変えたい未来はあるかい
やり直したい過去はあるかい(novel/28293926)の前日譚です。
↑を読まないとなんのこっちゃわからないので、先に前作を読んでいただけますと幸いです。
本編に入れようかと思っていましたが、捏造度がすごく高いので別で出した方がいいなと思って分けました。
実はこっちの方が早く完成していた。
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西暦2068年6月、地球温暖化が叫ばれて久しい昨今。今年は珍しく、過ごしやすい気候だった。
壮年の日車は病室で、1人本を読んでいた。
ぺら、と紙を捲る音だけが病室に響く。
窓から差し込む黄色い光が、点滴に反射して、鏡面のように光っていた。
「……14時か」
時計に目を向けると、長い針はてっぺんを指していた。
いつもであれば、この時間には悠仁が日車の見舞いに来ているところだったが、今日はその姿がない。
日車はため息をついて眉間の皺を親指で伸ばした。
おそらく今日、悠仁は来ない。
今日どころか、明日も来るか怪しい。
日車は目を閉じて、昨日あった出来事を思い出す。
そもそもの発端は、日車が余命半年を宣告されたことだった。
『余命宣告を受けた。持ってあと半年だそうだ』明日の天気を言うような言い方だった。
ガチャン!
気づいたら、悠仁の手にあった花瓶が床に落ちて割れていた。
『……なんで?』
悠仁は花瓶が目に入っていないかのように、日車だけをじっと見ていた。
日車の肩に、悠仁のがっしりとした手が置かれる。その手は力が入りそうになるのをなんとか抑えるためか、小刻みに震えていた。
『寿命だ』
日車は肩に乗せられた悠仁の手に自分の手を重ねた。
悠仁は日車の言うことに眉根を寄せて、先ほどよりも語気を荒げた。
『日車、強いじゃん。反転術式でも、なんでも、使えば……』
『虎杖』
日車は静かな声で静止をかけた。
『生き物はすべからく死ぬ。長寿だが、君も同じだ。俺はここが引き際だと思った』
悠仁は口を固く結んで黙っていた。
日車は重ねた手に力を入れて、悠仁の手を強く握った。
『ありがとう。俺にとって、君に出会えたことは、人生最大の幸運だった』
日車は満足げに笑った。
その瞬間、悠仁は重ねられていた手を振り解き、サイドテーブルに思い切り拳を叩きつけた。
大きな音と共に、サイドテーブルにヒビが入る。
『だから! なんで全部! 1人で決めんだよ!』
己の寿命をあっさりと受け入れてしまった日車に、悠仁は珍しく取り乱して、反発した。
『虎杖、落ち着いてくれ。まだ時間は……』
『日車の時間は俺の時間と違うだろ! 半年なんて……!』
ポロリ、と悠仁の目から大粒の涙がこぼれた。悠仁は咄嗟に腕を目に当てて拭ったが、その勢いは止まることがなかった。
『勝手にしろ!』
結局、悠仁は逃げるように病室を飛び出していった。
日車は、また一つ、深いため息をついた。
ベッドに背を預け、窓の外に広がる青空を見上げる。
次に、悠仁と会えるのはいつ頃だろうか。
日車の世界は、もう何年も、この、四角く切り取られた空しかない。
たまに、悠仁が車椅子で外に連れ出してはくれていたが、日車の病状が悪化してからは、日車が外に出ることに難色を示していた。日車は元々、外に出て何かやりたいタイプではなかったので、それはまあ、いいのであるが……。
こういう時、自分から悠仁に会いに行けないのは、不便である。
太もものあたりを手でさすってみるが、しばらく使っていないせいか、何かに触れられている感覚はあるものの、鈍いものだった。
日車が足を撫でていた時、突然、いつものように、3回連続のノック音がしてドアが開いた。
入り口を見ると、そこにはケロッとした顔で、悠仁が立っていた。手には、真新しい文庫本が握られている。
「虎杖」
驚いたように声をかけると、悠仁はいつも通りの表情で、一方で、困惑したように、目をぱちぱちと瞬かせながら、病室に入ってきた。
「お……お疲れ〜?」
へへ、と笑う声に、肩から力が抜けるのを感じた。しかし、悠仁の目をまだうまくみることができず、一度置いた文庫本を、意味もなく手に取った。
「昨日、あれだけ勢いよく出て行ったから。今週はもう、来ないかと思っていた」
自分でも、声がいつもより明るいのがわかる。
しかし、日車の言葉に、悠仁は片眉をあげて、待った、のポーズをした。
「……わり。本当に申し訳ないんだけど、アンタって、知り合いだったっけ?」
悠仁の言葉に、日車は一瞬、心臓が止まったかと思った。
手に持っていた本を思わず握りしめ、表紙がグシャリと変形し、皺がよる。
「……昨日の、仕返しか?」
むしろ、そうであってほしいと願うような声色になった。
「仕返しィ? 俺たち、初対面だよな?」
そう言いながらも、悠仁はいつものように、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。そわそわと初めての家に来た時のように、病室を観察する。そして、「うーん、でもなんかデジャヴ……」と言いながら、頭を掻いた。
「つか、なんで俺、ここ来たんだろ。気づいたら来てたっつーか。なんか、読まなそーな本まで買ってるし」
その声と表情はいつも通りの悠仁で、嘘を言っていないことはすぐにわかってしまった。
悠仁は手にした本を日車に渡して、「俺、こういう本読まんから、アンタにあげる」と言った。
日車は震える手で文庫本を受け取る。
悠仁は毎回、見舞いの品として、日車の好きそうな本を買って持ってくる。今受け取った本は、手元にある皺が寄った本と、同じタイトルであった。
「……昨日、何かあったのか」
「昨日? あー、なんか、あんま覚えてねーけど……なんかムショーに腹立ってたからさ、森の……アンタ、俺の知り合いっぽいから、術師だよな? 知ってる? 奥多摩の方に願いを叶えてくれるばーちゃんがいんの。俺、昔行ったことあってさァ。なんかそこに行きたくなって、そこに行って……えーと……多分そのムカつく奴がタンスの角に小指ぶつける呪いでも、かけたんだと思うけど。ま、それは冗談として。で、疲れたから帰ってすぐ寝た」
あっけらかんと笑う悠仁に、日車は食道に大量の氷水が通過するような感覚になって、思わず手で口を覆った。
体の中に泥水が流れてくるような、何かが体から出そうな、そんな不快感に、支配されていた。
願いを叶えてくれる術師。もう50年も前のことか。おそらく、悠仁が日車に初めて告白をして、すぐに同行した任務だったので、記憶に残っていた。
その時に開示された老婆の術式は2つ。1つ目は、過去と今の魂の交換、そして2つ目は──
「……記憶を、操作する能力」
「お、やっぱ知ってる感じ? あのばーちゃん、ぜんっぜん見た目変わってなくてさー。シン・陰流の当主みてーなことしてんのかなー。いや、でもあのばーちゃんはそもそもの生命力が凄そうだからなぁ」
悠仁は頭を掻いて笑っていたが、ふと、ヒビの入ったサイドテーブルが目に入ると、痛々しそうな目で、そのヒビをなぞった。
「……これ、ごめん」
その言葉をこぼした瞬間、ものすごい勢いで、悠仁は日車の顔を見た。
「……え? 今、なんで俺、謝ったん?」
ひどく困惑した顔で、自分の手を見ていた。
「ていうか俺、なんでこんなに、アンタにしゃべってんだろ。初対面だよな? いや、でも……」
悠仁はそっと、日車の手に触れた。太い骨と血管が見えるほどゴツゴツとした筋肉質な手が、日車の手を包む。その手は温かく、少し乾燥していて、肌が擦れた。
「……俺達、やっぱどっかで会った?」確信している声だった。
日車は、なんと言っていいのか、わからなかった。
おそらく、悠仁は今、完全に日車のことを忘れている。
具体的に、どういう記憶の削除をしたのかはわからないが、確実に、日車に関する記憶はないようだった。それほどまでに、昨日の出来事は耐え難いものだったのだろう。
しかし、記憶はなくとも、体に染みついた習慣は抜けなかったようである。悠仁はいつも通りここへ来た。何も覚えていないはずなのに。
それが良いことなのか、悪いことなのか、日車にはわからない。
今は、何か違和感を覚えているようだが、今後、この違和感は消えるのだろうか。それであるなら、悠仁はこのまま、日車を忘れていったほうが……。
そこまで考えて、日車は悠仁に鼻を向けた。
「いや……、俺たちは……」
ただ、その瞬間。悠仁の紅い瞳がゆらゆらと揺れていて、迷子になった子供のような顔をしていた。それを見てしまったので。
「……ああ、俺たちは、会ったことがある」
気づいたら、その言葉を口にしていた。
握られていた手に、わずかに力がこもったのがわかった。
「……やっぱ、そうかぁ。なーんか、知ってると思ったんだよな」
悠仁は顔を日車の首元に近づけて、すんすん、と鼻を鳴らした。
「この匂い、すっげー覚えてるし」
「人が臭いみたいな言い方はやめろ」
日車は思わず顔を逸らして外に目を向けた。
横から、クツクツと何かを堪えるような笑い声が聞こえてくる。
「なあ、アンタの名前、教えてほしいんだけど」
悠仁は目尻にたまる涙を拭いながら、日車の顔を覗き込んできた。
「……黙秘する」
「えー! ケチ! 別にアンタ、臭くねーよ?」
「そういう問題じゃない」
日車は考えていた。この先、自分はどうするべきなのだろうかと。
「なあ、お願い。どーしても俺、アンタのこと、知りたいんだって」
両手を合わせて、拝むように悠仁は日車の顔を覗き込んできた。
「こんな老人をナンパか。その性癖は直したほうがいいぞ。後の人生にだいぶ響く」
「なんでそーなるんだよ! 違くて俺は……」
悠仁は口を震わせて、下唇を噛んだ。
「わかんねーけど、俺は、アンタだから」
悠仁が項垂れると、肩が一瞬震えた。
午後の日に照らされた青年は、がっしりとした体型のはずなのに、なぜか出会った時のまま、まだ幼い子供のように見えた。
「ごめん、変なスイッチ入ったわ。なんか、この部屋にいると、調子狂うな」
パッと花が咲いたような笑顔で、悠仁は椅子から立ち上がった。
その拍子に、握られた手も離される。
「俺、変な奴だよな。もう、帰るわ」
その表情が、あまりにも心細そうに見えたので、日車は悠仁の手を取った。
「いや、落ち着くまでここにいればいい」
悠仁は呆けたような顔をして、目線を何度か左右にやると、ゆっくりと席に座り直した。
「やっぱ、優しーね」
ニカリと歯を見せて笑う悠仁に、日車は「いや」としか返せなかった。
時計の音と、本のページを捲る音が病室に響いていた。
悠仁はずっと、ぼうっと椅子に座って、日車の顔をじっと見ていた。
「俺、もしかして、とんでもねーこと、やっちゃったんかな」
ポツリと、胸を押さえながらそんなことを言うものだから、日車は急いで手にしていた本を閉じて、悠仁に体を向けた。
「どうした、どこか、体に問題があるとか……幸いここは病院だし、診察を……」
「や、そういうのはないけど……」
日車の慌てっぷりに、悠仁は少し首をすくめて「なんか、ここにいると、ずっと胸がしんどいんだ」と続けた。
「でも、帰りたくもないんだよな」
悠仁は固まった体をほぐすように、一つ伸びをした。
「変だろ?」
「変じゃない」
悠仁の顔がくしゃりと寄せられて、口の端が震えていた。目に水の膜が張っているように見えたが、伏せられたまつ毛で見ることができなくなった。
「でも、もう面会時間終わり……だよな。なあ、明日もここ、来ていい?」
時計を見ると、悠仁が来てから、もう2時間は経過しようとしているところだった。
「……」
日車は口を開けたが、すぐに次の言葉が出ることはなかった。
結局、悠仁の記憶は戻る兆しはなく、ただ病室に留まって、時間を浪費しただけのように思えた。
「君は、もっと他のことに、時間を使った方がいいんじゃないのか」
「うーん、でも、わかんねーけど、ここにいたいって、思っちゃうんだよな」
悠仁は手元を見て指を擦り合わせた。
「メーワク、かな」
「いや……。ただ、俺はもうすぐここからいなくなるから」
ガタン、と椅子が倒れる音がした。
悠仁が、幽霊でも見たような顔で、顔を真っ青にし、呼吸を荒くして、口を押さえていた。
「アンタ……死ぬの?」
悠仁の口から、はあはあ、と息が漏れて、嗚咽を上げた。
「落ち着け、俺は……」
「誰か……誰かも死ぬって……俺、そしたら俺は……」
悠仁の耳に、日車の声は届いていないようだった。
日車は目を閉じて、下唇を噛んだ。そして、決意したように口をひらく。
「虎杖!」
悠仁は息を呑んで、恐る恐る日車を見た。
「俺は……もうすぐ、退院するんだ」
シン、と部屋にあった音が、全部なくなった。
「え……」
悠仁は、紅い目をきらりと光らせて、何度も目をしばたかせた。
「だから、そんなに長くはここにいれない。だが、それまではどうせ暇だから……。好きな時に来ればいい」
できるだけ優しい声を出すと、悠仁は脱力してその場でうずくまり、膝に顔を埋めた。
「……そっかー。退院……、俺、てっきり……。あー……」
悠仁はしばらく唸っていた。その声が震えていたので、日車は悠仁が顔を上げるまで背を撫で続けた。
5分も経たない頃、悠仁はようやく顔を上げた。目元は赤かったが、涙は見えなかった。
「なんかごめん」
「いや、俺も……言い方が、悪かった」
「ううん、生きてんなら、全然いいや。じゃあ、今度こそ帰るわ」
悠仁は立ち上がって、日車に背を向けた。
「虎杖」
「なに?」
悠仁は歩みを止めて振り返る。
「手を」
「手?」
悠仁は自分の手を見て、訝しげに日車の顔を見た。
「いや、なんでもない」
日車は目に焼き付けるように悠仁の顔を見た。
逞しく育った青年の、すっと伸びる顎のラインとストロベリーピンクの髪が、午後の黄色い光に照らされて、熟した桃の色になって、ふわふわと輝いていた。
「手、ってこの手でいーんだよな?」
すい、と悠仁は日車の横に戻ってきて、小指を差し出してきた。
日車が何かを言う前に、もう片方の手で日車の手を取り、小指と小指を絡ませる。
「はい、やーくーそーくー。また明日〜で、指切った!」
そう言いながら、手を上下に揺らして小指を離した。
「なんだよ」
「いや、君らしいなと思って」
思わず口角が上がった。
「その顔は馬鹿にしてる時の顔だろ。わかんねーけど」
「そんなことはない」
「つか、アンタ、俺の名前知ってんだよな。やっぱ俺だけアンタの名前知らないの、不公平じゃねぇ?」
「まあ、いつか、気が向いたら教えてやる」
「いつかっていつだよ。明日はちゃんと教えてくれよなー」
「口約束でも、契約履行義務が発生するからな。できない約束はしない」
「悪徳弁護士」
一瞬、日車の時が止まった。
虚をつかれた顔で悠仁を見返す日車に、悠仁はしてやったり、と歯を見せて笑った。
「アンタ、弁護士っぽいから」
日車の拳が、硬く握られて、ぎゅ、と音を立てた。
「じゃ、また明日」悠仁は片手を上げた。
「……」
日車は曖昧に笑った。
そんな日車に悠仁はムッと片眉を上げて、くるりと身を翻すと、ベッドまで戻ってきて、日車の顔の横まで自分の顔を寄せて、大きく口を開いた。
「ま・た・あ・し・た!」
「ああ……また、明日」
悠仁の凄んだ顔に耐えきれなくなって、思わず吹き出してしまった。
悠仁は満足そうに笑って、今度こそ、病室を出ていった。
ドアが閉まる音が、いつもより大きく感じられた。
悠仁が帰ってしばらく経った後、日車は自分の右手を軽く握って、目を閉じた。
記憶を失ってもなお、日車の余命を連想させる発言で取り乱した悠仁の顔が、頭から離れなかった。下がった眉と、迷子になった子供のような顔、そして、行き場のない怒りが、紅い目をギラギラと燃やしていた。
日車は点滴にそっと触れた。袋に残った僅かな薬は、自分の寿命のように思えて、自然と自嘲の笑みが溢れた。
医師が言うには、このまま細々と呪力を回していけば、自分の寿命は半年持つかだという。
半年。普通の人にとってはそこそこ長い期間だ。日車も、あと半年あれば、自分の周りの整理ができるし、悠仁とも、もしかしたら落ち着いて話し合いができて、お別れの言葉を残すくらい、できたのかもしれない。
しかし、悠仁は優しい人なので、自分が納得していなくとも、日車のために納得するふりをする可能性は大いにあった。そうなると、きっと彼はずっとずっと、あの胸の痛みを抱えて生きることになるのだろう。
日車はしわくちゃになった文庫本の背を指で撫でる。隣には、ピンと紙が張って真新しい、全く同じタイトルの本が置かれていた。
「最後にひとつ、賭けてみよう」
外を見ると、面会時間が終わった割に、夕陽が沈むまでにはまだ時間がありそうだった。夏至が近いからか。
近くの窓を開けると、風が室内に入ってきて、日車の髪をくすぐった。
太陽の光が日車の目を刺し、思わず目をつぶる。
すぅ、と胸いっぱいに息を吸ってみた。肺の中が、湿ったほこりと、若い竹のあおい匂いが充満する。その清涼感溢れる匂いは、悠仁に告白された、修練場の裏を思い出させた。
「まあ、記憶がないとはいえ、最後に見れたのが、笑った顔でよかった」
日車は腕に貼られた、点滴を固定するテープを剥がして、そのままそっと針を引き抜く。
放られた針が床に落ちて、行き場を失った点滴の液体がポタポタとこぼれた。点滴の中の液体は、相変わらず、ゆっくりと減り続けている。
意識を集中させて、残った呪力を身体に回し始める。呪力は体を回り、筋肉を補強する。
日車はベッドから降りて、立ち上がった。久々の地面を踏み締める感覚に、思わず「こんな感じだったか」と声が漏れた。
日車はベッドサイドにしまっていたシャツとスラックスに着替えると、長く使っていないせいでヒビが入った革靴に足を突っ込んだ。
コツコツと音を鳴らして、病室のドアの前に立つ。
部屋を振り返って、ここ数年、ほぼ賃貸と化した1人部屋を見た。
日車は6人部屋でもいいと言ったのに、悠仁は絶対に譲らず、あの時も一悶着あった。
結局、悠仁が嘘泣きをして日車が怯んだ隙に、彼は支払い機に自身のクレジットカードをかざしていた。絶対に彼の恩師、五条の遺伝である。
特級術師に貢がせる男……その噂が広まった時には流石に頭痛がしたし、乙骨の息子と名乗る人物が突然カチコミに来た時には、何もかも面倒くさくなって、別の部屋に移住しようと病院に直談判しに行ったが……
日車はそこで、自分がもう、5分以上、そこに立ったままだということに気づいた。
やっと、何かを振り払うように首を振って、病室を出る。
そして、医療関係者に見つからないよう、外来患者のふりをして足早に外に出て、タクシーを拾った。タクシーは奥多摩方面へと進路をきる。
夕陽に照らされた国道を、日車を乗せたタクシーがポツンと走っていた。
太陽が傾くオレンジ色の空の下、ぼうぼうと腰の位置まで生えた草が、日車の行く先を阻んでいた。
日車はそれらをかき分けながらずいずいと奥に進んでいく。
50年前に悠仁とここに来た時は、結局、老婆に話を聞いて術式を少しだけ見せてもらい、すぐに帰ったことを思い出す。
10分だけとはいえ、いわゆるタイムスリップ、とやらを経験した時には、自分が映画の主人公になったかのようで、ほんの少しだけ、感動したことを覚えている。
「……本当に、まだあるんだな」
草をかき分けて行った先に、細い綱に10枚の札が並んでいた。
日車はしゃがんで、左から3枚目の札をちぎる。
立ち上がる時に腰に鈍い痛みを感じ、体を捻って、調子を確認する。どうにか体は動くようだ。ほぼ寝たきりの状態になっても、呪力操作を続けていた甲斐があった。
細い綱を跨いで、何か膜のようなものを通過する感覚を越えると、目の前には、また、あの清々しい青空と、澄んだ空気が広がっていた。
しゃん、と、どこかで鈴が転がる音が耳を掠った。音に気を取られて振り返ると、あの日の老婆が、姿形を寸分と変えず、日車の後ろに立っていた。
「またアンタかい」
老婆は目を細めて日車を睨みつけた。
「施設勧誘に来たわけじゃない」
「施設に入るのはアンタの方だと思うが。それとも葬儀屋を呼ぶ方がいっそ早いかね」
「葬儀屋を呼ぶかどうかは任せる。特に宗派はないし、葬式願望もない。願いを叶えてもらいにきた」
「願い、願いねぇ」
老婆は家がある方向に向かって歩き出した。
日車もそれに続く。
「単刀直入に言う。過去と未来の魂を、入れ替えて欲しい」
「せっかちな男は嫌いだよ。それに」
老婆は振り返って、日車の頭からつま先までをジロリと見た。
「アンタが今更入れ替わったところで、老い先短い後悔が、少々マシになるだけだと思うが」
「まあ、そうだな」
日車は真顔でとすんなりと肯定した。
老婆は目を少し見開いて、また歩き始める。
「長くなりそうだから、家に入ってからにしよう」
2人は黙って、草むらを歩き続けた。
老婆の家につくと、囲炉裏には焦げた香木が置かれたままになっていた。焦げた黒い部分からは、わずかに白檀の匂いが立っていて鼻をくすぐった。
日車は早々に口を開いた。
「過去と未来の魂を、入れ替えて欲しい」
「だから本題に入るのが早いってんだよ。それにアンタ、老い先短い後悔を変えるためにわざわざここに来たのかい」
老婆は呆れたように言って、煙草盆から煙管を取り出した。タバコを器用に詰めて、マッチで火をつける。
紫炎が2人の上で雲になった。
「俺のじゃない」
日車は香木に目を向けた。
「あの小僧」
「話が早くて助かる」
日車は、老婆の目が一瞬伏せられたのを見逃さなかった。
「昨日、ここに来ただろう。俺を、忘れたいと言ったのか」
老婆は何も言わなかった。
「彼が俺を忘れて楽に生きれるなら、それで構わない。だが、あの様子では、俺がいなくなった後どうなるのか......」
日車の脳裏に、病室で呆然と立ち尽くしている悠仁の姿が、鮮明に映し出されていた。
「覚えていても地獄、覚えていなくても地獄、難儀な子だよ」
「助けてほしい」
老婆は眉根を寄せて、煙管で日車を差した。
「そもそも、アンタのその短い寿命をさらに細切れにしてまでここに来ることができるなら、その熱を素直に伝えていればよかったものを」
「耳が痛い話だな」
日車はうなじを掻いた。
老婆は、はあ、と深いため息をついて、座椅子にもたれかかった。
「……それで、あの坊主に記憶を返すんじゃダメなのかい」
「それでは根本的解決にはならない。問題は、俺にある。過去に戻ったところでうまくいく保証はないが……。まあ、賭けだな。だが、虎杖はいつも俺の予想を超えていくから。なんとかなるだろう」
「賭け事は嫌いだよ」
「この賭けは絶対に勝てるとわかっている」
「クソカスギャンブラーはいつの時代も言うことが同じだね」
そう言いながらも、老婆は煙管に詰めていた煙草を少しだけ移して、香木の上で小さい山を作った。
針のように細い煙が香木から立ち始める。
「まあ、俺のことは好きに言ってくれていい。ああ、あと、過去の俺たちがまた貴女に願い事をするだろうから、それも叶えてやってくれないか」
老婆はぴたり、と動きを止めて、ジロリ、と日車を睨め付けた。
「ジジイ、忘れているなら教えてやるがね。アタシは1人につき1回しか術式を使わないことにしているんだよ」
「まあ聞いてくれ。虎杖が過去に戻って、全てうまく行けば、虎杖はそもそもここに来て記憶を差し出さないし、俺もここへは来ないはずだ。そうしたら、最終的には、貴女はどちらの願いも叶えなかった、ということになる」
「それを人は屁理屈と言うんだよ。アンタたちが忘れても、アタシはちゃーんと覚えているのさ」
「いや、これは事実に基づく話だ。貴女の記憶は第三者に観測できない。貴女しか知らないということは、妄想といっても大差はない」
老婆が眉を吊り上げて口を大きく開けた瞬間、日車は「それに」と言いながら、手のひらを老婆に見せて静止した。
「おそらく、虎杖が過去に戻ったら、”突然過去から今へ飛ばされてしまった虎杖”を元に戻すように言うはずだ。あいつはそういうやつだから。自分のためではなく、人のための願い。高潔な願いだ。貴女のいう、可愛い人間そのものだろう。叶えてやるべきだ。だが、そうすると、俺の願いはキャンセル扱いになった、とも言える。そうなったら、”過去の俺”にも貴女に何かを願う権利があると、そうは思わないか?」
老婆は顎に手を当てて、しばらく考えていたが、心底、心底面倒臭そうに深いため息をついた。
「......アンタと話してると、もう誰かの願いを叶えるのはやめにしようかと思うよ」
老婆は疲れ切ったような顔で、煙管に吸い付いた。
「それでも人が好きなんだろう。俺の我儘も可愛いと思っておいてくれ」
「自分の思いも素直に言えないヘタレジジイのどこが可愛いんだい! 変なとこばっか覚えていやがって!」
「まあまあ。これに懲りたら、願いを叶える際には書面に残すなり、本人に跡をつけるなり、回避策を考えることだ」
日車は片側の口角を上げて、フ、と見下すように笑った。
「性悪男。次アンタみたいなクソジジイが来たら無言で返して結界を閉じるよ」
「まあ、俺達以外の事ならべつに」
「……あの小僧が今のアンタを見たら、何て言うんだろうね」
「虎杖は100俺の味方だから、特に何も、せいぜい呆れるくらいだ」
「よし、過去のアンタに会ったらいつもの5倍は厳しくする。今決めた」
「好きにしていい。どうせ俺だから。それで、どうする」
鷹のような眼差しが、老婆をじっと捉えていた。
老婆は数分ほど黙っていたが、最終的には無言で肯首した。
「……まあ、老い先幾分かのジジイに、冥土の土産くらい、用意したってバチは当たらないか」
「感謝する」
「これでうまくいかなくても、アタシはもう何もしないよ」
「ああ、それでいい」
日車は確信に満ちた目で笑った。
「ったく、ババァをこき使うやつがあるかい」
「そういえば聴きそびれていたんだが、貴女は結局、いくつなんだ?」
「レディーに歳をきくもんじゃないよ!」
カン!と煙管が盆に打ち付けられた。
香木の煙が部屋に充満し始めると、老婆は、ふう、と香木に息を吹きかけた。すると、香木から青い光が放たれて、部屋全体が海の中にいるような、夜空の下にいるような、深い青の世界に包まれていった。
「……これが終わったら、アンタは1人で帰れるのかい」老婆は香木を見ながら言った。
日車は脇腹を抑える。先ほどから、引き攣るような痛みを訴え始めていた。額に脂汗が滲み出ていて、体が燃えるように熱い。
「1人でどころか、誰かに付き添われてもきつそうだ。やはり素人判断で点滴を抜くのはよくないな」
「馬鹿だねえ」
部屋の青が光りはじめ、天井がどこまでも遠くに伸びていく。
日車は近くの壁までなんとか移動して、背を預けた。
床からはシュワシュワと泡のように、銀の光が漂い始めて、コポコポと、水の音が耳元で聞こえる。海の中で目を開けながら、深海に沈んでいくような感覚だった。
水に沈んでいくような感覚のせいか、呼吸がだんだんしづらくなってきた。心臓の鼓動も、だんだんと遅くなっていくのがわかり、持っていた寿命を使い切りかけていることがわかった。
そのことは、さほどつらくはなかった。ただ、もうあの青年に会うことがないという事実が、急に現実となって目の前に突きつけられて、喉が焼けるように痛かった。
「だが、まあ、こんな姿を君に見られなくて良かった」
もし見られていたら、昨日の取り乱しどころでは済まなかっただろう。
思えば、悠仁が目から大粒の涙をこぼしているところを見たのは、新宿決戦を除いて、初めてだったかもしれない。
「虎杖、君に泣かれると、どうすればいいかわからなくなる」
ここにはいない悠仁に向かって話しかけた。
悠仁は今、何をしているのだろう。明日に向けて、新しい本でも選んでいるのだろうか。
日車は天井に向かって手を伸ばした。どこまでも果ての見えない天井から、スポットライトのような光が、視界いっぱいに広がった。その輝きは、悠仁と初めて会った時の、覚悟を決めた眼差しを連想させた。
学生時代の悠仁の、満開のひまわりのような笑顔が好きだった。最近の悠仁は、いつも穏やかに笑っていて、笑っていたけれど、何か我慢しているような笑顔だったので。
日車の目の前で、銀の泡がシュワシュワと集まって、少しづつ、魚の姿に形成された。
手のひらほどの、銀の光を纏った魚は、日車の元に、すい、と寄ってきて、日車の手をツンツンと突いてきた。なぜだか、慰められているような気がした。
「都合のいい、最期だな」
日車は手を下ろして、魚の口の先を、もう片方の手で、つん、と突き返した。魚から、きらり、と銀の光が、流れ星のように溢れ落ちる。
悠仁の瞳も、たまにこういう輝きを見せていたな、主に、ご飯時だったが……。急に、懐かしくなった。
今まで悠仁とは、いろんなことを体験してきた。日車は自分から動くタイプではなかったので、悠仁に連れられて色々な場所にいく体験はどれも新鮮で、楽しいものだった。
銀の魚は日車の前でくるりと円を描くように一周してみせた。顔がないのに、なぜだか誇らしげなのがわかる。
日車は思わず破顔して、魚をまた突いた。魚なのに、犬のように人なつっこい。
「虎杖」
銀色の魚は、日車に「なあに?」と聞くように、日車に顔を向けていた。
日車は目元の皺を伸ばして、薄く口角をあげる。
「君のおかげで、十二分に満ち足りた人生だった」
日車は、罪深い、黒いインクだまりのような人間だった。誰かと人生を歩むとか、そう言う権利はないと自覚していたし、実際そうなった。そう、であったが。
「十分な人生だったが……。一度くらい、君に気持ちを伝えてもよかったかもしれないな」
もしそうだったら、どうなっていたのだろう。悠仁は、あの、ひまわりのような笑顔を見せてくれていたのだろうか。もし自分が、誰よりも君を幸せにすると言っていたら……。
「いや、そんな勇気もないか」
日車は目頭を親指で押さえた。暖かい何かが、手首を伝っていった。
「また明日と言ったのに、約束を守れなくてすまない」
視界がもう、曇ってしまって、真っ暗になりかけていた。そんな視界でも、銀色の魚の光だけはピカピカと光っていて、星のように輝いて、日車の目を焼いた。
ゆっくりと、体を包む暖かさに、揺蕩うように、身を任せた。身体から、力が抜ける。
「次は、明日が来るといいな」
日車は重くなった瞼を閉じた。
青白く光る帷が落ちる部屋で、銀色の魚は、ゆらゆらと部屋を漂って、銀の泡を取り込みながら、やがて大きな魚となった。
その魚は、日車の周りをしばらく回遊して、星景写真のように、銀色の軌跡を残す。そうして、最後には、日車の小指に、ちょん、と触ると、天井に向けてすいすいと立ち昇って、光に飲み込まれて消えていった。
<終わり>
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- えりやJun 12th