灰の大家〜スカベンジャーの俺が旧世界AIの知識で廃墟を直したら、荒廃世界での不動産成り上がりが始まった〜
古田 擦呂彦
第1章「スカベンジャー」
第1話「灰の街」
床が鳴った。
コンクリートの軋みではない。鉄筋が錆びて膨張し、内側から躯体を押し割る音だ。ハヤセ・レンは足を止め、天井を見上げた。
亀裂が走っている。昨日はなかった線が、蛍光灯の残骸を横切って東の壁まで伸びていた。
——あと半年。いや、次の雨季で落ちる。
亀裂の入り方でわかる。柱の際から斜めに走るやつは、上の重みに耐えきれなくなっている。水平に走るやつは、鉄筋が錆びて膨らんでいる。この建物は両方だ。手の施しようがない。
4階建ての旧世界オフィスビル。ミナトの壁から東に20分ほど歩いた汚染荒野のど真ん中に、灰色の骨のように突っ立っている。
2階から上は他のスカベンジャーに荒らされ尽くしていたが、ハヤセが狙うのはそこではない。壁際の配管スペースだ。
建物の裏手に回る。外壁に沿って、給湯配管がむき出しで走っていた。増築時に後から外付けした管だ。
他のスカベンジャーもとっくに見つけているだろう。だが、あいつらは管を叩き折って持っていく。潰れた管は市場で半値になる。
見合わないと判断して放置したのか。ただ、刈り取られるのも時間の問題だ。
ハヤセは手袋を嵌め、管の太さを指で測った。15A。内径約16ミリ。バールの先端を接合部に当て、手首を返す。
旧世界のロウ付け接合は、正しい角度で力をかければ意外なほど素直に外れる。潰さずに抜く。それがハヤセの腕だ。ここから4本、綺麗に抜ける。1本あたり3メートルで、市場で5符は取れる。
20符。
2日分の食い扶持にはなる。
1本目が外れた。手に持つと、冷たく、重い。銅のずっしりした質量。これが金に変わる。
2本目に取りかかったとき、足元で小さな音がした。コンクリートの破片が落ちた音だ。ハヤセは手を止め、耳を澄ませた。
3秒。5秒。
何もない。建物が死にかけているだけだ。だが「だけ」で済まないことを、ハヤセは知っている。
2年前、同じような建物の2階で床が抜け、左腕を折った。32年生きてこられたのは強いからではなく、引き際を間違えなかったからだ。
4本の銅管をリュックの外に括りつけ、ハヤセは建物を出た。3メートルの管が背中から突き出ている。
外は灰色だった。
空も、地面も、崩れかけた建物の群れも、全部同じ色をしている。
大崩壊から34年。核の冬はとうに明けたが、この荒野の色は戻らない。
旧世界の化学工場が爆風で破壊され、土壌に染み込んだ重金属が草の根を枯らし続けている。
それでも人はここに来る。旧世界の遺物が眠っているから。銅管、工具、電子部品、稀に医薬品。壁の外は死の荒野だが、金になるものはここにしかない。
ハヤセはリュックの重さを背中で確かめ、壁に向かって歩き始めた。
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ミナトの南門は、旧世界の高速道路の高架を転用した防壁の切れ目にある。高さ8メートルの瓦礫と鉄骨の壁。その手前に、銃を持った門番が2人。
「スカベンジャー。ハヤセ・レン」
ハヤセが名を告げると、門番は手元の帳面をめくった。
「入壁手数料、3符」
毎日のことだ。壁の外に出て、戻るたびに3符。月に20回出れば60符が門で消える。スカベンジャーだけにかかる事実上の税だ。
革の小袋から符を3枚出す。薄い紙幣。ミナト評議会の紋章が印刷された、壁の外では紙屑になる紙切れ。門番が受け取り、帳面に印をつける。
壁の内側に入ると、空気が変わった。汚染荒野の乾いた埃っぽさが消え、人間の匂いがする。煮炊きの煙、汗、排水。人が多いというより、逃げ場がない匂いだった。
南門から下区までは10分ほど歩く。道の両側に、旧世界のRC造集合住宅が並んでいた。
壁はひび割れ、窓はトタンや布で塞がれ、屋上からは洗濯物が垂れ下がっている。
雨漏りを受けるバケツが、どの部屋にも置いてあるのが外からでも分かった。
道端で子供が2人、泥を固めて何かを作っている。その横を通り過ぎ、ハヤセは下区の市場に向かった。
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市場は壁際に近い広場にある。旧世界の駐車場だった場所に、木とトタンで組んだ屋台が並ぶ。スカベンジャーが持ち帰った品物を買い取る仲買人が5、6人、各自の台の後ろに座っていた。
「銅管か。見せろ」
いつもの仲買人、タツという痩せた男が手を伸ばした。管を受け取り、表面を爪で引っ掻き、口径を目で測る。
「15Aの給湯管。まあまあだな。4本で18符」
「20符だろう。緑青は表面だけだ。潰れてもいない」
「18」
タツは動かない。ハヤセも動かない。
3秒。
「19。これ以上は出ねえ」
ハヤセはうなずいた。1符の攻防に時間をかけすぎると、次の稼ぎが減る。
タツが符を数えて渡す。ハヤセはその場で確認した。信用の問題ではない。この世界で数えずに受け取る人間は、長く生きられない。
背を向けて歩き出した時、後ろで声が聞こえた。
「壁の東のビルに、地下倉庫があるって話、聞いたか」
「ああ、あの話。物好きが行ったらしいが、地下の入口なんてなかったってよ。 大した建物じゃねえ。 今更金になる物なんかねえよ」
タツの台に並んだ次の客同士の会話だった。ハヤセは足を止めなかった。
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19符を手に、ハヤセは水汲み場に寄った。
下区の共同水汲み場は、1日2回の配水時間に行列ができる。夕方の配水にはぎりぎり間に合った。
桶を2つ。8リットルで6符。
列に並びながら、ハヤセは今日の稼ぎを頭の中で数えた。
——銅管、19符。入壁手数料3符を引いて16符。水が6符で残り10符。
10符。
昼食はまだ取っていない。
朝に炊いた雑穀の粥が鍋に残っている。あれに豆粕を混ぜれば、今日はもつ。明日もスカベンジに出れば、家賃の支払いまでは回る。
回るだけだ。
家賃と水と電気で月に860符は何もしなくても出ていく。食い物を削って、門の出入りで取られる分を足して、稼ぎがいい月でもほとんど残らない。
悪い月は粥を薄くして凌ぐ。たまに銅管の束や未開封の資材を当てて1日で100符を超えることがあるから、なんとか首が繋がっている。
帳面はつけていない。つけなくても分かる。金は貯まらない。
金庫衆から借りる手もあるが、ハヤセは選ばなかった。月利5%に手を出した人間がどうなるかは、下区に住んでいれば嫌でも目に入る。
桶に水を受け取り、ハヤセは自分の部屋に向かった。
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下区の集合住宅、3階の一室。6畳ほどの空間に、寝袋と鍋と工具箱。窓はトタンで半分塞がれ、残り半分から壁際の景色が見える。夕暮れの灰色が、少しだけ橙色に染まっていた。
鍋の粥を温め直す。火は壁の外で拾ってきた薪を、部屋の隅のかまどで焚く。煙が天井の煤を厚くしていくのを、ハヤセは毎日見ている。
粥に豆粕をひと掴み。ざらつく舌触り。味噌があれば違うが、椀に1杯分で8符は出せない。
食べながら、市場で聞いた会話を思い出していた。壁の東、地下のある建物。
同じ話を、前に一度聞いたことがある。
壁際の飲み屋で、年寄りのスカベンジャーが酔った勢いで喋っていた。壁の東、丘陵地帯の手前に、2階建ての古いビルがある。看板は「東部環境調査事務所」。何の変哲もないオフィスに見えるが、地下に倉庫があるらしい。
灰の十年の直後に何度か入った人間がいたという。1人は二度と戻らなかった。1人は戻ってきたが、気が触れていた。「壁の中に、もう1つの壁がある」と繰り返し呟いて、半年後に死んだ。
酔っ払いの与太話だと思って、忘れていた。
だが今日、市場でまた同じ噂を聞いた。噂が回っているのに、誰も行かない。行かないということは——荒らされていない。
ハヤセは粥を最後の一口まで食った。鍋を最低限の水とボロ布で拭き、工具箱を引き寄せる。
バールの先端を砥石で研ぎ、ヘッドライトの予備電池を2つリュックに詰めた。スカベンジで拾ったディーゼル発電機用のバッテリーを、外套のポケットに入る一番小さい型に交換する。
寝袋に潜り込んだ。窓の外で、壁際の灯りが1つ、また1つ消えていく。電力局の配電が夜3時間で切れる。この街の夜は、いつも途中で暗くなる。
暗闇の中で、目を開けたまま天井を見上げた。
——荒らされていないなら、試す価値はある。
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