万延元年(一八六〇)    五十四歳

十一月二十六日、旭荘は、篠崎小竹(嘉永四年、一八五一、五月八日死去)旧蔵の書画売り立てを見に行く。

『日間瑣事備忘』に言う。

 

 仁也をして途に龍山を訪はしむ。曰く、

「聞くに書肆某は、篠崎(小竹)氏の器什を売ると。公は若し意有らば、之を観よ」

と。(中略)

午後、龍山・松次郎 来たる。乃ち徹雲・梅屋・青浦と出でて、北久宝寺街に出で、介眉・梅谷・石林等に遇ひ、絡繹として来往す。或ひは曰く、「既に」、或ひは曰く、「未だし」と。即ち篠氏の物を謂ふなり。肴店の木津仁氏の門外の家に至る。堵立すれば乃ち入る焉。席に就けば、河卯 出でて見えて曰く、

「縦覧せよ」

と。毎(一字脱か)に書画数十百幅を挂け、皆名家の手跡なり。楼上には明清の聞人の書画、亦た数百幅、之に文房の諸具、及び居家の必用の器什を加ふ。蓋し三嶌翁以来の所蔵の宝 夥しきかな。嗚呼、三世は将兵家の忌む所と為る(『唐太宗李衞公問對』の句)。儒も亦た然るか。余は小竹翁の知を(かたじけな)くす。今日の事、惋慨に勝へず。独り怪む春艸(後藤松陰)独り在りて此れに及ぶかと。観畢れば、青浦・梅屋等を見ず。之を尋ぬれば始めて出づ。余は叱りて曰く、

「吾が子は吾が刀を把りて随ふ。吾を()てて(いづ)くにか往く」

と。出でて龍山と別る。九山を訪ふも在らず。徹雲・青浦は去る。梅屋は送りて我が家に至る。

 室氏は余に新羽織を衣す。木津仁の席上に玉江は向きて拝す。余は答拝す。傍らに柱有り、鉄釘 横に出づること数寸、羽織は之に触れ、裂けて声有り。既に帰りて室氏に謝す。室氏は哂ひて曰く、

「是れ有るかな、公の近視」

と。

 

 小竹は、儒者には珍しく富裕で、その旧蔵の書画も、質量ともに一世に冠たる物があった。彼が嘉永三年(一八五〇)五月八日に七十歳で歿した事は前述したが、その丁度十年後に旧蔵書画の売り立てが行われたのである。旭荘は、息子の仁四郎から、その情報を聞いて、門人たちと北久宝寺町の小竹の家に急ぐと、関係者の往来が甚だしく、「既に行って来た」だの、「まだ、これからだ」などの遣り取りが賑やかだ。魚屋の木津仁の隣の小竹の家にも立錐の余地が無いほどの人出だ。

世話人の「河卯」とは、河内屋卯助を言うのであろう。『明律』の明治刊本などに大坂の発行書肆として、刊記にその名が見える。

言うまでもなく、小竹の養父の三嶌も、儒者としては珍しく富裕であったから、それ以来の書画の陳列は見応えがあったろう。旭荘は、自分に眼を懸けてくれた小竹を忍ぶ気持ちが強かったし、売り建て品は高価であったろうから、購入もしなかったようだ。それどころか、小竹の娘婿である後藤松陰(春艸)が、このような所業に出でたことを非難する気配をさえ示している。だが、松陰は、「不幸にして早く中風症に罹」ったという(木崎愛吉著書九三頁)。おまけに、その配まち女(即ち小竹の娘)も前年の安政六年七月十八日に五十余歳で亡くなっていたという(同前)。だから、この辺でその文化財にも見切りを付けようとしたのかも知れない。

一方、それが高価であったろう事は、木崎愛吉『篠崎小竹』(大正十三年六月発行)七十二頁に、

  訥堂の歿後二年、万延元年の冬、篠崎家の書画骨董が入札払に

  附せられた時、三島以来やかましい徂徠真蹟の二幅―一は答屈

  子旭(菅甘谷)七言古詩、一は三家詩話序で、伊丹の坂上家が

  甲を買取り、乙は備後町田中家に納まったといふことである。

という記述からも推し量られる。そんな事情もあって、旭荘は、購入もしなかったのであろう。

 書画を見終えると、門人たちは、旭荘の刀を持って付き従っている仁四郎や師匠旭荘を見捨てて、どっかに行っている。激情家の旭荘は、癇癪を起した。彼の怖い所だ。ところが、旭荘は、会場で、せっかく細君が用意してくれた新品の羽織に柱の釘を引っ掛けたので、びりっと破けてしまった。帰宅して、妻に詫びると、

「あなたは、ど近眼だからよ」

と笑う。ばつの悪そうな彼の顔が想い浮かべられる。この辺が旭荘の可愛い所なのだ。

 

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