第130回:「繋いでいく人」になれるか~逆風吹き荒れる辺野古のいま~(三上智恵)


 今年3月、平和学習のため辺野古を訪れた生徒たちを乗せた船が、2隻共に転覆した。女子生徒一人と「不屈」の船長が帰らぬ人となってしまった。辺野古で基地に反対する座り込みが始まったのは1997年。戦争の島を平和な島に変えようと30年も取り組まれている戦後最大の住民運動の現場で、誰も予想もしなかった悲劇が起きてしまった。3カ月半が経過した今も私たちは強い悲しみと衝撃のなかにある。罪悪感と無力感に引き裂かれるような痛みは、引くどころか増しているようでもある。傷が癒える気配すらないまま、傷口をえぐるようなつぶても投げつけられ、防御する術もない。

 もっとも、この原稿を書いている7月上旬の時点でまだご遺族へ直接の謝罪ができていないのだから、もちろん自分たちの手当ての話などは後回しだ。謝罪については当初、日本基督教団を通じて謝罪の手続きを進め、暗礁に乗り上げるというボタンの掛け違いがあった。次に学校を通じて、ご遺族と怪我をした生徒さんやご家族も含めて謝罪の場を設けられないか打診していたのだが、「不可能」という回答が返ってくるまでにずいぶん時間が経ってしまった。沖縄から謝罪に出向いても応じられないと回答したご家族が多かったということだが、中にはお会いしてもかまわないというご家族もいらっしゃるそうで、ヘリ基地反対協議会(ヘリ基地反対協)では、まずそこから謝罪を始める方針だという。

 事故当日の夜、このヘリ基地反対協が謝罪の会見をする映像が繰り返し流れ、態度や服装などが不適切だと叩かれた。事情を知らずにみれば、このヘリ基地反対協こそが死亡事故を起こした無責任な団体だと映っただろうし、怒りの矛先を向けられて当然と受け止められたかもしれない。しかし、ヘリ基地反対協が団体として乗船料を介して定期的に乗客を乗せているわけではないので、「運航団体」と書かれている記事を見るとやや違和感を覚える。そもそも船は団体ではなく船長がそれぞれ所有していて、反対運動に使ってほしいとの申し出を受けて、団体では燃料費などを負担していたという。

 ヘリ基地反対協とは、もともとは1997年に行われた基地建設の是非を問う名護市の市民投票を成功させるための団体「名護市民投票推進協議会」が発展解消する形で生まれた団体だ。陸で何年も続けてきた座り込みを海でも継続しようという流れの中で、「海上行動」を行うようになったが、船には本来、取材や視察以外で一般客を乗せるものではない。実際に海上行動を担っているのは、ボランティアで参加している個々の船長やサポーター、カヌー隊のメンバーであり、団体としてはそれぞれの行動の管理まではしていなかった。今回の修学旅行生の受け入れも、事故で亡くなった船長が個人的に引き受けたものだという。海上行動が始まったのは2004年からで、メンバーはどんどん入れ替わっているし、ヘリ基地反対協に人事権があるわけではない。

 とはいえ、今回の事故でヘリ基地反対協の安全管理のずさんさが露呈したのは事実である。現場任せだった。船長の個人判断にゆだね過ぎていた。修学旅行生を乗せるか否かの議論もなかった。去年の4月から「海上運送法」の改正で登録が義務付けられたのを把握できていなかった。さらに乗船名簿など記録を残すシステムも不備だった――などいくつもの問題点が指摘された。それをあぶりだすことが再発防止に繋がるのであれば、徹底的に追及して欲しいと思う。

 根本的にはこれは海難事故である。天気予報と海況予測を注意深く見ていても、自然相手の海では不測の事態は起きうる。特に旧暦2月の沖縄の海は「二月風廻り(ニンガチカジマーイ)」と言って風が急変しやすく漁師も恐れる時期であり、この海域では強風波浪注意報が連続して出るのは珍しいことではない。事故の前後も7日間継続して注意報が出されていた。ただ、埋立工事や調査は普通に行われていた。「荒れた海に無理をして出て行った」と書かれている記事があるが、事故当日に調査船を出していた知人の漁師は「海況は穏やかだった」と証言している。そうであれば、急に浅くなって波が立つことで知られている事故現場に何故近づいたのか。船長のコース取りに判断ミスがあったのかがより問われることになる。
 

 事故については捜査機関が現在調査中だが、慎重に調査を進めた上でなければ、誰がどの程度の罪に問われるのか否か、結論は容易に出せない。にもかかわらず、事故の直後から巷では関係者を犯人扱いし、個人名が晒され、いろいろな人たちが自宅に押しかけてきて帰れなくなった人もいる。辺野古にいる人たちがあたかも犯罪集団であるかのように悪しざまに書きたて、「沖縄の基地反対運動そのものが高校生の命を奪った」かのような、常軌を逸したバッシングが吹き荒れている。

 事故の数日後、警察やメディアの波が引いたころを見計らい、私は犠牲者に手を合わせ2隻の船にお別れを言うため、一人で辺野古の第二テントに行った。屋根が壊れ、舵が取れた無残な姿の船が静かに春の光の中で並んでいた。「不屈」は比較的新しい船だが、「平和丸」は2004年、辺野古沖合のボーリング調査をめぐる「やぐら闘争」の時から活躍していたから、何度乗せてもらったかわからない。関わった人たちとの思い出と、この船が最後に体験した悲劇とのギャップを整理できず呆然としているときだった。黒い軽自動車から40代くらいの男性が下りてきて、おもむろに船の写真を撮り始めた。見ればレンタカーである。携帯で写真を撮っている様子からしてメディアではなさそうだ。

 「どちらからいらしたんですか?」と声をかけた。
 「東京です」ぶっきらぼうに答える。
 「反対運動を支えて下さっていた方ですか?」と聞いてみると「いや、むしろ反対です」と言う。
 「それでしたら、そこに大きく無断撮影禁止と書いてあるように、許可を得てから撮影してもらえませんか?」と言うと「は? 許可? だってこれ、殺人でしょう?」と言い放った。

 その言葉の強さに、私は一瞬眩暈を覚える。「そんな言い方はないでしょう。それなら余計に許可をとってからにしてください!」。そういう私を振り切るように、男は車で走り去った。反論できなかった自分が悔しかった。カメラを持っていたのに回さなかった意気地のなさも。

 直接「殺人者」呼ばわりされたのはこの時だけではない。憲法改正反対のペンライトデモでコザの交差点にいるときに、犬を連れた中年男性が通りすがりに大声で言った。
 「人殺しが! 共産党、お前ら人殺しだろう?」
 ペンライトを手に集まっていた若い人たちの顔がこわばっていた。もちろん共産党の集会ではなかったし、衝撃だったのは近くの住民だと思われる人、つまり同じ沖縄県民が「反戦平和運動が人を殺した」というロジックに毒されているということだった。国策に反対する人たちを「反日的」とみなして攻撃するのは権力側の常だが、この事故を機に、沖縄の平和運動を否定的に捉え、冷笑し、糾弾し、バッシングしてもかまわないと考える人々が、県内も含めてこんなにいたのかという事実に気づき、気持ちがずっしり重くなる。

 しかし繰り返すが、罪の多寡を決めることができるのは専門の捜査機関と裁判所であり、一般の人間が犯人と疑う人に制裁を加えることを憲法は禁じている。罪が確定していないにもかかわらず、「奴らは社会的制裁を受けるべきだ」と、ネットに実名を乗せ、プライバシーを晒す行為は犯罪だ。一般論として、事件や事故で家族を失った場合ご遺族が強い悲しみや怒り、そして処罰感情を持つことは理解できる。しかし、それを繰り返し報道すれば大衆の怒りが暴走しやすくなることに、メディアは自覚的であるべきだ。

 実際に事故とは無関係と思われる人の中にも、静かな生活を奪われ、心の健康を保てなくなった人もいる。事故の悲劇だけでも胸が潰れるような思いを抱えている現場に近い人々に、さらに襲いかかる誹謗中傷は目に余るものがある。集団心理が陥りやすい狂気を日々見せつけられているようで、戦前の非国民叩きに興ずる病理と通底するものを感じ、恐ろしくなる。 

 海上行動の自粛は続いているが、辺野古のゲート前では4カ月ぶりに「県民大行動」の集会が先週4日に持たれた。時期尚早ではないかという慎重論も根強くあり、一方で海上行動とゲート前の座り込みは分けて考えるべきだという意見もあった。喪に服す気持ちを示す黒い服を選んできた人や、声のトーンを落としてでも継続は大事だと言う人、それぞれが悩みながらゲート前に集まってきたと思う。黙とうから始まった集会の様子、葛藤しつつも参加することを選んだ一人ひとりの思い、12人に短くインタビューをしているので、ぜひ動画をご覧いただきたい。

 この件で「ネットに顔を出すと攻撃の的にされかねない」と危惧する声は以前より強く、首から下だけを撮影させていただいた方もいる。それでも、同志社国際高校の平和教育が偏っていると文科省に一刀両断されたことに強い危機感を持つ人、また沖縄が戦後脈々と続けてきた平和運動そのものを否定されて黙ってはいられないと思いを語る人も多かった。

 ある女性の言葉が印象に残った。彼女もこの事故にとことん打ちのめされ苦しんで、どこから再構築していけばいいのと途方に暮れていた一人だった。でもこの日、ゲート前でお顔を見ることができてほっとした。彼女は島の先人たちの重ねてきた苦労、それで繋がれてきた平和への揺るぎない思いについて、言葉を一つひとつ確かめるように語ってくれた。

 「一つひとつ、小さいことの積み重ねをやってきたからこそ繋がってきた。ここで絶ち切ってしまってはいけない。その、繋いでいく一人には、なれるのかなって」

 ほんの少しの、小さな願いである。でも願わないのとは大きくちがう。ちいさなピース、かけらの一つになろうという意思は小さいけど、宿す願いは、大きい。

 平和へと続くはずの道は大嵐で割れてしまい、沖縄号は雷に打たれて車軸が傾くほどの打撃を受けた。軋む車輪は一瞬止まってしまったかに見える。でもよく見れば、沖縄号の足元には小さなタイルを置き続ける人がいる。亀裂を埋めるための平らな石が、どこからともなく集まってくる。それが沖縄に蓄えられている力なのだと思った。戦争を背に平和に向けて、道なき道を作ってきた沖縄の先輩たち。その延長線上に小さなタイルを置くくらいのことは、私にもできるはず。

 そうか、勇気が湧いてきた。やはりここにきて、みんなの傷も見せ合って、そしてかすかな希望も集め合って、またしても私は光を見ることができた。体をこわばらせて、悲しむこともままならなかった3カ月半の日々。その中では見えなかった光を、私は集めて回りたかったから、ゲート前に来たのかもしれない。トンネルの中でもがき続けるような日々はしばらく続くのだろうけど、沖縄号は、止まってはいない。軋む車体を大きく揺らし、ゆっくりとまた進み始めるために、喜んでタイルを置きに行こうという人たちがたくさんいる。よくわかった。来てよかった。今はそれで十分だと思った。

 この事故に便乗するように、沖縄の平和運動を再起不能にしてしまえという流れが勢いを増していると感じる。安和のダンプ事故についても、九死に一生を得た女性が回復するのを待っていたかのように、先月、重過失致死で書類送検された。警察は厳重処分を求める異例の意見書を付けた。さらに、基地のフェンスに手をかけて変形させたという軽微な罪で、作家の目取真俊さんが在宅起訴された。パソコンや携帯など個人情報一切を押収されるという見せしめのような圧力が次々と加えられている。

 意気消沈などしている間に、情報統制の強化にむけた包囲網が一気に狭まっているようだ。市民団体が工作員認定されかねない「外国代理人登録法」の整備や、日本版CIAと言いながら自国民に刃が向く可能性が大きい対外情報組織の設置を目指すなど、監視社会を招く動きが目白押しだ。住民運動に参加することが恐怖になり、モノが言えない社会がすぐそこに迫っている。

 繰り返すが、今回のような悲劇的な事故が二度と起きないように原因や安全管理の検証をすることは重要である。一方でこの国の歪みともいえる、過重な基地負担に沖縄が苦しんできた問題を自分のこととして考えることも大事であり、この二つは冷静に切り離して考える必要がある。事故を理由に沖縄から発言することが難しくなり、暗黒社会に道を開くようなことがあってはならない。

 先週は、沖縄県議会で沖縄県警が、基地反対運動の中に「極左暴力集団の存在が認められる」と発言して物議をかもした。長く沖縄の住民運動を取材して歩いているが、極左暴力集団が運動を仕切っている現場を一度も見たことはない。馬鹿も休み休み言え、と言いたくなるような事実と違う言いがかりも、面倒でも否定して返していかないとウソも本当に変えられてしまう。

 今はまだ沈黙を保った方が、と言っていられない状況の悪化について、私たちはつらくともアンテナを立てておくことを忘れてはならないのである。

※2024年6月、沖縄県名護市安和の国道付近で辺野古新基地建設に伴う土砂搬出中のダンプカーが抗議活動中の女性と警備員を巻き込み、警備員が死亡した

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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)、24年に『戦雲-いくさふむー』を発表公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録』(集英社新書)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)