三


 両の足が母なる山肌に触れると、愁慈郎はようやく生きた心地が帰ってきた気がして、胸をほっとなでおろした。

「ついた……」

「お前は見ているこちらが愉快なほど百面相する男だな」

「百面相なんか……」

 反駁はんばくしようとしたが、相応しい言い訳が何も見つからず、愁慈郎は「……してるかもな」と、認めざるを得なくなった。


 索道搬器ごんどらは無事、対岸の山へと到達した。

 いや、語弊がある。二度、凄まじい強風に煽られた。朽梨は「この程度で騒ぐな」と呆れていた。

 愁慈郎にしてみれば、最愛の連れ添いである「生」と袂を分かつほどではあるまいか、というくらいの衝撃に感じられたのだ。

 とてもじゃないが、「わかった」と落ち着いて心を鎮める真似などできはせず。

 それが、百面相の正体といったところであろう。


 山には杉の木、銀杏、桜、楓が多い。夏風に吹き撫でられるそれらは青々と茂り、あと幾ばくかして秋が来れば、さぞ、うつくしく色づくだろう。

 生きた心地。それ自体はとてもいのだが。


 しかしながら、愁慈郎はいよいよ居心地が悪くなってきた。

 索道搬器ごんどらに最後に乗ったのは何年前だっただろう。基本的に角岳からでない己は、天嵐国てんらんのくにという土地を知りこそすれ、世界のすべてを「角岳という山」で完結させている。


「なんだか異界に足を踏み入れた心地だ」

「……ここはれっきとした、お前の生国だが」

「角岳から出たことなんか、ない……こたないけど、でも俺にとっては、あの山が全部だったんだよ」


 国というものの大きさも、ろくに掴めないといっていい。四千三百万石の土地というのが、どういう大きさで、どれほどの価値なのかも、理解していない。

 愁慈郎にとっては角岳という、知行六十五万石ほどの山(藩)が、世界なのだ。

「なるほどな。それならば隣の山が異国、異界、という感覚も、わからんではないが……しかし、借りてきた猫のように大人しくなったな」

「うるさいな。知らない土地なんだ」


 和魅大陸は、幕国・国藩ばっこく・こくはん体制である。

 神恵戸かむえど大幕府のもとに国があり、その下に、藩がある。

 さらに藩内には村や里、それをまとめた郡がある。そういう感覚だ。

 参勤交代は各国の藩で行われ、さらに、国主大名の指定した「参勤大老」という特別な役職の人物が、天嵐国てんらんのくにへとやってくる。


 江戸時代の日ノ本が、同一の土地たいりくに複数ある――というような感覚を持てば、想像しやすいかもしれない。そしてその「複数の日本」を、「神様」が束ねているのだ。


 二人は乗り継ぎ場で軽く手足を伸ばし、筋をほぐした。

 そこはちょっとした寄り合い所も兼ねていて、茶屋もあった。愁慈郎は足はまだまだ健常だったし、疲れもなかった。けれど心の疲れはやや重くのしかかっている。


「休むか?」と、朽梨が気遣うくらいには、愁慈郎の疲労は顔に出ていたのだろう。

「いい。いそごう。日が暮れる」

 愁慈郎は強がった。

 朽梨は無理に休ませはせず、乗り継ぎ場を離れる。

 城まではまだ距離があった。よもや索道搬器ごんどらの乗り継ぎ場からずっとずっと遠くということはない。兵站の肝である索道搬器ごんどらから、拠点である城が離れれば、それだけ補給線が伸びる。


「兵站線は太く短いほうがいい」

「そうなのか?」

「まずい飯をちょっとしか食えぬ侍と、うまい飯を食えている足軽とでは、存外足軽のほうが有利かもしれんぞ?」


 それだけ、兵站線――兵糧は大切だと、朽梨は説いていた。

 山の道を歩きだす。

 整備された街道だ。騎乗の侍や、隊伍、備を効率的に運用するためのものだろう。

 踏み固められただけの地面だが、往来があることを、地面の硬さが物語っている。


「口から心の臓が飛び出しそうだ」

「戯言を。そのような手妻を見せてくれるのならば、十両くれてもよい」

「たァけ。冗談に決まってんだろ!」

「……間違っても城内では口調を改めるように。私が良くても、周りはいい顔をせんぞ」

「あ、わ……悪い」


 愁慈郎は思わず口ごもった。

 そうだ、相手は城主――藩主の妹。さらにいえば、彼女は「神使」を名乗っている。

 この国で神使を騙る阿呆はいないから、真実であろう。

 神の使いである。自分は今、神の使いに、ありえない口調で喋りかけているのだ。


「あの。……申し訳ございませんでした」

「何だ急に、気持ち悪い」


 立ち止まって頭を下げる愁慈郎を、朽梨は奇妙なものを見る目で見ていた。

「男が頭下げたのに……いいよもう」

「すまんな。からかいすぎた。だが、城ではそのような口調のほうが好ましい」

 愁慈郎は頷いて、再び、歩き出した。


 七巻き半、山を囲む蟠龍壁の、今は四巻き目にいる。

 本丸に行くには、いったん、城内町へ入らねばならない。山麓の農村部はとっくに、索道搬器ごんどらを使った時点で超えてきている。

 場合によっては、城内町で一泊ということもありうる。


 愁慈郎は、いつになったら家に帰れるのだろうかと、そんな事を考えていた。

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