便利な言葉ではあるけれど
「有害・有毒な男らしさ(toxic masculinity)」という言葉が話題になっている。アメリカで生まれたこの概念は、多くの研究者や運動家に言及され、細かな違いはあるものの(1)性差別や暴力につながる、(2)援助の希求や感情の発露を妨げる、「男性の性格上の欠点」をその基本的な定義としている。
2017年に盛んになった#MeToo運動などの影響を受けて、日本でもジェンダーにまつわる暴力の問題を考える機運がこれまで以上に高まった。翻訳書などを通じて輸入された「有害な男らしさ」は、この流れを受けてSNSを中心ににわかに取り沙汰されるようになり、先日NHKの番組でも特集が組まれた*1。
この言葉がこれほど速く社会に伝播したのは、男性の暴力や感情抑制は男性文化の中でインストールされた気質によるものだ、というわかりやすい説明と、その語彙の持つインパクトによるのかもしれない。私は〈男らしさ〉が性差別や男性自身の生きづらさに関与していることを広く提示した点においてこの概念に意義を感じつつも、その使用には懸念も抱いている。
ここでは社会学者キャロル・ハリントンの論文『「有害な男らしさ」の実体とその問題点(What is “Toxic Masculinity” and Why Does it Matter?)』*2を参照しながらその起源と変遷を見た後、「有害な男らしさ」という言葉の持つ課題について考えてみたい。
起源と変遷
この言葉の起源はアメリカの「神話的男性運動」に見ることができる。神話的男性運動とは、スピリチュアルなワークショップや太鼓を用いた儀式などによって、産業革命前の戦士のような男らしさを取り戻すことを目的に、1980年代から90年代にかけて実施されていた運動である。
男らしさを取り戻す運動で「有害な男らしさ」が取り上げられたことを不思議に思う読者もいるかもしれない。運動の創始者であるシェパード・ブリスは、「すべての病気と同じように有害な男らしさにも解毒剤があると信じていたからこそこの医学的な用語を用いた」と話しているが、この運動において、男性たちが女性に対する暴力に走ってしまう(=有害な男らしさを発揮してしまう)のは、「適切な」父親の不在などが原因で男性たちが腑抜けたために、欲求不満に陥っているからだ、と想定された。
つまり「有害な男らしさ」に対する解毒剤は、より立派な父親の存在、すなわち適切な男らしさを教え込んでくれる父親の存在である、と考えられたのだ。
この主張は学問の領域や政策にまで広がった。例えば心理療法家のフランク・ピットマンは、適切な父親を欠いた男性は、非現実的な男らしさの文化的イメージを追求し、男性であることを証明する必要性を常に感じていると主張している。
つまり当時は、「有害な男らしさ」を持ち出すことによって、父親不在の家庭の男子のような「規範的な家族像・男性像から逸脱した男性」を不健全と見なし、その一方で力強い父親像を推奨するような、保守的で異性愛家族主義的な言説が展開されていったのである。
21世紀に入ると、こうした考え方はさらに発展し、暴力が原因で家族や職を失った男性のうち、黒人男性や非正規雇用の男性、受刑者の男性など、より社会の中で周辺に位置づけられる男性に偏重して「有害」というラベルが適用されるようになる。中でも刑務所をフィールドとして「有害な男らしさ」を論じた精神科医のテリー・クーパーズの研究は広く引用され、彼の「積極的な競争や他者を支配する欲求、心理療法への抵抗につながる男性的性質」という定義が定着していった。
また、さらに注目を向けるべきは、「有害な男らしさ」が精神医学や心理学と結びつきながら発展してきた特徴を持つという点だ。そのため、治療によって男性の「有害性」は除去することができるという治療モデルが構築され、同時に男性の問題は男性個人の内面性によるものであるという説明が説得力を増していくようになった。
すなわち、暴力などの男性の問題は「様々な社会関係や環境との相互作用で生じる」と考えるのではなく、「個人の内面にこそ問題がある」と考える傾向が強まっていったのである――詳しくは後述するが、この点は「有害な男らしさ」という言葉の危うさを考える際のカギとなる。
結果として、非正規雇用者や黒人など周辺に追いやられた男性だけを異常な存在として見出して介入し、階級制度や人種差別の問題に着手しないまま、彼らを社会適応させる口実を「有害な男らしさ」という概念は作り出したのである。
ところが、2017年から「有害な男らしさ」が指し示す対象は、大きく変化する。#MeToo運動の中で「有害な男らしさ」という用語は、周辺化された男性ではなく、トランプ前大統領や映画プロデューサーのワインスタインのような権力を持つ白人男性を対象として用いられるようになったのである。
それ以降この概念は幅広く社会で取り上げられるようになり、例えばマスメディアはレイプ、殺人、銃乱射事件、ギャングの暴力、ネット上の中傷、気候変動、イギリスのEU離脱、そしてトランプ前大統領への投票など、ありとあらゆる問題を「有害な男らしさ」と関連させて論じている。今ではジェンダー研究でも数多く引用されているが、しかしそのほとんどが定義を曖昧なまま使用しているとハリントンは警鐘を鳴らしている。
個人化・心理化の問題点
上述したように、「有害な男らしさ」は男性問題の原因を個人の内面に見出す、つまり個人化・心理化する作用を持っている。男性による性暴力やドメスティック・バイオレンスは後を絶たず、特に身体的な加害は男性に偏在している。この現状において男性たちが無意識に身につけた〈男らしい〉ふるまいや言葉を自覚・内省することは間違いなく必要だ。しかし、内面性ばかりを過度に問題視することは、いくつかのデメリットを有している。
ここから「有害な男らしさ」という概念を使用する際の注意点について考えてみたい。
まず考えられるのは、使いようによってはジェンダー平等を後退させてしまう点である。この言葉の変遷で見たように、「有害な男らしさ」は周辺化された男性だけでなく権力を持つ男性にも適用されるようになり、それは一見社会における男性全体の問題を射程に入れたように見える。
しかし、例えばブッシュ元大統領(息子)が「有害な」男性から弱者を守る「男性的な」英雄として自身を描いてきたように、実はこの概念が、エリート男性が自身の権力を維持するために利用されてきた、とハミルトンは指摘している。つまり「有害な男らしさ」というラベルを他の男性に貼り付けて非難をすれば、自分を棚上げするだけでなく、「健康的」「進歩的」な男性として位置づけてより権力を強化することができるというわけだ。
その上、問題を起こした男性だけを取り上げ、彼らの「個人としての資質」を非難することで、社会全体の制度や文化に埋め込まれた男性特権や性差別の問題を覆い隠すことが可能となる。
「有害な男らしさ」という言葉を手放しで受け入れると、男性同士のヒエラルキーの構築や、特権性の隠蔽に意図せず寄与してしまう。結局一部の男性が問題化されるだけで男性中心的な社会は変化しない。それは周辺化された男性だけを「有害」と見なして介入し、社会構造自体には手を加えなかった過去の事例と相似形になっている。
また、「有害な男らしさ」は、男性が抱える問題への対処を考える際にもマイナスの作用を及ぼす可能性がある。確かに性差別や競争的・支配的なふるまいには個人の性格特性が関わっていると言えるかもしれない。しかし本来あらゆる行動はその場の環境や他者との関係性、そこに至る過程など、多くの要因の相互作用によって生じるものだ。男性の暴力も例外ではなく、女性軽視が埋め込まれた社会意識や文化、暴力を正当化する態度や語彙、暴力を可能にする権力関係などが関わっており、性格だけに一元化して説明することはできない。
例えば、男性心理学者のクリストファー・キルマーティンは、男子大学生たちが男性同士では性差別的にふるまうのが当然だという社会意識に従い、仲間からの承認を得ようと性差別的な言葉を発する傾向にあることを提示した。しかも彼らの多くが実はそうした会話をすることを望んでいないにもかかわらず、である*3。
この研究は男性個人の「内側」だけではなく「外側」にも問題があることを端的に示している。脱性差別を考える際、個人だけを対象にしてしまうと問題の全体像を見逃し、包括的な対策から遠ざかってしまうリスクがある。たとえなんらかの治療によって「有害性」を取り除いたところで、社会や環境自体には問題が残っているからだ。
自己責任論への発展
それは「有害な男らしさ」のもう一つの要素である「援助希求や感情発露の抑制」についても言うことができる。確かにこれまで男性学の分野において「男は弱さを語れない」「人に助けを求めることが苦手」という言及が何度もなされ、実際にそれを実証した研究もある。
しかし、本来「弱さ」とは、性別問わず安全・安心な場でようやく語ることのできる繊細なものである。そして男性たちが日常的に過ごすコミュニティ、特に男性同士の集団は十分に安心できるものでない場合が多い。
仕事上のやりとり以外でも、周囲の空気や会話の流れを繊細に読み取り、テンポよく話すことが求められる。時にはいじりやからかいがあって、少しでも自分の苦労や悩みを話すとネタ化されたり否定されたりしてしまう。2人きりの場面でも改まって話すのは気が引け、結果なかなか内面を開示した内容を話せない。こうした境遇にいる男性にとって、「弱さを語れない・語らない」という指摘は、「弱さを語る空間や文化」について言及していない点において不十分なものになっている。
ましてや「語れない」ことを「有害性」に紐づけて論じることは(そしてそれは暗に「語れる」ことを「健康」と紐付けている)、問題をいたずらに個人の能力へと還元させ、自己責任論的な方向へと議論を運んでしまう危険がある。
「有害な男らしさ」という言葉は内省の契機をもたらすが、それと引き換えに「本質的に男性個人の人格には欠陥がある」という認識を生み出す。つまり、実際はその〈ふるまい〉に問題があるのに、〈人格〉そのものを否定する作用を持っている。その結果、男性はたとえ性差別的な行為をしていなくとも、もしくは自身の犯した行為をどれだけ償ったとしても、「有害性」を持った存在であると見なされる事態が起きかねない。また、男性自身が自分を「有害な」存在として自分を否定し続ける可能性もある。
こうした事態から逃れるために、彼は(上述したように)自分を棚上げして他の男性を非難するか、性差別的なふるまいをした場合はその事実を隠蔽しようとするだろう。でなければ自己否定感を延々と抱えたまま、他者との関係を断ち切って閉じこもるしかなくなってしまう。
もちろん予防的なかかわりや個人の努力を求めることは重要だが、そのために「有害」という言葉を用いる必要性がどれだけあるだろうか。性差別が起きたときに重要なのは、加害者が自己否定だけをすることではなく、自ら責任をとっていくこと、つまり自身のやってしまったことを認めて謝罪し、二度と繰り返さないことにある。
「有害な男らしさ」という概念は、危機感を煽りはするが、男性たちを自意識の中に閉じ込め、主体的に脱性差別の道を歩むことを妨げる恐れがある。
また、本当に男性の問題を考えるならば、個人の問題と並行して男性を取り囲む社会や文化についても議論していくべきだ。そして具体的な実践の一つの形として、社会や文化の形を変化させることができるのではないかと思う。
オルタナティブな文化を構想する
フランスの映画『シンク・オア・スイム』は、8人の中年男性がシンクロナイズドスイミングに打ち込む、一風変わった作品である。うつ病で会社を退職し子どもからも馬鹿にされている男性や、妻と子どもに出ていかれた短気な男性、事業に失敗し倒産の憂き目に遭っているのに虚勢を張り続ける男性など、何らかの苦悩を抱えている男性たちがひょんなことからチームを組み、シンクロの世界大会に出場することになる。厳しい特訓によって彼らは実力を伸ばし、大会では金メダルを手に入れる。
一見単純なサクセスストーリーに見えるが、その道のりは決して平坦ではない。彼らは途中で何度も悩み、立ち止まる。また世界大会で優勝しても彼らが抱えている悩みが特に解決されるわけでもないのだ。彼らは人生に絶望しながらも、それでもなんとか生きていく。
それを可能にしたのは作中で印象的に描かれる〈語りが聞き届けられる〉文化にある。このシンクロチームはコーチ(女性)もユニークで、彼女は練習中なぜかシンクロに関係のない詩を何度も読み、そしてメンバーたちはそれに耳を傾ける。その習慣の影響もあってか、彼らは練習後にロッカールームでぽつりぽつりと自分の抱えるプライベートな悩みや困りごとを他のメンバーたちに語りだすようになる。誰もアドバイスなどを投げかけない。ただその語りを黙って聞く。
『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』という本の中で、トランプ前大統領が「こっちがスターなら、女は許してくれる。何でもできる。アソコをつかむことだってできる」というおぞましい女性蔑視発言を批判された際に、「単なるロッカールームの軽口だ」と弁解したエピソードが紹介されている。
著者のレイチェル・ギーザは「ここに暗示されているのは、合意なしに女性に触ったりキスしたりできると自慢するのは、男だけの空間では普通の会話だ、という意識である」と指摘している*4。
『シンク・オア・スイム』で描かれるメンバーたちの関係性は、女性を侮辱することで見栄を張り合うような男性同士の会話とは一線を画している。彼らはシンクロの練習に打ち込み、大会で優勝することに達成感を感じることはあっても、誰かを貶めることはしない。そして少しずつパートナーや家族、そして自分に向き合っていく。そこにはトランプが想定したものとは全く異なる「ロッカールーム」がある。
攻撃性や性差別以外のものでつながる関係性を男性たちは持つことができるし、普段から何気なく作り上げているかもしれない。「有害」というラベルに振り回されることなく、こうしたオルタナティブな男性の側面を掘り起こして肯定的に捉え直すことを始めていきたい。
*2 Carol Harrington「What is “Toxic Masculinity” and Why Does it Matter?」Men & Masculinities,First Published July 17, 2020.
*3 Christopher Kilmartin・Robin Semelsberger・Sarah Dye・Erin Boggs・David Kolar「A Behavior Intervention to Reduce Sexism in College Men」Gender Issues32:97–110.2015
*4 レイチェル・ギーザ(2019)『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』冨田直子(訳)、DU BOOKS。