鏡にうつっている「自分」、写真にうつっている「自分」、指で触れている自分
鏡を前にしてそこにうつった自分の顔を見ているさまと、写真を目の前にしてそこにうつった自分の顔を見ているさまを想像してみましょう。
どちらの場合にも目の前に自分が見えます。自分がいます。いま、二つの言い方をしました。「目の前に自分が見える」と「目の前に自分がいる」の二つですが、微妙に異なります。後者の方がいわば「自分度」が高い気がします。
どう感じるかは人それぞれですから、私の印象で比べてみます。
*目の前に自分が「見える」:
・写真にうつっている自分。
・その写真にうつっている自分はひょっとすると自分ではないかもしれない。幼いころや赤ちゃんのころの自分の写真である場合もありうる。うつっているのは誰かが撮った自分とそっくりな人かもしれない。しかも、現在だと、フェイクである可能性が大いにある(複製だから加工や改変しやすい)。
・知識としての「自分」。(※言葉と文字として一本化されている「自分」なのですが、このことについては後でお話しします。)
*目の前に自分が「いる」:
・鏡にうつっている自分。
・その鏡にうつっているのは自分以外のなにものでもない。(※話がややこしくなるので、自撮りの動画にうつっている自分はここでは扱いません。)
・いまここにいる自分。(※指で触れることのできる自分であり、つねると痛い自分のことなのですが、これは後述します。)
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何を言いたいのかと申しますと、鏡の方が信頼度が高いのです。リアルタイムの(いまここにいる)自分がうつっているからです。自分に似ているとかそっくりだから信頼度が高いのではありません。同じ振りを同時にしているから信頼できるのです。
【※鏡を境にして、こちらの振りと向こうの振りが、同時に進行している(こちらの「いまここ」と同じ「いまここ」が、向こうで出来事として起こっている)。これはまぎれもない「同じ」であって「似ている」ではありません。
通常「同じ」と言われている「同じ」は人の目では判断できません。道具や器械や機械やシステムという広義の「はかり」に「はかる」を代行してもらわないと「同じ」かどうかは人には分からないのです。⇒「決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」」
見て分かる「同じ」(同時に起きている同じ振り)と見ただけでは分からない知識としての「同じ」(はかりに「はかる」を判断を外部委託して得られる知識・たとえば重さや長さや面積や体積やDNAが同じ)。異なる同じに同じ「同じ」という言葉と文字が当てられているのは興味深いです。⇒「同語・同義・同音・同字・同イメージを反復する(文字をうつす・01)」
こういう言葉と文字の当て方を見ていると、(人の)世界は言葉と文字でできているとか、(人の考える)宇宙は言葉の綾でなりたっている、なんて言いたくなります。⇒「世界は文字でできている(世界について・02)」
また、そもそも「同じ」とは言葉と文字であり、とどのつまりは慣用句であって、自然界ではヒトのつくった「同じ」というフレーズでくくれることなどありえないのではないか、と考えそうにもなります。⇒「ありえない話」
なお、現在ではリアルタイムに撮影できる動画がありますが(まるで鏡を前にしている気分になる自撮りもできますね)、話がややこしくなりそうなので、ここでは扱いません。というか専門知識のない私には扱えないと言うべきでしょう。】
いっぽう、写真の方が信頼度が低いのは、写真にうつっているのが自分であるというのは、誰かに教えてもらった知識である可能性があるからです。「じつは、これは生後二か月のあなたなんですよ」と。しかも、そこには、こちらと向こうでの同じ振りが同時に進行してはいません。
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とはいうものの、写真にうつっている自分が、自分で撮った証明写真であれば、確かに自分です。いま書いた「写真にうつっている自分が、自分で撮った証明写真であれば、確かに自分です」という文の一番目の自分は「自分の像(影)」です。二番目は「過去の自分(記憶の中の自分)」、三番目は「いまここにいる自分」だと言えます。
複数(三種類)の自分に同じ自分という言葉(語・音)と文字が当てられているのです。
言い換えると、多種多様な自分(多数の写真にうつっている多数の自分・多数ある似顔や絵に描かれた多数の自分・自分のさまざな記憶にある多数の自分・多数の他人の記憶にある多数の自分・いまここにいる自分)が自分という言葉と文字で一本化されているのです。
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多である自分が言葉と文字である自分で一本化されて同一視されている。言葉と文字は多を一と見なす仕掛け(仕組み・体系)だと私は受けとめています。
*みなす【見做す・看做す】
①(実際はそうでないと知った上で)それとして見る。見立てる。
②(実際はどうであるかにかかわらず)そういうものとして扱う。同類と考える。
(岩波書店「広辞苑」より)
「見なす」で最も大切なことは、(実際はそうでないと知った上で)と(実際はどうであるかにかかわらず)です。
ようするに、みんながそうでないと知って分かっているし、本当はそうかどうか不明なのにそんなもんだろうと考えているらしい――。
私は、この「みなす」の語義を初めて読んだときにはびっくりしました。そんなすごいことが(スキャンダラスとセンセーショナルという言葉が頭に浮かんだほどです)、しれっと丸括弧をほどこされて書かれていたからです。「すごーい!」なんて叫んで、しばらく語義に見入っていました。
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なにしろ、いまここにいる自分以外の多種多様な別物に自分という言葉と文字をしれっと当てて何食わぬ顔をしていることになるからです。
あまりにも驚いて私はこれが夢ではないかと確認するために、頬っぺたを指でつねったほどです。
「痛いっ!」と叫んだので、夢ではないと分かりました。その直後です。今度は「あっ!」と叫んでいる自分がいました。
指でつねって痛いと感じる自分こそが「いまここにいる自分」なんだと思ったからです。それ以来、「いまここにいる自分」を感じたいときには、指で頬をつねったり、自分の身体のどこかを指でつねったり、つねりたくないときには指で触れるようにしています。
あと、タイトルにある指のことですけど、これはきわめて個人的な話なのです。大きな声では言えませんが(「そうなら太文字にするな」ですよね、私もそう思います)、私は指で触れている自分こそが自分だと考えています。
(拙文「写真・鏡・指」より)
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ところで、さきほど述べた、
多である自分が言葉と文字である自分で一本化されて同一視されている。言葉と文字は多を一と見なす仕掛け(仕組み・体系)だと私は受けとめています。
ですが、この「多を一と見なす」(みんなで多を一に置き換えて澄ましている ⇒ みんなで多を一にすり替えている ⇒ みんなで多が一だという振りをしている ⇒ みんなで多が一だという演技をしている)というすごい体系を体感的に学ぶすごい方法があるのです。
驚いたことにそのすごい方法も、辞書にしれっと語義として書かれているので紹介します。
*そどく【素読】
文章の意味・内容の理解はさておいて、まず文字だけを音読すること。漢文学習の初歩とされた。そよみ。すよみ。「論語を素読する」
(岩波書店「広辞苑」より)
「まず文字を音読する」とは、「まず文字と言葉をなぞる」ことにほかなりません。「文章の意味・内容の理解はさておいて」なんどもなんども、まねてなぞってまなぶという体感的な(身体をつかっての)学習法なのです。
つまり、器が先、中身は後で(ぶっちゃけた話が、一である器が先、多である中身は後で)なのです。これが鉄則です。⇒「先生、愛って何ですか?」
ようするに、中身は多(多どころか、たぶん無数なんですから)、まず徹底的に器だけを習得させるのです。「中身なんてないのですから」とは言いませんが(書きましたけど)。
・多種多様な自分(多)
・自分という言葉(一)
・自分という文字(一)
(※自分の場合には、多のみならず他もいます。自分以外の誰もが自分ですから。)
・多種多様な〇〇(多)
・〇〇という言葉(一)
・〇〇という文字(一)
(※「〇〇」には、自分のほかに、猫、朝顔、山、川、海、世界、世界地図、地球、地球儀、愛、憎しみ、争い、平和、宇宙、森羅万象などが入ります。)
上の三つを一致させる方法が、素読の語義に短く簡潔にまとめられていると私は思います。この方法は、おそらくあらゆる言語の習得において実践されているのではないでしょうか。母語の習得だけでなく、外国語の習得においても、です。
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以下は、素読によく似た外国語の学習法の例です。
(……)そればかりか、他の類書に見られない新たな趣向がこらされている。視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのではなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによって肉体的にそれを同化すべく作られている。◇そのために、各課の冒頭に短いテキストが置かれている。これらは正しい発音で読まれ、意味を正しく解釈される必要のない文章である。そうされてもいっこうにさしつかえないが、利用者諸氏は、これらの文章をただ盲滅法に書き写して、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい。(……)いずれにせよ、訳すことよりは、これを暗記して書けるようにすることが重要である。もちろん、この部分にかぎらず、他の例文を正しく発音したいという意志は尊重されてもよい。その場合には、あたかも自分がフランス人になったように美しく読もうとする必要はない。美しく読んでもいっこうにかまわないが、それよりも、明瞭に発音すること。速く読もうとするよりは、むしろ、自分のなまりに誇りを持ちつつ、はっきり発音すべく心かげること。(……)しかし、その際も、知性よりは、肉体化された手の動きの反復を活用すること。くり返すが、この書物の特徴は、視覚だの聴覚だのを経由することなく、直接、肉体を駆使すべく作られていることにある。(……)
(蓮實重彥『フランス語の余白に』p.ii・朝日出版社・丸括弧による省略と太文字は引用者による)
この外国語の学習法は、私たちが母語である日本語を学習するさいも、無意識のうちに実践してきたものではないでしょうか。
つねに「とりあえず」の宙づりであって着地などない言葉と文字のありようを前に、それを迎え撃つ言語と文字の学習もまた、つねに「とりあえず」の宙づりであるはずであり、着地などありえないのです。⇒「宙吊りにする、着地させない」、「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」、「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」
言葉(語・音)と文字(点と線からなる形)は、誰にとっても、生まれたときにすでにあるものです。それに異議を唱える余裕など誰にもありません。
誰もが、まずは身体のうちでも繊細で敏感な先端(しかも、こまやかでしなやかな動きを備えている)である口(唇と舌)と手指を用いて、くり返しまねてなぞりながら、音と形を身に付けていったにちがいありません。
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目でなぞる。離れたものを目で追いなぞる。距離をおく。距離をおう。手をのばしてもとどかないものは目で追ってなぞるしかない。
追う、追うことで追われる、追えば追われる。負う、負うことで負われる、負えば負われる。背負ったものに追いかけられる。obsession。
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手がとどくものは指でなぞる。なぞってなでる。何だか知らないものをなでる。音と声で名前を教われば、その名をなぞる。なんどもなんどもなぞって覚えていく。
そのうち、名を口でなぞれば名付いたものがいまここにいるような気持ちになる。相手・対象と触れ合っている「いまここ感」だけがある。相手・対象は「いまここにはいない」し、そもそも「いるかどうかが不明である」にもかかわらず。
(拙文「【散文】手がとどかないものをなぞる」より)
鏡にうつっている「自分」、写真にうつっている「自分」、指で触れている自分。
手がとどかない「自分」は、とりあえず言葉と文字として口と指でなぞって、そして目で追ってなぞって、とりあえずの「いまここ感」に浸るしかないようです。
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宙づりであって着地などしていない。触れてなどいない。ふらふらと振れているだけ。
自分に触れようと、とりあえずの「自分」が鏡の前でそっと唇に指を当てる。
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