あなたの一ヶ月を買わせてください
日車さんが好きだけど、付き合えるわけないので日車さんの一ヶ月をお金で買うことにしたゆじの話です。
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「ねぇ、弁護士の人にお仕事依頼する時って、学割きいたりすんの?」
夕飯時に近い夕方のカフェは人がまばらで、窓辺に向かう席に隣り合わせで座った俺たち以外の話し声はほとんど聞こえない。
隣に座る日車は言われた言葉をまじまじと反芻するみたいに暫く俺を見てから、どこか呆れたように小さくため息を吐いた。
「突然何の話だ。……残念ながら学割は聞いたことが無いな」
「そっかー……うーん……どうすっかな」
学割きかないなら結構高そうだよなー。
呟いた俺を横目に見ながら、夏場だというのにきっちり着こなした黒いスーツで熱いコーヒーを1口飲む。任務後の日車はいつも大体コーヒーだ。
俺は限定のメニューだったり、その時の気分で変えるけど、今日はチョコレートのフラペチーノにしている。
半ば溶けかけてシェイクみたいになったそれをちゅる、と飲む。うん、うまい。
「弁護士に何か依頼するつもりなら、話だけでも聞くが」
街並みを見ながら言う日車の声は思いのほか真剣で、きっと本当に相談に乗ってくれるつもりなんだろう。
何となく頬杖をついて眺めるのは、綺麗な鷲鼻の横顔だ。そういえば、鷲鼻の人は『相手に尽くすタイプで、あまり損得では動かない』って何かの記事で読んだ気がする。
そんなことをつらつら思い出しながら、カッブを伝って机についた水滴を人差し指で広げた。
「んーとね……日車って30分5,000円で話聞いてくれんでしょ?」
「まぁあれは冗談だが」
池袋でかつて話した内容にお互い軽く笑い合ってから、よし、と心の中で覚悟を決める。
「あのさ……俺に日車の1ヶ月、買わせてほしいんだ」
驚いたように向き直る日車は、コーヒーを飲もうとした姿勢のまま、その三白眼を大きく見開いた。そりゃそうか。こんなこと突然言われたら驚くよな。
「は……?」
「俺ね、日車を買いたいなって思ってお金貯めたんよ。だからどうかなーって」
呪術師としての任務は一応給料が出ている。
俺に割り当てられる仕事はまだまだ難しいものじゃないとはいえ、きっと一般的な高校生のバイトと比べたらかなり貰っている方だと思う。
特に物欲が強い方でもないし、気づいたらそこそこお金が貯まっていて、それが100万円に届きそうになったあたりで、はたと気付いた。
『多分このままだと、俺はこのお金を使いきれないまま死ぬだろう』と。
だから、死刑になってしまう前に、本当に欲しいもののために一世一代のお金の使い方をしようと思ったんだ。
それが、『大好きな日車の1ヶ月を買う』こと。
どうせこの片思いは実ることがないだろうから、いっそお金で好きな人の時間だけでも買いたい。
決心してからは大好きなパチンコもやめて貯金して、あっという間に100万円とちょっとを貯められた。だからあとは日車がそれを承諾してくれるかどうかなんだけど……。
濡羽色の三白眼がじいっと観察するように俺を見ている。
どうか断らないで、と内心で祈りながら、でも表情では何てことないみたいに、ニコニコと見つめ返した。
「具体的に……俺を買ってどうするつもりだ?」
「それは秘密!」
悪戯をする前みたいにくふふと笑うと、いよいよ胡散臭そうに目を細められてしまった。
その顔が好きで可愛くて、笑いがなかなか収まらない。それでも真面目に取り合おうとして憮然としたように俺を見やる日車に、ねぇ、と笑いながら畳みかけた。
「頼むから日車の1ヶ月買わせてよ」
悪いようにはしないからさ!
手を合わせて上目遣いで頼み込んでみると、何か考え込むような沈黙が落ちる。
基本的に日車は他人には(思いあがりでなければ、特に俺には)少し甘い……というか、人が良い。それに、そこそこ気に入ってくれている(はず)の人のお願いを無下にしない。
降参するような長い溜息のあと、小さく唇を歪めるようにして苦笑が零れた。お、これはもしかしていける?
「……仕方ないな。特別に学割で買わせてやろう」
「やった! ありがと日車! 大好き!」
提示された金額はたったの数万円で、もっと払うと言ったけど「学割が適応されているからな」の一点張りで、それ以上の値上げ交渉はできなかった。
そういうところが日車らしくて、なんだかもどかしい。一生に一度の買い物なんだから、全財産を払うつもりでいたのに。
◇◇◇◇◇◇◇
そんな会話をした翌週、早速仕事が早く終わりそうだという連絡があったから、日車と会う約束をした。
基本的に日車との1ヶ月の契約はこうだ。
『毎日最低1回は連絡を取り合う。俺が会いたくて、もし日車の都合が合うなら会ってほしい』
「弁護士に依頼する内容か?」と不思議そうに言っていたけど律儀に守ってくれて、日車から毎日さり気なく連絡が来ていた。今日はたまたま早く帰れそうだというから、早速会うことにしたというわけ。
「買われたからな」という理由でわざわざ高専の近くまで来てくれた日車と向かったのは、夜のコンビニだ。
「日車とコンビニって似合わないな~」
「そうでもないだろう。普通に買い物するぞ」
煌々と照らす蛍光灯の下できゃっきゃとはしゃぐのが、何だか無性に楽しい。
今日は暑い日だったからジャケットは腕にかけられて、白いシャツは七分にまくっている。そのさり気ない日常の姿が嬉しくて、わけもなく笑ってしまう。
そのままアイスコーナーに移動して、鼻歌まじりにアイスを選ぶ俺を、どこか居心地悪そうに日車がついてくる。
「おい……今日の予定は?」
「んー? まだ秘密」
立てた人差し指を唇につけて笑うと、一際胡散臭そうに、けれどどこか楽しむように口をへの字に曲げてしまう。
それを気にせずお目当てのものを見つけて、レジで会計を済ませた。日車がお財布を出してくれたけど、「このくらい出すよ」と笑った。
それを持って向かったのは夜の公園。二人でベンチに座って、虫の集まる街灯の下でぽきんと半分に割ったパピコを日車に差し出した。
「はい、日車。食べよ」
「……」
黙って受け取った日車と、暫く無言でアイスを食べる。日車と半分こするからチョココーヒー味にしたけど、ひどく甘くておいしい。
昼間熱された地面はまだ熱くて、でも2人の間をそよそよと通り抜ける風は少し涼しい。夏の匂いのなかに、少し早い秋の香りがするみたいだった。
誰も乗ってないブランコが小さく揺れるのを何となく2人で眺めた。
「うまいねー」
「ああ」
どこか納得いかなそうに、でも大人しく横でアイスを食べてる日車が嬉しくて楽しい。
「今日の予定、これだけなんだ」
「……」
無言で俺を見つめる視線の中に、呆れとも驚きともつかない感情がありありと見て取れる。
でも、結局またアイスを一口吸い込んでから、静かに「そうか」としか言わなかった。
そういうところが、やっぱり日車だよなぁ。人が良いっていうか、本当に甘やかしてもらってる。
嬉しくて笑った俺を見て、日車もちょっとだけ笑ったようだった。
次の機会は、任務の終了後だった。
一緒の任務の後に急ぎの予定はないと言っていたから、歩いて帰ろうと誘えば「今日の予定はそれだけか?」とまた呆れたように笑ってくれた。
今日の任務は住宅街から少し外れた場所にある廃病院で、少し歩けば古い街並みを残す商店街に出た。漂うのはどこか懐かしい匂い。
夕飯前だからか自転車や徒歩で夕方の買い物をする人が多くて、ほとんど車は通らない。生活の匂いが色濃い場所を2人並んで歩く。
その中でも一際古びて、味わい深い看板と暖簾の下がった中華屋を見て、「あ」とおもむろに思い出す。今は準備中の札がかかっているけど、ここは前に任務で通りかかったことがあって、伏黒と釘崎と食べに行ったお店だ。
「あそこの中華屋すげー美味かったよ。今度一緒に行こう」
「ああ」
「なんか最近町中華がすげー話題になってるよね」
「そうなのか?」
「めっちゃ動画多いよ。それ見てっとすげー腹減ってくる」
はしゃいで動画の内容を話す俺を、日車は静かに相槌をうちながら、ただじっと見ていた。
一見すると反応が薄いようにも見えるけど、俺はちゃんと気付いてる。
日車の歩くペースがいつもより遅くて、ずっとさり気なく車道側を歩いてくれてる。
俺が買った時間だけど、日車も少しは楽しいって思ってくれてたらいいのにな。
日車の方ばかり見て歩いていたから、前を見るのが疎かになっていた。
フラフラと自転車を漕いでいるお爺ちゃんが正面に迫っていることに直前まで気付けなくて、やべ、と慌てて避けようとした。
が、それよりも少し早く、思いのほか強い力で肩を抱くように引き寄せられる。
「危ないぞ」
「あ……うん、ごめん」
肩を抱く節くれだつ大きな手と、引き寄せられた胸元に輝く向日葵のバッジ。それを交互に見てから、耳元で聴こえた声に遅れて顔が熱くなる。
自転車が通り過ぎたことを確認して、すぐにぱっと離れた手が少し寂しい。
「……どこかで、食べて帰るか」
なぜかボソボソと告げた日車は少し顔を背けているけど、その耳が赤いのは気のせいだろうか。夕日に照らされているせいで、それは確認しようが無かったけれど。
赤い顔を見られたくなくて、俺も少しだけそっぽを向いてから「うん」と小さく返事をした。
日車を買ってから、もう2週間が経とうとしていた。
また次の機会は、俺の任務が終わった時間と、偶然外に出ていた日車の時間が偶然被った日のことだった。
1時間だけお茶しようと立ち寄ったカフェの入口で、うーんと唸る。
店頭にでかでかと飾ってある広告には、お芋と栗の季節の飲み物が書いてある。どっちもすごく捨てがたい。お芋にするべきか、栗にするべきか、それが問題だ。
「う~ん……どっちも良いなぁ……どうしよう」
うんうん悩む俺を横目で見て、日車はポケットに手を入れたまま小さく笑う。
「俺が片方注文すれば済むんじゃないのか?」
「えっ! いいの!?」
あまりにも魅力的過ぎる提案に弾かれたように顔を上げると、柔らかくほどける三白眼が俺を見下ろしていた。
文字通り甘やかすようなその目線がやけに嬉しくて、でも照れてしまって、ぱっと再び広告に向き直ってしまう。
「日車はお芋と栗、どっち好き?」
「どっちも好きだから、君が選ぶといい」
「そう? じゃあ俺お芋で、日車は栗な」
決めてからようやく入店して、向かい合う1人掛けのソファ席に座った。
お芋のホイップとシロップ、それにラテという組み合わせは斬新だけどすごく美味しい。ほっこりしてうまうまだ。
「なんかマジでお芋って感じ! めっちゃうまい!」
はしゃぐ俺を見ながら小さくほころぶように笑う日車も、一口だけモンブランのようなそれを飲んで頷いている。いつもコーヒーばかり飲んでいる日車の手に甘いドリンクがあるのが、酷く不釣り合いで可愛い。
そして、今更はたと気付く。
日車が提案してくれた通りにこのまま分け合うなら、同じストローで飲むことになるんじゃ……?
つまり、その、間接キスになってしまうわけで。
日車から提案してきたってことは、俺と分け合うのは嫌じゃないってこと? それともストローもう1本もらってきた方がいいのかな……?
しばらく悩んだけど、ええいままよ、と思い切って何でもない風に声をかけた。
「ね、そっちも一口ちょーだい」
笑ったまま言った俺に、日車もその意味に気付いたように一瞬ぽかんとしたあと、ストローと俺の顔を見比べている。
なんか俺達って変なところ抜けてる、と笑いを噛み殺して反応を待っていると、日車の持つそれがおずおずと差し出された。
カップを受け取ろうか一瞬迷ってから、目の前に差し出されたストローに、思い切って口をつける。
とろけるようなモンブランクリームとラテが混じり合ってひどく甘い……
はずなのに、味よりも間接キスしてることばかり気になってしまう。
ストローを咥えたまま、ちら、と上目遣いで日車を見ると、心なしか赤い顔でパッと視線が逸らされて、うろうろと忙しなく泳ぐ。
カップについた水滴が日車の指を伝って流れていくのを目で追っていると、その向こうで日車の喉が唾を飲み込んで上下する動きが見えた。
「うん、美味い。栗もいいね! 俺のも一口飲んでみる?」
照れているのに平気ぶって、同じように「はい」とストローを差し出す。
日車はたじろいだように視線を泳がせて何か言いかけて、やめて、迷いながらもおずおずとストローに口をつけた。
少しこっちに近づいて伏せた目が何となく色気があって、見ていたいのに直視できない。これは、想像以上に恥ずかしい……。
「どう? 美味いっしょ?」
「……ああ」
低く短く言って、すいと視線を逸らした。その耳も目元も少し赤いけど、きっと俺も同じくらい赤いんだろうな。見なくても分かるくらい熱いから、きっとそうだ。
胸からせり上がるくすぐったい気持ちのままにえへへと笑うと、ラテよりもドロドロに甘ったるい声だった。
「間接チューじゃん! 日車のえっちー!」
「……好きに言ってろ」
きゃー、とわざとらしくはしゃいで見せると、笑おうとして失敗したみたいなムズムズした顔で日車が顔を逸らして、それも何だかおかしい。胸が甘くて痛い。
土曜日のお店は家族連れがたくさん居て、今も俺と日車の間を小さい子どもが不器用な走り方で駆け抜けていった。その後ろから、母親と思しき女の人が慌てて追いかけて捕まえている。
それを何となく眺めてから、自然と日車と顔を見合わせて小さく笑った。
「たまには1日会いたい」とお願いした俺に、日車は土曜日の予定を丸ごと開けてくれて、今日は少し郊外にある大型の家具屋に来ている。
日車が前に部屋に敷くラグを買いたいと言ってたことを思い出して、じゃあここにしようと決めた。
……いつもと違ってラフな私服姿の日車は新鮮で、何だかそれだけでドキドキしてるのは秘密だ。
「……しかし、良かったのか? 買われた俺が君の都合に合わせるべきだろう」
君が俺に合わせてどうするんだ。
どこか居心地悪そうに言うから、思わず笑ってしまう。そんなの気にすることないのに。
「気にせんでよ。日車と一緒ならどこだって楽しいし、一緒に居たかっただけからさ」
言った俺を見て少し目を見開いた後、口元を手で押さえて、ふいと顔ごと視線が逸らされてしまった。
どしたん? と問いかけると「いや」と何やらモゴモゴしたあとに、小さく息を吐いてから続けた。
「君のそれは無意識なのか?」
「ん? ”それ”って?」
「……いや、なんでもない」
何か諦めたように首を振る日車は、どこか照れた風だった。
照れるようなこと言ったっけ。と思いつつ、なんでもないならまぁいいかとフロアに目を向ける。
ずらっと並ぶ食器類のコーナーを見て、ふと気になるものを見つけてしまった。
真っ黒なマグにジト目の猫が描かれていて、不機嫌そうなのに愛嬌のある顔は、思わず笑ってしまうくらい日車に似ている。
「このマグ、なんか日車っぽくね?」
「そうか? なら君はこれだな」
日車が指さすのは、同じシリーズの虎のマグだ。元気なオレンジ色で、ぱっちりした目の虎が気の抜けた顔で口を開けている。
「うはは、 すげー可愛い!」
なんかいいな。2人で暮らしたら、こんな風に買い物するんかな……と妄想しかけて、そんなこと起こり得ないと慌ててかき消した。
あくまで今は日車の時間を買ってるだけなんだ。でも、だからこそ今だけは楽しまなくちゃな。
そのまま何となくブラブラ移動して、一部屋をまるごとコーディネートした区画に入る。どれもすごくオシャレで面白い。
白とグレーで構成された落ち着いた部屋が日車っぽくて、何となく入り込んでソファに座ってみると、日車も無言で隣に座ってくれた。
高い本棚に、細いアイアンの脚になってるテーブル。見回せば見回すほど日車っぽくて、2人でこうしていると、日車の部屋にいるみたいだ。
「日車ってこういう部屋似合いそ~」
「……雰囲気は好みだ」
「あ、じゃあ休日はこうやって足組んで本とか読んでたりする?」
「よく分かったな」
足を組んで本を持つフリをしながら、日車っぽい表情を意識して唇の端を引き上げる。
俺の精一杯の日車の真似を見ると、「それは俺の真似のつもりか?」と呆れたように笑われた。
珍しく歯を見せて笑う姿は、いつもより少し幼く見える。その油断した表情が嬉しくて、胸がキュンと鳴く。
2人がけのソファで触れ合う肩を少しだけ意識しながら、耐えきれなくて俺も笑い返す。
終わりが来るのが分かっていても、やっぱり今日という日を買って良かったと、心から思った。
幸せの終わりまで、あと1週間とちょっと。
その日の夜は、妙に寂しかった。
別に何があったわけじゃない。
ただちょっとだけ、いつもより体力を使う任務があったりとか、それなのに朝から土砂降りの雨で何となく身体が重かったりとか、秋っぽい涼しい風に夏の終わりを感じたりとか……
あと1週間しか日車と自由に会えないのに、全然会う約束が出来ないなとか。そんなことが重なって、少しだけ寂しかった。
今日の昼間に日車から連絡はあったけど、『今大きな案件を抱えていて、もう少しで終わりそうだ』というものだった。
俺には想像もできないけど、きっと彼の仕事は責任の重いものだと思う。
いくら時間を買ったとはいえ無理をしてほしいわけじゃないから、物わかりの良いフリをして『無理すんなよ』と送ってしまった。
本当は寂しくて堪らなかったのに。
ベッドに横になったまま、夜になってようやく晴れた空を見て、ほうと1つ溜息を吐いた。
いつもなら楽しく観られる動画もテレビも、何となく今日は気が向かない。じっと重苦しい寂しさに耐えていると、スマホが軽い音を立てる。
まさかと思いながらスマホを取ると、そのまさかだ。
『もう寝たか?』
短いメッセージが日車らしい。思わず小さく笑みが零れた。
『まだ起きてるよ』
『今電話できるか?』
すぐに返ってきたメッセージに、一瞬だけ躊躇う。
だって、今はいつもみたいに元気な状態じゃない。元気なフリすらできないかも。でも、声が聴きたい。嬉しいけど、どうしよう。
返信を躊躇っていると、スマホが細かく震え始めた。画面には日車寛見の文字。着信だ。
驚きのせいで落としそうになってしまいながら、腹筋だけで起き上がる。どうしよう、どうしよう、でもやっぱり声が聴きたい。
1つ息を吸ってから、応答にスライドした。
「も、もしもし?」
『ああ。すまないな、突然』
「ううん、全然いいよ……どしたん?」
『いや、特に何もなかったんだが、最近時間が取れていないだろう?』
「忙しいんだし無理せんでいいよ」
『無理はしていないさ』
そこからぽつぽつと近況を聞いた。
最近は何時まで仕事してるとか、知り合いの手伝いも頼まれているとか、次の呪術師としての任務はいつになりそうとか。
窓辺に頬杖をついて静かに聞きながら、ただ話を聞いてるだけの時間にすごく満たされていることに気が付いた。今日の寂しさがゆっくりと去っていくみたいだ。
日車の話が途切れたタイミングで、何となく空を見上げると、切り抜いたみたいにぽっかりと月が浮かんでいた。
秋を感じる涼しい風の中で佇む姿は、満月には少し足りない。
「ねぇ、部屋から月見える?」
『ん、ちょっと待て……』
ごそごそと音がして、がらりと窓を開ける音がする。ベランダに出たんだろうか、風の音が聴こえた。
「満月にはちょっと足りないんかな。でも綺麗だね」
『そうだな』
「同じ月、見てるね」
『ああ』
耳元で響く低い声に集中したくて、何となく目を閉じてみる。浮かんでくるのは、ほころんだみたいに小さく笑う姿。俺に残された時間は、あと1週間なんだなあとしみじみ思う。
「そろそろ、今月も終わっちゃうね」
『……そうだな』
「ふふ、何かあっという間だったよ』
楽しかったなあ。
言葉にすると、それはストンと胸に落ちてくる。そうだ、楽しくて楽しくて仕方なかった。
夜に溶けるみたいに曖昧に呟いた声を眠いと思ったのか、日車が小さく笑う気配がする。
『君ももう寝るのか?』
「……うん、そうすっかな。電話有難う、嬉しかったよ。……おやすみ、日車。」
『おやすみ、虎杖』
おやすみを言い合った夜が、こんなに甘くて溶けそうなものだなんて知らなかった。
満足げに通話履歴を見たあと、窓を閉めて布団に潜りこむ。1人で感じていた寂しさはもうどこにもいない。
結局その電話を最後に、日車とは会えなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
このまま会えないまま終わるのかと思ったけど、1ヶ月の最終日に日車から連絡があった。
どうしても直接会いたいから時間を作って欲しいと言われて、特に予定もなかったから、最初にパピコを食べた公園で待ち合わせをすることになった。
これで最後かと思いながら歩く道のりは、何だか寂しくて重い。
でも、最後の最後に会えて良かった。時間を作ってくれて嬉しい。そこだけは本当にそう思えた。
それだけで十分だろう。そう、きっとそうなんだ。
公園に着くと、もう日車はベンチで待っていた。
あの日、一緒にパピコを食べたベンチ。日車はすごく戸惑ってたなと思い出して、小さく笑みが浮かぶ。
俺に気付いた日車が軽く頷いて座るように促すから、お待たせと声を掛けてから横に座る。
あの日と同じ、静かな夜。あの日は始まりで、今日は終わり。
何となく言葉を探すみたいにお互い黙り込んでしまったけど、んん、と一度咳払いしてから、無理やり明るい声を出した。
「1ヶ月、有難うな。すっげー楽しかった」
別にこれで会えなくなるわけじゃなくて、前みたいなちょっと仲の良い同僚に戻るだけだから、寂しくない。そう言い聞かせる。
笑いかけても、日車は何か考え込むようにじいっと俺を見つめるばかりで何も言わない。いつもみたいに笑ってほしいのにな。
すっかり涼しくなった風が、二人の間をすり抜けていく。
「これお金な。ちゃんとあるか確認して」
ポケットに入れていた封筒を差し出した。1ヶ月分の楽しみには全然釣り合わない、たったの数万円。俺と日車を繋いでいたもの。
何だかそう思うと虚しくなって早く受け取って欲しいのに、日車はじっとしたまま動かない。
その目線が封筒と俺の瞳を交互に見て逡巡したあと、ようやく口を開いた。
「…………君に1つ相談がある」
「え?……な、なに?」
夜の中でもなお黒い瞳が、戸惑う俺をひたと見据えている。
無意識に緊張してぱたぱたと瞬きしていると、おもむろに大きな手が伸びてきて、差し出した封筒をそっと俺に押し返した。
「君を1ヶ月、買いたいんだ。なに、割引は必要ない。言い値で買おう」
封筒を押し返す手が、包み込むように俺の手に重なる。
少しかさついた感触と、その言葉が信じられない。ただただ目を丸くする俺に、日車はいつもより少しぎこちなく笑った。
「これはその前金として受け取ってほしい」
濡羽色の瞳の中に、確かに乞うような色を見た。そう、ちょうど1ヶ月前に、俺が頼み込んだときみたいな、懇願にも似たもの。
胸から湧き上がる疑問と、混乱と、それを上回る期待ときらめきで、心臓が張り裂けそうだ。
緊張で喉が渇く。ドキドキを抑え込みながら、そっと日車を見つめ返す。
「…………具体的に、俺買ってどうすんの?」
「それは秘密だ。しかし……」
一度言葉を切った日車は、未だに封筒を持つ俺の手にそっと両手を重ねた。思わずふるりと震えた手は、何か伝えるように必死な力で握りしめられる。
夜の帳のなかで、すっかり満ちた月が冴え冴えと輝いている。
まるであつらえたみたいに頭上に浮かぶそれと一緒に、色んな感情に耐えるみたいに日車が眉を歪める様子が見えた。
どこか苦し気に、溢れるものを無理やり抑え込むように。
「1ヶ月後、もし俺のことを受け入れてくれるなら……君の恋人にしてくれないか」
悪いようにはしない。
低く掠れた声で言われた言葉に、呼吸も、時間も止まる。
俺が、本当は言いたくて言えなくて、言わなかった言葉。
視界がぐにゃりと歪んで、でも日車が心臓まで貫くような熱さで俺を見つめているのは分かった。
「……ずっと好きだった。俺には、1ヶ月では足りない」
焦がれる声は少しだけ震えている。それがこの上なく好きで、切なくて、胸がぎゅうぎゅう痛い。言葉もないほど嬉しいのに、こんなに切ないのはどうしてだろう。
喉の奥の熱さを吐き出すように、一度肩で大きく息を吸って、吐いて。震える唇を笑みの形にした。
笑った拍子にぽつんと涙が一つ零れて、日車の手の甲に落ちる。
「……恋人になるの、1ヶ月待たなきゃダメ?」
自分のものと思えないほど掠れて、震えた小さな声だった。
でも、確かに日車に届いたんだろう。酷く驚いたように目を見開いて、言葉を失って俺を見つめる。
握りしめた手の温もり。熱を分け合うような視線。そのぜんぶが好きすぎて苦しい。
満ちた月が優しく光を注いでいる。
大好きなほころぶように笑う日車がそっと顔を近づけて、その光から俺を隠してしまった。