2023(令和5)年9月14日、岡田彰布監督率いる阪神タイガースは、「マジック1」に迫った状況で、甲子園球場で巨人と対決し、この試合、阪神が4-3で巨人を破り、その結果、阪神タイガースが18年振りのリーグ優勝を決めた。
岡田監督が阪神の選手達の手によって胴上げされ、超満員に埋め尽くされた甲子園球場で宙を舞った。
という事で、前回に引き続き、阪神タイガースの18年振り優勝を記念し、
歴代の「阪神優勝」ヒストリーを書かせて頂くが、前回の記事(「前編」)では、タイガースの球団創設から、1985(昭和60)年の阪神タイガース21年振り優勝、そして初の「日本一」達成までを描いた。
今回は「後編」として、その後の「阪神暗黒時代」と、2003(平成15)年、2005(平成17)年の優勝、そして今年(2023年)の優勝までの道のりを描く。
今回の記事も、「阪神優勝」の「御祝い」として、ベイスターズファンである私から阪神ファンの皆様に捧げたい。
それでは、歴代の「阪神優勝」ヒストリーの「後編」を、ご覧頂こう。
<1985(昭和60)年の阪神タイガース21年振り優勝、そして初の「日本一」で、前代未聞の熱狂が巻き起こるが…?>
1985(昭和60)年、吉田義男監督率いる阪神タイガースは、真弓明信・バース・掛布雅之・岡田彰布などの超強力打線が、打って打って打ちまくる野球で他球団を粉砕し、阪神タイガースは21年振りの優勝を達成、更に阪神は日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で破り、初の「日本一」の座に上り詰めた。
そして、この時の「阪神優勝」は、日本中のタイガースファンを熱狂させ、
「虎フィーバー」
と称される、社会現象にもなった。
そして、阪神タイガースを21年振り優勝、そして「日本一」に導いた吉田義男監督は、まさに「英雄」のような扱いを受け、
「吉田監督は永久政権」
とまで持ち上げられた。
しかし、その栄光の時は、あまりにも短かった。
<1986(昭和61)年に「3位」、1987(昭和62)年に「最下位」に転落し、吉田政権は僅か3年で崩壊>
キッカケは、1つの死球であった。
阪神は、優勝した翌年の1986(昭和61)年、「連覇」を目指してシーズンに臨んだが、
1986(昭和61)年4月20日、ナゴヤ球場での中日-阪神戦で、阪神の4番・掛布雅之が、斉藤学(中日)から左手首の死球を受け、骨折してしまった。
掛布は、そのまま戦線を離脱したが、その後、掛布は故障がちになってしまい、二度と、輝きを取り戻す事は無かった。
結果としてみれば、前年の1985(昭和60)年が、4代目「ミスター・タイガース」掛布雅之の「最後の輝き」になってしまった。
そして、この年(1986年)の阪神は60勝60敗10分 勝率.500で「3位」に終わり、「連覇」は成らなかった。
翌1987(昭和62)年になると、阪神は完全にチームが「崩壊」してしまった。
この年(1987年)阪神は、開幕から低迷してしまい、最終的には41勝83敗6分 勝率.331で「最下位」に終わってしまう。
僅か2年前、「神様仏様吉田様」(?)と、阪神ファンに持ち上げられた吉田監督は、一転して阪神ファンから大バッシングを受けた。
そして、報道陣とも対立し、阪神球団の幹部からも見放され、孤立無援となった吉田監督は、この年(1987年)限りで退陣に追い込まれてしまった。
吉田監督は、まさしく、
「天国と地獄」
を味わった事となったが、この吉田阪神の「崩壊」こそ、
「阪神の第1期暗黒時代」
の始まりとなってしまう。
<村山実監督時代の阪神タイガース~1988(昭和63)年に「最下位」、1989(平成元)年に「5位」で、村山政権は僅か2年で崩壊>
退陣に追い込まれた吉田義男監督に続き、1988(昭和63)年、かつての阪神のエースで、2代目「ミスター・タイガース」と称された村山実が、阪神の監督に就任した。
村山監督は、1970(昭和45)~1972(昭和47)年に阪神の選手兼監督を務めており、それ以来、2度目の阪神監督就任であるが、
「最下位」にまで転落してしまった阪神の「再建」を託されての再登板であった。
だが、村山監督でも阪神を「再建」する事は出来なかった。
1988(昭和63)年、バースが、長男の難病(水頭症)の治療のため、一時帰国していたが、なかなか日本に帰って来ないバースに、阪神球団が痺れを切らし、結局、シーズン途中でバースは解雇されてしまう。
この時、長男の治療費の支払いを巡り、バースと阪神球団が契約上の事で揉めてしまい、その事もあってか、阪神は功労者のバースをアッサリと切ってしまった。
そして、村山監督と掛布雅之の関係も悪化し、掛布は、この年(1988年)限りで、33歳という若さで引退してしまった。
こんな風に、阪神は揉め事ばかりだったが、こんな状態では勝つ事も間々ならず、1988(昭和63)年も阪神は「最下位」に終わり、これで「2年連続最下位」となった。
翌1989(平成元)年も、阪神の低迷は続いた。
この年(1989年)は大洋がダントツ「最下位」に沈んだため、阪神は「最下位」こそ免れたものの、
結局、この年(1989年)も阪神は「5位」に終わり、村山監督は退陣に追い込まれた。
こうして、村山政権も僅か2年で崩壊し、後任として中村勝広が阪神監督に就任した。
吉田義男・村山実という、阪神球団の「レジェンド」でも建て直せなかった阪神を、果たして中村監督が建て直せるのであろうか?
<中村勝広監督時代の阪神タイガース①~1990(平成2)~1991(平成3)年に「2年連続最下位」に沈む>
1990(平成2)年、中村勝広が阪神タイガースの監督に就任した。
しかし、この年(1990年)も阪神は浮上出来ず、阪神は2年振りの「最下位」に終わる。
この時、阪神はあの栄光の優勝から僅か5年しか経っていなかった。
だが、すっかり阪神は弱体化してしまい、「最下位」が指定席になりつつあった。
翌1991(平成3)年も、中村監督率いる阪神は「最下位」に沈み、これで阪神は「2年連続最下位」に終わった。
阪神は、直近5年間で4度も「最下位」に沈むという、酷い体たらくであり、
「ダメ虎」
と呼ばれるほどになってしまった。
おまけに、この年(1991年)のシーズン終了後のファン感謝デーの「余興」の草野球で、阪神は「たけし軍団」にまで敗れてしまった。
「阪神は(※たけし軍団以下の)13位」
と、揶揄されてしまい、まさに阪神はドン底の落ちる所まで落ちた。
<中村勝広監督時代の阪神タイガース②~1992(平成4)年…中村監督、亀山努・新庄剛志らの若手を積極的に起用し、阪神はヤクルトと優勝争いを繰り広げる~しかし、終盤にヤクルトに競り負け、阪神は「2位」に終わる>
1992(平成4)年、就任3年目の中村勝広監督は、開き直り、思い切って若手を積極的に起用した。
中村監督は、亀山努・新庄剛志らの若手を抜擢したが、亀山努・新庄剛志は、中村監督の期待に応え、大活躍し、チームを牽引した。
その「新旧交代」の象徴的な場面だったのが、1992(平成4)年4月25日の中日-阪神戦である。
この時、開幕から低迷の続いていた岡田彰布に代えて、中村監督は代打・亀山努を起用した。
岡田は、「第1期暗黒時代の阪神」で4番を打っていたが、年々、成績は下降し、この年(1992年)も打撃の状態は悪かった。
そこで、中村監督は決断を下し、岡田を切って亀山を使った…。
そして、この後、岡田は大荒れに荒れたというが、中村監督は、若手中心にチームを作り変えると、この時、腹を括った。
そして、中村監督の若手起用は図に当たり、亀山努・新庄剛志らの若手中心となった阪神は、久々に快進撃を見せた。
阪神は前半戦から首位争いを繰り広げ、オールスターゲームには亀山努・和田豊・久慈照嘉・八木裕・パチョレックの5人の阪神勢が選出されるなど、あの1985(昭和60)年以来となる、
「虎フィーバー」
が巻き起こった。
そして、シーズン終盤、阪神とヤクルトは激しい優勝争いを繰り広げ、一時は阪神は、
「7年振りの優勝、間違い無し」
と言われる状況になったが、最後の最後、勝負どころの10月で、阪神は野村克也監督率いるヤクルトスワローズに競り負け、この年(1992年)はヤクルトが14年振り優勝、阪神は惜しくも「2位」に終わり、「優勝」を逃した。
「今年(※1992年)、5位の大洋、6位の中日は戦わずして負けた。でも阪神は、最後の最後まで戦い抜いての2位だから、よくやった」
熱狂的な阪神ファンの月亭八方は、そのように総括した。
だが、「優勝」の大きなチャンスを逃してしまった阪神の痛手は、あまりにも大きかった。
<中村勝広監督時代の阪神タイガース③…1993(平成5)~1994(平成6)年に2年連続「4位」、1995(平成7)年に「最下位」で中村監督はシーズン途中で「解任」~後任に藤田平が監督代行に就任するが…?>
中村勝広監督率いる阪神タイガースは、1993(平成5)~1994(平成6)年に、2年連続「4位」に終わると、
1995(平成7)年、阪神はシーズン当初から低迷し、オールスターの時点で既にダントツ「最下位」に沈んでいた。
そして、前半戦終了時点で、中村監督は「辞任」に追い込まれたが、これは事実上の「解任」であった。
結局、1992(平成4)年に「優勝」を逃した事が、あまりも大きかった。
そして、この年(1995年)阪神の二軍監督を務めていた藤田平が、
同年(1995年)シーズン後半から阪神の監督代行に就任した。
だが、藤田平監督代行でも阪神は浮上せず、結局、この年(1995年)阪神は4年振りの「最下位」に終わる。
そして、藤田平監督代行と新庄剛志が対立し、この年(1995年)のシーズン終了後、新庄は、
「僕には野球のセンスが無いから引退する」
と、突然宣言するという「大騒動」が起こった(※後に新庄は引退を撤回)。
そんなドタバタもありつつ、
「阪神の第2期暗黒時代」
へと突入する。
<1996(平成8)年…藤田平が正式に阪神監督に就任するも、2年連続「最下位」に終わり、藤田政権も崩壊>
翌1996(平成8)年、藤田平が正式に阪神監督に就任した。
だが、「鬼平」と称された藤田監督は、完全にチームの人心掌握に失敗し、選手達から総スカンを食ってしまう。
そして、空中分解した阪神は、「最下位」を独走してしまったにも関わらず、シーズン終盤、藤田監督は勝手に、
「来シーズンも続投」
という阪神球団のお墨付きを得たと解釈していた。
しかし、藤田監督は、
「それは、藤田監督の勘違い」
であると、阪神球団から言われ、梯子を外されてしまった。
そんな藤田監督に、阪神球団は「解任」を通告したが、藤田監督はこれを承諾せず、何と、深夜に延々と数時間も球団事務所に居座り、
「藤田平の籠城事件」
と称される、前代未聞の大騒動に発展してしまった。
結局、最終的には藤田平は「解任」を受け入れたが、
「お家騒動」
のゴタゴタばかりが起こる阪神は、完全にチームが崩壊し、この年(1996年)の阪神は2年連続「最下位」に終わった。
いよいよ阪神は「末期症状」に陥ってしまった。
<1997(平成9)~1998(平成10)年…「ムッシュ」吉田義男監督の阪神タイガース、「5位」(1997年)⇒「最下位」(1998年)に終わる>
1987(昭和62)年限りで、石もて追われるように阪神監督を「辞任」に追い込まれた吉田義男は、
その後、野球不毛の地だったフランスに渡り、野球のフランス代表監督を務め、
「ムッシュ」
と呼ばれるようになっていた。
「第2期暗黒時代」
のドン底に沈んでいた阪神は、その「ムッシュ・吉田」に頭を下げ、1997(平成9)年、吉田義男が10年振りに阪神監督に復帰した。
だが、「ムッシュ・吉田」でも阪神は建て直せず、1997(平成9)年に「5位」、1998(平成10)年に「最下位」で、吉田監督はまたしても辞任に追い込まれてしまう。
そして、
「阪神の第3期暗黒時代」
の幕開けとなってしまうのであった。
<1999(平成11)~2001(平成13)年…野村克也監督、就任当初は「ノムさんフィーバー」を巻き起こすも、3年連続「最下位」で辞任に追い込まれ、野村政権も崩壊>
1999(平成11)年、阪神タイガースは、前年(1998年)限りでヤクルトの監督を退任していた野村克也を監督に招聘した。
今度こそ、チームの「再建」をしようと、阪神は遂に野村監督を就任させるという思い切った策を取ったが、
就任当初、野村監督は新庄剛志を「投打二刀流」に挑戦させるなど、色々と話題を提供した。
そして、1999(平成11)年6月、阪神は一時的に「首位」に立つなど、快進撃を見せ、
「ノムさんフィーバー」
が巻き起こったが、それも一時的な現象に終わってしまう。
だが、その後、野村克也監督はチームの人心掌握に失敗してしまい、
野村監督時代の阪神は1999(平成11)~2001(平成13)年、3年連続「最下位」、都合「4年連続最下位」に沈んだ。
そして、2001(平成13)年シーズン終了後、野村監督夫人・サッチー(野村沙知代)の脱税問題の責任を取る形で、野村監督は辞任に追い込まれた。
こうして、野村政権も3年で崩壊し、
「阪神の第3期暗黒時代」
も、いよいよ極まれりといった所であった。
<星野仙一監督時代の阪神タイガース~2002(平成14)年に「4位」、そして2003(平成15)年に阪神タイガースは遂に「18年振り8度目」、2リーグ制以降「4度目」の「優勝」を達成!!>
2002(平成14)年、阪神タイガースは、前年(2001年)限りで中日ドラゴンズの監督を退任していた、星野仙一を監督に招聘した。
「闘将」星野監督は、低迷続きの阪神に喝を入れ、元気を取り戻した阪神は、この年(2002年)いきなり「開幕7連勝」の快進撃を見せ、シーズン前半戦から首位争いを繰り広げた。
その後、阪神は失速してしまい、最終的には「4位」に終わったが、久々に手応えを感じるシーズンとなった。
2003(平成15)年、星野監督率いる阪神は、FAで広島の主砲だった金本知憲を獲得するなど、思い切った「血の入れ替え」を行ない、これが起爆剤となり、この年(2003年)の阪神は快進撃を見せた。
そして、2003(平成15)年、星野仙一監督率いる阪神タイガースは、「18年振り8度目」の「優勝」、2リーグ制以降「4度目」の「優勝」を達成した。
本拠地・甲子園球場で星野監督が胴上げされ、宙を舞ったが、長きにわたる「暗黒時代」を終わらせ、阪神を18年振りに「優勝」に導いた星野監督の功績は、誠に大きいものであった。
そして、この年(2003年)、久し振りとなる、
「虎フィーバー」
が巻き起こり、日本中を席巻した。
そして、2003(平成15)年の日本シリーズは、
王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスと、
星野仙一監督率いる阪神タイガースが激突し、
「ダイエーVS阪神」
の対決となったが、阪神は惜しくも3勝4敗で敗れ、「日本一」は逃した。
星野監督は、健康面で不安が有ったため、この年(2003年)限りで阪神監督を「退任」してしまった。
だが、あまりにも鮮烈な2年間であった。
<岡田彰布監督時代の阪神タイガース~2005(平成17)年に「2年振り9度目」、2リーグ制以降「5度目」の「優勝」~2008(平成20)年「『Vやねん』の悲劇」で退陣>
2004(平成16)年、退任した星野仙一の「後任」として、星野監督時代に一軍内野守備走塁コーチを務めていた岡田彰布が、阪神タイガースの監督に就任した。
岡田監督率いる阪神は、2004(平成16)年は「4位」に終わってしまったものの、
翌2005(平成17)年、岡田監督の阪神は「守りの野球」を掲げ、大躍進する。
2005(平成17)年、岡田彰布監督率いる阪神タイガースは、「2年振り9度目」の「優勝」、2リーグ制以降「5度目」の「優勝」を達成した。
しかも、2005(平成17)年9月29日、「マジック1」の阪神は甲子園球場で巨人を破り、阪神は宿敵・巨人の目の前で優勝を決定し、岡田監督が甲子園球場で胴上げされ、宙を舞った。
この年(2005年)の阪神優勝の原動力となったのが、
「JFK」
と称された、ジェフ・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之という超強力リリーフ陣であった。
「JFK」
が出てくれば、まずは負けないという圧倒的な強さを見せ、阪神はぶっちぎりでリーグ優勝を果たす。
そして、「147打点」という驚異の勝負強さを発揮した今岡誠の大活躍ぶりも素晴らしかった。
そして、2005(平成17)年の日本シリーズは、
岡田彰布監督率いる阪神タイガースと、
バレンタイン監督率いる千葉ロッテマリーンズが激突し、
「ロッテVS阪神」
という対決となったが、当時はパ・リーグのみプレーオフが有り、そのプレーオフを勝ち抜いた勢いが有るロッテと、リーグ優勝後、実戦から遠ざかってしまった阪神では、全く勝負にならず、阪神は合計得点「4-33」でロッテに4連敗という惨敗を喫してしまった。
阪神ファンとしては、屈辱的な記憶であろう。
その後、岡田監督率いる阪神タイガースは、
2006(平成18)年に「2位」、2007(平成19)年に「3位」と、シーズン終盤まで優勝争いを繰り広げながら、惜しい所で「優勝」を逃してしまう。
そして2008(平成20)年、阪神は前半戦から首位を独走し、巨人に最大「13ゲーム差」を付けた。
その時、阪神ファンも「優勝は間違い無い」と浮かれており(?)、
「Vやねん!タイガース」
なる、「阪神優勝前祝い」の雑誌まで出されたが、その後、阪神は失速し、巨人に最大「13ゲーム差」を大逆転され、巨人が「優勝」し、阪神は屈辱の「2位」に終わった。
そして、CSでも敗退した阪神は、岡田監督が「V逸」の責任を取り、退陣した。
これが、
「『Vやねん』の悲劇」
として語り継がれる出来事であるが、勝負は最後の最後まで、何が起こるかわからないという、阪神ファンにとっては、あまりにも苦い「記憶」となった。
<その後の阪神タイガース~真弓明信(2009~2011)⇒和田豊(2012~2015)⇒金本知憲(2016~2018)⇒矢野燿大(2019~2022)の歴代監督、どうしても「優勝」は果たせず~2021(平成13)年には「『優勝してまう』の悲劇」が…>
その後の阪神タイガースの歩みについては、少し駆け足でご紹介する。
2008(平成20)年に岡田監督が退陣して以降、以下の4人の監督が、阪神を率いた。
真弓明信(2009~2011)⇒和田豊(2012~2015)⇒金本知憲(2016~2018)⇒矢野燿大(2019~2022)
…しかし、その間、どうしても阪神には「優勝」には手が届かなかった。
・真弓明信監督(2009~2011)…「4位」(2009)⇒「2位」(2010)⇒「4位」(2011)
・和田豊監督(2012~2015)…「5位」(2012)⇒「2位」(2013)⇒「2位」(2014)⇒「3位」(2015)(※2014(平成16)年はCSを突破し、日本シリーズに進出するも、阪神は1勝4敗でソフトバンクに敗退)
・金本知憲監督(2016~2018)…「4位」(2016)⇒「2位」(2017)⇒「最下位」(2018)
・矢野燿大監督(2019~2022)…「3位」(2019)⇒「2位」(2020)⇒「2位」(2021)⇒「3位」(2022)
2021(令和3)年、矢野燿大監督時代の阪神は、再び「悲劇」に見舞われる。
この年(2021年)の阪神は、開幕から好調であり、前半戦から、ぶっちぎりで首位を独走していた。
そして、阪神はヤクルトに最大「8ゲーム差」を付けており、
「このままだと、阪神の16年振りの優勝、間違い無し!!」
と、阪神ファンは、またしても浮かれていた(?)。
そして、大阪のテレビ局か、
「あかん、阪神優勝してまう!?」
などという、「優勝前祝い特番」まで放送してしまった。
「だから、やめとけって…」
あの2008(平成20)年の苦い記憶が残っている、心ある阪神ファン(?)は憂慮していたが、
案の定というか、その後、阪神は失速し、ヤクルトに大逆転優勝を喫し、阪神は「2位」に終わってしまう。
こうして、2021(令和3)年、
「『優勝してまう』の悲劇」
が、またしても起こってしまったのであった。
<そして2023(令和5)年…岡田彰布が15年振りに阪神監督に復帰し、18年振り「アレ」を目指して快進撃~そして、「18年振り10度目」の「優勝」、2リーグ分裂後「10度目」の「優勝」を達成!!>
2023(令和5)年、岡田彰布が、遂に15年振りに阪神タイガースの監督に復帰した。
そして、岡田監督は、これまで阪神が何度も「優勝」目前で失速してしまった、その苦い経験を払拭するため、敢えて、その言葉は使わず、
「アレ」
という言葉を用いて、選手に変に意識をさせないように努めた。
「今年は、18年振りの『アレ』を目指す」
といった事を言い、それこそ「アレ」が決まるまでは、変に浮かれたりしないように…と、ファンやマスコミにも釘を刺した(?)という事は有ったのかもしれない。
何と言っても、岡田監督といえば、あの2008(平成20)年の、
「『Vやねん』の悲劇」
の当事者なのである。
それ以来の監督復帰なのだから、慎重になるのも当然といえば当然であった。
だが、そんな心配も何のその、2023(令和5)年、岡田彰布監督率いる阪神タイガースは、メチャクチャ強かった。
阪神は、球団史上初となる、シーズン2度の「10連勝」以上を果たし、
しかも、勝負どころの9月に入ってから、「アレ」が決まるまでの間、何と「11連勝」という凄まじい勝ちっぷりであった。
そして、2023(令和5)年9月14日、「マジック1」の阪神は、甲子園球場で巨人を4-3で破り、
この瞬間、阪神タイガースは18年振りの「アレ」…いや、「18年振り10度目」の「優勝」、2リーグ分裂後「6度目」の「優勝」を達成し、岡田監督が甲子園球場で胴上げされ、宙を舞った。
なお、同一監督が18年のブランクを経て、再び同一球団で「優勝」するというのは、プロ野球史上初の快挙であった。
「まさか、こんなに『アレ』が浸透するとは、思わんかったよ…」
18年振りの優勝を決めた後、岡田監督はそうコメントし、喜びを噛み締めていた(?)。
という事で、次は38年振りの「日本一」を目指し、阪神タイガースの戦いはまだまだ続くが、今回の記事は、これにて締めくくりとさせて頂きたい。