ミカンの皮食べ、寒さに震え…沖縄から熊本・阿蘇へ学童疎開 「繰り返してはならない」恩返しと警鐘の“沖縄文庫”
沖縄戦を前にした1944年、那覇市から熊本県・阿蘇に学童疎開した玉城盛松さん(88)が、かつて通った阿蘇の小学校に沖縄関連の本を贈っている。当時、異郷で2年過ごし、食糧難と寒さに苦しんだ。沖縄戦終結から81年。国が台湾有事を念頭に沖縄県・先島諸島から九州などへの住民避難を計画する中、玉城さんは「疎開は戦争そのもの。悲惨な体験を繰り返してはならない」と訴える。(野村創) ■寄贈された330冊が並ぶ波野小の「沖縄文庫」【写真】 沖縄の学童疎開は、迫る地上戦の足手まといになる子どもを減らし、次世代に戦力を残す目的などから国策で進められた。熊本、大分、宮崎の3県に児童約5600人が集団疎開した。
44年8月21日、首里第二国民学校1年生だった玉城さんは疎開船「暁空(ぎょうくう)丸」で那覇を出港。翌22日夜、爆雷の音でたたき起こされて甲板に出ると、遠くに炎のようなものが見えた。朝、視界が開けると、一緒に九州に向かっていた「対馬丸」の姿が見えない。米軍に撃沈され、疎開児童を中心に約1500人が犠牲になっていた。 同校の児童ら約160人は佐世保港に入港後、阿蘇市内牧に移動し、旅館で暮らした。食料は乏しく、ごみ箱に捨てられたミカンの皮を食べて飢えをしのいだ。
10カ月後、同市波野に再疎開。旧楢木野(ならぎの)国民学校内の建物で自給自足生活が始まった。山でワラビやセリを採って食べた。上級生が農家を手伝って分けてもらったコメやイモが一番のごちそうだったという。 冬は沖縄で経験したことがない寒さに震え、凍傷になる子どももいた。「いつか沖縄に帰れるという望みを胸に耐え抜いた」
46年10月、帰還が決まり阿蘇を離れる際、担任の女性教員からノート4冊とハンカチに包んだ柿をもらい、汽車で涙を流した。疎開者は全員命をつないだが、古里は地上戦で壊滅的打撃を受けていた。戦争孤児になった子もいた。 疎開体験者の提案で87年に「楢木野会」が結成され、自身も参加。2年後に阿蘇を訪ね、交流が始まった。会は恩返しの思いを込め、楢木野小に沖縄戦や沖縄関連の本の寄贈を開始。同小閉校後の99年からは統合先の波野小に贈り、累計で330冊になった。同小は「沖縄文庫」として平和学習に活用している。
20人以上いた楢木野会の会員は数人になり、今は玉城さんが中心になって本を贈る。阿蘇でも疎開を知る人は減った。沖縄では近年、自衛隊の防衛力強化が図られ、九州への避難計画の策定も進む。「古里を離れるといつ戻れるか分からないし、船が撃沈されるかもしれない。沖縄の人は既に体験したことですよ」。警鐘を鳴らすためにも、疎開体験や命の尊さを語り継ぎたいと考える。 「沖縄からの疎開者が現地の人にお世話になった。阿蘇の子どもに疎開の歴史と私たちの思いを知ってもらい、平和を発信してほしい」。「疎開の証し」として本の寄贈を続けるつもりだ。
西日本新聞社