先生、先生とは何ですか?──学生時代の黙示
わたしは、まだ先生についてひとつも分かっていなかったのです。先生が先生たる理由を知ることも先生としての重みも考えたこともなかったのです。なにせ、こちらは先生ではなく、学生という身分であります。学生は先生のことなど気にもかけません。しかし、先生は学生をひとりひとり吟味していく義務があります。将来のことを三者面談で両親に、あるいは、生徒に、何と言いますか、まとまった一説や二説、賦与するだけであります。生徒の動向というもの、将来何になればよいか、足りていない、劣っているところを気にかけ、ひとつひとつ修正していくことが出来ましたら、先生としてこの上ない悦びでありましょう。
先生に聞いてみたいことが出来たのは、教師という職業に興味を持ったからでした。担任に、先生、先生とは何ですか?と訪ねてみた。担任は、「先生とは生徒に授業をしたり、部活動を応援したりする役目を持った教師だ」と本気で応えた。担任は、増田孝蔵という。わたしは、そんなことを考えるんですね、と対応した。ふつうは、努力を語るのかもしれないし、先生は偉いなどというのかもしれないが、担任の教師は、国語の教師であるから、おごそかなことを言わないのかもしれない。担任は、当たり前と言えば当たり前の、授業とか部活動を応援という言葉を使用したにすぎず、何の勉強にもならなかった訳だ。わたしは、担任に「当たり前だ」とは言えなかった。それは、敬語でないからではない。当たり前、という一気に場を静めてしまうそのような一言を喋ることがおごそかなことであると感じるからだ。担任は、「まだ説明が足りないかな」とわたしの眼の中を除くように言った。わたしの眼に興味を持ってほしくはない、そう思いつつ、「先生はなぜ先生になられたんですか」、とついに口から二分、いや三分ぐらい聞きたいことを訊いてしまった。担任は、「それは、先生になって生徒に授業がしたかったからだ」と述べた。またしもつまらない返事に担任に辟易した。国語の教師たるもの、間違いではないが野暮ではないか、と思いに過ぎった。担任は、「教師になりたければ、一生懸命に勉強するんだ」と励まそうとした。とは言われたものの、当たり前の意見ばかりにならないように一生懸命になって欲しいと思った。わたしとトレードしませんか、と言うと、担任は、「分かってる。私の意見が当たり前すぎていることを。それを直して欲しいんだ、君は」と言った。わたしは、ええ、と言うと、物分かりがいいときもあると思った。「それを直しつつ、わたしは勉強しつつ、というフェアなトレードです」と言うと、担任は、トレードの意義は果たしてあるのだろうか、と訝しがった。この担任は四十代前半で、国語を生徒に教えたい、という願望があったという。どこかで耳にしそうな話題だ、と強く思った。いまわたしは、新鮮さ求めている。国語教師の当たり前すぎる話に聞き飽きる、と言っては言い過ぎかもしれないが、さきほど辟易したわたしをさらに辟易させるような、そんな話ばかりする彼は、勉強を勧めたり、運動を勧めたり、とにかく鬱陶しいのです。
わたしは、目標というものがどうも立てられる自信がありませんでした。教師になりたい、という目標意識はあるように皆さんは思われるかもしれませんが、また言いますが、教師という職業に興味を持った程度であります。教師というのは、難しいけれど、努力すればなれるのかも、曖昧でした。増田先生は、私を見下ろすと、髭を少し掻いて、教師を目指しなさい、と言ってくれる、実は優しい先生なのでした。それはそれは、仏様のように、優しくて、当たり前のことばかり言うけれど、暖かい先生なのでした。


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