とあるカマキリの憂鬱
ぼくは、庭にある木にカマキリが宿を創っているのをまじまじと見ようとしていた。カマキリは宿を創っているところは見せない、という話を隣のおばさんは伝えてくれたが、彼女と言ってはおこがましいかもしれないが、大きなカマキリなのかもな、とは思っていた。しかし、大きなカマキリには見えないことはたしかであった。ふつうの容姿をしていて、人間臭くて、髪の毛もしっかりある。この方が変身しているということは、初対面から二十年後経ったあとで知らされた。変身というのは自分自身の本来の姿を別のように見せる技術である。ぼくはおばさんのお通やに参列していた。おばさんが亡くなる一週間前に、私は本当は大きいカマキリだよ、と言ってくれた。なるほど、カマキリのことが詳しいのは、おばさんが大きなカマキリであったからなんだ、納得した。おばさんはあのカマキリに何をしたのか、十年以上前のことを考えはしたが、おそらく、何も言わなかったと推測した。カマキリは寿命が短い、と云うが、あの庭にいたカマキリは生きている気がするのだ。まだ、あのカマキリは生きている、そう根拠もない自信が背筋を刺戟した。
カマキリは深瀬の住んでいる庭とは裏地にある長谷川の庭へと半年も絶たずに移動していた。あのとき深瀬の庭で宿を創ろうとしたけど断念したことをまだ根に持っていたのだ。カマキリは、誰にも見られない、誰にも話しかけられもせずに、せっせと宿を、毎日、創ろうと努力した。勉強と努力の差異性も自身の経験から学べるもので、宿づくりは勉強ではなく努力であった。カマキリは三日三晩で宿づくりを実行したが、いかんせん、上手く出来すぎている。あの深瀬という少年に宿をみられたくない思いが一転して、どうだ、自分は素晴らしい宿を創ったぞ、と威張り散らしたかった。とはいうものの、そんなに大きな声が出せるわけではない。しかし、宿づくりに満足したことはたしかである。長谷川は満足したカマキリをたまたま見掛けていた。長谷川は、宿づくりの方法を気にかけた。これはなかなかの芸術である。


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