私たちは、大豆の搾りかすに泥を混ぜて口にしていた。少しでも、腹持ちを良くするためだった。
そう語ったのは、北朝鮮・羅津の工場で職長を務めていた宇さんだ。
羅先の小さな村の出身で、漁業と農業を兼業していた。
畑で育ったものは、次第に底をついた。次の年に植えるはずだった種芋や苗木までも、口にせざるを得なかった。
漁業をしていた分、内陸部の人々よりは、まだ食べるものがあった。だが、やがてそれも、役人に没収された。
当時の平均寿命は、六十歳前後だったという。数字が、その悲惨さを物語っていた。
生きることの苦しみと、家族の口減らし。その両方の理由から、自ら命を絶つ者も少なくなかったという。
国連からの食糧支援があったのではないかと尋ねると、宇さんは、受け取った記憶は一度もないとのこと。
決して軽い気持ちで聞いた話ではなかった。それでも、当時を思い出しながら話す宇さんの顔を見て、申し訳ない気持ちになった。
最後に、宇さんはこう言った。
人は、極限まで食べるものがなくなると、どうなるか。
私たちの中で、守らなければならないことが一つあった。
絶対に、子供を家の外に出してはいけない。
北朝鮮が「苦難の行軍」と呼んでいた頃の話である。