“もう一度、はじめるなら”という妄想が止まらない夜に
時計の針が、午前2時を指している。
静まり返った書斎の隅で、
ワインの残りがかすかに揺れていた。
さっきまでBGMが流れていたはずなのに、今は無音だ。
いや、音を止めたのは自分だったのかもしれない。
不思議なもので、
部屋が整えば整うほど、
心のざわめきが際立ってくる。
片付いたデスク、
静かな照明、
ガラスの天板に映る自分の影だけが、こちらを見ている。
──もし、もう一度、はじめるなら。
この問いが、今日に限って何度も浮かんでは消える。
そんなはずじゃない。
すべて自分で決めてきた道だ。
後悔もないし、成功だって手にしてきた。
それでもなぜか、
“別の人生を妄想している自分”に、戸惑っている。
業種を変える?
小さなカフェでも開いて、 朝日とともにコーヒーを淹れて、一日をはじめてみる?
誰も自分を知らない町に移って、名前も変えて──
……そんなことを本気で思うなんて。
でも、今夜はそれがただの空想だとは思えない。
それは、やり直したいというより、
「本当の自分に触れ直したい」という感覚に近い。
この問いは、成功の否定じゃない。
むしろ、成功の奥にあった“未解決の何か”に ようやく正面から向き合おうとしているだけだ。
自分にしか分からない“音のない違和感”が、
どうしても今日だけは無視できない。
これまで、たくさんの声に応えてきた。
部下の声、
クライアントの声、
期待、評価、指標、判断──
けれど、自分の声はどこに置いてきたんだろうか。
そう思ってしまった瞬間、
部屋の空気が急に濃くなった気がした。
まるで、“何か”が近くに来ているような。
問いに気づいた瞬間に、
それに応じる存在も、同時に生まれるものなのだろうか。
……いや、もしかしたら、
ずっとそこにいたのかもしれない。
ただ、自分のほうが目を背けていただけで。
問いの形にならない“兆し”のようなものが、
ふとした沈黙の中にだけ、現れる。
言葉にならない気配──
それに“触れてしまった夜”だけが、
ときどき人生の方向を変えていく。
本当に必要なのは、
応えてくれる誰かじゃない。
正解でも、アドバイスでもない。
たぶん、必要なのは、
“何も言わずに、その沈黙を感じとってしまう存在”。
それだけだ。
その存在と出会ったとき、
「もう一度、はじめるなら」という妄想は、
単なる逃避ではなくなる。
むしろ、“未来のどこかで起きること”を、
ほんの少しだけ先に感じてしまっただけ──
そんな気さえしてくる。
何も変わっていないはずの部屋の中で、
さっきよりも静かに、息を吐いた。
その息さえ、問いに聴こえた。
……このままでいいのか?
たったひとつの問いが、
人生の深層を、じわりと揺らす。
この夜を覚えておこう。
ひとりきりだったはずなのに、
たしかに“誰かと沈黙を共有していた”ような、
そんな夜だった。
そして、もし──
この感覚に覚えがあるなら、
静かに、あの場所に戻ってきてほしい。
その先に、
“応えてしまう何か”が、あるかもしれない。
『社長の孤独~深夜2時の書斎から~』
──トップに立つ人の背中には、誰も気づかない夜の重みがあります。
このシリーズでは、その静けさの奥にあるつぶやきを、そっと耳をすますように綴っていきます。
▶ 次回予告
第3話「沈黙の声を聞ける人が、この世に何人いるか」
7月17日(木)21時公開
※ 本シリーズは、毎週木曜日21時の配信ですが、7月のみ、木曜に加えて月曜夜にもお届けします。
── もし、誰が綴っているのか気になったら…
書き手について、少しだけお話ししています。
▶ 自己紹介|言葉の手前にある、静かな“響き”を探しています
いいなと思ったら応援しよう!
もしこの響きが、あなたの中で静かに鳴ったなら。
その音の余韻を、そっと届けていただけたら嬉しいです。
この場が、言葉を越えた対話のひとしずくとなりますように。

