【散文】言葉はいつも行方不明、文字はあちこちで居座り中
言葉はいつも行方不明。言葉を見た人はいない。音を見た人もいない。言葉を見える化したものが文字らしい。
見える化はたいていが別物への置き換え。置き換えには、編集、改変、削除、付け足し、改ざん、エラーが付きもの。そもそも、別物ではパーツからして別物。
別物にすり替えて、見える見えると喜ぶ、見え見えのうそ。
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言葉はいつも行方不明。発したとたんに片っ端から消えていく。消えてしまう。はなす、話す、放つ、放す。
言ってしまえば行ってしまう。言って言ってしまった、行って行ってしまった。もう返らない、帰らない。
しまったと思っても、もうおしまい。しまう、仕舞う、終う、了う。
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文字は消さないかぎり消えない。そこでそのまま残る。居残る。
文字はあちこちで居座り中。誰が生まれたときにも、いたるところで居座っていたはず。
言葉より後に来たのに、文字は大きな顔をして居座り中。いすわる、居座る、居坐る、居据る。「ある・在る・有る」というよりも「いる・居る」という顔をしている。
文字には、ちゃんと顔がある。字面。人形は顔が命。文字は面が命(どうりで文字は面と相性がいい、壁面・石面・木面・竹面・布面・皮面・紙面・画面)。文字と人間は面に付く。だから、あなたと私は、いま文字を介して画面でつながっている。
顔面があるから、文字にはもちろん目もある。
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目が据わっていて居直っているようにも見える(居眠りについては不明)。気難しそうだし、もったいぶっても見える。偉そうにも見える。
文字は見える。言葉を見た人はいないけど、文字は目で見ないことには始まらない。
見るためには距離がなければならない。文字は目から距離を置いた人の外で、おもむろにあらわれる。言葉のように内から漏れ出るわけではない。
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言葉は生理現象に近い。出る、出す、漏れる、漏らす。吐く、吐き出す。
言葉を話すことは、空気を吐き出すこと。出て行く空気は入って来たもののはず。かえす、返す、帰す、還す。もどす、戻す、戻してやる。
もどしてやったのに、そのままいってしまうのだから、あっけないし、はかない。さみしくもある。
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言葉は生理現象に近い。出る、出す、漏れる、漏らす。
汗、唾、げっぷ、おくび、あくび、くしゃみ、しゃっくり、せき、いびき、ため息、吐息、喘ぎ……。あといろいろ。
yawn、belch・burp、sneeze、hiccup、cough、snore、sigh、gasp・pant 、sweat 、 fart・gas・wind 。言いにくいことは外国語にするといいみたい。
生理現象に近いから、言葉の言うことなら、身体が聞/聴いてくれそうだし、その結果として身体に効/利きそうな気もする。心身に染み入る感じ。
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文字は、生理現象とはほど遠い。文字は、つねに人の外にある異物であり、あいだをあけて見る対象でもある。
文字は見える。というか、むしろ、お見えになる。お見えになる以上、見栄を張るのは致し方ない。見栄えを気になさる、お方。
見える、見せる、魅せる。何を見せるのかと言えば、振り(生きていない文字は生きた振りもうまいし、死んだ振りもうまい、そもそも死んだ振りは生きていないものしかできない)を演じてみせる。
だから、人は文字に見入る。「すごーい」なんて、その意味ありげな謎めいた振りに見入る。
文字に見入るのはヒトだけ(ヒトは文字にヒトみたいな振りを見ている、ヒトはヒトみたいやヒトもどきにしか関心を示さない、ヒトみたいなものにヒトを見たいのがヒト、擬人・偽人・戯人)。
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見入る者は、見入られ魅入られる。
見入り魅入られることによって、見入る人たちのあいだで思いや感情や出来事が共有される。「これは、すごいわ」と、かかげた台の上で文字を見せることにもなる。壁面、石面、木面、竹面、布面、皮面、紙面 ←いまここ→ 画面。
見せるが、見世物ではなく、見せてもらうもの、見せていただくものになっていく。台の上から指示したり命令する役割をになわされたこともある。御触書、令状、官報、回覧板。
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閑話休題。
【ことはこと。言は事。言葉も出来事も、発信・投稿・複製・拡散・保存するのは難しいし不可能なことも多々ある。言を発する/言を聞く・事を起こす(事が起きる)/事を見聞きするためには、時間の経過が必要だからである。いっぽう、文字はコンパクトでポータブルでパーソナルな物として写して移し残す方法として、一部の少数の人たちによって古くから利用されてきた(複製・引用・配布)。これが「こと・事・言」と「もの・物・文字」の決定的な違いだと言える。
事と言の録音や録画が可能になったのは人類の歴史ではつい最近のこと。その録音と録画には致命的な欠陥がある。録音・録画だけでなく再生にも電力を消費する。人類がいつまでも電力をふんだんに利用できる保証はないのに。ついでに言えば、文字を紙面に写して移す(移動・配布)のではなく、画面に映すことで発信・投稿・複製・拡散・保存がほぼ瞬時に/ほぼ同時に可能になったのも、つい最近のこと(ただしこの場合の文字は、もはや物ではなくむしろデータとか情報と言うべきだろう)。
誰もが画面付きの板を手にうつむき加減に歩く姿が板に付いたのもごく最近のこと。人類がいつまでも電力をふんだんに利用できる保証はないにもかかわらず。とりわけ、現在の世界情勢と地球の気象を思えば、画面に映る文字の前途は多難と言うべき。かと言って紙だけに戻る自信なんて、板の画面に依存している私にはない。】
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見せるが、見世物ではなく、見せてもらうもの、見せていただくものになっていく。台の上から指示したり命令する役割をになわされたこともある。御触書、令状、官報、回覧板。
見えるからお見えになるに変わる。まつりごと、政、たてまつる、奉る、ひれふす、平伏す。
お見えになるのは、朝のお日さまだけでじゅうぶんなのに。
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いまも世界のあちこちで権力者と呼ばれる人たちが、文字だけには一目を置く。一目置くどころか、文字・文字列・文章・文書の前にひれ伏し、あがめたてまつっている。
あの人たちは文字での辻褄合わせに血道をあげている。文字は見えるからにちがいない。見える、見せる、魅せるからにちがいない。
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たとえば、ある日とつぜん、「黒いカラスは白いサギだ」と、あの人やあの人たちが宣い・のたまい、それが文字にされれば、まことしやかな文書になる。いまでは、ほぼ瞬時に/ほぼ同時に発信・投稿・複製・拡散・保存されて、みんなの持つ板の画面に映し出される。
かつては支配する側や選ばれた一部の人たちが独占していた文字をみんなのものにした点では有り難いけれど、コンパクト・ポータブル・パーソナルには恐ろしい面がある。ひとしく誰もが容易に「わけられる」「はかられる」「あつめられる」「おさめられる」「しずめられる」事態におちいるからにほかならない。
なぜなら、コンパクト・ポータブル・パーソナルが常時接続されていることによって、「見ている」が即「見られている」であるから(たとえ見ていなくても)。そのうち常時携帯所持が義務化されるかも。
・あの人たち(少数):
「選ばれる・選挙」 ⇒ 「計る/測る/量る・図る/謀る/議る/諮る」 ⇒ 「治める・修める・納める・収める」 ⇒ 「沈める・鎮める/静める・鎮静と鎮圧」
・私たち(多数):
「選ぶ・選挙」 ⇒ 「分けられる・分類と分析と数値化」 ⇒ 「はかられる・図・謀・議・諮」 ⇒「あつめられる・召集と没収と動員」
口にした言葉が文字になってみんなと共有された以上、後には引けない。ぶれるわけにはいかない。あやまってもあやまってはならない。今度は、その文字での辻褄合わせを現実でやれと部下に命じる。次に部下が国民に命じる。荒唐無稽な辻褄合わせのつけを払わせられるのは、いつも私たち。
・おさめる、収める、納める、修める、治める
おさめているのに、
おさめられているだけでは、
おさまりがつかない。
納税者がいつのまにか、ずっと納めるだけの、そしてずっと治められるだけの存在になってしまっている。これでは収まりがつかないではありませんか。
(拙文「「はかる」と「はかられる」のアンバランス、「えらぶ」と「えらばれる」のアンバランス」より)
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後から来たはずの文字が、人のいるいたるところに居座っている。見えるだけが取り柄の文字が、見せて魅せるのをじっと待っている。
とは言え、見える文字に振りや意味を勝手に見ているのは人のほう。ヒトだけと言うべきか。文字に罪はない。猫に文字を見せても知らん振り。猫は聡明な生き物。
はじめにあったはずの言葉は、いつも行方不明。口から出た言葉は、いつも人を残して、いってしまう。
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いき、いきる、いく。
いく、生く・活く、行く・往く・逝く。
言葉は「息、生き、活き、行き、往き、逝き」、つまり現在進行形。発せられた瞬間につぎつぎと消えていく言葉においては、生と死が絶えず更新されている。
息を吐き出す。いってしまう。その空気は外から入って来たものであるはず。それを吐いて戻すことで、ふたたび生かしてやる。放して行かせてやる。
たとえ、戻って来なくでも、いつか誰かか何かのなかに入ることもあるだろう。そうやって息を吹き返すにちがいない。
そして、また出ていくのだろう。そのすがたは誰にも何にも見えない。目に見える別のものに置き換えることもできない。


