私は悪い子
ひぐるまさんに片想いしてるけど望みがないので他の男に代わりになってもらってる虎→日の話です。
モブはゆうじくんに対して恋愛感情はありませんが、名前有+ゆうじくんとの距離近いので苦手な方はご注意ください。
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その日の呪術高専一帯は、雨が降っていた。
高専の本校舎からだいぶ離れた、端の方に位置する櫓門の下で、悠仁は1人、雨宿りをしていた。
「ちょっと遠くまで来すぎたな」
悠仁は手に持っていたスマホの画面を見た。天気予報には降水確率90%が、3時間先まで続いていた。
屋根の外を見ると、雨は白い糸のように落ち続けていた。
近くに咲いていた、赤と青の紫陽花が、雨に打たれて何度も頷くように揺れている。紫陽花特有の青い匂いが、悠仁が立っている場所まで漂ってきていた。
「ぜーんぜん止む気配ねーなぁ……」悠仁は空を見上げながら独りごちた。
上を向いて、ぼーっとしていると、手元のスマホが振動した。
確認すると、メッセージアプリに新着のメッセージが届いていた。
悠仁は周りに誰もいないことを確認して、スマホの画面を隠すように、顔から10センチほどの距離まで寄せる。
通知をタップし、メッセージの内容を確認して、すぐに文字を打ち込んだ。数秒ほどで返信を書くと、メッセージの送信ボタンをタップしようとした。
画面に親指が触れる直前、悠仁の背後から、聞き慣れた低音が聞こえた。
「虎杖?」
悠仁は咄嗟に、スマホをポケットに突っ込んだ。
振り返ると、目の前には、黒い傘を差した日車が門の中に入ってくるところだった。
「ひ、日車? こんなとこで何してんの?」
悠仁は無意識に口元が引き攣るのを感じた。
「任務から帰ったから、報告に行こうかと思っていたところだ。君こそ」日車は一度言葉を区切って、辺りを見回した。「なぜ、こんな校舎のはずれに?」
悠仁は、まばたきを何度もしながら、斜め上を見た。
「えーっとォ、ちょっとランニングしてたら雨っが降ってきちゃってぇ……雨宿りしてたんだよなー」
悠仁の態度はあからさまに挙動不審だったが、日車は特段、何も言わなかった。
「そうか」と言って、日車は傘を右手から左手に持ち替えて、体を片側に寄せた。「傘がないなら、入っていくか」そう言って、悠仁を見た。
「えっ!? マジ? いいの!?」
悠仁は顔を輝かせて日車の傘の中に入った。
ふわりと、日車の香りがした。アンバーウッドとバニラを混ぜたような、少し重いが、コーヒーのようなすっきりさもある、大人の匂いだった。それが、雨の匂いと混ざって、傘の下に広がっていた。
悠仁はその匂いに反応して、体がざわり、と痺れるような感覚がしたが、何とか気にしないよう、日車に鼻を向けた。
「傘持とうか?」
悠仁は右手を差し出したが、日車は空いてる方の手を軽く上げた。
「俺の方が背が高い」
「あんま変わんないじゃん!」
悠仁は口を尖らせてブスッとした表情をした。
日車はその顔を見て右手の拳を口に当て、口元を隠しながら笑った。
「まあ、大した距離じゃないからいい。男2人では狭いが、濡れても文句言うなよ」
「入れてもらっといて文句言わないっつーの」
そう言いながら、2人は門から出て、寮のある方角に向かった。
悠仁は日車が前を向いていることを確認して、ポケットからスマホをそっと取り出した。そして、日車に見られないように、メッセージの送信ボタンを押した。
メッセージ画面には、先ほどまでの短いやり取りが表示されていた。
『お疲れ。明日11時に駅の北口集合でよろしく』
『明日、11時了解です。会えるのを楽しみにしてます』
『俺も楽しみ』
悠仁はメッセージが送信完了になったことを確認すると、スマホをポケットにしまい、素知らぬ顔で前を向いた。
時は1ヶ月ほど前に遡る。
悠仁はパーカーに七分丈のパンツというラフな格好で、部屋のベッドに仰向けになって、SNSのショート動画を見ていた。両手でスマホを掲げながら、動画を上に上にとスワイプしていく。
そんな中、とあるショート動画が目に止まった。
オネエ言葉を使うゲイバーの店主が、悩める若者へアドバイスを送っているものだった。言い方に偉そうな感じはなく、毒気も入ったユーモアな言葉遣いで、クスリ、と笑うと同時に元気が出た。動画の最後には、お店の宣伝も行っていた。
「昼からも健全に営業中! 立川駅から徒歩10分! 初見さんも大歓迎よーん」そう言うと、ショートは終わり、次のショートが流れ始めた。
悠仁はスマホを胸に下ろして、ぼんやりと天井を見つめた。
突然であるが、虎杖 悠仁は日車 寛見が好きである。恋愛的に、好きである。
きっかけというものは、あまり覚えていない。
恐らく、宿儺戦後、ギブスを巻いて、生き残ってしまった、とポツリと言った姿に、なんだかほっとけない、と思って、何かあるごとに絡みに行ったところからだった。
日車は無愛想ではなかったが愛想が良いわけでもなく、悠仁が「何かしよう」と言えば、毎回「ああ」と言って参加してきたが、自分から何か提案してくるのは稀であった。その提案も、実際は悠仁が気になると言ったことに対して、「じゃあやってみるか」というくらいの積極性であった。
それでも悠仁はなぜか日車を好きになってしまったのである。気にかけていた相手に、気にかけて欲しいと思うようになってしまった、例えるなら、ミイラ取りがミイラになる、だろうか。いや、この表現は違うか。
悠仁はいやいや、と頭を振った。
その一方で、悠仁は今までに人を恋愛的に好きになったことがなかったので、自分の恋愛対象は男性だったのか、いまいち認知できずにいた。
日車のそばにいるとドキドキするし、嬉しい。けれどそれが、日車が特別なのか、大人の男性に父性を超えた何かを求めているからなのか、その辺りはよくわからなかった。
悠仁は胸元のスマホに視線を戻した。
乗換案内アプリを立ち上げてみる。今から出れば、昼すぎには立川に着けそうだった。
「……行ってみっか」
善は急げ、と言わんばかりに、悠仁はベッドから起き上がって、店の場所をマップで検索し始めた。床に投げてあったボディーバックを拾い上げると、靴を履いて、すぐに外へ出たのだった。
結論から言うと、ゲイバーというものは、悠仁にとって、そんなにしっくりくるような場所ではなかった。
SNSで紹介しているだけあって、お客さんはノリの良い人が多く、悠仁は周りの空気にすぐに適応できたし、店主も動画で見た時と同じくらい、優しくて面白い人だった。しかし、自分が疑問に思っていた、「自分は男が好きなのか?」という問いに関しては、店で過ごしてみても、わからなかった。
悠仁は頼んでいたコーラを飲み終わると、直ぐに店を出た。
雑居ビルの階段を登って地上に上がると、先ほどまでは降っていなかったはずの雨が降っていた。
「げ」
悠仁はゲンナリとした表情で空を見た。
分厚い、黒に近い灰色の雲が空を覆い、雨は止みそうになかった。水たまりに落ちる雨は、パシャパシャと音を立てて、勢いよく跳ね返っていた。
駅まで徒歩10分。服がぐっしょりと濡れるには十分な時間である。
悠仁は覚悟を決めたようにため息をつくと、パーカーのフードをしっかりと被った。陸上のスタートポジションを取るように、体をまげ、足に力を入れていく。
「あれ、君、傘ないの?」
悠仁の後ろから声がした。振り返ってみると、30代後半くらいの、黒いスーツを着た男が、黒い傘を持って立っていた。
「あ、うん。忘れっちゃって」
悠仁は一度フードを脱いでその男と向き合った。そして、男と顔を合わせた瞬間、体をびくりとさせた。
先ほど店にいた時には存在に気づかなかったが、その男は、ゆるいオールバックで、鷲鼻の男性だった。
悠仁はほんの一瞬、日車がそこに立っているのではないかと錯覚し、心拍が上がるのを感じた。
日車と違うところがあるとすれば、その男は、目元だけは、少し垂れて、穏やかで優しい印象を与えているところだった。
突然黙り込んだ悠仁に、男は首を傾げながらも、「よかったら入ってくかい?」と言って、傘を開いた。
「ありがとーございます……えーと」
「ハマダ」男は自分のことを指差しながらそう言った。
「ハマダさん。俺、ゆーじ」
2人は駅の方へ歩きはじめた。
「ゆうじ君か、ああいう場所は初めて?」
「うん。なんか、俺、男が好きなんかなと思って行ってみたんだけど、よくわかんなかったわ」
悠仁の言葉に、ハマダはプハッと吹き出して腹を抑えながら笑った。
「そらあ、女性が好きだからって目に入る女性全員を好きになるわけじゃないんだから。そういう場所に行ってもしっくりこないのは、しょうがないのかもね。今回はご縁がなかったということで」
ハマダはひとしきり笑うと、目尻に溜まった涙を拭った。
悠仁はなんだか恥ずかしくなって、話題を変えた。
「ハマダさんはスーツ着てっけど、仕事だったん?」
「そう。土曜だから午前で上がったけど。ゆうじ君は……大学? は休み?」
ハマダは悠仁の顔を見て、大学生と判断したらしかった。確かに、バーと名前がつくものの、昼に行ったし、アルコールを頼んでなかったので、年齢確認もなかったことを思い出す。
「うん。土曜は授業ない」少しの罪悪感を感じながらも、悠仁はそう言った。「ハマダさんは、ああいう場所、慣れてんの?」悠仁はなんとなく目線を道にやって質問した。
「うーん、通っている年月は長い、のかなあ。相手を探す時に行ってる感じだね」
「じゃあ今、相手いないんだ」
「まあ、そうなるね」
悠仁は改めて隣にいる男をまじまじと見た。
目だけは少し違うが、なんだか日車と雰囲気が似ていた。身長や体格だけでなく、仕事ができそうな感じも、見守ってくれるような温かな感じも、そういうところも似ていた。何よりも、この男からは、日車と同じ匂いがした。
ハマダは先ほど、悠仁にとってはご縁がなかった、と言ったが、日車と似たような雰囲気を持つ彼に今日出会えたことは、ある意味ご縁なのかもしれない。悠仁は決意したように頷いて、ハマダに顔を向けた。
「ハマダさん、変なこと聞くけど、俺って、アンタの “付き合う対象” に入る?」
ハマダは立ち止まって、目をこれでもかというほど開き、面食らった顔をした。
「ええと……君は、大学生だよね、というとじゅう……」
「21だけど」
悠仁は咄嗟に嘘をついた。
「21……だとしても一回り以上年齢差があるよね。君のように若い人は私のようなおじさんではなくて、もっと年齢の近い人と……」
「俺、20歳上の人が好きなんだ」悠仁はまっすぐに相手の目を見た。「だけどその人は、男が恋愛対象じゃないし、俺がその人のこと、好きだってことも知らない」
悠仁は右手で左手を、骨が軋むほどの強さで握った。
「だから、もしよければ、試しに俺と、付き合ってみてほしいんだけど」
ものすごく失礼なことを言ったのに、ハマダは真面目そうに考える仕草をした。
「そうかぁ」
「ダメかな」悠仁は縋るようにハマダを見た。
「うーん……まあ、付き合う云々は置いておいて。そうだね、友達くらいなら」
「ほ……本当に?」
悠仁はバッと顔を上げた。
「まあ、別に今、相手いないしねぇ」そう言って、ハマダは再び歩き始めた。
駅に着くと夕方の時間帯だったので、いつも多い人が、さらに多くなっていた。
悠仁は改札の横にはけて、ハマダと連絡先を交換した。
「私は基本土日休みだから。たまに対応入るけど。その時はごめんね」
「おお、デキる社会人って感じ」
「君も数年後にはそうなるんだよ」
その一言に悠仁は罪悪感を感じた。その気持ちを振り払うかのように、悠仁は元気よく手をあげて、「じゃ、また!」と挨拶をして、改札に入った。
それから、週に1回程度、悠仁はハマダと会うようになっていた。会うと言っても、街を散歩したり、映画を見たり、ウィンドウショッピングをしたりする、仲の良い友達のような付き合いでもあった。
少し違うのは、たまに人気のないところで、手を繋いでみたり、ハグをしてみたりするところだった。
自分を包み込む腕の感覚と、日車に似た匂いがふわりと鼻をくすぐるたびに、悠仁は多幸感と罪悪感の狭間で酔って、えも言われぬ恍惚感を覚えていた。
そしてその度に、自分は日車が好きなのだと、実感するのだった。
「虎杖?」
悠仁がハッと顔を上げると、日車がポカンとした顔で悠仁を見ていた。
「あ、ごめん、ぼーっとしてた」
悠仁は顔を逸らして、首の後ろを掻いた。
「忙しいのか」
「いや、そんなでもないけど」悠仁は曖昧に返事をした。
日車は進路を変えて、葉が茂っている大きな木の下の、雨が遮られている場所に移動した。傘を一度下ろして、開いたまま横に置いた。
悠仁はその様をただ見ていた。
日車は悠仁の前に立って、悠仁の顔に手を添えた。日車の親指が、悠仁の瞼の下をなぞった。
「疲れた顔をしている」日車は観察した様をそのまま声に出した。
悠仁は目を細めて、「そーかな」と返事をした。
日車の指が頬を撫でるたび、頭がゾクゾクして、足が震えそうだった。顔に熱が集まる気がして、なんとかその熱を分散させようと、目を閉じて関係ないことを考えるようにした。先日の任務のこと、釘崎と伏黒の顔、野良猫が腹を出して寝ていて可愛かったこと、それを日車と見て笑ったこと……。一生懸命考えたが、雨の湿った匂いと、日車の匂いがだんだん思考を侵略してきて、結局、諦めて目を開けた。
目の前には、相変わらず悠仁の異常をスキャンしようと、じっと悠仁を観察する日車の顔があった。
「……熱があるか?」
日車は悠仁の額に自分の手を当てた。
「心配しすぎだって。俺、人生で風邪ひいたこと、ほぼないよ」
悠仁はやんわりと、額に乗せられていた日車の手首を取った。そのまま体の横に下ろすと、スライドさせた手が日車の手を握った。その手の感覚は、やはり独特のもので、普段任務で戦闘をしているせいか、手の皮は普通の人よりも硬くなっている感じがした。思わず親指で手のひらや人差し指の硬い部分をなぞった。
「くすぐったいんだが」日車は感情があまりこもっていない声で言った。
悠仁はこんな機会は中々ないことはわかっていたので、なんとかこのご褒美タイムもとい、接触時間を伸ばそうと口を開いた。
「日車の手って、案外かてーよな。弁護士だったのに。やっぱガベル握るから?」
そう言って、悠仁は両手で日車の手をぐにぐにといじりはじめた。
日車は困ったようにため息を吐くと、空いている手で悠仁の手を包み込んだ。
「そういう君も、肉弾戦をしているからか、ずいぶん手の皮が厚いだろう。ほぼ打撃だしな」そう言って日車は悠仁の拳たこをするりと撫でた。
「うぉっ!」
その瞬間、悠仁は驚いた猫のように毛を逆立てて、手を思い切り離した。
「くすぐったい! あと何か触り方がエロい!!」悠仁は力の限り叫んだ。
それを聞いて、日車は何を言っているんだ、というような顔をした。
「真似しただけだが」
「俺、そんなエロい触り方してねーし」
悠仁は先ほどまで日車に撫でられていた部分をさすった。
日車は解せぬ、という顔をしていたが、悠仁の顔が沸騰直前のような赤さだったので、思わず目尻を下げた。
「そうか、それは、すまなかったな」日車はそう言って、拳で口元を隠し、肩を揺らした。
「絶対バカにしてんだろ」
「いや、君はまっすぐだと思ってな」
「まっすぐ?」悠仁は片眉を上げた。
「目が」日車は悠仁の顔を見て、「いや、目もそうだが、生き様が真っ直ぐだ」と眩しそうに言った。
「そーかな」
悠仁は少し居心地が悪くなる感じがした。
「ああ」日車は疑わない様子で、力強く頷いた。
悠仁は思わず、日車から視線を逸らした。
死滅回遊以来、日車は悠仁のことを、どうにも神格化している節があった。
まるで、悠仁自体を善の象徴だと思っているようだった。
「俺、日車が思ってるほど、いい奴じゃないと思うけど」悠仁はそう言って、「めっちゃ悪い子かもよ」と続けた。
「本当に悪い奴はそういうことを言わないものだ」
日車は少し笑って、再び傘を持った。
悠仁も無言でその傘の中に入る。横目で日車の様子を伺うと、なぜか日車は、少し上機嫌そうだった。
悠仁は腹の下の部分が、ずんと重くなったのを感じた。日車が真っ直ぐだと信じているはずの人間は、大人を騙して日車の代わりにしてるんだぞ、悠仁は心の中で呟いた。
「日車」
悠仁の呼びかけに、日車は包み込むような声で「なんだ」と言った。
「俺が悪い子になったらさ、ちゃんと叱ってくれよな」
悠仁は空を見上げて、明日のことを考えながら言った。
日車は少しほけた顔をして、その後、ませた子供の発言を聞いた時のように、フ、と小さく笑った。
「ああ、その時になったら責任を持って、全力で叱ってやる」日車の声は、少し楽しみにしているようにすら聞こえた。
2人の目線の先には、高専の寮がすぐそこにまで見えていた。
「……虎杖、明日は暇か」
急に言い出すので、悠仁は目を少し見開いて、日車を見た。
日車の顔からは、何の感情も窺えなかった。
「あー……明日はちょっと用事あるけど。どしたん?」
「いや、なんでもない。俺は報告に行くからここまでだな。次から、走る前は天気予報も確認するといい」
悠仁はどきりとした。
「お、おう。傘入れてくれてサンキューな。おかげで助かったわ」
悠仁がそういうと、日車は片手を上げながら、本部に報告をしに行った。
日車が見えなくなると、悠仁はスマホを取り出して、通知が新たに来ていないかを確認した。
待ち受け画面には、何の通知も表示されていなかった。
悠仁はその場でしゃがんでため息をつく。
「あっぶねー」
まさか、人目を避けてやり取りをしようと行った先で、日車に会うとは思わなかった。
悠仁はまたスマホをポケットにしまって、寮の中へと入っていった。
「で、その後、その好きな人とはどうなったの?」
ハマダはトールサイズの紙コップに入ったブラックコーヒーを啜りながら、世間話をするかのように言った。
悠仁はジトリとした目で、「そういうの聞くのってどーなん?」と言いながら、アイスキャラメルマキアートを手に持った。結露してできた水滴が、指の間を伝う。
2人はショッピングモールにある、某コーヒーチェーンのテラス席で休憩をしていた。
雨の次の日の快晴は、地上の水分が蒸発して、肌に吸い付くような気候だった。そのせいもあってか、テラス席に座る客はまばらだった。
「まあまあ。だって君が好きな人がいるって言ったんだもの。そら気になるよね」ハマダは呑気な声半分、興味半分の声で言った。
悠仁は最初「う……」と言い淀んでいたが、肩に力を入れて、少し項垂れた後、観念したように話始めた。
「いや、なんもない、けど……」
「けど?」
「昨日、雨宿りしてたら、傘に入れてくれて、送ってくれた」
悠仁は昨日のことを思い出して手の甲を頬に当てた。
「おお、やるねぇ」まるで試合のファインプレーを誉めているような反応だった。
「や、でも、やっぱり俺のことは、真っ直ぐ生きてる、いい奴だって信じてるみてーだったわ」
悠仁はテーブルに肘をついて、はあ、とため息をついた。
「行きずりのおじさんとイカガワシイことしてるのにね」
冗談ぽく言われた言葉に、悠仁は最初、ウッ、とした顔をして、持っていたストローを指で潰して折り曲げたが、そうなった経緯について考えた時、だんだん腹が立ってきて、力任せにキャラメルマキアートをガシャガシャとかき混ぜた。
「大体、俺のこと良いように捉えすぎなんだって」悠仁はそこまで言って、肘をついた手に顎を乗せ、「アイツは俺のこと、何か勘違いしてると思う」と言ってキャラメルマキアートを吸った。
「まあ、人というのは、先入観でできているから。一度こうだと決めると、中々変えられないよねぇ」
「そーなんだよ!」
悠仁はビシッと指を差して力強く同意した。
2人はカフェを後にし、駅に向かう途中、企業の倉庫が並ぶ道路を歩いていた。
開けた道路は広かったが、倉庫しかなかったので、人気はなかった。道沿いに、一軒家ほどの倉庫が建っていて、道からは死角になっていた。悠仁は繋いでいた手に力を込めて引っ張り、自然と、その死角に入った。
影になった場所で、そろそろと腕を広げた。「悪い子だ」と聞こえた気がしたが、悠仁は聞こえなかったふりをして、いつも通り、相手の背中に手を回して、胸元に顔を当てると、日車と同じ匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
少し甘いバニラのような匂いと、重いウッドの匂いが脳に届いて目の前がクラクラした。
「やっぱ同じ匂いがする」悠仁はまたたびに酔った猫のように、ふわふわとした気持ちで、「……この匂い、好きだ」と言って頭を擦り付けた。
「そんなに好きなら、告白すればいいのに」
不意に聞こえた声に、悠仁は現実に引き戻されたかのように、白けた顔をした。
「ええ? やだよ俺、あの人に拒否られたら立ち直れないもん」
悠仁はそう言うと、興が冷めたように、はあ、とため息をついて、再び駅まで歩き始めた。
駅の改札で別れる前、渡されたビニール袋の中には、包装された若草色の箱が入っていた。
「美味しいって有名なお菓子らしいよ。もらったんだけど、私、甘いもの食べないから。君のお相手と食べたらいいよ」
悠仁は嬉しくも複雑そうに、「サンキュー。まあ、お相手じゃねーけど」と言って、改札に入り、ホームの階段を降りた。
『まもなく、5番線に、各駅停車、高尾行きがまいります。危ないですから、黄色い点字ブロックまで、お下がりください……』
アナウンスとともに、駅に向かってくる電車が見えた。しかし、その手前に見慣れた男が立っていた。
「あれ、日車だ」
悠仁の声を聞いて、日車が悠仁の方を向いた。
「虎杖」
日車はいつもよりも若干ラフな、襟付きのシャツにスラックスの格好で、手に深緑色のビニールを持っていた。
「日車が外出って珍しいな、買い物来たん?」
「ああ、欲しい本があって」そう言って、日車は深緑のビニールを悠仁に見せた。
「へー、じゃあ同じ場所にいたかもだな」
そうは言いつつも、悠仁は、ハマダと一緒にいたところを日車に見られていなかったことに、心底安堵した。
「実は改札で虎杖を見たんだが」
日車の一言に、悠仁の心臓が跳ねた。
「誰かと一緒にいるようだったから、声をかけなかった」
どうやら日車には、ハマダの顔まで見られていなかったらしい。悠仁は隠れてため息をついた。
ちょうど、電車がホームに入線した。電車が停止するとドアが開き、開いたドアから人が次々と降りてくる。
「やっぱ夕方は混んでんな」
「土曜のだから特にだな」
車内は鮨詰めというほどぎゅうぎゅうではなかったが、他の人との距離がほぼ0になるくらいには混んでいた。
悠仁と日車は運良く車両の端に滑り込み、悠仁は車両間を繋ぐドアを背にして、日車はその前に立った。
電車が発車すると、振動で悠仁の体幹がクラリと揺れた。
「おっ」
倒れかけた悠仁の体を、日車の片手が包むように受け止めた。
「おお、すげー安定感」
悠仁は自分のようながっしりとした体格を、しっかりと受け止められたことに、少し感動した。顔を上げると、すぐ近くに、日車の顔があった。驚いて、少し腰が引いた。
日車は片眉を上げて、何かを考えているようだった。
「気のせいかと思ったが」そう言って日車は悠仁の首元に顔を寄せた。「やはりいつもと違う匂いがする」
電車がトンネルに入って、ゴオオオというこもった音が響いた。
悠仁は耳がキーンとしたが、その理由が電車の音がうるさいからなのか、日車の距離が近いからなのかは、よくわからなかった。
「……友達の香水の匂いが移ったんかな」
悠仁は少し俯いて、まごまごと口を動かした。
「そうなのか」日車は悠仁の首に顔を寄せたまま、上目遣いで言った。
悠仁は顔を横に傾けて、日車の顔を避けた。
「日車はいつもいい匂いするよな。香水? の……」
「そうか? そんなに大量にはつけてないはずだが……」
日車は顔を上げて、自分の手首の内側を鼻に当てた。それから腕を自分の顔に寄せて鼻をスン、と動かした。
「自分だとよくわからないな」
「俺、日車の匂い、好きだ」悠仁は横を向いて俯いたまま、目線を日車にやった。
「……そうか、今度つけてやる」
そう言って、会話は終了した。
電車内で空気がこもっているせいで、日車の匂いがずっと悠仁の鼻を掠めていた。
高専に着くと、悠仁は日車に声をかけた。
「あ、日車。そいえばお土産もらったんだけど。俺の部屋に食べにこん?」
「そういうのは、伏黒や釘崎と食べたほうがいいんじゃないか?」
「アイツらにはまた別のもん渡すから」
「そうか。じゃあ、ご相伴にあずかろうか」
日車は大人しく悠仁の後をついてきた。
悠仁の部屋に着くと、早速ビニールから箱を出した。
若葉色のシンプルな箱を開けると、手のひらの半分ほどの、小判型の最中が10個ほど敷き詰められていた。
「……最中だ!」
「渋いな……」
とりあえず、冷蔵庫からお茶を出して、食べてみることにした。
最中の皮は薄くサクリと割れて、あんこは甘すぎず、くどくもなくてほっこり炊けており、気づいたら次の最中を手に取っていた。
「この最中……ポテチみたいに何個もイケる……!」
悠仁はもぐもぐと口を動かしながら、衝撃を受けていた。
「確かにいくつでもいける」日車も黙々と咀嚼していた。
「これ、どこで買えんだろ」
悠仁はスマホで店の名前を調べた。
すると、銀座にある老舗の和菓子屋が表示された。
どうやらその店は、夏目漱石の「吾輩は猫である」や他の文豪の作品にも登場するくらい、大変有名らしかった。どのレビューを見ても、「予約必須!」や「幻の最中」と書いてある。
「超有名店じゃん!」
悠仁は顔を真っ青にして、最中を見た。
「くっ……! こんなに貴重なものだってわかってたら、もっと大事に食ったのに!!」
叫ぶ悠仁を横目に、日車は中に入っていたお店の案内をまじまじと見て、何か考えているようだった。
悠仁が最中をちびちびと食べ進めていると、ポケットに入っていたスマホが振動した。表示名を見ると、ちょうどハマダからの電話だった。
悠仁は慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと電話出てくる」
「ああ」そう言って、日車は店の案内を机に置いた。
悠仁はリビングを出て、ドアを閉めると、電話に出た。
「もしもし?」
『ああ、ゆうじ君、ごめん。次の約束だけど、急遽当番になっちゃいそうで』
「おう、そーなん? 気にせんでいーよ。お仕事頑張って。あ、てか、あの最中、スゲーいいやつじゃん! 言ってよ!」
『ああ、私、甘いもの食べないから、よく知らなくて』
「う、とにかくサンキュー。うまかった」
『それならよかった。じゃあ、また次回』
「うん、楽しみにしてんね」
悠仁は電話を切ると、リビングに戻った。
「任務の話か?」日車はチラリと悠仁の手元を見た。
「ううん、最中くれた友達。来週、遊ぶ約束してたんだけど、急に仕事入っちゃったんだって」
悠仁は腰を下ろして、座ろうとした。
「仕事?」日車の目がピクリ、と動いて細くなった。
その一言に、悠仁は自分が失言したことに気づいた。
「そう。あっ、お代わりのお茶持ってくんの忘れてたわ」
悠仁は完全に座る前に、再びシュタッと立ち上がって、日車の視線から逃れるようにリビングを出た。
リビングを出て、ドアを閉めると、冷蔵庫の扉にもたれかかって、深いため息をついた。
心音が、耳の横で鳴っているようだった。日車がどういう表情をしていたのか、見ることができなかったし、仮に見ていても、思い出せなかっただろうと思うくらいには緊張をしていた。
悠仁は冷蔵庫を開けて、2Lのお茶を取り出した。ドアの前で一度立ち止まり、何度か呼吸をして息を整え、リビングのドアを開いた。
日車はいつも通りの顔で、お茶を飲んでいた。
悠仁は今度こそ座って、自分のコップにお茶を注ぎ、すぐ口をつけた。
「君の友達は、ここか仙台にしかいないと思っていたが」
悠仁はビクッと揺れて、お茶を一気に飲み込んだ。危うく、お茶が気管に入りそうだった。小さく咳をして、喉の違和感を取り除く。
日車は悠仁の様子を注意深く観察していた。何かボロを出すのを待っている、警察のような目だった。
悠仁は、顔に汗を浮かべながらも、落ち着いて言葉を選んだ。
「俺が何年東京住んでると思ってんの。そら友達の一人もできるて」
「社会人の友人がか」
日車は弁護士モードに入っていた。その鋭い目は、一縷の綻びも許さないというような顔をしていた。
悠仁は死滅回遊の裁判並みに必死で頭を回転させ、言い訳を考えた。死滅回遊、と連想した時に、ある考えが思い浮かぶ。
「……あんま掘り起こしたくないけど。パチ屋にはいーっぱい、オトナがいるんだよ」
悠仁が何でもないような顔をして言うと、日車の顔にサッと影がかかった。
「まさか」
「心配しなくてももう行ってねーよ」悠仁は即座に言った。
日車は納得いかないような顔をしていたが、それ以上何も言ってこなかった。
悠仁は心の中でガッツポーズをとる。何とか危機は去ったようだった。
「……あまり大人を信用しすぎるな」
「ええ?」
「君が思っているより、危険な奴は多い」日車は自分のコップにお茶を注いだ。
「はは、日車って、俺が付き合うやつに面談してきそうだな」
「そんなことはしないが」
「わかんないじゃん。俺が予想外の相手連れてくるかもよ」悠仁はチラリと日車を見た。「例えば、20歳上の男とか」
「からかうな。君はそんなことをする奴じゃないと、わかっている」
日車の言葉に、悠仁はハハ、と笑って、自分の手元を見た。
先ほどまであんなに美味しいと感じていた最中も、なんの味も感じず、ただ迷子になったような気持ちで、どうしようもない違和感が、ぐるぐると体を巡っていた。
その日以来、悠仁は自暴自棄になりかけていた。休みの日だけでなく、平日の夜もハマダに会いに行っていた。彼は何も聞かず、ただ悠仁のわがままに付き合ってくれていた。それが、まだ悠仁の思いを、なんとか保てる理由だった。
あれから、なんとなく、日車から逃げている。野生動物並みの察知能力で、日車を感知すると逃亡していたのである。意味もないその行いに、悠仁の頭はいつも警告を出していたが、自分を止めることは難しかった。
その夜も、悠仁はハマダと夜の街を歩いていた。今までこの街に夜来ることはなかったので気付かなかったが、この街は結構汚い。
「もう帰らないと、終電なくなるんじゃない?」
「いいよ、別に。明日の朝帰ればいいし」
悠仁が電信柱のそばに散らばるゴミを避けながら歩いていると、不意にホテルが目に映った。
「……なぁ、俺、別に付き合わなくてもいいよ。でも、俺でも、そういうことの対象になる?」
悠仁は無感情で、ただ、どよりとした目をして、ハマダを見つめた。
「流石にそれはやりすぎ。自分を大事にしなさい」
「大事にしたって、どうせ意味ないじゃん」
悠仁は手を引いて、一歩踏み出そうとした。
不意に、後ろから伸びてきた手に、腕を掴まれた。驚いて後ろを向くと、そこには日車が、信じられないものを目にしたような顔をして立っていた。
「なんで」
悠仁の言葉は相手に届いていたのかはわからないほど小さかった。
日車は咄嗟に悠仁を掴んだようで、なんと言葉をかけていいのか、言葉を探しているようだった。しかし、不意にスン、と鼻を鳴らして、ハマダの匂いに気付き、また目を見開いた。
悠仁は顔がカッと赤くなるのを感じて、無意識に俯いた。
ハマダは日車の顔と悠仁の顔を交互に見て、ああ、と全てを察したような顔をした。
「あなたがゆうじ君の」
ゆうじ、という言葉に、日車は目を顰めた。
「失礼、この子とは知り合いだったもので。それで」日車はホテルを見た。「こんなところで何を?」
日車の視線にたじろぐこともなく、ハマダは笑って答えた。
「彼の体調が悪そうなので駅まで送ろうと思いまして。このぶんだと、大丈夫そうですね」そう言って、悠仁を日車に預けた。
「あ……」
悠仁はハマダに向かって手を伸ばしかけたが、その手は日車によって遮られた。そのまま、日車の手は悠仁の手をしっかりと掴んだ。
「ええ、ご心配なく」
日車がそういうと、ハマダは笑って帰って行った。
悠仁がハマダの後ろ姿を見ていると、腕にぐんと力が入って、日車が歩き出したことがわかった。大人しくそれについて行く。夜のホテル街は色とりどりの看板が光って賑やかだったが、道を一本入ると、急に薄暗い路地が続いていた。
悠仁は、ぼうっと掴まれた腕を見て、ああ、まずったな、と思っていた。一周回って頭が冷静になっていくのがわかる。
「あのハマダという男、この前言っていた、友達というやつか」
やっと話だした日車は、歩みを止めて、確かめるように悠仁の顔を見た。
「うん」悠仁は素直に頷いた。
「あの男が、偽名を使っているのは知っているか?」
何となく、そうだろうなとは思っていた。ただ、わざわざ聞くこともないかと思って聞いていなかった。
「調べたんだ?」悠仁はつまらなそうに聞いた。
「君が最近、あの男と頻繁に会っているようだったから。君のプライバシーを無視していたことは謝る」
だとすると、先ほどの質問も答えがわかってて聞いたわけで、別に答える意味もなかったのだろう。
「別に、いいけど。それで? ハマダさんが……」
「あの男の名前はハマダじゃない。松本だ」
それを聞いた悠仁は、少しおかしくなって、「そうなんだ。お笑い好きなんかな」と言った。
「笑い事じゃない」
「そうなんだろーけど。俺も21だって嘘ついてたしなぁ」悠仁はどうでもいいような気持ちだった。
「君は……」日車は深いため息をついた。「何をやっているんだ」日車は眉根を寄せて、鼻根を押さえた。
その姿を見ても、悠仁は何も感じなかった。
「あの男が普段、男性の出会いの場に行っていることは知っているのか?」
「うん、まあ」
日車は痛々しそうな顔をして、悠仁の肩を掴んだ。
「一体どうしたんだ、らしくないだろう」
日車の一言に、悠仁は胃がグラつくような不快感を感じた。
「……俺らしいって何?」
悠仁は日車を睨みつけた。
「日車は俺をどう見てんの?」思いの外強い声だった。
日車は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「それは、正しい行いを……」
「あー、はいはい。またその話ね」悠仁は顔を背けて、日車の言葉を遮った。
「真面目に話を聞け。君は、」
「俺はさ、自分からあの人にお願いして会ってもらってたんだ」
悠仁はもし今、自分の心というものが目に見えるなら、刃物か何かで滅多刺しになっているんだろうなと思った。
「あの人にお願いして、遊びでもいいから、付き合って欲しいって」
予想もしていなかったであろう言葉に、日車は目を見開いて固まっていた。
悠仁は自分を掴んでいる日車の手に自分の手を添える。その手は、案外すぐに外れた。
そのままするりと指を絡ませて、所詮、恋人繋ぎをした。日車の手は悠仁の手より一回り大きくて、指も太かった。日車は動かず、目線だけを手にやって、また悠仁を見た。
「手を繋いだとき、どう感じるか知りたかったんだ」
そして、そのまま体を日車にポスン、と押し付けて、空いている方の手を日車の胸に置いた。
「抱きついた時に、どんな気持ちになるかも」
悠仁が離れると、日車は未知の生物を見るような、信じられないような顔をして、悠仁を見ていた。
「だから言ったのに。俺、悪い子なんだって」
心臓が引き裂かれるような痛みを感じていたが、悠仁は満面の笑みを作った。自分が再起不能の傷を負ったとしても、どうしても、日車の先入観を無茶苦茶にしてやりたかった。
日車は悠仁の顔を見て、息を呑んだが、次の瞬間には、仕事をしている時の顔に戻った。
「色々言いたいことはあるが……とりあえず、高専に戻るぞ」
日車が再び悠仁の腕を引いた時、悠仁の顔目掛けて、空からポツリ、と水滴が落ちてきた。
「あ」悠仁がそう言って、空を見上げると、水滴は次第に量を増して、ぽつりぽつりと雨が降りはじめた。
「また雨か」日車は小さく舌打ちをした。
日車は近くを見回す。ちょうど、100mくらい行ったところに、コンビニがあった。
店に入ると、店員が「いらっしゃいませー」と機械的に言ったが、日車に腕を引かれている悠仁を見て、一瞬怪訝な顔をした。
「ここで待ってろ」
日車は悠仁をドアのそばに立たせると、ビニール傘を1本取ってレジに持って行った。
悠仁はそれを映画を見るように、ぼんやりと見ていた。
日車がビニール傘をレジに置き、店員がタグをスキャンする。会計の金額が表示され、日車はスマホをレジ横の端末にかざした。
ちょうど、自動ドアが開いて、誰かが入ってきた。
それを目にした瞬間、なぜだかわからないが、気付いたら、悠仁は外へ駆け出していた。どうせ帰る場所は同じなのに、勝手に足が動いていた。
ビルとビルの間を全速力で駆け抜ける。サラサラと降る雨が顔に当たって気持ちよかった。適当に右に行ったり、左に行ったり、路地を駆け巡る。雨の中、スニーカーもズボンもびしょびしょになって、足にまとわりついてくる。叫び出したい気持ちを抑える代わりに、水たまりに思い切り足を突っ込んだ。
遠くの方に大通りがあるのか、路地の終わりには、光がさしていた。
悠仁は自分の中で、勝手にそこをゴールに設定した。ゴールしたからといってなんてことなかったが、悠仁の鬱々とした恋心を、なんとか終わりにできる気がしていた。足に力を入れて、地面を何度も何度も蹴りつける。悠仁の目線の先には、光が強く瞬いていた。
あともう少しで開けた場所に出る、というところで、手首を掴まれて、路地の壁に体を押し付けられた。痛みで声が漏れそうになったが、奥歯を噛み締めて我慢した。
目の前には、オールバックの髪がほつれて、前髪がぐしゃぐしゃになりかけた日車が、肩で息をしながら立っていた。スーツは雨にぬれて、白いシャツは下の肌色が透けていた。
日車は呼吸を整えながら、右手に持っていた、畳まれたままのビニール傘を悠仁の鳩尾あたりに押し付けた。
「君は、雨の中、傘をささずに、持ったまま走るのが、周りからどれだけ滑稽に映るか、一度考える必要がある」
「……ごめん」
悠仁はただ、街の明かりを見ていた。勝手に設定したゴールではあったが、ゴールできなかったことに、一抹の寂しさを感じていた。
少しして、大きなため息が聞こえると、悠仁を壁に押さえつけていた手が離れていった。
「責任もって君を叱ると言ったが、まさか説教を前にして、逃げられるとは思わなかった」
日車は顔に垂れる雨の雫を、手で拭い払った。
悠仁はただ、「ごめん」と言うしかなかった。
謝る言葉しか口にしない悠仁を、日車がどう思ったのかはわからなかったが、日車は目線を悠仁に合わせて、安心させるように目元を緩め、「怒ってない」と言った。
「俺の方こそ、俺の理想を君に押し付けていた。……俺が気付けなかっただけで、悪い奴だったんだな、君は」
日車は眉を下げて、冗談ぽく笑った。
悠仁は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。何かが漏れ出さないように、奥歯を噛みながら俯いた。
「うん、ごめん。俺、いい子じゃないんだ」
悠仁は頬に水が流れる感覚に、雨が降っていてよかったな、と思った。腕で顔を拭って、日車と向き合った。
「ごめん」
「いや、」
日車は真面目そうな顔をした後、少し気まずそうな顔をした。
「その、もし君が男性を好きで、適当な相手を探しているなら、」
日車は悠仁の手を、指を絡めるように握って、悠仁の目の前に持ってきた。
「俺はどうだろうか」
「は?」
悠仁は握られた手と、日車の顔を交互に見て、目を白黒させた。
「え、でも、日車って男が好きなん?」
「今まで人を好きになったことがないから、よくわからん。だが」
日車は握った手を自分の胸まで移動させて、悠仁の手がちょうど心臓に当たるように押し付けた。
手から、ドッドッドッと大きく振動する感覚が伝わってきた。
悠仁は日車の耳が、赤くなっていることに気付いた。目が合うと、日車は眉根を寄せて苦々しそうに「……悪い大人だと、言われるんだろうな」と言った。
「えと、その、俺、悪い奴だから、ちょうどいいかも」
悠仁は繋がれた手をぎゅっと握った。
「俺、日車のことが好きなんだけど」少し声が裏返った。
繋がれた手が、ビクッと揺れた。
日車を見ると、信じられないと言うような顔をしていた。
悠仁は必死で、本気であることを証明しようと、言葉を続けた。
「日車は、俺のこと、恋愛対象だと思ってなかったから、バーに相手、探しに行って、日車に似てる人、見つけたけど。でも、日車が付き合ってくれんなら、もうやめる」
悠仁は眉尻を下げて日車を見ながら、繋がれた日車の指に口をつけた。
日車はただ、「そうか」と言って、一度手を離すと、壊れかけのロボットのように、ぎこちなく腕を広げた。
悠仁は一歩歩み寄って、日車の肩口に顎を乗せ、首筋に耳をぴたりと当てると、そっと抱きしめられた。
悠仁は日車の心音を耳に感じて、全身の血が一瞬で沸き立ち、ゾクゾクした。日車が咄嗟の嘘で言ったのではないことは、身体に感じる熱でわかった。
「……えーと、これって、ハッピーエンドってやつ?」
悠仁はぎゅ、と日車のスーツを握った。
「そう、だな」日車は自信なさげに答えた。
「そっか、俺、日車のこと、好きでいーんだ」
悠仁は空を見上げた。
いつの間にか、雨は上がっていた。雲間からは月が見えて、月の周りに虹がかかっていた。
悠仁は感動と喜びに包まれていたが、急にハッとして、終電のことを思い出した。
「日車、あのさ……じ、時間も時間だし、今日は、とりあえず、帰らん?」
これから先があることに、悠仁は頬が緩むのを感じた。
「……ああ」
日車はそう言いつつ、抱きしめた力を抜くことはなかった。
悠仁は恥ずかしながらもその気持ちに答えたくて、抱きしめ返そうとしたが、だんだんと悠仁を抱きしめる力が強くなり、もはや大蛇に締め上げられているような強さになってきた。
「ひ、日車、あの、流石に苦しいんだけど……」
悠仁が日車の顔を見上げると、日車はそれはもう素敵な笑みを浮かべていた。全然、全く、今まで見たことないような、仏のような笑みであった。
「ひ、日車さん?」悠仁は先ほどとは違う意味で、背中がゾクリとした。
「ところで虎杖」
日車の三白眼がこれでもかと見開いて、黒目は照準を定めたかのように、ギョロリと悠仁を捕えていた。
「君が相手探しのために、バーに行ったという話は、この後じっくり聞かせてくれるということで、いいんだな?」
拒否をしたら、ジャッジマンを呼びそうな雰囲気だった。
悠仁は「いやあ、それは言葉のあやで」と言ったが、日車の笑みは深くなるばかりだった。
「すでに自白を聞いてはいるが、したいなら否認をしてもいい。ああ、大丈夫だ、君が悪い子でもきちんと叱ってやる」
悠仁はこんなに積極的な日車は初めて見たな、と思いつつ、恐怖で涙が出てくるのを感じた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました」
悠仁はスマホを耳に当てながら、相手が目の前にいないのにも関わらず、深く頭を下げた。
『だから告白すればいいって言ったのに』その声は、賭けに勝った時のように、楽しそうだった。
「何かお詫びをさせてクダサイ」
『別にいらないけど。収まるところに収まってよかったね』あまりにも適当な返事だった。
「あのさ、ずっと聞きたかったんだけど、なんで俺のわがままに乗ってくれたん? アンタに迷惑だけかけて、得するようなこと、何もなかったと思うんだけど」
返事があるまで、数秒あった。
『人間というのはね、人生に余裕ができると、誰かを助けたくなるんだよ。迷ってる子供なら尚更さ』達観したような声だった。『まあ、お幸せに』そう言って、電話を切られた。
悠仁はいまいち納得しなかったが、まあいいか、と通話履歴を見つめた。
その様子を、日車は腕を組んで見張っていた。
「終わった」悠仁はスマホの画面を見せた。
「ああ」日車はそう言って、「まったく、今回は相手が良かったからいいものを」と続けた。
すでに何百回も聞いている話に、悠仁は「はいはい。やましいこと目的の人間もいっぱいいるって話ね」と言いながら、人差し指で耳栓をして、「だからもう行かねーって」と反論した。
「どうだか。君は私が思ってるより悪い奴のようだからな」日車はフン、と薄く笑いながら言った。
悠仁はムッとして、日車のネクタイを掴んだ。
「そーだよ。俺ってば、悪い大人を好きになっちゃうようなガキだから」
そのままタイを引っ張ると、日車は咄嗟に顔の位置を下げた。
悠仁は目の前に差し出された、少し甘くて重たい匂いがする日車の首を、舌をぺろりとさせて、カプリ、と歯を立てた。
「ン、こら」
日車のくぐもった声に、悠仁は満足そうに笑って、日車の手に指を絡ませる。
「ほら、早く叱らねーと」
そう言って悠仁は再び首元に口を寄せた。
<終>