談話室で適当に座って本を読んでいた。視界の端にピンク色が揺れて、やがてそれが隣に収まる。虎杖悠仁が、隣に座った。それを理解すると同時に、何とも言えない温かい気持ちになる。隣に座るという行為に、彼の優しさを感じたからだ。
俺は未だに、彼と目を合わせることが出来ない。
「日車はいいの? なし崩しみたいにこういうことになったけど、断っても良かったんだぜ」
座って暫く黙りこくったかと思うと、俺にとっては今更過ぎる質問をぶつけてくる。
「その話はもう済んだと思っていたんだが……まだ議論が必要か?」
意地悪な言い方になってしまった。
宿儺を倒すために協力する。それを打診したのは俺の方からだったというのに。コガネに情報開示のルール追加をした鹿紫雲には感謝しなくてはならない。あのおかげで俺は速やかに虎杖たちと合流出来たのだから。
「いや、嬉しいよ。日車がこうして高専側についてくれんの、すげー嬉しい」
「だったらそれでいいじゃないか」
「うん……」
もぞりと動く気配がして、虎杖が身を寄せてきたのが分かった。少し緊張するが、それを表に出すことはしない。彼の表情を曇らせるのは今更本意ではないのだ。
「何の本読んでんの?」
「ああ、高専の図書館から何となく借りた本だ。死にゆく者の名言集だったか」
我ながら随分皮肉の効いたものを選んだものだと苦笑する。虎杖はふーん、と短く言うと、
「どんなのがあんの?」
と聞いてきた。まあ当然の質問ではある。
「主に偉人が死の間際に言った言葉などが短く纏められている。何気なく選んだが、俺も存外趣味が悪い」
「そーなの」
「偉人の言葉に救われようとでもしたのか…とな」
言葉にするときついものがあった。俺はこんなに生き汚かったのかと。
「救われちゃダメなん? 日車」
虎杖はそんな俺の生き汚さを肯定する。それがどうにも辛い。
「いや、救われるような言葉はなかったな。それを期待してこれを選んだ訳ではなかったから、特にがっかりはしていないがな」
「むずかしーな、日車は」
難しいことなどない。今の俺は死刑執行を待つ犯罪者に過ぎない。それが分かっているのに、死に場所を選んでここにいる俺は、耐え難いほどに醜く、許せないほどに弱い。人の醜さや弱さを尊んできたのに、今の俺はそれすら直視することが出来ないのだ。
「俺の行く先は、法で裁かれた上での絞首刑だと思っている。だがこの命が……能力が、人々の安寧な暮らしの礎になるなら、これは最良の回り道だと思ってもいるんだ」
虎杖が痛みを堪えるような顔で言った。
「やっぱ日車、自分のことが許せねぇの?」
慰めも労りも差し挟むことは出来なかった。答えは一つなのだから。
「許してはならないと、思っている」
堪えきれなくなった痛みを抑えるように、虎杖が膝の上で拳を握り締めているのが分かる。白くなった手には無数の傷跡があり、守られるべき十五歳の子どもの手とは思えなかった。それが労しく、いじらしく、俺の胸を打つ。それでも俺にはどうしてやることも出来ない。この血で汚れた手では。そう思った時、まるで俺の思考を拾ったかのような答えが返る。
「それは俺もだよ。でもさ……日車は、俺とは違うと思う」
「虎杖?」
「俺は油断してたんだ。俺がしっかりしていれば宿儺を抑えて居られるって、心の何処かで油断してた。そんな弱さを突かれて、俺は沢山の人を殺してしまった。でも、日車は違う。ずっと、ずっと、弱い人のために頑張って、それが理不尽に踏みにじられた時に泳者として無理やり覚醒させられた。その時日車が正気だったかって、考えたことある? それって、日車的に言うなら刑法三十九条一項? の、心神喪失に当てはまるんじゃねーの」
幼いながらに虎杖は、俺の為に精一杯の誠意を見せた。それが例え虎杖にとってダブルスタンダードに過ぎなくても、彼は俺の罪を拭おうと必死なのだ。
「虎杖……ありがとう、しかし、」
「俺は出来なそうだけど、日車は人に囲まれた、人を助けた結果の、満足する死ってやつを、できると思う。今まで日車が弁護士として救ってきた人が、突然手のひらを返すことなんてないんだからさ。きっと、日車は独りでは死なねーよ」
「……それは、君こそが、」
「俺はもう、そういうの出来んから。ほら俺、もう、歳ゆっくりとしか取らんみたいだし。それがいい感じに、俺にとっての罰になってるっつーか」
「虎杖……」
俺は咄嗟に、虎杖相手に同情めいた表情を向けてしまった。虎杖は苦く笑うと、続けて言う。
「なあんで俺、アンタのこと困らせちゃうかなぁ。そんな顔させたい訳じゃないのにさ」
虎杖の体温が離れるのを寂しく思いながら、俺は虎杖が離れるに任せた。
「虎杖、俺はそんな死を望まない」
「うん、知ってる。でも日車には、独りになって欲しくないんだ、俺」
「虎杖」
問いかけると虎杖は、切羽詰まった声音でこちらを向いた。
「一人になった日車は、どこかに消えちゃいそうだから」
「それは俺が、」
「死ぬとかじゃなくてさ、誰も知らないところで、ずっと自分を責めるんじゃないかって……それが俺は嫌なんだ」
それはそうかも知れない。この戦いで死ねなかったら、俺は裁きを受けるために彼らの前から姿を消すだろう。判決は死刑か無期懲役。殺意があり、死体をあれだけ損壊させたのだ。恐らく死刑は硬いだろう。そのために、俺は彼らから俺を隠す。消えてなくなる。
「俺には資格がない。優しい人たちを裏切った。理不尽に命を刈り取った、だから俺には、周りに誰一人心をかけた人間のいない、独りの死が相応しい」
無実の罪で秘密を抱えたまま死刑を執行されるヒロインの映画を観たことがある。二度目を観る機会を得た時、俺はわざと端の椅子を選び、舞台が終わるその前に席を立った。そうすることで彼女は再び始まる舞台のなかで、踊り出すことができる。
だが俺は、台座を蹴られて首を括られなければならない。それだけのことをした。それだけの理不尽を、遺族に負わせた。
「そうかも知れない。でも、日車を取り囲みたい人たちの思いは、その人たちだけのもんでしょ。日車が俺の目を見られないってのだって、日車のエゴだし、実際俺がどう思うかなんて考えないでしょ」
俺は黙るしかなかった。虎杖が初めて己の哀しみについて吐露してくれている。それすら俺の信念を動かすことは出来ない。何故ならそれは甘えのように感じるからだ。
「アンタがどう思っても、その人たちは笑顔になったし、アンタが死ぬなら一人にはしたくない。その思いは誰にも邪魔できない。俺の思いも、日車には渡さない」
虎杖は俺の顔に手を当て、俺の顔の向きを変えた。虎杖の強い瞳の色とまともに視線がぶつかり、俺は言葉をなくす。
「俺はこれからも生きなきゃならないって、兄弟に背中を押された。だから俺は一人に見えても、本当は独りじゃないんだ。いつだって、脹相や、壊相や、血塗や、他の兄弟たちがいる。それでも、大抵のヤツのことは見送んなきゃなんなくなった、からさ。だから、日車は死ねるなら、死ぬんなら、優しい人たちに囲まれていて、ほしいんだ」
「虎杖……」
何か言おうにも名前しか呼べない。そんな中で、虎杖の血を吐くような独白は続いていく。
「そうだよ、俺の我儘だ。日車に一人になってほしくないっていう、俺の我儘。それでもさ、それでも……独りにならないで欲しい……お願いだからさ……日車、俺たちと、いてくれ」
そこでやっと俺の心と外界の接合が可能になった。やっと思っていたことが言葉になったと言ってもいい。俺は半ば叫ぶように口にした。
「……虎杖、俺にはどう考えても、何度考えても、独りで死ぬ以外の選択肢はない! ちらついてしまう! 頭を潰された二人の死体…遺族の何もかもを飲み込んだような反応……全てが俺を暗闇に閉じ込める! 光などもう二度と見る資格はないと……何度も!」
虎杖の手が、俺の手を握り締めてくる。それは力強く、そして優しい。今の俺には、余りにも毒だ。それでもそれを振り払えない。
「俺にはもう、救われる道はない! あってはならないと俺自身が決めてしまった! 俺のエゴだ。逆に言えば、囲まれて死ぬ、という義務から逃げているんだろう。それでも俺には……無理なんだ。虎杖……」
最後の方は俺の声は嗚咽交じりの涙声になっていた。涙と鼻水で顔はグシャグシャになるが、もう構ってはいられない。しゃくり上げる度に肺が痙攣し、俺はもう言葉を紡ぐことすら難しくなっていた。
そこに、虎杖の穏やかな声が降る。まるで光そのもののような。それでいて焼くような強さはなく、温かく俺を包むような声。
「日車は、やさしいな」
「違う俺は、」
何とか絞り出した声も、虎杖の言葉に包まれ、やんわりと消えてしまう。
「優しいよ。大抵のヤツは考えない。考えたらぐちゃぐちゃになるから。それを日車は考える。考え続ける。手が届かなくて取り零した笑顔も、自分のせいで失われた笑顔も、おんなじ価値で覚えていて、考えて、苦しんでさ。それは、すごいことだと、俺は思う」
虎杖はそれだけ言うと、俺の手を両手で包んで笑んだまま、俺から視線を外した。待っているのだ。俺が、答えを出すのを。俺がこれから何を言っても、受け入れようとしてくれている。
「虎杖……俺は、弱く醜い」
「うん……」
「だから、せめて、君の今際の際を、見届けさせてくれないか」
どういうつもりで言ったのかは分からない。だが霊があるのなら、呪いが巡り、繰り返すのなら、君のその時に、俺は生まれ変われるのではないのか。そんな気がした。
虎杖は暫く微笑んだままの横顔を俺に見せていたが、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。どれだけ飲み込んで、どれだけの寂しさに耐えてきたのか。俺は虎杖の肩を抱き、そのまま背中を撫でた。
「ありがと……ありがと……日車……ほんとに、ありがとな……」
虎杖悠仁。君は俺が大勢に囲まれて死ぬべきだと言ったが、それは君にとっては当たり前に手にはいる幸福だったのではないのか。恐らく俺が名乗り出なくとも、君の学友、その他の友人、彼らは君の今際の際を囲むだろう。魂だけのもの、転生したもの、様々だが、君はそれらに囲まれて死ぬのだ。恐らくは。
「虎杖……俺は、君がいてくれるだけでいい」
自然に言葉が滑り出た。言うつもりのなかった言葉だ。しかし言わなかったからどうなる。そう思ったのだ。何度でも生まれ変わり、君の死を見送ると言ってしまった今となっては。
「うん、俺が、日車を見送る」
こんなに優しい愛の言葉があるだろうか。俺はいつしか虎杖の体を真正面から抱き締めていた。
来世、そのまた来世に、俺は君を見送る。君が見送ってくれた命で、魂で、君を探し、君の死を見届ける。
「まずは俺からだ。それがこの戦いかそうでないかはらまだ分からないが」
「勝つって言ってよ。最初に戦うの五条先生だっての」
そう言って涙ながらに笑う君に、俺は誓った。
俺の生は、虎杖悠仁の為にあると。