【エッセイ】真面目が生きづらい社会
生きづらさって、誰しもが持ってる。
わかってもらえない。
俺だって頑張ってる。
なんで俺ばっかり。
そういうネガティブな言葉が、頭の中をぐるぐる駆け回る。夜中とか、仕事がうまくいかないときとか、ふとした瞬間に。
でもさ、弱い自分を見せたら負けな気がして。
だから背伸びして、ぐっと堪えて。今日も何食わぬ顔で生きる。
そうやって、みんな必死に「強い自分」を演じてる。
でもさ、よく考えてみてよ。
誰しもが弱い自分ってものを持ってる。強そうに見える人ほど、実はどこかで無理してたりする。
違うのは、何に弱いか。それだけ。
弱さの種類が違うだけで、弱さそのものを持ってない人間なんていないんだよね。
だったら、隠す意味って何なんだろう。
弱さを認めるっていうのかな。
いっそのこと、「自分はこういうところが弱いんだ」って認めて、さらけ出す。
一生懸命隠してきた自分の弱さって、いがいとさらけ出しても、そんなに辛く叩かれない時もある。
むしろ、さらけ出したからこそ「もう隠さなくてもいいんだ」って。
心がそっと楽になる。
別にいいじゃん。
弱いって、だめなこと?
違うよ。
弱さを隠して、強がって、無理するほうが辛い。
自分を偽り続けることのほうが、よっぽど消耗する。
自分の弱さを認めるって、それ自体が強さなんだよね。
格闘技もそうじゃん?
弱い自分を認める強さ。
「弱い」って思ってる自分でも、リングに立つ。
その姿自体が、もう強さの証明なんだ。
さらけ出すと、そこに強さが現れる。
そう、大丈夫。
君は強いよ。
自分を認めた人間って、強いんだ。
それで、思うことがあるんだよね。
いま世の中って、
苦手なことから逃げてもいい。
自分のペースで。
全力疾走よりすこし休んで。
そういう言葉が溢れてる。優しい言葉。寄り添ってるように見える言葉。でもさ、真面目しか取り柄がない人はどうしたらいいの。
肩の力を抜いて。
少しくらいサボってもいいんだよ。
今日はこのくらいでいいから。
そんな、寄り添ったような言葉ばかりが正解みたいな顔して、いつのまにかルールになっていく。肩の力を抜くこと自体がストレスになっちゃう人は、どうしたらいいの。
まるで、それができない自分がだめだと言われているみたいで。真面目以外に、どうやって考えたらいいか分からない人にとって、どうやって気楽に考えたらいいの。
寄り添うって、なんだろう。
一生懸命、真面目に頑張って、壁にぶち当たっちゃう人にとって、その言葉は本当に正解なのかな。
壁にぶち当たって、もっと気楽に考えていいんだ。なんて言葉は、かえってどうしたらいいかわからなくなっちゃうんだよ。
じゃあ、どうすればいいんだろう。
まず、当人の話。
真面目にしか生きられない自分。
気楽になんて、なれない自分。
それを、無理に変えようとしなくていいんじゃないかな。
「肩の力を抜け」って言われて抜けるくらいならとっくに抜いてる。
抜けないから、苦しいんだよ。
だったら、抜こうとしなくていい。
真面目にしか頑張れない自分を
まず自分が認めてあげる。
それでいいんだ、って。
不器用でもいい。
要領悪くてもいい。
その真面目さで、どこまで行けるか。
その真面目さのままで、どう息をするか。
別人になろうとしなくていい。
自分の道の中で、少しだけ楽になる場所を探せばいい。
次に、周りの話。
真面目に頑張って、壁にぶつかってる人がいる。
そこに、「気楽にいこうよ」「肩の力抜きなよ」って声をかけたくなる。
それが優しさだと思ってる。
でもさ、その人はきっと気楽になれる性格だったら、とっくにそうしてる。
なれないから悩んでるんだよね。
だったら変えようとしなくていい。
「あなたはそのままでいい」って
本当にそう思って、隣にいてあげること。
別の生き方を勧めるんじゃなくて
その人がその人のままで進める道を、一緒に探すこと。
それが、本当の寄り添うってことなんじゃないかな。
結局、当人も、周りも。
弱さを認めるってことに、行き着くんだと思う。
自分がこういう人間だって、認める。
別の何かにはなれない自分を、認める。
そして、周りの人間も。
その人が、その人以外にはなれないってことを、認める。
変えようとするんじゃない。
別の道を用意するんじゃない。
その人の道の中に、
まだ他に道がないかを、一緒に探す。
そこなんじゃないかな。
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とても、とても嬉しく思います。


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