豊昇・久能 日影道など (浅間山麓 御代田南部を行く 4) 湯川対岸の広戸地区の上の浅間山・・・

御代田南部 (54) 

湯川対岸の広戸地区の上の浅間山・・・

 

少し前には、あの台地の上にいました。

 

こちらも似たような崖の上なのですが・・・

ただ、背後に森泉山が迫っていて台地ではなく山腹という感じですが・・・

その為、畑も人家もありません。

御代田南部 (61)

でも、こちらの岸は峡谷から解放され、集落があります。

 

御代田南部 (59)

「浅間山八景第五番 豊昇園上」の標柱・・・


御代田町が選定した浅間山のビューポイント「浅間八景」の一つです。

 昨日少し触れた「森泉山ギッパ岩展望台」その御代田南部 (61)一つです。

 


御代田南部 (60)冒頭の写真とほぼおなじ・・・

同じ場所からの撮影なので当然ですが、芸がないですね。

 


左の絶壁の上が広戸城・・・

 

城の奥方はここから飛び降りたとか・・・・

 

御代田南部 (61)

久能集落に降りていきます。

 

この正面の尾根の上には宮平城という山城があったそうです。

尾根の末端の切り立った崖の上の城のようですが、曲輪が一つで堀切の有る単純なもののようです。

『長野県町村誌』によると長倉猿之介(猿助)の居城でしたが、小田井氏とともに武田氏に立ち向かいますが、以後、廃城になったとか・・・

 

そういえば、小田井宿近くの田井氏の本城の小田井城は素通りしましたが、ここも見あげて通過します。良く調べてこなかったので登り口が判らないのです。

 

宮平城に隣接して宮平遺跡があり、ここから出土した約4600〜4800年前の縄文土器の「顔面装飾付(がんめんそうしょくつき)釣手土器」は長野県宝に指定されていて、この辺りは縄文人の集落があった場所だったそうです。

 

御代田南部 (62)

久能で広戸城の堀から下ってきた道と再開・・・

 

私も遠まわりをしてきたものです。

 

そういえば日影道の説明をするはずでしたね。忘れるとこでした。

歳をとると忘れやすくなって困ります。

 

日影道は江戸時代には中山道の岩村田宿から湯川沿いに遡り、軽井沢の追分からの女道と一緒になって、今は碓氷バイパスの入山峠を越える街道でした。

 

この時代は江戸幕府の公道は中山道でしたが、中山道の碓氷峠は標高が1200mと高く、困難な道でした。古くから東山道として使われた入山峠越えの道は宿場の便は悪いのですが、標高は中山道より200メートルも低く道も緩やかで通行が容易です。

 

でも幕府は敵が攻めにくい険しい道を公道としたようです。

東海道の箱根八里ももっと楽な道があったのに・・・

 

御代田南部 (63)

「伍賀小学校跡」の碑・・・

 

御代田町は昭和31年(1956)に御代田村・小沼村・伍賀村の3つの村が合併してできました。伍賀村は現在の御代田町の南部にあった村で、この日通ってきた広戸村とその東の草越村、今日から紹介している久能と梨沢の有る豊昇村、この後向かう面替村そして湯川の上流の茂沢村からなっていました。(茂沢はその後、軽井沢町に編入)

そうしたかつての村の痕跡といえるかもしれません。

 

久能の邑を抜けます。

帰って地図を見たらこの火の見櫓から左の道を行くと宮平の城と遺跡に行けそうです。といっても、遺跡は埋められ城は藪のようですが、いつか来るかも・・・

 

今回はその痕跡はないだろうが日影道が目的の一つでした。

江戸時代では荷は宿場から宿場へと荷物を繋ぐ「宿継ぎ」という制度かあり、宿場ごとに馬を替え、かつ馬方の駄賃や問屋場口銭が必要でした。

 

御代田南部 (64)

江戸時代の初めから農民が自分の作った農産物を城下に直接運ぶ手馬(てうま)制度がありました。寛文年間(1661-1673)になると荷物や人を乗せて運び金をもらう駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)が生まれ、馬借(ばしゃく)とか馬子(まご)と呼ばれました。信濃や甲斐では1690年代の元禄のころには専業化して、客先から相手先の宿場まで荷物を運ぶ中馬(ちゅうま)となります。

 

ここはそうした中馬の道でした。

日影道は、中山道の小田井、沓掛、軽井沢、坂本などの宿継を避けて経費削減となりました。

それに道は緩やかで近道、宿など不便な面もありますが、商売に使われるのは当然でした。

 

御代田南部 (65)

この日唯一のトンネルの豊昇隧道・・・

短いですけど・・・

 

手前に氷の塊が2つ・・・

日影道らしいかなと・・・

 

日影道の入山道は中馬の道でしたが、碓氷の関所の関係もあり、荷物を運ぶのは江戸幕府により、上州の甘楽郡の入山村・恩賀村へのみ通行を認めたとのことです。

つまり物資輸送の公な道ではなかったのですが、江戸幕府による信州米買上げなどにより、信州藩の米の輸送に使われました。

 

文政6年(1823)には入山村で通行料をとり、中山道の沓掛・軽井沢・坂本の宿場から収入が減ると訴えがあり通行禁止になります。しかし入山道の住民が反発、なんとか妥協し再開します。その後も紛争は続き、文政10年(1827)に生産地から沢山の米を輸送する廻米に限り許可されました。その後も通行禁止など、道をめぐる紛争は耐えなかったようです。

 

御代田南部 (66)

トンネルを抜けると道は2つに別れます。

真っすぐゆけば日影道を面替・・・

左に山に登っていくと梨沢の集落・・・

 

入山峠を越えても、その先は碓氷の関所を通ることになります。碓氷峠の関所のチェックは「入鉄砲に出女」と厳しいものがあったようです。それを嫌う善光寺参りの女性などは姫街道といった入山峠の南の和見峠を越える下仁田道を使いました。

下仁田道も西牧関所と南牧関所の2つの関所がありましたが、規模も小さく、碓氷峠の関所と較べてチェックは甘かったそうです。下仁田道は女性が多かったことから上州姫街道とも呼ばれたようです。

 

御代田南部 (67)

梨沢の入口に小さな公園がありました。ここで昼食にしました。

 

入山道が日影道とも呼ばれたのは八風山から平尾山の尾根の北側を行く日影の多い道なのと、中山道の日向に対する日影の両方の意味があったのかも知れません。

 

享保7年(1722)に岩村田宿から八風山の南の香坂越(現 矢川峠)を越える日影新道が商品流通の道として認められ、また現・佐久市中込から内山峠を経て下仁田への内山道ができると、遠回りになる日影道から荷物が消えていきました。

 

御代田南部 (68)

こんな案内板がありました。

 

この地区の縄文時代から中世の歴史が記され、案内図には寺や神社、城跡、石碑や地名や天然記念物の木などが、細かく記されています。

梨沢は古くは梨子沢といったことがこの案内でわかります。地名も変わっていくようです。

今回は25千分の一の地図の寺や神社マークを頼りに回っていますが、こういうものがあると助かります。

 

古代の東山道の可能性も書かれていました。日本で一番古い公道のもっとも東山道は日影道だったのかもしれません。可能性は大きいですね。佐久から入山峠への最短路ですから・・・


 御代田南部 (69)

この図を頼りに歩くと面白そうですね。でもこの案内図は持って歩けないので、またいつかの機会にしようと思います。

 

御代田南部 (70)

ここも懸崖ですね。

 

御代田南部 (71)

懸崖の上に集落がありますね梨沢です。

梨沢には梨子沢城という中世の城があったとか・・・

 

ここも堅固な城だったようですね。

 

御代田南部 (72)

梨沢に登っていくとお寺があります。来る前に地図で確認済みですが・・・

享保七年(1722年)の開創の黄檗(おうばく)宗の円通寺・・・

 

高校の修学旅行で京都府宇治市の黄檗宗の萬福寺に行ったことがあります。大きな寺だったという印象しかないのですが・・・

 

御代田南部 (73)

佐久地方には曹洞宗や臨済宗の寺は多いですが、黄檗宗の寺すくないでいすね。

 

この寺は幼児の夜泣きの「かんの虫」を封じの寺だそうです。「かんの虫」を封じのために親子の参拝が多いそうですが、この日はひっそりとしていました。

 

御代田南部 (74)

吽形の狛犬・・・

 

何故か阿形がいらっしゃらなくて、寂しそうでした。

 

円通寺は梨子沢城の大手口でここから梨子沢城・・・

城を守る郭があったようです、いざ城へ・・・

オーバーかな・・・

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