「宿命」という言葉には、どこか罪深いにおいがする。どんな葛藤を抱えた誰の仕業か。フランスのノートルダム大聖堂の壁にひっそりと、ギリシャ語で刻まれた「ΑΝΑΓΚΗ(アナンケ=宿命)」の文字に心を打たれた文豪、ビクトル・ユゴーは小説「ノートルダム・ド・パリ」を生み出した。
日本では「ノートルダムの鐘」として、ディズニー映画や劇団四季のミュージカルで知られる。映画のハッピーなラストもすてきだが、ユゴーが見つめたのは、愛から逃れられない人間たちの残酷なまでの苦しみだった。
15世紀のパリ。広場で踊る美しいジプシーの娘、エスメラルダを見たことが大聖堂の副司教、フロロの運命を狂わせた。厳しい禁欲生活を送ってきた彼は初めて感じた愛欲にとらわれ、捨て子から育てた醜い鐘突き男、カジモドに彼女を誘拐させようとする。
だが、それを阻止したのが王室射手隊のフェビュス隊長。婚約者がいても浮気する軽薄な男だが、エスメラルダは一目ぼれ。一方でエスメラルダに情けをかけられたカジモドは彼女に無償の愛を注ぐことになり…と一方通行だらけの愛が絡まる。
最も哀れなのはカジモドだ。生まれつき背骨が曲がり、その顔の醜さゆえ差別され、何度も窮地を救ってやるエスメラルダですら、感謝はしても顔を直視してはくれない。それでも純粋な心を失わない様子が痛々しい。
最も人間的なのはフロロだろう。きまじめで根は悪人ではないが、静かだった自分の世界を乱暴に壊す恋に動揺し、嫉妬や独占欲にのまれて怪物になっていく姿は、現代のストーカー事件とも共通する。
愛は美しく世界を照らすが、黒く心を覆う呪いにもなる。報われない愛に固執したエスメラルダもフロロも結局殺されてしまう。
数年後、墓場から女性と、その女性を抱きしめる背骨の異様に曲がった男の白骨が見つかる。引き離そうとすると、粉々に砕け散った-というラストは、カジモドが愛という宿命からようやく解放されたようで、残酷な物語を最後に救う、温かい余韻が残った。(田中佐和)
ビクトル・ユゴー
フランスを代表する詩人、文豪で政治家。1802年にフランス東部の都市で生まれた。共和制のために闘い続け、1885年に死去するまで約20年間亡命しながら執筆活動を続けた。19世紀の新しい文学運動であるロマン主義のリーダーで、「ノートルダム・ド・パリ」の醜くも純粋なカジモドに表れる「崇高とグロテスク」の同居という精神はロマン主義の典型的な美学とされる。社会的弱者を描いた作品が多く、映画化、舞台化されているものも多数。代表作に「レ・ミゼラブル」。