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文系・テック・ブログについて④

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さてさてさて、前回からの続き、なんすよ。

これは全4回のうち4つめ、つまり最後の記事です。先に言うが、すごい長い。

なのでー?

前々々回と、前々回と、前回の記事を、順に読んでから、以下の内容を、読むと、よい。前前前世。これは言いたいだけ。

で、話としては、私あ、個人の表現活動として、文系テクノロジーを伝えるブログをやることにした、ってことね。しかし、では、なぜこのようなサイトを作ったのか。

たとえば、既存のサービス。それこそnoteとかでは、いけなかったのか?という話。ですが。

なぜならば!

4.技術を使うこと自体、表現だということについて

作品のことを「コンテンツ」って言われると怒る表現者っているよね。っていうところから、話をはじめたい。

僕も会ったことあるよ。そういう人。でも僕もさ、”コンテンツ”って言葉は使うよ。バンバン使う。

だけど、怒る気持ちも、なんか、理解できちゃいはします。「だよね〜”作品”だもんね〜」と、普通に思える。

でもさー、そもそもさー、じゃあ、なんで「コンテンツ」って言われるとハラが立つんだろうね?なんかこの言葉には、表現を傷つけるような含意があるんだろうか。

ってのに、以下、わりと答えていきます。

構造と装飾

はい。でさ、今のインターネット、つまりウェブってさ、主に、HTMLってもので書かれてますよな。

ま知ってるよなお前も。馬鹿にすんなよガハハ(笑)と。思いますよね。

で、知ってる前提で話続けますけど、このHTMLってね、だいたいね、90年代の末くらいから、業界団体みたいな人たちが「もうちょっと、整理しようぜ」ということを推し進めていったわけ。

その整理の仕方は、超ざっくり言うと、文書の”構造ストラクチャー“と”装飾デザイン“を分離する、ってことだった。んだけど、まあ結果的には文書の”見た目”と”中身”を分ける結果になったわけ。

意味、わからない?まあ、以下、もうちょい説明しますよ。

パーツに分けるのは定番の手法

このさあ「役割ごとに、整理して、分ける」というのは、プログラミングにおいては、基本的な考え方なんすよ。そうすね、半世紀以上の歴史がある。

プログラミングに限らず、人間の営みって、何でもそうだよね?つまり、最初は渾然一体としてても、だんだんさ、パーツに分けたりするわけ。そういうもんよ。

たとえば組織とかもさあ、分業制にするとか、部署を分けたりー、とか、みたいなことするじゃん?そうやったほうが効率が上がったりするし、あとパーツごとにメンテしやすくなるわけ。いろいろと「よい」感じなのよ。

プログラミングもそうってこと。構造化だろうがオブジェクト指向だろうが何だろうが、昔からそう。最初は一緒くたでも、やることが洗練されてくると、基本、役割ごとに分けていこうぜという発想になるわけ。

だから、HTMLの場合も、「構造と装飾を分離しよう」という流れになったわけ。

でね?構造とは何か、装飾とは何か、とか、順に説明してもいいけど、今回ここで、すげえええ言いたいのは、それ以前の話なの。

というのもね、実はこれ、ちょっと変なのよ。だってさ、そもそも文書って、みんな”中身”を読むわけでしょ。だけどネットの業界団体野郎どもは、「まあ”中身”はともかく」ってことで、”構造”と”装飾”のことばっか、ウンウンうなって考えて、発展させていったわけよ。

つまり、最初っから、その時点で、”中身”のことは、分離して考えてるの。

Web2.0とは何だったのか

言い換えると、ウェブのエンジニアたちはさ、「よーし”構造”と”装飾”はオレらが担当しちゃうぞー。で、一般ユーザーさんは”中身”のことだけ考えてくれよな」って思ったてこと。

たしかに、そうなのよ。一般ユーザーはHTMLのタグなんて書きたくないもんね。めんどくさいもん。”中身”だけを書いてればいいのであれば、ラクでいいすよ。それは、そうです。

あとね、そうやって”中身”を分離するとさ、もう一個、いいことがあんのよ。

それはね、ネットにつながったあらゆる機械(パソコンでも、スマホでも、腕時計でも、クルマでも何でも)で、その”中身”を利用できるようになったの。

単純な例を出すと、たとえばさ、この「Bunkei Technology」のサイトにだって、誰か知らないユーザーが作ったYouTubeの動画とか引っ張ってきて、貼れるじゃん?引用できるわけ。すーげえ便利じゃん。YouTubeのサイトを開かなくても、動画が見れるんだから。

んで、引っ張ってきたその動画にさ、勝手に字幕を付けてみちゃったりしてね。ニーコニコ動画ー、なんつってさあ。

というわけで、

  1. 誰でも”中身”さえ書ければOK。一般のひとがインターネットに参加できる。すごいじゃん。
  2. そして、その”中身”は、ネット上にデータとして漂い、あらゆる別のウェブサイトで使い倒せる。すごいじゃん。

という体制が、今から20年くらい前に成立した。これWeb2.0ってやつです。で今にいたるわけ。

ちなみにー。

Web2.0は実際、単に当時の流行り言葉、バズワードであった。が、流行り言葉が必要とされる状況とか、それが実現した環境は、ある。なので、その検証とか定義付けはちゃんと必要ではある。あった。

が、そういう考え方は文系テクノロジーの領域なので、結果的にエンジニーアふぜいどもはWeb2.0とは何だったかを検証せずにWeb3とか言い出した。

ということで、今日の情報環境がどのように築かれているかということは、基礎教養として浸透するに至っていないですな。

まあサービス提供側としては上述したとおり一般ユーザーとはそういった知識なしに”中身”を作る人、すなわち馬鹿であってよい前提になっている。ので、ま、誰も困っていない、ということになっている。

“中身”じゃない!”作品”だ!ってわけですね

でもさあ、すでにお気づきかもしれんけど、この”中身”ってのが、まさにcontent、つまりコンテンツってやつですよね。

Web2.0の立役者のひとつにさ、CSSって仕組みがある。ま、CSSが何かということは今は考えなくてOKです。ただ、これはね、「ボックスモデル」っていう考え方で作られてるんですよ。

ボックス、すなわち箱ね。つまりネットの文書は箱型の構造になっていて、一般ユーザーはその箱のcontent=”中身”だけを作ればよい。と、ゆうふうに考えていこうぜ、と。はっきり書いてあるのよ。contentって。

や、このボックスモデルなり、Web2.0なりに欠陥があるって話じゃないよ。さっきも言ったけど、分離するってのは、昔からある考え方なわけ。そして一般ユーザーにとっても、とてもよい仕組みだった。

でもさあ、自分は”中身”をつくってるわけじゃない、っていう人もいるだろうよ。

“コンテンツ”なんかじゃない、全体で作品なんだ、と思ってる人1

たとえば本来さ、漫画を描いた人は、どんな表紙にしたいかとか、どこの媒体に載せるかとか、どこに流通させるかとか、決められたじゃない?

でも「お前の漫画が、どのように掲載されるか、お前はコントロールできない。こっちで決めます。そういう仕組みです」と言われたら、えーっ?て、なって当然ではある。

今やプラットフォーマーこそがクリエイターである

つまりね、結局この20年間、ネット上でいちばん楽しそうにモノを作っていたのは、プラットフォーマーなんだよ。一般ユーザーがどのような”中身”を作るかをコントロールしてたプラットフォーマーこそが、クリエイター然として、喜々として、創造性を発揮していた。

自分のやりたいようにやる独善、それを享受した他人からの称賛、生み出したものの指数関数的な流通、さらにはそれに伴う対価。

創作の喜びに満ち溢れてるじゃん。

XことTwitterが改変されるたびにさ、みんな「改悪」って言うよね。なんでこんな使いにくくするんだ!って。

僕もそう思っていたし、もっとよくすればいいのになあ、と、思ったりもした。

けど、最近は違うと思うのね。むしろ、Twitterは「こうしたいんだ」と思ってる。ユーザーにとって使いにくい、あの状態こそが、XことTwitterが目指す方向なんだよ。次々に何かがレコメンドされ、全体の見通しは悪く、検索もさせてもらえないし、自由なアプリを使うこともできない。よくよく考えたら、イーロン・マスクの会社だよ?そりゃ彼らは、そうしたいんだよ。

僕はね、ほんとに「こうすればXの新しいアルゴリズムに対応できる……」とか言ってる人たちを見ると、何してんのこの人ら、って思ってるんだよ。

誰かが決めてるに決まってる、SNSのアルゴリズムごときを、まるで自然環境のように「適応しなきゃ」ってやってるわけ。何それ?昔さあ、SEOとか流行って、「Googleのページランクを上げる方法!」とかいう話が出てきた時にも、そう思ったんだ。けど今やそれを、みんな「やらなきゃ」と思っているみたいな感じ。イーロン・マスクからすると、まあ羊の群れにも見えるよね。

僕は異常に我慢する。が、飽きたらやめるよ

僕は馬鹿だからさあ、SNSが流行り始めたときから、あんまり面白そうじゃないな……と思いながら、20年くらい、面白くなるのを待ってたわけ。まじで馬鹿で、鈍感なので、我慢とかするのね。ずーっと。こう見えて(どう見えて?)おとなしいの。集団行動とかで。北海道出身だからだと思うよ。耐え力が高いの。

すると、みんな僕が「満足している」と、思いがちなんだよね。信じられないほど、相当に我慢強いからさあ。

でも全然面白いと思ってないから、突然「やーめた」とかって、みんなと違うことを始めたりするわけ。そうしたらびっくりされたり、頭がおかしくなったと思われたりするわけだが。もともと僕はそういうやつなわけです。

違う言い方をするとさ、僕は、プラットフォーマーたちが想定している「一般ユーザー」じゃないんだと思う。だから、彼らが提供してくるサービスが、たいして使い勝手がよくは思えない。「これなら自分でやったほうがいいなあ」とか「まあ、いつかマシになるかな?」とか思いながら使う。だけど、そうならないんじゃん?

僕は、みんながちゃんとやってそうなら我慢するけど、そうじゃなさそうなら「は?」みたいな態度になるのよ。で、やめたりするわけ。で、「前々から面白くないと思ってた」とか言うのね。いま、言ってるわけだが。

技術を使うことは表現ですよ

かといって、僕はさ、彼らプラットフォーマーとか、エンジニアとか、起業家の立場になろうという話でもないわけ。それは、前回も言ったよね。だいたい彼らのやってることって、僕には、別にたいして面白そうに見えないしさ。

てかさあウェブってのは、僕にとって、本来そういうものなんだよね。これは楽器みたいなものでさあ、これを使った時にどんな音が鳴るのか。その全体。が、表現なんだよ。本来。

プレイステーションを作った久夛良木健はさあ、もともとはPCM音源2を強力に推した人間なのね。クリエイターは表現力の高さをほしがるはずだ、という発想の人だったんだよね。それがイマジネーションを刺激するんだと3

テクノロジーは表現の幅を広げるし、テクノロジーを使うことは、表現だということですよね。技術は、楽器とか、スポーツの作法とかと同じなんですよ。それを順序立てて操作することで、表現が生まれる。

だからエンジニアが”ガワ”を作り、一般ユーザーこそがお手軽に”中身”を作るなんて、全然違ったね。嘘だね。

本当はガワと中身は一体で考えられるべきものだった。しかし今やガワこそが中身を規定するものとして機能しており、プラットフォーマーはユーザーの創造性を制限するという形で創造性を発揮してんの。プラットフォーマーこそが、自由にネットをデザインし、発言を流通させてんの。

それに比べりゃ、そん中にいるインフルエンサーなんて、何者でもないよね。

人が多いのがいいなら、いいよね

僕だって、別に、本当は、この技術を、扱うことができるんだよ。なのに我慢してさ、プラットフォーマーどもの作ったサービスを使ってあげてたのね。けど、あまりにくだらないしさ。創造力を刺激もされないしさ。

もちろん、noteのクリエイティブに対する思想はわかってるよ。metaタグを見るとさ、

「クリエイターが文章や漫画、写真、音声を投稿することができ、ユーザーはそのコンテンツを楽しんで応援できるメディアプラットフォームです。だれもが創作を楽しんで続けられるよう、安心できる雰囲気や、多様性を大切にしています。」

とか、書いてあるわけ。たいへん高邁でよろしいと思いまーす。いいでーす。

でもさあ、まずは、そこで言う「文章や漫画、写真、音声」あるいは「創作」、さらには「応援」というものは、もはやnoteによって規定された”中身”に、ならざるを得ないよね。

そしてさ、結果的に、なんか文体が似てたり、AIを使った情報商材みたいな”中身”があふれたりしてくるじゃん。一般ユーザーってば、そういうことを始めるわけ。それに対してプラットフォーマーは「運営」として、いい感じの”中身”が生成されるように、またガワを調整するわけですよね。すると一般ユーザーは次の運営体制に順応していく。

でさあ、俺もその一員になりたいかと言われたら、なりたくないのね。

同じ班はやだな

や、それでいい人はいんじゃない?

だいたいさ基本的に、ネットは、人がいっぱいいる場所がいいのよ。交流をするのであれば。カネにもなるんじゃない?それを望むなら、いいのよ。「私はSNSで書くの大好きです!順応していきます!人が多いんだから勝利ですよね!」というひとは、いる。いいよね〜、素敵です〜、はい〜。

しかしさあ、上記したように、使う手段に応じて、表現というのは変わるわけだよね。そんなもん、メディア論とかを紐解くまでもない。

たとえばさー、なぜ週刊漫画誌の1作品のページ数が20ページ前後かというと、あれは、通勤・通学の電車の1駅分で読めるのがそのくらいのページ数だからなんだってさ。伊藤剛4さんが言ってたから絶対正しいと思うよ?

スマホ用のゲームも同じだよ。1セッションが10分程度なのは、通勤・通学時にさっと遊べる時間だから。

しかしそうすると、必然的に描ける内容が決まるよね?

スマホと言えばさあ、今の漫画って、コマがでかいのね。3段組とかが普通だし、2段、つまり上下にしか分かれてない漫画もざらにある。それはなんでかというと、今の時代、スマホで読むのが普通になったから。

けど僕さあ、漫画の教室とかやってますけど、受講生に「過去の漫画を参考にして描くといいよ」とだけ言うと、たまに『風の谷のナウシカ』とかを眺めはじめる人がいるのね。45年くらい前の漫画。あれって、アニメ雑誌「アニメージュ」連載でさ、A4変形判なんですよ。単行本も大判サイズです。スマホで読むと、コマとかめっちゃ小さい。そもそも電子で売られてない。売られたとしてもスマホだときついってこと。

や、別に、そういうのを描いてもいいんですよ。好きなんだろうし。情熱の赴くままに描くべきだ。けど、それは、果たして、どこで、誰が、読むものなのか。を、考えて、それを参考にしようとしてるんだろうか。とは思うよね。

というか、考えてしかるべきだということです。それは、どんな表紙にするかとか、何色で塗りたいかということと、同じなんだよ。でも、漠然と『ナウシカ』を真似して、今コンテンポラリーに商業作家になりたいですと言ったら、否定せざるを得ない。

それと同種か、それ以上の、表現に対する鈍感さをさ、Web2.0以降のさ、ユーザーの作るものが、”中身”としてパージされたインターネットで、平然と書いている人には、感じるわけ。

それでいい、と甘んじてるんなら、まだいいという話ね。この場所を選んで、そういうもんを書いている自分は、それでいいんだと、そうおっしゃるわけだ。でもね、そうじゃなくて、なんか「これがSNSだ!我ネットわかってる〜ん!」みたいな態度の人たちとかもいんのね。高度にやってます的な感じのさ。そういうの見ると「寒……」てなるんだよ。そうするとさ、あんなズレた、勘違いした、それこそ鈍感な連中と一緒の班みたいになるの、やだなあと思うわけ。ごめんね。

あ、どんな掃き溜めでも人がいるから勝利だ!という人は、ほんとにそれでいいと思うよ!ぜひ〜。ごめんね〜、ほら、僕はすごいいっぱい人が来るサイトもやったことがあんのよ。だからさ、同じのんを繰り返したいとも思わないってことか……な。うっふーん。

ま、インターネットは自由なので、彼らと一緒にいない自由を選んだっていいでしょ。

AIすごいんだろうし、お前にもできるだろ

そういう自由を選べるんだよ。やるか、やらないかでしかないという話。

だけど、それを選ぶこと自体、強者の意見だと、近年、みんな、そう思ってるよね。つまり、みんな、できないと思ってるわけ。自分には。でも、できますよ。僕だってできるし、君もできるよ。俺でもできるんだから、できるよ。

なんで、みんな、できないと思ってるんだろう?もともとインターネットは、「君もできるよ」という技術でしかないよ。

それにさ、一方でさ、みんな言うじゃん。AIはさ、すごいって。何でもできるらしいじゃん?AI。

もうね、AIは絵が描けるから、即座に漫画が描けるとか言ってる連中までいる。まあそいつは、文系テクノロジーとは何なのか、全く理解していない奴だわ。もしくは、わかっているのにわからないふりをして、周囲に調子を合わせている奴。つまりは、馬鹿か、悪い奴か、どちらかだから、信じないほうがいいよ。

だってそんなの、AIがあれば、即、noteが作れると言っているようなものじゃないか。

そうなのか?AIを使って漫画を描くことはできる、のか?そして、だったらAIコーディングで、noteだって作れるってことか?じゃあやってやろうか?はっはっはっはっは。

できねーよ

だけど、もちろん、そんな簡単にはできない。そりゃそうだよ。誰だ、漫画が描けるとか。漫画なめてんのか。馬鹿が。

AIなんて、技術じゃん。道具だからさ、使い方によるんだよ。技術って、そういうもんだろ。別に、進化したとしたって、自分が使役する限りにおいては道具じゃん。ぶっちゃけ組織や人間ですらそうなんだから5、AIだってそうに決まっている。のに、なんで「何でもできる!」とかで揉めているのか、僕にはさっぱりわかんねえけど。

まあとにかくね、技術は的確に頑張って使う。使えば、作れる。エンジニアたちがやっていることは、本来、誰でもできることなの。だったら、やってやんよ。

作れることを知らせるよ

思えば、僕は、常に、「僕がやっていることは、あなたにもできます」と、言い続けてきた。ムーノーローカルでもニーツオルグでもひらめき☆マンガ教室でもカルチャーお白洲でもそうしてきた。

あるいはゲームだろうと、アイドルだろうと、文学だろうと、そのシーンを称賛しつつ、それはその場に立ち会った人にとっての個別の熱狂であるとした。唯一絶対化しなかった。それと同じ場所が、別に存在しうるという考え方なわけです。

唯一絶対のようにしないってのは、たとえばそれは普遍的な原理や仕組みがあったという言い方になったりする。それはとても「技術」的なことだったりする。

世界が広がるって、そういうことだと思うのね。たまにする話だけどさあ、僕はムーノーローカルをやってた時に「このサイトを見て、誰かが自分と同じようにウェブサイトを作ってくれなくていい」と思ったのね。けど、たとえばその人がギターを弾き始めたりとか、その人の何かを変えるきっかけになったら、すごくうれしいな、とは思ったんだよ。

そして、今にいたるまで、すべての活動で、そういうふうに思い続けてきたんですよ。たった今もそう思っている。

そういうやり方をしているので、熱狂に酔いたい人たちは、僕の活動に不快感を感じたりするのよね。話を、彼らが熱意を注ぎたいものの外部へ誘導しちゃうんだから。あと、無意味だとか無駄だとか言われたりもする。あんなやり方は長くは続かない、とかも言われる。

けど、僕は、もうそう言われながら四半世紀とかやってきてるんでね。ほら異常に堪え性があるからさ。で、何だったら、その界隈にも貢献しながら、僕の思ったような影響を与えるみたいな、うれしい結果すら、いただけてるんですわ。ざまあ。

そして、僕はそんな考え方のほうがおかしいと思う。すごい物事が、つねに、ここだけで、偶発的に、マジックのように起きている、外の世界には一切の可能性がない、なんて考え方をし続けていたら、何も育たない。何も積み重ねられない。ノスタルジーみたいな、内輪の幸福のためにはいいのかもしれないが、それを続けていると、やがて内輪を成り立たせる足場すら、失うことになる。

というか、もう、失いつつ、ある。そうなんだという話は、これまで4回にわたって書いたので、なんか、わかりますよね。

だから僕は、外の世界だか世界の外だかを、作ることにしたわけ。あるいは全地球だかを。そして実際さ、別に、作れるのよ。ということを知らせるサイトです。

ということで、このサイトの由来の話、終わり。

次回の記事は、このサイトの更新に使っている、Pythonスクリプトを配布します。そういうことを、していく、サイトです。

長っ。


  1. “中身”あつかいされた上に、複数形で十把一絡げに扱われるわけで、まあ、なめられてると思っても、いんじゃないすか。 
  2. 超ざっくり言うとピコピコした「機械の音」じゃなくて「CD並みの音」のこと。 
  3. 久夛良木の考えはハードウェアに偏重しており、あれはあれで全く文系テクノロジー的に十分とは言えない瑕疵を持つ。しかし過去にゲーム系のコミュニティは、すぎやまこういちの「3トラックでも十分に音楽は作れる」という発言を並べることで久夛良木は愚かだという論調を築いたりしていた。しょぼい。ゲーム界隈とかは、だからダメなのである。 
  4. 東京工芸大学漫画学科教授。著書に『テヅカ・イズ・デッド ひらかれた漫画表現論へ』(2005) 
  5. 人間は道具じゃない!等のこれまたどうでもいいことを考えてしまう人は、戦争の例とかを適当に思い浮かべて、各自納得すれ。 

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