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やり直したい過去はあるかい/Novel by 境目目

やり直したい過去はあるかい

32,859 character(s)1 hr 5 mins

全て履修済み前提。捏造、色々許せる方向け。
ゆじくんの告白を断ってしまったひぐるまさんとゆじくんが任務に2人で行く話。
モブおばあちゃんが出てきます。

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とても嬉しいです。

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「すまない、君の思いには、答えられない」
 高専の、鍛錬場の帰り道、夕陽が差し込む外廊下で、日車と悠仁は向かい合っていた。
 悠仁のストロベリーピンクの髪は、今は陽光を吸い込んで熟した桃のように色づき、風をうけてふわふわと揺れていた。
 目線を下ろすと、日車を少し見上げる悠仁の瞳が、夕陽を反射してきらりと揺れる。
「あ」と、悠仁は声を出したが、急いで右手の拳を口に当てて、言葉を飲み込んだ。
 ジャリ、と、スニーカーの先で地面を引っ掻く音が、やけに耳に残った。
「そっ、か。ごめん、急に告白とか、ビビるよな」
 悠仁は、世界の終わりを目の前にしたかのような顔をして、地面を見ていた。
「いやその」日車は咄嗟に言葉を繋げた。しかし、そこから先の、言葉はうまく出てこなかった。
 


 いつも通りの任務の帰り、日車は悠仁に呼び止められた。
 何か相談でもあるのかと、のこのことついていった矢先、悠仁から「俺、日車のこと、恋愛的に好きなんだよね」と告白を受けたのである。
 ”恋愛的に”という枕詞がついていなければ、日車は「ありがとう」と返せばよかったが、日車の性格を熟知しているだろう悠仁は、しっかりと恋愛という言葉を明示していた。
 正直、最初に浮かんだ感情は、非常に困った。であった。
 そもそも日車は、誰かと人生を共に歩むということを考えたこともなかった。それは自分が罪人だという自覚があるせいもあるが、振り返ってみても、学生生活、弁護士時代、術師になった後、現在に至るまで、それらを通して、自分にとって大事な人、というものができたことはなかったのである。
 先にも述べた通り、日車の第一自認は罪人で、自身が一般的な幸せを得ることができる権利がないことはよくわかっている。
 摩耗した善意を、自分で黒いインクで塗りつぶした、そんな人生だった。しかし、目の前の少年──、太陽のように煌めく悠仁に出会って、再び光を目にできた。
 真っ暗な夜に流星群を見たような、そんな奇跡である。
 日車はもう、人生にだいぶ満足していた。
 しかし、何の手違いか、その少年は、日車を好きだという。まさに天変地異が目の前で起きていた。
 日車は、驚きと、胸に沸き始めた得体の知れない温かい水と、自分の半生の泥、これから世間から注がれるであろう、少年に対する不躾な目線への杞憂……。それら色々を一気に処理しようとした結果、咄嗟に出た言葉が、冒頭の言葉であった。
 言葉を使う仕事であったのに、こういう時は全く役に立たないものなのだな、と何故か冷静に分析している自分がいた。
 日車の視界に、悠仁の目が映る。
 悠仁の目は、いつもはキラキラと琥珀のように輝いていたのに、今は曇ったガラス瓶のようで、伏せられたまぶたのせいで、半分ほどしか見えてなかった。
 その目を見た瞬間、今まで考えていた様々なことが、風とともに吹っ飛んでいった。
 日車は悠仁に顔を向け、おろおろと狼狽えながら手を動かす。
「つまり、虎杖に、そこまで好かれていたのなら、光栄だ。ただ……」
「ただ?」
 悠仁は少しだけ顔を明るくさせて、日車の方に一歩足を踏み出した。
 咄嗟に日車も一歩後ろへ下がる。
 そんな日車の様子を見て、悠仁はまた、眉根を下げて、下唇を噛んだ。
 日車は目を覆うように、額に手を当てる。見なければよかった。悠仁のあの表情を見ると、腹の底の暗い部屋から、受け入れてしまえ、と声が聞こえる気がした。呼吸を整えて、部屋の扉を施錠する。
「君にはもっと、いい人がいると思う」
「俺は、日車がいいのに?」
 悠仁はまた、一歩日車に歩み寄った。
「俺と君は、あまりにも歳が離れすぎているし……」
 悠仁はもう一歩、日車に近づいた。悠仁の目が、まっすぐに日車を捉えていた。その圧は、法廷に被告として立たされている時の、あの感覚に近い。
「歳なんて、成人したら気になんねぇよ?」
「だが、君は今、成人していないだろう」
 悠仁はまた、ずいと日車によって、人一人も入る隙間がないくらいまで近づいてきた。
「日車」
 目線を少し下に落としただけで、悠仁の顔がすぐそこにあった。
 2人の間を、水気を含んだ竹の、青い匂いが通り過ぎていった。
「振るならちゃんと振って。でないと俺」悠仁は日車のスーツの袖をつい、と引っ張った。「日車のこと、諦めらんないからさ」
 日車はバッサリと全てを断ち切れる言葉を頭に浮かべたが、どうしても喉から出てこなかった。しかも、悠仁の顔が、日車に縋りつきそうな顔をしていた。その目を見てしまったので。
 奥歯がギリ、と鳴った。悠仁の目を見ないように視線を逸らす。頭が少し冴えたところで、グッと腹に力を込めて、なるべく冷静に言葉を発した。
「君を恋愛対象として、考えてみたことがないんだ」日車はもう一度念を押すように、「すまない」と続けた。
 悠仁は下を向いて、「そっか」と続けると、寮の方へ走っていった。
 日車はその後ろ姿をただ見送るしかできなかった。
 悠仁の姿が見えなくなった後もその場に立ち尽くして、夕陽が地面に吸い込まれてしまった後も、しばらくその場から動けなかった。




 それからの悠仁と日車の関係は、後退するかと思われたが、別にそんなことはなかった。
 というのも、あの別れ際、もう2度と2人で話すことはないのではないかと覚悟していたものの、次の日には、悠仁はケロッとした顔で、日車が高専を1人歩いているところに駆け寄ってきた。そして、授業の質問をするかのように、「日車っていつも何食べてんの?」と聞いてきた。
 日車は昨日の告白は白昼夢だったのではないかと、思わず目を擦った。
「何食べてんの?」
 悠仁は首を傾げて、もう一度聞いた。
「なに、と言われれば、適当に買ったものを食べることが多い」日車はできる限りいつも通りの声を出した。
「え、買ったもんって、コンビニってこと?」
「まあ、そうだな」
「食わねーよりマシだけど! ずっとコンビニだと栄養偏るじゃん! たまには手料理とか食べたくなんねえ?」
「あまり食にこだわりはないからな。体に入るならなんでもいい」
 日車は思いの外、普段と同じ会話ができていることに安堵した。
「でも、鍋とかさ」
 悠仁の表情はいつも通りで、なんなら少し顔色が良く見えるくらいだった。少し口を尖らせて、眉を上げる様は、不摂生な日車を叱る母親のようだった。
 日車の口角が自然と上がる。
「鍋か。今は暑いからそれほどだが。確かに冬になると食べたくなるかもな」
「だろー!」
 悠仁は小さくスキップして、日車の前に回り込んだ。その表情はひまわりが咲いたようで、ふわふわと光っている。
「最近あちーからさ! ソーメンにすっげーたくさんの具材ぶっこむとか」
 悠仁は好きな素麺の具材を上げ始めた。
 そんな悠仁を横目に、日車は脳内で会議を開始した。議題、悠仁のいつも通りすぎる態度について。
 日車(脳内)が挙手をした。曰く、もしかしたら悠仁は、あの告白後、色々吹っ切れて全てを無かったことにしたのかもしれない。それならば今の態度にも納得である。
 日車(本体)は同意する、と言って、うんうんと頷いた。
 会議はつつがなく進行する。最後の項目は、今後の日車が取るべきアクションについて。
 日車(脳内)は目を光らせて、手を組み、肘を机に乗せた。曰く、仮定に従うとすると、日車の取るべき行動はひとつ。悠仁の気持ち最優先。つまり、いつも通り接する、である。
 日車(本体)は深く頷いた。異議なし。完全同意。拍手の音が脳内を包んだ。
 これにて脳内会議閉廷。
 日車は満足そうに笑みを浮かべて、悠仁の方に鼻を向けた。
 タイミングよく悠仁が日車の顔を覗き込んできて、「きーてる?」と眉根を寄せる。
 日車はすぐに「ああ、ハム、卵、きゅうり、トマトだろう。もはや冷やし中華な気もするが」と答えた。
 日車は優秀であるからして、脳内で会議をしながら、悠仁の話もちゃんと聞くことができるのである。
「うーん。そーだ、な?」
 悠仁はいまいち納得していない顔をしていたが、しれっとした顔をしている日車の顔に、何かを諦めたように話を続けた。
「たまに、手料理食べたくなる時とかねぇの?」
「食べられるならそちらの方がいいが。だが、手間を考えると面倒さが勝つ」
 日車は首を軽く振って、悠仁の横をすり抜けようと足を踏み出そうとした。
 すれ違いざま、悠仁は「じゃあ」と言って、日車の袖口をきゅっと摘んだ。
「俺の部屋、食べにくる?」
 悠仁の声は、少し掠れていて、艶っぽかった。
 突然の不意打ちに、日車の時が止まった。
 悠仁の上目遣いは確かに熱を孕んでいた。その視線が、日車の襟首をくすぐる。ごくり、と唾を飲み込む音があたりに響いた。
「俺は.......」
 日車は脳内で会議を開こうとしたが、誰も来なかった。日車は脳内の会議机を拳で思い切りぶっ叩いて破壊する。気は少しおさまったが、そんなことをしている場合ではなかった。
 仕方なく、脳内の引き出しという引き出しをひっくり返して、言葉を探した。
「日車?」
「.......その、君は、昨日俺に告白をしなかったか?」
 結局、選ばれたのは事実確認だった。弁護士の頃の癖だろうか。絶望的な言葉選びに、内心、頭を抱えた。
「そーね」
 悠仁は首肯した。
「では、断られた相手を、部屋に誘うというのは、その、勘違いされないか?」
 出力された言葉は鋭いナイフのようで、悠仁は一瞬、顔をこわばらせた。しかし、数秒後には先ほどの笑顔に戻っていた。
「そーだけど。でも、あれから考えたけど、まだ諦めなくていっかなーって」
「その心は」
「だって日車、俺を恋愛対象に考えたことないって言うからさ。これから考えて貰えばいいかなって」
 悠仁は「アンダスタン?」と言って、手をくるりと回し、日車に差し出した。
「あとしょーじき、告って一発でオッケーもらえると思ってなかったから。まあ、そうだよなーって」
「そう、いうものなのか」
 日車は首の後ろに手を当てて、鎖骨にかけて流した。
 最近の、いや、昔も今も、恋愛のことはよくわからない。
「だからこれからは、俺が好きだって気持ち、伝えていこうと思って」
「な……」
「俺が日車を好きでいんのも、ダメ?」
 悠仁は日車の袖を離して、直接日車の手に触れた。その手は震えてこそいなかったが、ヒヤリと冷たく、汗で少し湿っていた。一方で、悠仁の顔はそれをおくびにも感じさせない、笑顔を保っていた。
 日車は悠仁の手と、顔を見比べて、口を開いた。
「君の気持ちは、君のものだから」
 喉が張り付いて、いつものような声が出せなかった。
 悠仁は、そんな日車を見て、一瞬、安堵したように呼吸をしたが、また、あの大輪の花を思わせる笑顔で日車に抱きついてきた。
「日車って、やっぱ優しーよな。そういうところ好き」
「勘弁してくれ」
 日車は悠仁の頭を引き剥がそうとしながら、再び歩き始めた。







 それからというもの、悠仁の猛攻(?)は止まらなかった。
「日車〜!」
 廊下を歩いていたら、曲がり角の向こうから悠仁が勢いよく走ってきて、猪の如く体当たりをしてきた。
「ウッ、虎杖。廊下は走るな」
 日車は悠仁の背中をポンポンと叩く。
「へへ、サーセーン」全く反省してない声だった。
「おい虎杖! てめえ自分がどんだけ図体デケェか考えろバカ!」
 後ろからついてきた釘崎がバシン! と悠仁の尻を叩いた。
「いってぇ!」
「自業自得だ」
 伏黒はジトリと悠仁を睨んで、ため息をつく。
「日車さん、大丈夫すか」
「あ、ああ……」
 日車は首肯した。
「おら、行くぞ」
 2人は悠仁をおいて歩き出す。
「おーい、待てって。あ、」
 日車から離れかけた悠仁は、また戻ってきて、日車の耳元に口を寄せた。
「日車、好き」
 周りには聞こえないほどの声で、囁かれた。
 それだけ言うと、悠仁はパッと離れて2人を追いかける。
 残された日車は、耳を抑えて、悠仁が消えていくまで、ポカンと口を開けていた。
 最近、悠仁は会うたびに告白というものをしてくる。しかも、日車が何か言う前に、するりといなくなってしまうのだ。告白の当て逃げである。
 日車は悩んでいた。
 悠仁の言葉を聞くたびに、腹の中がザワザワとしてきて、理性で抑える必要があったが、だんだんそれが、難しくなっていた。そうして、たまに、何かが腹の奥から顔を出して、悠仁の気持ちに答えてもいいのではないかと、日車に問いかけた。
 日車は首を振る。そもそも、日車自身、恋愛的に好き、というものが何かをよくわかっていない。しかも、悠仁は学生で、自分はいい歳すら超えた大人であるからして、世間一般的には、後ろ指をさされる要素しかなかった。
 日車はため息をつきながら、補助監督部屋へ向かった。


 ガラリとドアを開けると、伊地知は車のキーをボックスから取り出しているところだった。
「日車さん」
「今日の任務先は」
「奥多摩の方ですね。そんなに遠くはないと思います」
 伊地知は資料を日車に手渡した。
「『なんでも願いを叶えてくれる術師』……?」
 日車は目を細めて、呆れたように、伊地知に顔を向けた。
「そんな顔しないでください。わかってますよ、胡散臭いって。でも窓から報告があったなら、行かなければならないでしょう」
 日車は「まあ、そうだが」と呟いて、資料を再び読み始めた。
”なんでも願いを叶えるという触れ込みで人を集めている老婆が、山奥にいる、らしい。らしいというのは、誰もその老婆の姿を覚えていないからである。しかし、願いを叶えてもらったという人が複数おり、SNSでバズる。その結果、人々が面白半分に山に入り遭難。何名かは、数時間から数日の記憶喪失の状態で保護される”
「どう考えてもま……」
「眉唾な話であることは承知しています」
 伊地知のメガネがきらりと光った。
「しかし、SNSで広がったのがよろしくないんです。問い合わせも増えますし、現に人が立ち入って色々起きてますから。放っておくと霊障の根源になるかも。あと、SNSでのインプレッションが多いと、上からも注目という名の、圧がかかりますし」
「SNSのインプレッションを気にするような人間が組織の上だと思うと、自分がその下で働くことによって、ちゃんと罪を償えているのかもしれないと思えてくるから不思議だ」
「語彙力のあるのかないのかわからない自虐はやめてくれませんか」
 伊地知はゲンナリとした顔でドアを開けた。
 2人は外に出ると、タイミングを見計らったように、悠仁がててて、と戻ってきた。
「お、伊地知さ〜ん」
「虎杖」
 日車が目を見開くと、悠仁は、「サプラーイズ」と言いながら、ピースサインを作った。
「今日の任務は1人だと聞いていたが」
「その予定だったんですけど。虎杖くんも例の術師に興味があるようで。まあ、授業も終わってますし」
「連れてって♡ って伊地知さんにお願いしちった。あ、日車もしかして。1人でこっそりお願い事叶えてもらおうとしてた? だったら……」
 きゃ、と恥じらう乙女のように手を頬に当てた悠仁を見て、日車はため息をついた。
「してない。というか、そもそもあんな胡散臭い話を、初めから信用してない」
「なんだ、じゃあ俺がついてってもよさげだな」
「何があるかわからないだろう。相手が呪詛師だったら……」
「それなら、尚更2人で行った方がよくねえ?」
「……」
 完全に、押しては引いての問答であった。
「なぁ、だめ?」
 悠仁はうるうるとした上目遣いで、下唇を突き出し、日車を見つめた。キラキラを超えて、ギラギラと光る光線が、日車の目を焼き続ける。
「……現場では俺の指示に従うこと」
 日車の返答に、悠仁は顔をぱぁ、と輝かせて、「虎杖了解!」と元気よく返事をした。
「あ、やっぱナシとかナシだから!」そう言うと、悠仁は外の駐車場にダッシュで駆けて行った。
「今時珍しいくらい、素直な子ですよね、虎杖君」
 伊地知は親戚の子供を見るかのような目で、悠仁が駆けて行った方を見た。
「俺には真似できない率直さだ」
 日車は眉根をもみながら、足早に悠仁の跡を追いかけた。
 伊地知は、ハハ、と声をあげて、日車の後に続いた。












 ぼうぼうと腰の位置まで生えた草が、日車と悠仁の行く先を阻んでいた。
 2人はそれらをかき分けながらずいずいと奥に進んでいく。
「なんか、昔、冬に牧場行って雪かきしたの思い出すな……」
「確かにこの感覚は雪壁に近いかもな」
 2人は呑気なことを言いながら、先へ進む。
「呪霊の気配、全然なくね?」
 悠仁はキョロキョロと辺りを見回しながら、水泳のクロールのようなフォームで腕を動かし、サクサクと草を掻く。
「暗い雰囲気も、ないな」
 日車は一度立ち止まって、元来た道の方を振り返った。
 森に分け入って10分ほどしたくらいか、目に映るのはただの森、であった。
「ほーんとにいんのかなー、そのー、なんだっけ」
「願いを叶えてくれる術師」
「そうそれ」
 悠仁はサクサクと音を立てて、日車の周りを回遊した。
「手、汚れるぞ」
「あとで洗えばいーじゃん。何もなくて暇でさァ」
「だから俺1人でいいと言ったのに」
 日車は呆れたように悠仁を見た。
 悠仁はムッとして、「だってさ」と子供のような声を出した。
「せっかく日車と2人で現場行けんだもん。そんなん行くっきゃないじゃん」
 曇りなきまなこでそんなことを言うものだから、日車は思わず面食らった。
「世の中の男子高校生は、もっと生意気なもんじゃないのか」
「えー? そーかな。まあ秤先輩とかはヤンチャだけど」
「アレはもはや半グレに近い」
「確かに」
 悠仁はウハハ、と声を出した。
 その時、悠仁の目の端に、草と草の隙間から、縄で縛られた木が映った。
「あ、日車、アレ」
 悠仁は咄嗟に近づこうと足を踏み出した。
 その瞬間。
 ビリ、と、紙が破ける音がした。
「あ」
 悠仁は足元を見て、自分のスニーカーに、ちぎれた紙がくっついていることに気づく。
そして、自分の足が、細い縄に絡まっていることも。
 ゆっくりと、悠仁は転倒した。
「虎杖!」
 日車は、咄嗟に悠仁の腕をとった。しかし、悠仁を引き戻すことはできず、2人とも地面へと吸い込まれていった。
 何ともいえない浮遊感が体を包む。
 普通の転倒とは違う、何か膜のようなものを通過する感覚に、日車は目を閉じて、無意識に悠仁の頭を胸に抱えた。
 右肩に衝撃が走る。
 悠仁の声が遠くから聞こえた気がした。


 目を覚ますと、先ほどと同じ場所に日車は倒れ込んでいた。
 日車が悠仁の頭を庇っていたので、悠仁は日車の体にのしかかるように倒れている。
「え!? うわ、なに!? ごめん!」
 悠仁は猫のように飛び上がり、後ずさった。
「いや」
 日車はゆっくりと起き上がって後頭部を撫でた。どうやら怪我はないらしい。
「ここは......」
 悠仁は辺りを見回すと、訝しげな顔で日車を見た。
「あのさ、俺、重かったよな......? 骨、折れてねえ?」
「俺は大丈夫だ。君は、怪我はないか」
 日車は立ち上がって、悠仁に手を差し出す。
 悠仁はまた目をぱちくりとさせ、その手を取った。
「怪我、ないと思うけど」
 悠仁は立ち上がると、体のあちこちをペタペタと触って、最後に顔を包み込むように、両手で覆った。
「あのさ」
 悠仁は気まずそうに、日車に鼻を向ける。その瞳は、ゆるゆると水面のように揺れていた。
「こんなこと、聞くの気まじいんだけど。……ここ、どこ?」
 そう言われて、日車は辺りを見渡す。
 景色は先ほどと同じ森であったが、空はやけに深い青が澄んでいたし、空気もヒヤリとして清々しかった。まるで、神社の境内にいるような感覚に、日車は首を傾げた。
「先ほどまでいた森......とは、景色は同じだが、雰囲気が違うな」
 日車は悠仁の靴に張り付いた、破れた紙をペリ、と剥がした。紙には何か筆文字で書かれていて、明らかに何かの札のようなていだった。
「これが、どうやら原因らしいが」
 札を証拠品のように差し出す日車を見て、悠仁は人差し指を眉間に当てて、もう片方の掌を日車に見せ、ウンウン唸った。
「えーと、整理させてな。俺たち2人でここに来て、そんで俺がなんかよくわからん札を破っちったせいで、なんかよくわからん空間にきちゃったかも......ってこと?」
「まあ、ありていに言えば」
「......俺、アホすぎねぇ?」
 悠仁はしみじみとつぶやいた。
「アホだとは思わないが。ただ、君はなんというか、持っているな、と思ったりはする」
「それバカにしてんだろ」
 悠仁はポスン、と軽い音をさせて日車の腕を殴った。
「馬鹿にしてない」
 日車は片方の口角を上げて、フ、と息を漏らした。
「その顔は馬鹿にしてる時の顔だろ。わかんねーけど」
 悠仁はブスっとした顔で眉間に顔のパーツを寄せた。
 日車は口角の位置を元に戻して、「とりあえず、移動を」と辺りを改めて見まわした。
 そこに悠仁がビッ! と元気よく挙手した。
「待った! 元はと言えば俺のせいだけど、なんか不思議空間?、きちゃったわけじゃん? こういう時はまずお互いの身分証明? 本物ですよって主張すんのがお決まりっしょ!」
「さっきまで会話していたのにか」
「様式美って言葉知ってる? まあいいじゃん。こういうのはやることが大事だから! 俺、虎杖 悠仁! 好みのタイプはジェニファー・ローレンス! えーと、元気!」
「日車 寛見、伊地知から今回の件に派遣された」
「ひぐるま」
 悠仁は値踏みするように、ぴょこぴょこと動き回って、日車をいろんな方向から観察した。たまにツンツンと日車の体の至る所を人差し指で突く。その様は古参の犬が新入りの犬に、鼻をふすふすと鳴らしながら、仲間認定するかを決めているようだった。
 日車は拳を口に当てて、悠仁から見えないように口角を上げた。
「うん、匂いオッケー、感覚オッケー、結論。俺、日車のこと、知ってんね」
 悠仁は腰に手を当てて、やり遂げた顔をした。
「意味、あったか? 今。特に匂い」
 日車は思わず自分の手首を鼻に当てた。
「大アリだろ。見た目は一緒でも、どっか違うかもしんねーじゃん。刑事ドラマでも、匂いで別人だってバレてる回があってさあ、結局、双子の弟が成り変わってたんだよな......」
 そう言って、悠仁は日車の手にペタ、と自分の手をくっつけた。そして、一度手を離すと、今度は悠仁の小指を、日車の小指に絡めた。
 日車の手が、一瞬ピクリと揺れる。
「うん、この感覚なら、覚えてるわ」
 悠仁は眉根を下げて、安心したように緩く笑った。
 日車は心臓がざわりとした気がして、思わず顔を背けた。
「......それにしても、まだ好きなタイプはジェニファー・ローレンスなんだな」
「ん? 何で?」
「隙あらば俺に好きと言ってくるから、好みのタイプは変わっているものかと……」
 そこまで言って、日車は口を押さえた。
「え?」
 悠仁は猫のように目を丸くして、キョトンとして日車を見た。
 日車の額に一筋の汗が伝う。
「その、つまり、お互いの証明をするなら、最新の情報に合わせて、内容を変えた方がいいのではないかと思っただけで......他意はない」最後の方の言葉は、掠れて小さくなっていった。
 悠仁は日車に顔を向けて、こてんと首を傾げた。
「日車、俺から好きって言われたいん? 俺のこと好きなん?」
 そう言って、悠仁は日車の瞳を覗き込んできた。
 心臓がドドドと音を立て、額から滝のような汗が伝った。
「いや、......すまない、君の告白を断ったのに、都合の良いことを言った」
 日車は腰を反らせて悠仁の視界から逃れようとしたが、悠仁にスーツの前側を掴まれて、それは叶わなかった。
「日車」
 悠仁は水に飛び込む前のように、大きく息を吸った。
「俺、日車のこと、すき......なんだと思う」
 悠仁の口から出た”すき”という言葉は、いつもと同じ言葉であったが、なぜかいつもと違う音として、肩にのしかかってきた。多分、悠仁の目が少し伏せられていて、何か言いたい事を我慢しているような顔だったからかもしれない。
「へへ、つい言っちった! 日車も罪な男だよなー」
「そんなつもりは」
 悠仁は手を離して、森の奥へと走り出した。
「おい、虎杖。また何かに引っ掛かるぞ」
「えー、大丈夫だって! 今ならそーゆーの、ちゃんと察知できっから!」
「どういう自信なんだそれは」
 草を蹴散らしながら全速力で走る悠仁に、日車はいつもより早足でついて行くが、悠仁の全速力は50m 3秒であるからして、あっという間に豆粒のようになった。
「おい、虎杖......!」
 日車が悠仁の名前を呼んだ時、森の奥から悠仁が日車に向かってバイクの如き速さで戻って来るのが見えた。
「ひぐるまーーーー!! なんかすっげー”いかにも”な家があるーー!!」
「”いかにも”な家?」
 日車は首を傾げてさらに歩みを早めた。
 悠仁と合流すると、悠仁が奥を指差して、「こっちこっち!」と日車の腕を引っ張る。
「いかにもな家とはどういう家だ」
「いやマジで。すげーいかにもな家なんだって」
 大型犬の散歩ってこんな感じなんだろうか。日車は引っ張られるがままに小走りになって、そんなことを考えていた。
 しばらく進むと、目の前には、日本昔ばなしに出てきそうな茅葺き屋根の古民家がポツンと建っていた。
「.......いかにもな家だな」
「だよな!?」
 悠仁は興奮したように腕を振って、日車の顔を見た。
「映画だと、こういう時ってめっちゃ優しいじいちゃんばあちゃんか、超こえぇじいちゃんばあちゃんが出てくっけど! 日車はどっちだと思う!?」
「どっちでもいいが、早く帰れることを祈っている」
「えー、日車やる気なー……。まーいいけど......どうかさやしいばあちゃんでありますよーに」
 悠仁は合掌した。
 すると、なんの気配もなかったはずなのに、2人の後ろからぬるりと黒い影が現れた。
「誰がクソババァだいこのクソガキ!」
 バチン! とものすごい音がして、悠仁は弓反りになりながら「いってえ!」と悲鳴をあげた。
「言ってねえけど!?」
 悠仁が振り返ると、恰幅の良い、巫女のような服を着た老婆が仁王立ちしていた。髪は白髪で三つ編みにしており、しわしわの顔ではあったが、目にやたらと力があって、圧がすごかった。手には竹箒がにぎられている。
「いってー……日車、俺の尻まだある? 割れてない?」
「もともと割れているから今更割れても気にすることはない」
 日車は悠仁の背中をポン、と叩いた。
「レディーの前で尻だの割れるだの、シモの話をするんじゃないよ!」
 老婆はまた怒号を浴びせた。
 ビリビリと空気が揺れる。
「言っとくけど、ここは駆け落ち寺じゃないよ。逃げるなら北に行きな」
「ばあちゃん、俺たちが付き合ってるように見えんの?」
「虎杖」
 日車は非難するような顔で悠仁を見た。
 その静止を照れ隠しと受け取ったのか、老婆はしたり顔でうんうんと頷いた。
「ババァは何でもお見通しなんだよ。別に気にしなくてもいいだろう。ダイバーシティさね」
「ばあちゃん、ダイバーシティーとか知ってんだ……」
「ああ? die 婆 city? あたしゃまだ死なないよ! ラクーン シティに連れて行かれても生還してやるからねぇ!!」
 老婆は手に持っていた箒をブンブンと振りまわした。
「自分で言ったのにキレんなよ! 怖えよこのばあちゃん!!」
 悠仁は日車の後ろに隠れた。
 日車も悠仁を老婆から隠すように、来た道の方に足をむける。
「虎杖、帰ろう。報告書には様々な更年期障害を発症している女性がいたと書けばいい」
「誰がボケ老人だい!」
 老婆は噴火する火山の如く声を荒げる。
 悠仁と日車は、体を老婆に向けながらも、ジリジリと来た道に向けて、後退りし始めた。
「そんな生意気ばっかり言ってるとアンタ達の願いは聞かないからね!」
 しかし、予想だにしない老婆の一言に、悠仁と日車は動きを止めて、顔を見合わせた。











「ああ、この前押し入ってきた輩がいたから追い払ったが。奴ら余計なことを広めやがって」
 あれから老婆は、煙管を吸ったことで、ようやく落ち着いた。ニコチン切れの人間は人が変わるというが、ここまでなのは珍しい。
 悠仁は「タバコ切れると、みんなああなるん……?」とこっそり日車に質問してきた。
 日車は「いや」とは答えたものの、「君は成人してもタバコは吸わないでくれ」と、無意識にお願いしていた。
 老婆の家は、内装も昔話に出てくるような古い家で、真ん中にポツンと囲炉裏があり、奥に部屋があるようだった。
 悠仁達は入口側に座り、囲炉裏を挟んで、老婆は奥側に座っていた。
「それで、アンタらは何しに来たって?」
 老婆の口から紫炎が溢れた。
「私は日車と申します。この子は付き添いで、呪術高専から参りました。今回は安全の確認、つまり、貴女が危険人物ではないという確認をしに来ています。調べた限り、貴女は協会の術師リストには、名前がない」
「まあ、そうだろうね」老婆は興味がなさそうに返事をした。
「なな、外の森って、ばあちゃんの固有結界なん?」
 悠仁は窓の外に視線をやりながら、無邪気そうな顔で質問した。
「そうだよ。というか、アンタ達は侵入してきたんだからわかるだろう」
 悠仁は照れたように頭を掻き、「いやー、それが、侵入っていうか、偶然っていうかー、まあ無意識? にやっちゃいました? みたいな〜」と答えた。
 日車は思い出したかのように、ポケットに入れていた札を取り出し、老婆に掲げた。
「これが、結界に侵入する鍵なのですか」
「そうさね。10枚並ぶ札の、左から3番目。それをちぎるとここへ繋がるんだよ」
「それだと、一般人も入ってきてしまうのでは」
「まあ、アタシを訪ねてくるのは、大体が非術師だからね」
「? なんで?」
 悠仁は目を瞬かせ、首を傾げた。
「……『なんでも願いを叶えてくれる術師』」
 日車は眉根を寄せて、今回の任務の内容を声に出した。
 老婆は煙管を盆にカン! と当てて、ニマリと笑った。その様は、妖怪の化け猫のようであった。
「いかにも。ここに来るのは、たいていが何かの願いを叶えようとする人間なんだよ」
 日車は手を口に当てて老婆の言った内容を理解しようと、頭を回転し始めた。
 そんな日車をよそに、悠仁は目を輝かせて、前に手をつき、老婆の方へ身を乗り出した。
「俺、願いを叶える術式って初めて聞いた! そんな便利なことできんの!?」
 日車は、悠仁が目をキラキラと光らせて老婆に質問する姿を見て、今回悠仁が来てくれてよかったのかもしれない、と思い始めていた。日車1人であれば、この老婆と心理戦をしなければいけないところであった。
 老婆は尊敬の眼差しに気をよくしたのか、子供に勉強を教えるかのように、ハキハキとした声を出した。
「まあ、『なんでも願いを叶える』と言っても、私が直接何かをするわけじゃない。ただ、アタシの術式で、それに近いことは再現できる」
「す、すげー!」
 悠仁はアクション映画を見た時のように、興奮して日車の腕をポコポコと叩いた。
 日車は黙っていた。……正直、すごく胡散臭い。しかし、日車が何か言ってこの老婆の機嫌を損ねたらことである。
 日車はただ、情報を頭の中でレポートを作成し始めながら、悠仁に全てを任せていた。
「ばーちゃん! 俺、ばーちゃんの術式見たいんだけど!」
 悠仁は手を合わせて老婆に頭を下げた。
「まあ、見せてやってもいいが」
「「え」」
 まさかの肯定に、悠仁と日車の声がシンクロした。
 老婆はチラリと2人を見て、「で、アンタたちは何をしてくれるんだい」と続ける。
「あ、やっぱ対価とるん?」
 悠仁はケチ、と口を窄めて老婆を見た。
「乙女の秘密を聞き出そうってんだから、何かするのは当たり前だろう」
「対価があれば、術式開示はしていただけるということですか」
 日車は慎重に質問をした。
「まあ、開示したところで何があるというわけでもないしね」
 老婆の言葉に、日車と悠仁は目線を交わし合った。コクリ、と悠仁は小さく頷く。
 日車はため息をついて、渋々と言った表情で「わかりました」と了承した。
「あまりに大きな対価は払えませんが、善処はします。その代わり、術式の件を」
「しつこい男は嫌だよ。いいだろう。じゃあ、」
 老婆は煙管を窓に向けた。
 悠仁と日車も窓に視線を向ける。
 その窓の外では、先ほどまで見えなかった、不気味な影が中を覗き込んでいた。
「ここ最近、人が増えたことで、ここに集まってくる呪霊が増えてね。一応、一箇所に集めるように罠を張ってるが、散らすのも面倒なんだ。アンタたち、適当に払っておいてくれ」
「おお、そんなんでいいん? ばあちゃんなら、その覇気だけで蹴散らせそうだけど」
 悠仁は意外そうに老婆の方を振り返った。
「アンタ、年寄りの体に鞭打って草刈りさせるタイプかい? 家庭内DVで訴えられるよ」
「え、いや、そんなつもりは……喜んでやらせていただきます!」
 悠仁は汗をかきながらガッツポーズをした。


 呪霊を掃討している間に術式の準備をするというので、先に術式の説明を受けることになった。
 悠仁も日車も、真剣な表情で老婆の話に耳を傾ける。
「私にできることは2つ。1つ目は、現在の魂を過去の魂と入れ替えること」
「魂を?」日車は片眉を上げた。
「そう。未来の魂は過去に飛び、過去をやり直すことができる。全ての結果が思い通りになるかは飛んだ本人次第だが」
 悠仁は「え、すごくね?」と純粋に驚いていた。
 日車は右手を軽くあげる。
「突然未来に飛ばされた過去の魂はどうなるんです」
「別に、過去の行いの先が未来だからね。数日も経てば、やり直した過去から今に至るまでの修正された記憶が同期されるよ」
「すげえ、けどそれ、満足いくまでやり直しするやつとか出てこねえ......?」
 悠仁は腕を組んで、首を傾げた。
「100点の人生にするために私の能力があるわけじゃないんだよ。都合が悪いからって何度もやり直せるわけじゃない。チャンスは一度だけ。それ以上を望む輩には、私に関する記憶を抜いて返しているのさ」
「一度きりのチャンス......」
 悠仁はごくりと喉を鳴らした。
 日車は、それよりも気になることがあった。
「記憶の操作も可能なのですか」
「それが私の2つ目の能力さ。脳に記憶された記憶を消す。まあ、パソコンの中の不要なデータをゴミ箱に捨てるようなものさね。ただ、魂に保存された、感情の記録はいじらないがね」
「……記憶はすべて海馬に貯蔵されているものかと思いましたが」日車は弁護士然とした声を出した。
 老婆は出来の悪い生徒に教えるかのように、面倒くさそうな顔で口を開いた。
「海馬、つまり、脳に記録されるのは過去の映像や音を電気信号に変換した情報なんだよ。そして、脳に貯蔵された情報を元に感情を保存するのが魂さ」
「魂に感情が保存されているというのは初耳でした」
「生き物がどうやって感情を得るのか、アンタは説明できるのかい。機械は脳の代用になる。だが、機械には感情は再現できない。その領域こそが、魂といわれるものなんだよ」
「あなたの説明では、そもそも、魂、というものの正体が、よくわかりません」
 老婆は煙管を日車の心臓に向けた。
 日車も顔を下げて、心臓に当たる部分を見る。
「生まれたばかりの魂は剥き出しの状態だ。脆くてすぐに壊れる、蛍の光みたいな、淡い銀色の泡だ。しかし、何かを経験すると、その時の感情のうねりが纏められて、魂から糸のように吐き出される。その糸は、魂の周りをぐるりと一周する」
 老婆は煙管をくるりと回した。煙管から出た煙が、動きに沿って円の形になった。
「脳に記録された過去の映像から、その時感じたことを、魂は糸に加工して、吐き出し続け、自身の周りにぐるぐると巻きつける。手鞠みたいなもんさね。手毬の芯が魂、芯に巻きつけられた糸一本一本がが保存された感情。巻きつける糸が多ければ多いほど手毬は硬く、大きくなる。それは人も同じだ。魂に巻きつけられた糸が多いということは、思い出も多いということ。つまり、良くも悪くも、揺るがない自己の形成ができているということ。少なくとも、アタシはそう考えているよ」
「だから、脳は事実の記憶を行う場所、魂とは、事実に対するその時の感情を保存する場所、ということですか」
 日車が内容をまとめると、老婆は頷いた。
「なあ、その感情の糸ってさ、ばあちゃんなら抜けんの?」
 悠仁は手を前について、上半身をずい、と老婆に寄せた。
 日車は少しだけ目を丸くして悠仁を見た。まさか今の話についていけていたとは。勉学は苦手と聞いていたが、地頭はいい、というのはこういうことなのだろうか。
「できるにはできるが。大事な記憶であればあるほど、抜くことはしない方がいい。糸を引き抜けば、そこからほつれが生じる。大事な記憶は、長い糸であることが多いし、他の思い出とも繋がっていることが多い。つまり……」
「たくさん糸を抜くことになるから、綺麗な形を保てなくなる」
 悠仁は自分の胸に手を当てた。
「わかってるじゃないか。形が崩れれば、魂の形はあやふやになり、自己を保つことができなくなる可能性がある」
「廃人になるってこと?」
「最悪はね。だからアタシは頼まれても魂には触れない」
「そっか……」
 そう言ったきり、悠仁は黙ってしまったので、日車は再び老婆に鼻を向けた。
「先ほど貴女は、二つ目の能力として、脳に記憶された記憶を消す、と言いましたが。脳にある記憶であれば、大事なことでも消せるのですか?」
「なかなか鋭いね。あまりやらないが。大切な人を失って、壊れそうになっている奴がここにきて、その人の記憶を抜いてくれと頼まれることはあるよ」
「実際、その記憶を抜いたのですか」
「やったことはある」
 老婆は煙管の煙がもう出ないことに気づくと、煙草盆に吸い殻を捨てた。そして、慣れた手つきで火皿に新しいたばこを詰めると、マッチを擦って再び火をつけた。
 ふう、と深く息を吐くと、溶けるように座椅子にもたれかかった。
「その男、どーなったん?」
 悠仁は天井に消えていく煙をぼうっと見ながら質問した。
「さて、先のことまでは詳しく知らないが。少なくとも、大切な人を思い出さなくなって、静かに暮らすようになったとは聞いているよ。ただ、」
「ただ?」
「記憶は抜いても、感情までは抜いていないから、無意識に大切な人とやっていた習慣とか、思い出の場所に足を向けてしまうとか、そういったことは起きていたと聞いているね」
「そっか、感覚だけは、覚えてるもんなんだな」
 悠仁は手をグッと握って、日車の顔を見た。
 日車は何かを見透かされたような気持ちになって、思わず目を逸らした。
「まあでも、記憶もそうポンポン抜くもんじゃないから、こちらの話にしても、一度きり、というかアタシは基本1人1回しか術式を使用しないことにしてる。でないと依存しちまう奴が出てくるからね」
「そうですか。よくわかりました」日車はひとつ咳払いをした。「話を聞く限り、貴女は呪詛師の類ではないようですね」
「当たり前だろう」
 老婆はフンと鼻を鳴らした。
「最近、面白半分にここを訪ねてこようとする輩が増えて迷惑してるんだよ。そういう奴らは話を聞くまでもなく即帰しちゃいるが」
「ばあちゃんが追い払った、ってやつら?」
「ああ、中途半端に覚えてる奴がいたんだろう。こっちがせっかく気を使って、最低限の記憶を抜くだけですませてやろうとしたのに。とんだ恩知らずがいたもんだよ!」
 老婆は煙管をカン! と煙草盆に叩きつけた。
「とはいえ、結界への侵入をこれ以上複雑にすることもできないし、面倒ったらありゃしないね」
「……貴女はどうして、人の願いを叶える、というようなことをしているのですか?」
 気づけば日車は、質問を口にしていた。
 老婆は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして、日車を見た。
「理由が必要かい?」
「貴女なら見てきているはずだ。人は脆く弱い。手を差し伸べても、お門違いにも貴女を責め立てようとする、そんな者達もいたでしょう。それでも人に、貴女の善性を分ける必要はあるのでしょうか」
「日車……」
 悠仁の声に、自分の声が熱を持っていたことに気づいた日車は、拳を口に当てて、ごほん、と咳払いした。
「アンタ、人が嫌いかい」今までよりも、低く、囁くような声だった。
「人によります」
「つまらん答えだね」
 老婆は煙管を口から離して、ふぅ、と紫炎を吐き出した。
「理由、理由ねぇ。まあ、もうずっとやってることだから。昔は使命感や、やりがいもあったのかもしれないが」
 老婆は手を組んで、ふむ、と声を出した。
「まあそうさね、多分だが、アタシは人が好きなのかもしれないね」
「人って、みんな? 悪い奴も?」
「まあ、いい奴に越したことはないが。何でだろうね。何だか可愛く思えちまうんだよ」
「……そうですか」
 黙って何かを考え出した日車に、老婆はやれやれ、と言わんばかりに首を振った。
「それで、術式を見せるって話だが、アンタは戻りたい過去があるのかい」
 老婆の一言に、日車は心臓がドクン、と跳ねたのを感じた。不意に、悠仁に初めて告白された日を思い出したのだ。
「……そう言われると、特に、ありませんが」いつもよりも低い声が出た。
 老婆はまた鼻を大きく鳴らして、「だからアンタはダメなんだよ」と、呆れた声を出した。
「ダメ、というのは」
 日車は怪訝そうな顔をして、老婆に鼻を向ける。
「そうやって保身のために自分に嘘をつく。アタシが1番嫌いなタイプの男だ」
 日車は人差し指を向けられた瞬間、カッと体が沸騰するように熱くなるのを感じた。
「何も知らない人間にとやかく言われる義理はありません」
 日車の中指の関節がパキ、と音を立てた。
「いいや、アタシはアンタが思っているよりも多くのことを知っているんだよ」
 老婆はどこ吹く風で、紫炎を日車に向けて吐きかけた。
 その煙が日車の頭を包みこんだ瞬間、日車の手元が光る。
「わー! 日車! ストーーップ!」
 日車が無言で青筋を浮かべたところに、悠仁は両手を大きく振りながら、老婆と日車の間に割って入った。
「ばあちゃんそろそろ術式の準備始めた方が良くね!? 時間かかんだろ!?」
「ふん」
「日車もさ、そろそろ呪霊、一狩り行こうぜ!」
「……ああ」
 日車も老婆も、お互いそっぽを向いて、腕を組んでいた。
「わー……こうしてみるとばあちゃんと孫みてー……」
「こんな可愛くない孫はいらないよ! こういうやつはジジイになっても屁理屈捏ねて自分の都合の良いことを優先させるって、相場が決まってんのさ!」
 老婆は話は終わったと言わんばかりに立ち上がって、部屋の奥へと引っ込んでいった。
 老婆がいなくなると、悠仁は日車のすぐ横に寄って、耳元に口を寄せた。
「日車、けっこー熱くなってたな。図星だったん?」
 揶揄うような悠仁の声に、日車はぐ、と喉を詰まらせた。
「......そんなつもりはないが。一方的に決めつけられる言い方は、反論したくなってしまう。悪い癖だな」
「そんなことはねーと思うけど。誰だって、決めつけられたら嫌じゃんね」
 悠仁がヘラリ、と笑うので、日車は強張っていた顔の緊張が抜けていくのを感じた。
「そうか、そうかもしれないな。まあしかし、少し大人気なかった」
「そ? 途中までは、あんな無茶苦茶なばーちゃんに、結構冷静だったと思うけど」
「君はすごいな。あんな態度を取られても全く気にしていなかった」
「まー、じいちゃんも相当頑固だったし。見方によっちゃ、すげーよく吠えるチワワ的な?」
 日車は目を点にして、老婆が消えていった部屋を見た。そして、ゆっくりと悠仁に向き直る。
「眼科に行け」
「えー、気に食わないと吠えるところとか、めっちゃ似てね? かわいいもんじゃん」
 悠仁があっけらかんと言うと、部屋の奥から「ぐだぐだ喋ってないで早く行きな!」と怒声が聞こえてきた。
 悠仁は親指で部屋の奥を差して、「な?」と眉を下げて笑った。
 日車もやっとクツクツと笑って、外に出ようと立ち上がったのであった。










「あんのクソババァーーー!!! 次あったらぜってぇ老人ホームにぶち込んでやっからなぁあああああ!!!」
 悠仁の叫びは森中に広がり、カラスが一斉に飛び立った。
「虎杖、気持ちはわかるが言い過ぎだ」
 現在、悠仁と日車はおびただしい数の呪霊に囲まれていた。
 老婆からは、「呪霊はここから10分行った先くらいにまとめてあるから」と、ゴミ捨て行ってきてくらいの気軽さで言われていたが、たどり着いたのは、たのしい呪霊牧場だった。結界の一角には、運動場くらいの広さの結界が貼られていて、その中で色とりどりの呪霊がひしめきあって鳴き声をあげていた。
 2人は結界の中に入り、とりあえず無言で30分ほど呪霊を狩り続けたが、見た目の量は変わっていない。それどころか、増えている気さえした。
 そして悠仁の、先の発言に至ったというわけである。
「なんでこんな溜め込んでんの!? ゴミはこまめに捨てろって言われなかったん!?」
 悠仁の拳が全身が大きな口のような見た目をした呪霊にヒットした。呪霊は鳴き声をあげながら、塵になって消えた。
「逆に、俺たちが来なかったら、この呪霊たちはどうなっていたんだろうな」
 日車のガベルが巨大化して、大木の背丈ほどのある呪霊の上半身を吹っ飛ばす。
「あのばーちゃんの元気さだったら怒声だけで殲滅できっかもな」
「違いない」
 2人の攻撃で、呪霊は次々と塵と化してゆく。
「はぁ、それにしても、結界内で呪霊を野ばなしにすんのとか、死滅回遊かっつーの」
「一般人が立ち入れる程度に緩い結界であれば、呪霊も入れるんだろうな」
「くそー、にしても、もうちっとこまめに掃除しとけよなー」
 それからまた、15分ほど経った後、日車は手元の時計を見て、悠仁に顔だけを向けた。
「今何体目だ」
「数えてない! 70で飽きた!」
「俺もだ。まあ、折り返しは来てそうだから頑張ろう。いけるか?」
「モーマンタイ!」
 悠仁は元気よく呪霊を蹴り上げて返事をした。

 1時間が経過しようとしたところで、ようやく呪霊は片手に収まるくらいの数になっていた。
「日車! 俺、こいつで最後ー!」
 悠仁の叫び声に「俺もだ」と返事をする。
 日車の前には、巨大な雲丹に目がついたような呪霊が咆哮をあげながら突進してきた。その硬い外殻を、ガベルをスイングして思い切り叩き割った。中から紫色の脳のようなものが溢れてきて、一瞬日車の視界を遮った。
 その隙を見計らったのか、結界の端から、成人男性の背丈ほどある口を、大きく開けた呪霊が飛び出してきて、日車の後ろに突如現れた。
「日車!」
 悠仁は自分の足を、思い切り呪霊に突っ込んだ。
 日車の後ろで、バキン、という音と、グチュり、という音が響いた。そして、何かを蹴り付ける鈍い音がした後、呪霊が悲鳴をあげて、ビシャッと液体が撒き散る音がした。
 どすん、と音がして、「あでっ!」という、悠仁の声が耳に届いた。
 日車が振り返ると、悠仁が太い木の根元でひっくり返っているところであった。
「あ、日車。大丈夫だったー?」呑気な声だった。
「虎杖!」
 日車は悲鳴のような声をあげて、悠仁に詰め寄る。
「いやぁ、やっぱ片足だとうまく着地できんね」
「虎杖、虎杖……」
 日車は顔を真っ青にして、譫言のような、震えた声をあげた。
「どしたん日車、そんな声出して」
「どうした? どうしたって虎杖……、足、君の足が……」
 日車の視線の先では、悠仁の右足は、抉り取るように千切れていて、血がボトボトと流れ出ていた。
 日車は出血をなんとか抑えようと、ぎゅっとふくらはぎを抑える。生暖かくて、ぐちゃり、と音がした。こんこんと湧き出る血で、手が真っ赤に染まる。視界に広がる赤い色と自分の荒い呼吸で、意識が遠のきそうになったが、なんとか堪えた。
「大袈裟だって。ちょっと足欠けただけじゃん。ほら、こんなん反転術式で……」
 魔法のように、悠仁の半分なくなっていた脹脛から骨が生え、筋肉が骨を覆い、皮膚で蓋がされた。
 残ったのは、途中でちぎれた制服のズボンと、赤く染まった日車の手だった。
「な? あー、もうほら、傷口抑えなくても別に治せたのに。日車の手、汚れちゃったじゃん。どっかで洗って綺麗にせんと……」
「二度と! そんなこと言うな!」
 日車は悠仁の胸ぐらを掴んで思い切り叫んだ。
 悠仁は一瞬目を見開いて、不思議そうな顔で日車を見た。
「……怒ってんの?」
 悠仁の一言に、日車はまた胃がひっくり返るように、熱く燃えるのを感じた。
「ああ、恐らく人生で一番、腹が立っている」
「……日車が俺に怒るの、初めて見た」
「どうしてそうなったのか、わかるか」
「俺が、怪我したから?」
「それは事象であって、原因ではない。俺が腹立だしいのは」
 日車は悠仁の目を見た。その瞳には、自分が写っていて、眉を下げ、怯えたような顔をしていた。
「君が、自分を大切にしないからだ」
 悠仁の胸ぐらを掴んだ手の力が、だんだん抜けていく。
 悠仁は、離れゆく日車の手を、ぼうっと見ていた。
「……ごめん、日車が危ないと思って、ついさ」
「つい、で、あんなことをするのはやめろ」
「まあでもほら、俺ってば日車に振り向いてもらわなきゃじゃん? 自分を犠牲にして好きな人を救う道を選ぶ……とか、ベタかもだけど、意外に効果あったりしてー……」
 そこまで言って、悠仁は困ったように眉根を下げた。
「嘘。ジョーダン。俺、頑丈だしいけるかなって。日車がそんな驚くと思わんかった」
「君には、俺が、君に何かあっても、何も感じない人間のように写っているのか……?」
 日車は力なく手を下ろした。心臓がいまだにバクバクと音がしていて、悠仁の右足から目が離せなかった。
「ごめんて」
「次から、やめてくれ。心臓に悪い……」
 日車は手を額に当てて、何度か深呼吸をした。やっと視界がクリアになり、悠仁の顔が目に入る。
 悠仁は瞳を揺らして、迷子になった子供のような顔をしていた。
「うん、やんない」
 悠仁の手が日車の顔に伸びてくる。反射的に目を瞑ると、悠仁の袖が額を拭った。
「血、ついてたから」
 それだけ言って、悠仁は立ち上がり、元来た道に体を向けた。
「うし、じゃあ帰るか!」
「待て」
「ん?」
 歩き出そうとした悠仁に、日車は見下ろすように鼻を上に向けて、悠仁の右足を指差した。
「君は今から右足を使うのは禁止だ」
「え?」
「え? じゃない。当たり前だろう。さっきなくなったんだから」
「で、でも日車サン、今、生えてるし、俺、足つかないと歩けない……」
 小さく縮こまる悠仁に、日車はやれやれ、と言わんばかりにため息を吐いた。
「俺が君を抱えていくから君は適当に周りを警戒しておいてくれ。何かあっても、戦うのも禁止だ」
「え、それめっちゃ効率悪くねぇ? 呪霊はもういないっぽいけど、もしものことがあるかもしんないじゃん」
「こうでもしないと君がまた無茶をするかもしれないからな。罰だ、これは。甘んじて受け入れろ」
「う、でも」
「この場合の返事は、はい。一択だと思うが」
 日車の背後に魔王が見えたので、悠仁はがっくしと肩を落とした。
「はいはい……」
「はいは一回」
「はぁ〜い」
 悠仁は大人しく日車に抱えられた。所詮、お姫様抱っこ、というものであった。
「日車、これ、恥ずかしいんだけど」
「それも含めて罰だからな」
「日車は性格が悪い」
「今更気づいたのか」
 そう言うと、日車が急に走り出したので、悠仁は咄嗟に日車の首に腕を回した。
 ぐんぐんと、木々が横を過ぎていく。


 半分ほど戻ったところで、悠仁は日車に回した腕に、少しだけ強く力を入れた。
「……日車は、変えたい過去はあんの?」
「ない、と言ったら、嘘になるが。現状には十二分に満足している。これ以上求めたら、バチが当たりそうだ」
「日車は、もっとわがままになっていいと思うけど」
「そうだろうか」
「そーそー。振り回されてばっかじゃん」
 悠仁はケラケラと声を上げた。
「君も似たようなものだと思うが」
「えー、俺ぇ?」
「今回の任務だって。伊地知の無理なお願いなど無視して、同行しなくてもよかったのに」
 日車は悠仁の右足を見た。
「そうしたら……」
「ヘイヘーイ!」
 悠仁は暇になっていた手で、日車の頬をわしっと掴んだ。
「伊地知さんは悪くないじゃん! 任務ならしょうがないっしょ! 実際、あの数の呪霊、1人で相手すんのは大変よ!?」
 悠仁はモニモニと日車の頬を揉んだ。
「だが」
「あー、もう! 運転手さーん! もっとスピード出してくださーい! ばあちゃんがお昼寝しちゃいますよー!!」
 悠仁がバンバンと日車の背を叩くので、日車はそこでもう黙って、足をさらに早く動かした。














 老婆の家のそばで、やっと悠仁は解放された。
 悠仁はグッと伸びをして、「あー、やっと終わったー」と独言ちた。
「虎杖」
「んー?」
 悠仁は日車に顔を向けると、目を何度かぱちぱちとさせた。
 日車は、心臓の音が耳の横で鳴っているのがわかった。背中にも、何か冷たいものが通っていたし、口は氷のように冷たかった。
 だが、言わなければならない。
「お前は誰だ?」
「誰って」悠仁は目線を上に向けて、それからまた日車を見た。「虎杖 悠仁だけど」
「お前を虎杖と呼ぶには、不自然な点が多すぎる」
「ふしぜん〜?」
 口を尖らせてムムム、と唸る悠仁は、確かに日車の知る悠仁と同じだった。一瞬、自分の意見は間違いなのかも知れないと思ったが、しかし、日車には確信があった。
「俺が知る虎杖は、どんなに無謀でも、自分の体を使い捨てるようなことはしない」
「でも、俺って反転術式使えるじゃん」
「俺が言いたいのは、君の兄弟から支えられている体を、無碍にするようなことをしない、ということだ」
 悠仁はハッとして自分の腹に手を当てたが、それでも納得がいかないように、日車に反論した。
「まだそれだと俺が偽物? って決めつけるには弱くねえ? 俺は呪胎九相図を取り込んだ。それは事実だし、それを知ってるのは、俺と俺の周りの人間、釘崎や伏黒とか。この情報を知ってるってことは、俺は虎杖 悠仁だっていう証拠として、結構強えと思うけど」
「では、今日発言した内容だけで話す。老婆がある人物の記憶を消したと言った時、性別は言わなかったのに、君は男だとわかっていたな」
「うわ、超ベタ。そんなん、そーゆーことするの、たいてい男じゃん」
 悠仁はゲンナリした顔で日車を睨め付けた。その表情すら、悠仁そのもので、日車は頭が混乱して、ガンガンと痛むのを感じた。眉間を擦って、顔の緊張を緩める。
「まあ、そう言い逃れしたいならそうすればいい。」
 日車はゆっくりと悠仁の目の前に立った。そして、悠仁の耳元にそっと口を寄せて、囁くように呟いた。
「虎杖が任務に来たのは、伊地知が頼んだからではない。自分で志願したんだ。それをお前は知らない。つまり、お前は、虎杖ではないということだ」
 悠仁の体が、ビクリと揺れた。
 反論は、返ってこなかった。
「……ちぇ、ひっかけだったんか。俺のこと心配するふりして、策士じゃん、日車」
 悠仁の姿をしたものは、不貞腐れたように頬を膨らませた。
 日車はガベルを手にして、悠仁の姿をしたものに向ける。
「黙れ、お前に日車と呼ばれる筋合いはない。本物の虎杖はどこにいる」
「俺は本物だって──……」
「お前は、本物じゃない」
 あたりが静寂を包んだ。
「……なんで」
 悠仁の姿をしたものは、今にも泣き出しそうな表情をした。その表情は、告白を断った時の表情とあまりにも似ていたので、一瞬日車を動揺させた。
 その隙に、ドン! と思い切り押される。
「なんで日車の方が、俺をわかんないんだよ!」
 後ろに倒れかけ、足を着くことに集中したことで、悠仁の姿をしたものが駆け出したことに気づけなかった。
「おい! 待て!」
 日車は全速力で追いかける。
 悠仁の姿をしたものは、老婆の家に入って行った。
 バン! と音を立てて扉を開ける。
 目の前には、老婆の横で、ボロボロと涙を流して蹲る、悠仁の姿をしたもの、だった。
「騒がしいね。こっちはせっかく準備してたってのに」
 老婆は至極落ちついて、煙管をふかしていた。
「どいてください。その人物は」
「虎杖 悠仁」
 老婆がなぜか、悠仁の本名を口にした。悠仁の名前は老婆には伝えていなかったはずである。
「なぜ、名前を……」
「なぜって、アタシが願いを叶えてやったヤツの名前だからさ。今ではなく、未来の話になるが」
「未来……?」
 日車は目を白黒させて2人を見た。
 老婆は悠仁の背をさすると、「ほら、アンタが説明しないと始まらないだろう」と声をかけた。
 悠仁は鼻を啜りながら起き上がって、日車を見た。
 その姿は、何度見ても、外見は日車の知る高校生の悠仁であった。
「俺は、虎杖 悠仁……」
 悠仁のまつげには、涙の粒が、真珠のようにきらりと光っていた。
「正確には、50年後の、だけど」
 日車は、頭をハンマーで殴られたような痛みを覚えた。思わず額に手を当てる。
「待ってくれ、つまり、未来の君の魂が、現在の虎杖と入れ替わってるということか?」
「多分……。確かに50年後の、多分今日くらいに、ばあちゃんのところに来たんだ。でも、」
 悠仁は責めるような目で老婆を見た。
「俺は過去に行きたいなんて言ってない。別のことを願ったから」
「別のこと?」
「そう」
「どんなことを、願ったんだ?」
 悠仁は下を向いて、少し黙った。
「……言わないとダメかな」
「そうしないと、判断できない。過去に来たいと願っていないなら、何か別の事象も起こっているということだろう」
 悠仁はまた、数分ほど黙ってしまった。
 その間に、日車は家に上がって、悠仁の横に座る。
 悠仁の背中は小さく丸まっていて、緊張で硬く張っていた。軽くポン、と手を乗せると、悠仁はバッと勢いよく日車を見た。その表情は、何かに縋りつきたそうな顔をしていたが、最後には、覚悟を決めたように、悠仁は日車と向き合った。
「俺の願いは……」
 悠仁の拳に一層力が入る。
「俺の願いは、日車との、今までの記憶を全て消すこと」
 日車の心臓が、鷲掴みにされたように縮こまって、全身に震えが走った。
「俺との、記憶を」
「……ごめん」
 悠仁は顔を背けて、囲炉裏をじっと見ていた。
「なぜ、いや、俺が、君に何か……」
 日車はそこで、老婆と交わした会話を思い出した。
『大切な人を失って、壊れそうになっている奴がここにきて、その人の記憶を抜いてくれと頼まれることはあるよ』
『実際、その記憶を抜いたのですか』
『やったことはある』
『その男、どーなったん?』
 フラッシュバックした記憶に、日車は確信に似た何かを感じていた。
「まさか、”記憶を抜かれた男” は……」
「そう。俺のこと」
 悠仁は日車の手に指を絡めて、確かめるように握りしめた。
「未来の日車と何があったのか、記憶があるのは、全部忘れた後のことだけ。ばあちゃん言ってただろ。『記憶が無くなっても、習慣や感覚は抜けない』って。まさに同じことが起きた。日車を忘れた後も、日車に買った文庫本を、また買って病室にいっちゃったりしてさ。驚いたよ。記憶はないのに、全然忘れられてないじゃん、って」
 悠仁は淡々と離し続ける。
「でも、日車の顔だけは、思い出せんくてさ。気持ちだけは残ってんのに、どこ探しても、日車の顔だけがなくて」
 悠仁は繋いでいた手を解いて、日車の顔に当てた。悠仁の親指が、日車の顔の形を確かめるように滑る。そのまま、その手は下に落ちて、日車の胸をギュッと掴んだ。
「日車、ごめん。多分、としか言えないけど、俺、日車が死ぬの、耐えられんくてさ、日車のこと、全部忘れたいってお願いしたんだ。そしたら本当に思い出せなくなって、それで」
「虎杖、もういい」
 日車は悠仁の頭の後ろに手を回して、自分の肩に押し付けた。
 悠仁の手が日車の背広を伝い、抱きしめ返される。
「俺、なんでこんなに馬鹿なんだろうな。後悔したってさ、やったことは無かったことにならないのに」
 肩が、暖かい何かで湿るのを感じる。
 日車はゆっくりと悠仁の頭を撫でた。
「泣くな。……君に泣かれると、どうしたらいいかわからなくなる」
「泣いてねーし」
 ズッと鼻を啜る音がした。
「そうか」
「そーだよ」
 50年歳をとっているという悠仁は、日車よりも年上のはずなのに、やっぱりまだ、幼い気がした。それが、日車の勝手な願望なのか、悠仁の背中が震え続けていたからなのかは、よくわからなかった。ともかく、日車は、今、腕の中にいる青年を、抱きしめて、大丈夫だ、と何度も繰り返した。
「……仮に、俺が君の知る俺だったとして、君が俺を忘れて心が軽くなるなら、忘れられたって構わないと、そう言うと思う」
「わかんねーじゃん。俺、日車が死ぬって聞いて、色々受け入れられんくて、けっこう酷いこと言った気がするし」
「なに、それくらい子供の癇癪だと思えば笑って許せる」
「子供の癇癪って」
 悠仁は肩口から顔を上げて日車と向き合った。目元は赤く腫れて湿っていたが、涙は見えなかった。
「日車、俺が今何歳かわかってる?」
「君がいくつだろうが、俺にとってはずっと年下の虎杖のままだ」
「そういう、子供扱いするところ! そういうとこ、ぜんっぜん好きじゃなかった! ……気がする」
「悲しいことを言うな。君には、嫌われたくない」
「日車、俺のこと振ってるくせに、そういうこと言うのはずるいと思う」
 悠仁は恨めしそうに日車を睨んだ。しかし、目元を緩ませて悠仁を見つめる日車の目線に、はぁ、と諦めたようにため息をついて、日車の肩に顎を乗せた。
「あー、日車、どんな顔してたんかなあ」
「あんまり変わってない」老婆がピシャリと言い切った。
「好きな奴相手に素直になれない、ダメダメなヘタレジジイだった。そういうふうに相場が決まってる」
「待て、見てきたかのように言うのはやめろ……いや、そうなのか?」
 最後、日車は悠仁の顔を見た。
「......日車は年取ってもカッコよかった! 気ィする。俺の魂がそう言ってる」
 悠仁は元気よくサムズアップをした。
「そうか……」
 日車は肩を落とした。ダメダメなヘタレ、の部分が否定されなかったことに、幾分かのショックを受けた。
「痴話喧嘩はもう終わったってことでいいかい。術式の用意ができたが……」
「それについてなんだけど」
 悠仁は日車から離れて、老婆の前に正座をした。
「俺、魂の交換はお願いしてなかったじゃん。つまり、これは、ばあちゃんの過失だと思うんだよね」
「ほう、アタシの機嫌を損ねていいことはないと思うけどねえ」
「違う違う。これは純粋なお願い! チャンスは一度きり、って言ってたけどさ、今回だけ、お願いもう一個叶えてくんないかなーって! もちろん、これ以上はいいっこなし! 完全サヨナラて約束すっからさ」
 老婆はふむ、と手を顎に当てて考え込んだ。
「……まあ、いいだろう。色々言いたいことはあるが、一つだけだよ」
「うん、ありがと」
 老婆は囲炉裏に組んであった香木に火をつけ、「それで、失った記憶を返してほしいってことでいいのかい」と確認した。
 悠仁は口を開きかけて、日車を見た。
「……ううん、50年後にいっちゃった現在の俺の魂と、今ここにいる、俺の魂を交換してほしい」
「虎杖」
「ほら、今の俺の状況は自業自得だけどさ、過去の俺って完全に巻き込まれってやつじゃん。流石に俺の都合ばっか優先するのもわりーしさ」
「君は、戻った後、どうするんだ」
「んー、わかんない。でも、少なくとも、今の日車の顔、見れてよかった。これからは、ちゃんと忘れないようにすっからさ」
 悠仁はまた、老婆に顔を向けて、朗らかに笑った。
「俺の魂を、元いた場所に戻してください。昔の俺を、連れ戻してやってください」
「ああ、わかった」
「待ってくれ」
 日車は悠仁の隣に並んで、老婆に鼻を向けた。
「チャンスは一度きり。ならば、俺にも資格はあるだろう。虎杖の記憶を、返してやってほしい」
「日車……?」
「もともと虎杖がこうなったのは、俺にも責任がある。だから」
「返してやるのはいいが」
 老婆は日車の言葉を遮った。その鋭い眼光は、悠仁を撃ち抜くように、ギラリと光った。
「いいのかい、あんなに忘れたいと願っていたじゃないか。あの男の記憶を持って生き続けることは、地獄も同じだと。アンタのその苦悩に共感したからこそ、叶えてやったんだけどねぇ」
「俺......」
「それに、一度にすべての記憶が流れ込む負荷に耐えられるかはわからないよ。記録とはいえ、情報の量が多いから。あの男が死にゆく様を追体験して、正気を保っていられるのかい。何十年分の報われない気持ちを一度に受け取る覚悟を、アンタは持っているのかい」
 責め立てる波のような声に、完全に悠仁の意識は飲み込まれていた。悠仁は過呼吸のようにはあはあと息をして、ぐっと拳を握る。
「俺、やっぱ」
「虎杖」
 悠仁が何かを言いかけた時、日車が悠仁の肩にそっと手を乗せた。
 悠仁の目と、日車の目が、お互いを見つめ合う。
「生きているものはすべからく死ぬ。それは、君も同じだ。君がもし、俺を忘れたほうが生きやすいなら、それでもいい。ただ......もし、少しでも、後悔があるのなら、片隅にでもいいから、俺を、君の記憶の中で、覚えていてくれないだろうか」
 悠仁は、自分の肩に置かれた日車の手に重ねるように、自分の手を重ねた。
「......日車、なんで俺を置いて行っちゃうの」
「すまない」
「俺、もう嫌だ。病室も、薬の匂いも、嫌いだ、全部」
「ああ」
「1人で満足して、さよならって、そんな自分勝手なやつとの思い出なんて......俺は、」
 悠仁は肩に置かれた日車の手をとって、自分の頬に当てた。
「俺は、いらないって、思った、のに」
 日車の手は、するりと悠仁の頬から滑り落ちて、自由になった。
 悠仁はその手を見届けて、老婆へと再び向き直り、下唇をぐっと噛んで、震える体で老婆に頭を下げた。
「お願いします。俺に、記憶を、日車を返してください」
 祈るような声で、そう願った。
「......はあ、馬鹿な子だよ」
 老婆は面倒くさそうに煙草盆の引き出しを開けて、小さな青い石を取り出した。その石は中で光がピカピカと光っていて、中に蛍が住んでいるようだった。
 老婆はその石を、囲炉裏の香木にくべる。
 パキンと音がして、線香花火のような火花があちこちに跳ねる。
 その火花はネズミのように床を這って、悠仁の肌でまた弾けた。
「うぉアッチ! ……くは、ない」
「アンタの記憶だからね」
 老婆は火かき棒で香木を突きながら、つまらなそうに答えた。
「ばあちゃん、そういうことは早く言ってくんない? まじでびびったっていうか……このシリアスな空気でアホみてーな声あげんのは、どうかと思うって、日車もなんか言って......」
 悠仁は、ハッとしたように、日車の顔を見た。
「日車」
 悠仁は震える指で日車をさす。
「日車だ。若い……」
 悠仁は日車の顔に触れた。
「皺が、目の下にあった、皺がない……髪も、白くない……」
 囲炉裏の石から跳ねる火花は、どんどん増えて、悠仁の肌の上で跳ねては吸い込まれていく。
 そして、悠仁の姿も、高校生の姿ではなく、逞しい青年の姿に変化していった。
「日車、俺」
「記憶が、戻ってきているのか」
 悠仁は無言で頷いた。
「......ああ、よかった、最後に会った日、日車がどんな顔してたのか、どうしても、思い出せなくてさ」
 悠仁はそのまま日車に体を預けた。
「日車、好き」
 その響きは、森で聞いた声とは違って、芯が伴った声だった。
 悠仁は、はは、と声を出して笑う。
「うん、今度はちゃんと、心から言えるわ」
 悠仁を包む火花は、しばらく全身を覆って、程なくして消えていった。
「......なんか、聞かねーの?」
「聞く?」
「なんで、50年後に、俺がこの見た目なんだよ、とか」
「ああ、君のことだから、そういうこともあるのかと思っていた」
 日車のあっけらかんとしたもの言いに、悠仁は気が抜けたように、「まあ、日車って、そーゆーやつだったよな」と呟いた。
 石がもう、光を失うと、老婆は火かき棒でその石を端へやって、ふう、と香木に息を吹きかけた。すると、香木から青い光が放たれて、部屋全体が海の中にいるような、夜空の下にいるような、深い青の世界に包まれていった。
「では、これがあんた達が目にできる、最初にして最後の、アタシの術式だ。終わったら結界の外に放り出すからね。二度と来るんじゃないよ」
 部屋の青が光りはじめ、天井がどこまでも遠くに伸びていった。
 床からはシュワシュワと泡のように、銀の光が漂い始める。
「虎杖......立派になったな」
「何それ、親?」
 悠仁は照れくさそうに頬を掻いた。
「いや、帰る前に、これだけ伝えたかった。君が、好きだ」
 「え」と、悠仁は声を出したが、急いで右手の拳を口に当てて、言葉を飲み込んだ。
 見た目が成長しても、こういうところは変わらないんだな、とあの日の悠仁を思い出した。
「なんで、いや、そんなサービスいらねーって」
「サービスなんかじゃない。君が、ずっと好きだ」
 悠仁ははくはくと口を動かして、視線を彷徨わせていたが、途中から、眉根を上げて、ドン、と日車の胸を叩いた。
「ずっと好きって、じゃあ、何で、ずっと断って……おかしくねぇ!?」
 ドスドスと悠仁の拳が日車の胸にヒットする。何度目かでいい一発が入り、日車は咳き込んだ。
 悠仁はざまあみろ、と言うかのように、腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「……君の世界の俺が、もし俺と同じなら、恋が何かわからない、とか、世間体が、と言うだろうが、違うな。俺に、君を幸せにする覚悟がなかっただけだ」
 素直に白状すると、悠仁はたじろいてまた、日車の胸に向けて拳を振り上げた。しかし、その勢いはゆっくりで、結局、力なく日車の胸に当たっただけだった。
「……なんでそんなこと、今更言うんだよ」
「すまない。ただ、君の顔を見たら、言っておかなければと思った」
 日車は悠仁の顎に人差し指を滑らせた。丸さがなくなったラインは、すっきりとしていて、大人の骨格だった。
「俺はいつも、年上として接しなければと思っていたのに、結局は、君を苦しめているだけだった。許して、ほしいとは言わない。こんなことがないと、思いも伝えられない、弱い俺ですまない。ただ、君が好きだと言うことは、伝えさせてくれ」
 悠仁の瞳がきらりと光って、はあ、とため息をついた。
「……いいよ。一番ほしい言葉、最後に聞けたからさ」
 悠仁は日車の首に手を回し、ぎゅう、と力を込めた。
「振られっぱなしの人生だったけど。日車がいっつも、俺を一番に考えてくれんの、ちゃんと伝わってたんだ」
 悠仁の足元から、シュワシュワと銀の泡が浮かび始めた。
「あー、もう時間切れかぁ」
 悠仁は口を尖らせる。
「......日車とこれから色々できる世界線の俺、うらやましーな。今からでも、交換、なかったことにしてやろーか」
「浮気か?」
「日車は日車じゃん」
「俺は未来の俺を知らないし、未来の俺も、今の俺を同一視して欲しいとは思わないはずだ」
「同じ自分なのに」
「同族嫌悪、恋敵」
 指を2本立てて、悠仁の前に掲げた。
 それを見た悠仁は、プッと吹き出して、腹を抱えて笑った。
「あー、日車の、そういうとこ好きだわ」
 悠仁は目尻の涙を拭う。悠仁の体のあちこちが、少しずつ、銀の泡に変換されて、もう、腹の部分まで消えかけていた。
「虎杖」
 日車ははっきりとした声で悠仁の名前を呼んだ。どうにか鮮明に、記憶に残るように。
「俺にとって、君に出会えたことは、人生最大の幸運だった」
 腹の奥から溢れる、悠仁への感情に従うがままに、日車は言葉を口にした。
 悠仁はポカン、と口を開けて、日車を見る。
「......どこの日車も、言うことは同じなんだな」
 悠仁は歯を見せてニカリ、と笑うと、日車に思い切り抱きついた。
「日車、大好き」
 日車の首元に、何か温かい液体が伝った。
「今度は早めに、素直になってな。でないとまた俺、過去に来ることになっちゃうから」
「虎杖」
 日車が腕を悠仁の背に回すと同時に、悠仁は光の粒子となって消えた。
 その銀色の光の集合体は、魚のように形を作って、部屋の中をたちのぼり、どこまでも先が見えない天井の奥に吸い込まれていった。
その光景を見ているうちに、日車は穴に落ちるような浮遊感を感じて、視界が反転した。
「賭けには勝てたようでよかったね」
 老婆の最後の言葉が、耳に残った。
















 目が覚めると、視界には一面の木々が映り、その奥には、青空が広がっていた。
「ひぐるまー!」
 少し離れたところから、悠仁の声が聞こえた。
「やっぱ俺重かった!? アバラ逝ってる!!!? どーしよ! こういう時は 110 番いや、199番!」
 どーしよう、アソレどーしよう! と歌いながら日車の周りをぐるぐると回り始めた悠仁に、日車は「救急車は119番……」と呟いた。
 即座に悠仁の耳がぴくりと動いて、悠仁は日車の顔を覗き込んだ。
「日車! 生きてたー!!」
「勝手に殺すな」
「いやだって俺がこけた後しばらく目ぇ開かなかったからさぁ!」
「どれくらい経った?」
 日車はのそりと起き上がって、スーツの背をパンパンと叩いた。
「あ、まだ転んでからは数分も経ってねーよ? ダイジョブ? 今日は一旦戻る?」
「いや、大丈夫だ」
 辺りを見回すと、先ほどまでいた草むらだった。違うのは、悠仁が足を引っ掛けた、あの護符が並んだ綱がなくなっていて、老婆の家も見えなくなっていた。
「日車さん? まじで、何もないところですっ転んだ俺に呆れてます......?」
 悠仁はおずおずと日車に近づいてきて、しょぼん、と項垂れた。
「いや、呆れてない。怪我はなかったか?」
「日車が庇ってくれたからダイジョブ……」
 叱られた猫のような態度に、日車は小さく吹き出した。
 悠仁は顔を上げて、日車の目を見た。木漏れ日の光が、目に反射したりしなかったりして、チカチカと瞬いていた。
「虎杖」
「ん?」
「好きだ」
「え」
 悠仁は口をポカンと開けて、目を何度もしばたかせた。
「この前、君から告白してくれた時に、断ってしまったが。もし、間に合うなら、君に、俺の気持ちを渡していいだろうか」
 日車の心臓の音がドクドクと耳元で鳴っていて、言葉にしたことを撤回したい気持ちや、拒絶されたらどうしよう、と言う不安が胸を占めていた。悠仁はあの時、こんな気持ちだったのか、すごいな、と今更ながらに思った。
「日車、なんで急に」
「自分の気持ちに、素直になってみようと思った。恋愛のことはわからないし、君を幸せにする自信も、正直まだないが」
 悠仁は眉根を吊り上げて大きく口を開いたが、結局何も言わず、耳を真っ赤にして俯いた。
「......ずりーじゃん、そーやって、押した後に一歩引くの」
「そうなのか。よくわからないが。まあ、1週間あればあらかた資料も読み切れるだろう。これからの知識拡充に期待してほしい」
「なんだそれ、もしかして、恋愛指南書を片っ端から読むとか言わねーよな?」
「そのつもりだが。有識者の知識が一番いいだろう」
 悠仁が腹を抱えて笑い出して、目尻に涙を溜めた。
「はー、おもろ。日車、そんなんしなくてもさ、実地訓練すればいいんだって。ほら」
 悠仁は右手をパーに広げて日車に差し出した。
 日車はその手を見て、そっと自分の右手を悠仁の右手に重ねた。
「なんで合わせんだよ。こう!」
 悠仁は力強く日車の右手に自分の指を絡ませて、片側だけの恋人繋ぎが完成された。その顔はうっすらと赤かったし、目も少し潤んでいた。
「虎杖、これは、気持ちを受け入れてもらった、と判断していいのだろうか」
 日車も繋がれた右手の指を一本一本丁寧に曲げていく。
 その緩慢な動作に、悠仁は肩を少し震わせていたが、最後の指まで折ると、顔を下に向けて「……ハイ」と一言呟いた。
「......自分の気持ちも素直に言えないとか。本当、世話が焼けるっつーか。しょーがねーから、俺が折れてやるよ」
 しかし、悠仁は首まで赤くして、日車から思い切り目を逸らしたので、日車はまた小さく吹き出してしまった。
「ありがとう、虎杖は心が広いな」
「おうよ」
 悠仁はフン、と胸を張って、繋いだ右手を振った。
 日車は目元を綻ばせていたが、言っておかなければならないことを思い出して、悠仁に鼻を向けた。
「虎杖、俺が何かやらかしても、俺のことは忘れないでくれ」
 悠仁の動きがぴたりと止まって、片眉が上がった。
「何それ、付き合ってまだ5秒なんだけど。何かやましい事でもあんの? 浮気とか?」
 先ほどまでの、夢の中のような、あの出来事の中の悠仁を思い出す。あれは悠仁であるが目の前の悠仁ではないということで。判定的にはグレー、疑わしきは罰せず、の理論ならセーフである。しかし、日車が未来から来た悠仁に『浮気か?』と聞いた時は、未来の日車が対象であっても、アウト寄りの感情であった。が、しかし。今の場合、どちらなのだろうか。
「え!? 日車浮気したん!?」
 日車が黙っている間に、悠仁はいろんな可能性を考えていたようだった。
「いや、浮気というわけでは……」
 日車は顎に手を当てて考えつつ、とりあえず否定を選択した。
 悠仁は仏のような笑顔になった。繋いだ右手から、骨が変形するような、ギチギチという音が聞こえはじめているが、気のせいだろうか。
「......任務終わったらさ、ちょっとそこらで話そうぜ。色々、いろーいろ聞かなきゃいけないことがあるっぽいもんな?」
「虎杖」
「あ?」
 眼光鋭い虎が、日車を睨め付けていた。
「俺にとって、君に出会えたことは、人生最大の幸運だ」
 悠仁は雷が走ったような顔で日車を見ると、次第に、ワナワナと震え出した。
 そんな深刻な状況であっても、日車は"素直に伝えておきたいリスト"のチェックが埋まったことに、満足げに頷いた。なんなら、一仕事終えたような気さえしていた。
「虎杖? どうした? さっきから黙って」
 日車の呑気な声が、悠仁の怒髪天を衝いた。
「!!!! どうした? はお前だろ浮気野郎ーーーー!!!!!! そんなんでよく俺に告白できたな!!!!!?????」
 森に黒閃の炎柱が、森のありこちに立ち登った。






<おわり>

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