地方の年配層によって今でも使われる日常的な表現であり、共通語における「集落、村落」程度の意味しかありません。歴史的ないわゆる「部落・同和問題」とは関係はありません。


コメント